イエス・キリストの福音をご紹介します。

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1年間 夫婦宣教師の奉仕させていただきました。

2024-10-09 08:37:39 | 日記
末日聖徒イエス・キリスト教会『名古屋伝道部』で、1年間のボランティア夫婦宣教師として奉仕して参りました。
期間は、2023年8月〜2024年8月です。
最初の半年は岡崎ワード、最後の半年は、長野県上田支部でした。
『上田支部の30年の歴史記録』ビデオを作成しました。YouTube限定で、upしました。良ろしかったら、ご覧ください。素人なので、出来栄えは、ご容赦ください。17分30秒です。ありがとうございます。
https://youtu.be/2tSD55ZQfZ8?si=7FxUAoTV6DxSpT84

人生が雑然としているとき,目的が明確でないとき,よりよく生きたいがどうすればいいか分からないとき

2024-10-02 10:12:21 | 日記
万事がわたしたちの益となるように

ゲレット・W・ゴング長老 十二使徒定員会

この世と永遠において,創造の目的と神御自身の性質とは,万事がわたしたちの益となるようにすべての物事を結びつけることです。

今日4月6日は,イエス・キリストが末日の教会を回復された記念日であり,イエス・キリストの完全な生涯,贖罪の犠牲,そして栄光ある復活について喜びをもって証する復活祭の季節の一部です。

中国には,ある男性の息子が美しい馬を見つける話があります。

「幸運でしたね」と,隣人は言いますが,

「まだ分かりませんよ」と,父親は答えます。

その後,息子は落馬し,後遺症が残ります。

「災難でしたね」と,隣人は言いますが,

「まだ分かりませんよ」と,父親は答えます。

後に,徴兵が命じられますが,けがをした息子は連れて行かれません。

「幸運でしたね」と,隣人は言いますが,

「まだ分かりませんよ」と,父親は答えます。

この気まぐれな世では,しばしば嵐にもまれるようで,不確かであり,幸運だと感じるときもあれば,不運だと感じるときも頻繁にあります。しかし,悩みのあるこの世で,「神は,神を愛する者たち〔のために〕,万事を益となるようにして下さることを,わたしたちは知って〔います〕。」確かに,聖約を思い起こしてまっすぐに歩むとき,「万事があなたがたの益となるようにともに働く〔でしょう〕。」

万事がわたしたちの益となるように。

すばらしい約束です!神御自身からの慰めと励ましです!創造の目的と神の性質とは,奇跡的な方法で,初めから終わりまでを見通し,万事がわたしたちの益となるようにし,イエス・キリストの恵みと贖罪によってわたしたちが聖められ,聖なる者となれるよう助けることです。

イエス・キリストの贖罪はわたしたちを罪から解放し,贖います。さらにイエス・キリストは,わたしたちのあらゆる苦痛と苦難と病,悲しみや別れの心痛を心から理解しておられます。この世と永遠において,死と地獄に打ち勝ち,主が勝利をお収めになるのです。主は,傷つきさげすまれた人を癒し,怒りで対立している人々を和解させ,寂しく孤立している人を慰め,不安な人や不完全な人を励まし,神によってのみ可能な奇跡を起こされます。

わたしたちは,ハレルヤと賛美し,ホサナと叫びます。永遠の力と無限の善による神の幸福の計画の中で,すべてのことがわたしたちの益となるからです。わたしたちは,恐れではなく自信を胸に,人生に立ち向かうことができます。

わたしたちは,自分では何が益か分からず,「自分」を優先するとき,限界のある,弱く,不完全なものを選んでいることになります。結局のところ,最も善いことを行うには,善い人にならなければなりません。しかし,神以外に完全に善い人はいないので,わたしたちはキリストによって完全になることを望んでいます。生まれながらの人を捨て,神の御前で幼子のようになることで初めて,わたしたちは真に最高の自分になれるのです。

神への信頼と信仰があれば,試練や苦難はわたしたちの益となるように聖別されます。エジプトに奴隷として売られたヨセフは,後に家族と民を救いました。預言者ジョセフ・スミスはリバティーの監獄で,「これらのことは……,あなたに経験を与え,あなたの益となる」と教えられました。信仰を持って生きることで,自分では決して選ばない試練や犠牲が,想像もしなかった方法で,自分やほかの人の祝福になります。

わたしたちは永遠の観点を持ち,試練は 「つかの間」であることを理解し,苦難は聖別されて益となることに気づき,事故や予期しない死,体を衰弱させる病気は現世の目的の一部であると知り,愛に満ちた天の御父は罰を与えたり裁いたりするために試練をお与えになるのではないと信じるにつれて,万事がわたしたちの益となるようにしてくださる主への信仰と信頼を強めていきます。主はパンを求める者に石を与えたり,魚を求める者にへびを与えたりはなさいません。

試練のとき,多くの場合わたしたちは,だれかに話を聞いてもらい,一緒にいてもらうことを一番に願います。そのときには,決まり文句のような言葉は,どんなに耳に心地よくても役に立たないかもしれません。時にわたしたちには,ともに悲しみ,痛みを感じ,涙を流し,苦痛や不満,時には怒りさえも受け止め,人生には理解できないことがあることを一緒に受け入れてくれる人が必要です。

神と神の愛を信頼するとき,最も深い心の傷でさえ,最後にはわたしたちの益となるのです。

わたしは,愛する人たちを巻き込んだ悲惨な交通事故の知らせを受けた日のことをよく覚えています。そのようなとき,信仰と苦悩を抱えながら,わたしたちはヨブの言葉を口にすることしかできません。「主が与え,主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。」

世界中の教会では,約3,500のステークや地方部,そして約30,000のワードや支部が,安全と安らぎを提供しています。ステークやワードの多くの信仰深い家族や個人が,(まだどのような方法かは知らぬまま)物事がわたしたちの益となるように,信仰を働かせ,困難な課題に立ち向かっています。

イギリスのハダースフィールドでは,サムエル・ブリッジストック兄弟が新しいステーク会長として召される直前に,ステージ4のがんと診断されました。絶望的な診断を受けた彼は,妻のアンナに,面接に行く意味があるのかと尋ねました。

ブリッジストック姉妹は言いました。「ええ,あなたがステーク会長として召されるんですからね。」

当初,余命1,2年と宣告されていたブリッジストック会長は,(今日もこの場にいますが,)現在奉仕4年目を迎えています。良い日もあればつらい日もあります。彼のステークは信仰,奉仕,親切心を増して団結しています。容易なことではないですが,彼の妻と家族は,イエス・キリストの回復する贖罪が永遠の喜びになると信じ,信仰と感謝,そしてこの悲しみをも乗り越えようとともに生きています。

わたしたちが静かに,心を開き,敬虔になるとき,主が与えてくださる聖約の麗しさ,目的,安らぎを感じることができるでしょう。神聖な瞬間に,主は永遠の壮大さをわたしたちに垣間見せてくださるかもしれません。日常生活とはその永遠の一部であり,そこでは小さな簡単なことが与え手と受け手の益になるのです。

わたしの最初の伝道部会長の娘レベッカは,自分が慰めを求めた祈りが,予期していなかった方法でほかの人の祈りの答えになったという経験を分かち合ってくれました。


ある日の夜遅く,母親を亡くしたばかりで悲しみに暮れていたレベッカは,車のガソリンを入れに行くようにという明確な促しを受けました。ガソリンスタンドに着くと,大きな酸素ボンベを手に,苦しそうに呼吸をしている年配の女性に出会いました。その後レベッカは,母親が使用していた携帯酸素吸入器をその女性に上げることができました。するとその姉妹は,「あなたのおかげで自由を取り戻せたわ」と感謝しました。イエス・キリストがなさるようにミニスタリングするとき,物事は益になるのです。

教師定員会の年齢である息子とミニスタリング同僚になった父親は,このように説明しました。「ミニスタリングっていうのは,クッキーを持ってくるご近所さんから始まって,信頼できる友人になり,霊的な救助隊員になることだよ。」聖約によるイエス・キリストとのつながりは,わたしたちを慰め,結びつけ,聖別します。

たとえわたしたちが悲劇の中にあっても,霊的に備えていれば,最も傷つき,孤独を感じていたときに,天の御父がわたしたちのことを思ってくださっていたということに気づけるかもしれません。例えば,子供が病院に運ばれたある家族は,後に,聖霊が前もって何が起こるかささやいてくださっていたことを思い出し,慰めを得ました。

時に,主がわたしたちに認識させてくださる大きな永遠の業の中には,幕の向こう側の家族が含まれることもあります。ある姉妹は,イエス・キリストの回復された福音への改宗に喜びを見いだしました。しかし,二つのトラウマが彼女の人生に深い影響を与えていました。ボート遊びの事故を目の当たりにしたことと,母親が自ら命を絶ったという悲劇です。


この姉妹は水に沈めるバプテスマを受けるために,水への恐怖心を克服しました。そして,神殿で亡き母の身代わりのバプテスマが行われるのを証人として立ち合った日は,とても幸せな日となりました。「神殿でのバプテスマは母を癒し,わたしを解放してくれました」と,姉妹は言います。「母が亡くなって以来,初めて平安を感じました。」

神聖な音楽は,万事がわたしたちの益となるようにともに働くという主の安らぎの言葉を届けてくれます。

静まれ,我が魂よ 神は,過去のように
この先も導かれる
希望も確信も揺るがされぬように
まだ見えぬこともいずれ明らかとなる

恐れず来たれ,聖徒
進み行けよ その旅は辛くとも
恵みあらん……
旅を終わらず死すも
すべては善し

モルモン書は,イエスがキリストであられ,神が預言を成就されることを証する,わたしたちが実際に触れることのできる証拠です。この時代を目にした預言者たちによって書かれたモルモン書は,家庭内での不和に悩む家族の生々しいドラマから始まります。しかし,第1ニーファイ1章からモロナイ10章までを研究し,深く考えるとき,わたしたちは過去の,別の場所での出来事が,今ここにいるわたしたちを祝福してくれるという確固とした証を得て,イエス・キリストに近づくことができます。

主が生ける預言者を通して,より多くの場所で,より多くの主の宮をわたしたちの近くにもたらしてくださることにより,神殿の祝福がわたしたちの益となります。わたしたちは聖約と儀式によって父なる神とイエス・キリストに近づき,現世に対する永遠の観点を得ます。わたしたちはシオンの山における救う者である主の規範に倣い,一人ずつ,名前を呼び,神聖な儀式と聖約の祝福を愛する家族,そして先祖にもたらします。

多くの場所で神殿が身近になっていく中,わたしたちがささげることのできる神殿の犠牲とは,より頻繁に主の宮に赴き聖くなるよう努めることです。何年もの間,わたしたちは神殿に行くために節約し,計画し,犠牲を払ってきました。今は,状況が許す限り,さらに頻繁に主の聖なる宮で主のみもとへ行ってください。神殿での定期的な礼拝と奉仕を通して,あなたとあなたの家族,今の家族,将来の家族,いつか家族としてつながる人たちに対する祝福と守りと霊感を受けてください。


また,状況が許す場合は,自分の神殿着を所有することの祝福を考えてください。あるつつましい家族の祖母は,この世でいちばん欲しいものは自分の神殿着だと言いました。孫はこう言いました。「おばあちゃんは,『わたしは自分の神殿着を着て奉仕し,死んだらその服で埋葬されるの』ってささやいていたよ。」そして時が来ると,そのとおりになりました。

ラッセル・M・ネルソン大管長が教えたように,「わたしたちが信じるすべてのことや,神が聖約の民と交わされる約束はすべて,神殿に集約されています。」

この世と永遠における,創造の目的と神御自身の性質とは,万事がわたしたちの益となるようにすべての物事を結びつけることです。

これこそが主の永遠の目的です。これこそが主の永遠の観点です。これこそが主の永遠の約束です。

人生が雑然としているとき,目的が明確でないとき,よりよく生きたいがどうすればいいか分からないときは,わたしたちの父なる神とイエス・キリストのみもとへ向かってください。御二方が生きておられ,皆さんを愛し,万事が皆さんの益となるように望んでおられることを信じてください。限りなく,そして永遠にそうであることを,イエス・キリストの聖なる御名によって証します,アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2024年4月の総大会からご紹介しました。

良い1日をお祈りします。


our greatest heartbreaks can, in the end, work together for our good. 

2024-10-02 09:53:02 | 日記
All Things for Our Good

By Elder Gerrit W. Gong Of the Quorum of the Twelve Apostles

In time and eternity, the purpose of Creation and the nature of God Himself are to bring all things together for our good.

Today is April 6, the anniversary of Jesus Christ restoring His latter-day Church—and part of the Easter season, when we joyfully testify of Jesus Christ’s perfect life, atoning sacrifice, and glorious Resurrection.

A Chinese story begins as a man’s son finds a beautiful horse.

“How fortunate,” the neighbors say.

“We’ll see,” says the man.

Then the son falls off the horse and is permanently injured.

“How unfortunate,” the neighbors say.

“We’ll see,” says the man.

A conscripting army comes but doesn’t take the injured son.

“How fortunate,” the neighbors say.

“We’ll see,” says the man.

This fickle world often feels tempest tossed, uncertain, sometimes fortunate, and—too often—unfortunate. Yet, in this world of tribulation, “we know that all things work together for good to them that love God.” Indeed, as we walk uprightly and remember our covenants, “all things shall work together for your good.”

All things for our good.

A remarkable promise! Comforting assurance from God Himself! In a miraculous way, the purpose of Creation and the nature of God are to know beginning and end, to bring about all that is for our good, and to help us become sanctified and holy through Jesus Christ’s grace and Atonement.

Jesus Christ’s Atonement can deliver and redeem us from sin. But Jesus Christ also intimately understands our every pain, affliction, sickness, sorrow, separation. In time and eternity, His triumph over death and hell can make all things right. He helps heal the broken and disparaged, reconcile the angry and divided, comfort the lonely and isolated, encourage the uncertain and imperfect, and bring forth miracles possible only with God.

We sing hallelujah and shout hosanna! With eternal power and infinite goodness, in God’s plan of happiness all things can work together for our good. We can face life with confidence and not fear.

Left on our own, we may not know our own good. When “I choose me,” I am also choosing my own limitations, weaknesses, inadequacies. Ultimately, to do the most good, we must be good. Since none save God is good, we seek perfection in Jesus Christ. We become our truest, best selves only as we put off the natural man or woman and become a child before God.

With our trust and faith in God, trials and afflictions can be consecrated for our good. Joseph, sold into slavery in Egypt, later saved his family and people. The Prophet Joseph Smith’s incarceration in Liberty Jail taught him “these things shall give thee experience, and shall be for thy good.” Lived with faith, trials and sacrifices we would never choose can bless us and others in ways never imagined.

We increase faith and trust in the Lord that all things can work together for our good as we gain eternal perspective; understand our trials may be “but for a small moment”; recognize affliction can be consecrated for our gain; acknowledge accidents, untimely death, debilitating illness, and disease are part of mortality; and trust loving Heavenly Father does not give trials to punish or judge. He would not give a stone to someone asking for bread nor a serpent to one asking for a fish.

When trials come, often what we most want is for someone to listen and be with us. In the moment, cliché answers can be unhelpful, however comforting their intent. Sometimes we yearn for someone who will grieve, ache, and weep with us; let us express pain, frustration, sometimes even anger; and acknowledge with us there are things we do not know.

When we trust God and His love for us, even our greatest heartbreaks can, in the end, work together for our good.

I remember the day I received word of a serious car accident which involved those I love. At such times, in anguish and faith, we can only say with Job, “The Lord gave, and the Lord hath taken away; blessed be the name of the Lord.”

Across the worldwide Church, some 3,500 stakes and districts and some 30,000 wards and branches provide refuge and safety. But within our stakes and wards, many faithful families and individuals confront difficult challenges, even while knowing that (without yet knowing how) things will work together for our good.

In Huddersfield, England, Brother Samuel Bridgstock was diagnosed with stage-four cancer shortly before the calling of a new stake president. Given his dire diagnosis, he asked his wife, Anna, why he would even go to be interviewed.

“Because,” Sister Bridgstock said, “you’re going to be called as stake president.”

Initially given a year or two to live, President Bridgstock (who is here today) is now in his fourth year of service. He has good and hard days. His stake is rallying with increased faith, service, and kindness. It is not easy, but his wife and family live with faith, gratitude, and understandable sadness they trust will become eternal joy through Jesus Christ’s restoring Atonement.

When we are still, open, and reverent, we may feel the beauty, purpose, and serenity of the covenant belonging the Lord offers. In sacred moments, He may let us glimpse the larger eternal reality of which our daily lives are part, where small and simple things work together for the good of givers and receivers.

Rebekah, the daughter of my first mission president, shared how the Lord answered her prayer for comfort with an unexpected opportunity to answer someone else’s prayer.


Late one evening, Rebekah, grieving her mother’s recent passing, had a clear impression to go buy gas for her car. When she arrived at the station, she met an elderly woman struggling to breathe with a large oxygen tank. Later, Rebekah was able to give the woman her mother’s portable oxygen machine. This sister gratefully said, “You’ve given me back my freedom.” Things work together for good when we minister as Jesus Christ would.

A father assigned with his teacher-age son as ministering companions explained, “Ministering is when we go from being neighbors who bring cookies to trusted friends, spiritual first responders.” Covenant belonging in Jesus Christ comforts, connects, consecrates.

Even in tragedy, spiritual preparation may remind us Heavenly Father knew when we felt most vulnerable and alone. For example, a family whose child was taken to the hospital later found comfort in remembering the Holy Ghost had whispered in advance what to expect.

Sometimes the larger eternal reality the Lord lets us feel includes family across the veil. A sister found joy in conversion to Jesus Christ’s restored gospel. Yet two traumas had deeply impacted her life—seeing a boating accident and tragically losing her mother, who had taken her own life.


Yet this sister overcame her fear of water enough to be baptized by immersion. And on what became a very happy day, she witnessed someone, acting as proxy for her deceased mother, be baptized in the temple. “Temple baptism healed my mother, and it freed me,” the sister said. “It was the first time I felt peace since my mother died.”

Our sacred music echoes His assurance that all things can work together for our good.

Be still, my soul: Thy God doth undertake To guide the future as he has the past. Thy hope, thy confidence let nothing shake; All now mysterious shall be bright at last.

Come, come, ye Saints, no toil nor labor fear; But with joy wend your way. Though hard to you this journey may appear, Grace shall be as your day. …
And should we die before our journey’s through, Happy day! All is well!

The Book of Mormon is evidence we can hold in our hand that Jesus is the Christ and God fulfills His prophecies. Written by inspired prophets who saw our day, the Book of Mormon begins with raw drama—a family dealing with deep differences. Yet, as we study and ponder 1 Nephi 1 through to Moroni 10, we are drawn to Jesus Christ with a firm testimony that what happened there and then can bless us here and now.

As the Lord, through His living prophet, brings more houses of the Lord closer in more places, temple blessings work together for our good. We come by covenant and ordinance to God our Father and Jesus Christ and gain eternal perspective on mortality. One by one, name by name, we offer beloved family members—ancestors—sacred ordinances and covenant blessings in the Lord’s pattern of saviors on Mount Zion.

As temples come closer to us in many places, a temple sacrifice we can offer is to seek holiness in the house of the Lord more frequently. For many years, we have saved, planned, and sacrificed to come to the temple. Now, as circumstances permit, please come even more often to the Lord in His holy house. Let regular temple worship and service bless, protect, and inspire you and your family—the family you have or the family you will have and become someday.


Also, where your circumstances permit, please consider the blessing of owning your own temple clothes. A grandmother from a humble family said of anything in the world, what she most wanted were her own temple clothes. Her grandson said, “Grandma whispered, ‘I will serve in my own temple clothes, and after I die, I will be buried in them.’” And when the time came, she was.

As President Russell M. Nelson teaches, “Everything we believe and every promise God has made to His covenant people come together in the temple.”

In time and eternity, the purpose of Creation and the nature of God Himself are to bring all things together for our good.

This is the Lord’s eternal purpose. It is His eternal perspective. It is His eternal promise.

When life is cluttered and purpose isn’t clear, when you want to live better but don’t know how, please come to God our Father and Jesus Christ. Trust They live, love you, and want all things for your good. I testify They do, infinitely and eternally, in the sacred and holy name of Jesus Christ, amen.
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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2024年4月の総大会から、ご紹介しました。


モルモン書から、現代の社会が良く理解できます。

2024-10-01 08:05:35 | 日記
モルモン書 [ヒラマン7章]
4 そして、かれると、たみはひどくじゃあくじょうたいにあり、あのガデアントンのごうとうたちがさばきつかさのしょくいていて、くにけんりょくけんうばっていた。また、ごうとうたちはかみいましめをて、かみまえすこしもただしいことをおこなわず、ひとらをまったくこうせいあつかわず、
5 じんかれらののゆえにつみさだめ、罪人つみびとあくにん金銭きんせんってざい放免ほうめんとし、さらにぶんたちがえきほまれをられるように、またもっとあん姦淫かんいんおかし、ぬすみ、ころし、ぶんおもいどおりのことをおこなえるように、せい要職ようしょくいてとうし、ぶんおもいどおりにおこなっていた。
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[ヒラマン2章]
8 ヒラマンのしもべはキシクメンのこころがすべてかった。ひところすことがかれもくてきであり、またひところぬすけんりょくことがかれだんしょぞくしているすべてのものもくてきであった。(これがかれらの陰謀いんぼうであり、かれらのけっしゃである。)ヒラマンのしもべはこのことをると、キシクメンに、「さばきつかさのせきこう」とった。
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(ここからは、個人的な感想です。)
日本国の政府が、消費税を増税し、さらに、全ての生活必需品の値上がりで、人々を生活できない状態に押しやっています。それでも、政府としては、平気なわけです。
なぜなら、彼らの目的は、人を殺し、盗み、権力を得ることだからです。人が死ぬことは目的だからです。
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また、斎藤兵庫県元知事が、自分で人を二人も死に追いやっているのに、平然とした態度は、違和感を覚えますが、彼もまた、ガデアントン強盗団の一員であると考えると理解しやすいです。
これから、このような人を死に追いやっても、平然とした自分を中心とした人々が増える時代がやってくると考えます。
冷酷な人間が増えてきます。
このままでは、日本は、滅びる予感がします。
こういった推測は、外れて欲しいですが、たぶん当たっていると思います。
神さまは、悔い改めなさいと、警告されています。
[ 3ニーファイ9章 ]
20 あなたがたはくだかれたこころいるれいを、せいとしてわたしにささげなさい。くだかれたこころいるれいをもってわたしのもとにものに、わたしはレーマンじんさずけたように、聖霊せいれいによってバプテスマをさずけよう。レーマンじん改心かいしんしたときにわたしをしんじたので、聖霊せいれいによるバプテスマをけた。しかし、かれらはそれをらなかった。
21 よ、わたしは、あがないをもたらし、人々ひとびとつみからすくうためにた。
22 それゆえ、あらためておさなのようにわたしのもとにものを、わたしはだれでもれよう。かみおうこくはこのようなものくにである。よ、このようなもののために、わたしはぶんいのちて、ふたたびそれをた。それゆえ、てにいた人々ひとびとよ、あらため、わたしのもとにすくわれなさい。
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このままの社会では、人々は、滅びてしまいますが、悔い改めて、神さまが生きておられること、御子イエス・キリストが、私たちの罪を代わりに引き受けてくださることを信じるならば、神さまは、私たちを助けてくださいます。
このことが、唯一私たちが、守られる方法です。
イエス・キリストへの信仰を持つことが大切です。




神が天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの贖い主,救いの「岩」であられる

2024-09-28 09:06:03 | 日記
「安らかにしていて,わたしが神であることを知りなさい」

デビッド・A・ベドナー長老 十二使徒定員会

安らかにして,神が天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの救い主であられることを知ることができます。

最近,新しい主の宮のオープンハウスとメディアデーに,わたしは報道関係者のグループを率いて神聖な建物を案内しました。わたしは末日聖徒イエス・キリスト教会における神殿の目的を説明し,彼らの多くのすばらしい質問に答えました。

日の栄えの部屋に入る前に,主の宮のこの部屋は,わたしたちがこの世の人生を終えてから戻ることができる天の家での平安と美しさを象徴的に表していると説明しました。日の栄えの部屋にいる間は話をしませんが,そこから出て次に停まるときにはどんな質問にも喜んでお答えしますと,わたしは招待客に伝えました。

日の栄えの部屋を出て次の場所に集まると,何か気づいたことがありましたかと招待客に尋ねました。すると,報道関係者の一人が深く感動してこう言いました。「わたしはこれまで生きてきて,このような経験をしたことがありません。この世にあのような安らかな場所があるとは知りませんでした。あれほどの安らぎが存在し得るとは思ってもみませんでした。」

わたしはその方の言葉に込められた率直さに心を打たれました。この報道関係者の言葉は,外の世界の喧騒を鎮め,打ち消すという,安らぎが持つ重要な側面を浮き彫りにしていました。

後でこの報道関係者の言葉について深く考えました。そして,忙しさや雑音,娯楽,邪魔や回り道に注意が引きつられてしまうことがあまりに多く思え,しばしば目が回るほどハイペースな現代の生活について思い巡らしていると,ある聖句が頭に浮かびました。「安らかにしていて,わたしが神であることを知りなさい。」

生活の中のより高くより神聖な次元の安らぎ,つまり神が天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの救い主であられることを知り,覚えておくことができるようにしてくれる心の内の霊的な安らぎについて考えるときに,聖霊が一人ひとりに光を照らしてくださるようにと祈ります。この驚くべき祝福は,「主の聖約の民」になろうと忠実に努めているすべての教会員に与えられます。

安らかにしていなさい

1833年,ミズーリの聖徒たちは激しい迫害の的になっていました。暴徒たちはジャクソン郡の家から彼らを追い出し,教会員の中には,近隣のほかの郡に身を落ち着けようとする人たちもいました。しかし,迫害は続き,何度も命を脅かされていました。この困難な状況の中で,主は,預言者ジョセフ・スミスがオハイオ州カートランドにいた頃に次の指示を啓示されました。

「それゆえ,シオンについて心に慰めを得なさい。すべての肉なるものはわたしの手の内にあるからである。安らかにしていて,わたしが神であることを知りなさい。」

わたしは,「安らかにしてい〔なさい〕」という主の勧告には,単に話さない,動かないという以上のことが含まれると思います。恐らく主は,「いつでも,どのようなことについても,どのような所にいても」主と主の力を思い起こしてそれに頼るようにという意味で,そう言われたのではないでしょうか。ですから,「安らかにしてい〔なさい〕」とは,困難なことを行い,それを克服する力を与えてくれる霊的な安らぎの究極の源である救い主に絶えず焦点を当てることを,思い出させる言葉なのかもしれません。

岩の上に建てる

真の信仰は,主イエス・キリストが中心です。それは,永遠の父なる神の聖なる独り子であられる主を信じる信仰であり,主を信じ,主が贖いの使命を果たされたことを信じる信仰です。

「キリストは律法の目的を達せられた。そして,キリストを信じるすべての者を,御自分に属するものと主張しておられる。また,キリストを信じる者は一切の善いものを固く守るので,キリストは人の子らを弁護してくださる。」

イエス・キリストはわたしたちの贖い主であり,永遠の御父に対する仲保者,弁護者であって,生活の霊的な基を築くべき岩であられます。

ヒラマンは,こう説明してします。「覚えておきなさい。あなたたちは,神の御子でありキリストである贖い主の岩の上に基を築かなければならないことを覚えておきなさい。そうすれば,悪魔が大風を,まことに旋風の中に悪魔の矢を送るときにも,まことに悪魔の雹と大嵐があなたたちを打つときにも,それには不幸と無窮の苦悩の淵にあなたたちを引きずり落とす力はない。なぜならば,あなたたちは堅固な基であるその岩の上に建てられており,人はその基の上に築くならば,倒れることなどあり得ないからである。」

キリストが,生活の基を築くべき「岩」に象徴されていることから見えてくるものは,たくさんあります。この聖句で救い主は基ではない,ということに注目してください。むしろ,わたしたちは主の上に自分の霊的な基を築くようにと勧告されているのです。

建物の一部である基礎は,建物を地面に固定する部分です。堅固な基礎は,自然災害やそのほかの多くの破壊的な力から建物を守ります。確かな基礎はまた,その下にある地面に負担がかかるのを避けるために,広い範囲に構造物の重さを分散し,建築に水平な表面を提供します。




建物が長い間頑丈で安定した状態でいられるためには,地面と基礎とのつながりをしっかりと安定させることが不可欠になります。しかも,ある種の建築では,アンカーボルトと鉄の棒を使って,建物の基礎を「岩盤」,すなわち,表面の土や砂利などの下にある硬い岩に固定することがあります。




それと同様に,確固としてしっかりとしたものであり続けるために,わたしたちは生活の基をキリストの岩に固定しなければなりません。救い主の回復された福音の神聖な聖約と儀式は,建物を岩盤に結びつけるために使われるアンカーボルトや鉄の棒にたとえることができます。神聖な聖約を忠実に受け入れ,復習し,覚え,新たにするたびに,わたしたちの霊的なアンカーボルトは,イエス・キリストの「岩」にさらに確実に,しっかりと固定されます。

「さて,神を信じる者はだれであろうと,もっと良い世界を,まことに神の右に一つの場所を,確かに望むことができる。この望みは信仰から生じ,人々にとってその心をしっかりとした不動のものにする錨となる。そしてそのような人々はいつも多くの善い行いをし,神をあがめるようになる。」

徐々に,そしてますます時がたつにつれて,「絶えず徳で〔わたしたちの思いを飾る〕」ようになり,「神の前において〔わたしたちの〕自信は増し」,「聖霊は常に〔わたしたちの〕伴侶とな〔ります。〕」わたしたちはさらに揺るぐことがなく,根を張り,堅く立ち,しっかり踏みとどまるようになります。生活の基が救い主の上に築かれるとき,わたしたちは「安らかに」なるという祝福を受けます。つまり,神が天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの救い主であられるという霊的な確信が与えられるのです。

神聖な時間,聖なる場所,そして家庭

主はわたしたちがこの心の内の安らぎを経験し,それについて学ぶことができるように,神聖な時間と聖なる場所の両方を与えてくださっています。

例えば,安息日は神の日であり,御子の御名によって御父を覚え,礼拝し,神権の儀式に参加し,神聖な聖約を受けて新たにするために設けられた神聖な時間です。わたしたちは毎週,家庭学習をしているときや,「聖徒たちと同じ国籍の者」として聖餐会やそのほかの集会に集っているときに,主を礼拝します。主の聖日においては,わたしたちの思い,行動,態度は,わたしたちが差し出す神へのしるしであり,神への愛を表すものなのです。毎週日曜日には,自ら望むのなら,安らかにして,神が天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの救い主であられることを知ることができます。

安息日の礼拝の中心となるのは,「〔主の〕聖日に祈りの家に行って,〔わたしたちの〕聖餐をささげ〔る〕」ことです。わたしたちが安息日に集まる「祈りの家」とは,集会所やそのほかの承認された施設,すなわち敬虔さと礼拝と学びの聖なる場所です。それぞれの集会所や施設は,主の御霊が宿り,神の子供たちが「贖い主を知る」ようになる場所として,神権の権能によって奉献されています。自ら望むのなら,聖なる礼拝の場では「安らかにして」,神が天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの救い主であられることをいっそう確かに知ることができます。

神殿は,神を礼拝し,神に仕え,永遠の真理を学ぶために特別に聖別されたもう一つの聖なる場所です。主の宮では,よく行くほかの場所とは,考え方も行動も,服装も異なります。主の聖なる宮で,自ら望むのなら,わたしたちは安らかにして,神が天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの救い主であられることを知ることができます。

聖なる時間と聖なる場所のおもな目的はまったく同じで,天の御父とその計画,主イエス・キリストとその贖罪,人を教化する聖霊の力,救い主の回復された福音の神聖な儀式と聖約に関連する約束に繰り返し注意を向けることです。

今日は,以前強調した原則をもう一度言います。家庭は,個人と家族が「安らかにして」,神がわたしたちの天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの救い主であられることを知ることができる,神聖な時間と聖なる場所の究極の組み合わせであるべきです。安息日や主の宮で礼拝するために家を離れることは,もちろん大切なことです。しかし,その聖なる場所や活動で得られる霊的な視点と強さを家庭に持ち帰って初めて,わたしたちは現世の第一の目的に焦点を当てて,堕落した世に蔓延する誘惑に打ち勝つことができるのです。

安息日や神殿,家庭で現在経験していることを通して,わたしたちは聖霊の力によって強められ,御父と御子との聖約上のつながりが絶えず強化され,神の永遠の約束において「完全な希望の輝きを持〔つ〕」ことができるようになります。

家庭と教会がキリストにあって一つに帰せしめられるならば,四方から悩まされても思いと心が苦悩することはないでしょう。状況や試練に戸惑うことがあっても,絶望することはないでしょう。迫害を受けることがあっても,自分が決して独りではないことも分かるでしょう。わたしたちは,霊的な強さを頂いて,堅固で揺るがず,忠実であり続けることができます。

約束と証

イエス・キリストの「岩」の上に生活の基を築くならば,聖霊によって祝福され,個人的で霊的な魂の安らぎを受けることによって神がわたしたちの天の御父であられ,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの救い主であられることを知り,覚えておくことができるようになると約束します。 そして,困難なことを行い,克服することができるように祝福されるのです。

神が天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの贖い主,救いの「岩」であられることを,喜びをもって証します。主イエス・キリストの神聖な御名により証します。アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2024年4月の総大会からご紹介しました。