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神が天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの贖い主,救いの「岩」であられる

2024-09-28 09:06:03 | 日記
「安らかにしていて,わたしが神であることを知りなさい」

デビッド・A・ベドナー長老 十二使徒定員会

安らかにして,神が天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの救い主であられることを知ることができます。

最近,新しい主の宮のオープンハウスとメディアデーに,わたしは報道関係者のグループを率いて神聖な建物を案内しました。わたしは末日聖徒イエス・キリスト教会における神殿の目的を説明し,彼らの多くのすばらしい質問に答えました。

日の栄えの部屋に入る前に,主の宮のこの部屋は,わたしたちがこの世の人生を終えてから戻ることができる天の家での平安と美しさを象徴的に表していると説明しました。日の栄えの部屋にいる間は話をしませんが,そこから出て次に停まるときにはどんな質問にも喜んでお答えしますと,わたしは招待客に伝えました。

日の栄えの部屋を出て次の場所に集まると,何か気づいたことがありましたかと招待客に尋ねました。すると,報道関係者の一人が深く感動してこう言いました。「わたしはこれまで生きてきて,このような経験をしたことがありません。この世にあのような安らかな場所があるとは知りませんでした。あれほどの安らぎが存在し得るとは思ってもみませんでした。」

わたしはその方の言葉に込められた率直さに心を打たれました。この報道関係者の言葉は,外の世界の喧騒を鎮め,打ち消すという,安らぎが持つ重要な側面を浮き彫りにしていました。

後でこの報道関係者の言葉について深く考えました。そして,忙しさや雑音,娯楽,邪魔や回り道に注意が引きつられてしまうことがあまりに多く思え,しばしば目が回るほどハイペースな現代の生活について思い巡らしていると,ある聖句が頭に浮かびました。「安らかにしていて,わたしが神であることを知りなさい。」

生活の中のより高くより神聖な次元の安らぎ,つまり神が天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの救い主であられることを知り,覚えておくことができるようにしてくれる心の内の霊的な安らぎについて考えるときに,聖霊が一人ひとりに光を照らしてくださるようにと祈ります。この驚くべき祝福は,「主の聖約の民」になろうと忠実に努めているすべての教会員に与えられます。

安らかにしていなさい

1833年,ミズーリの聖徒たちは激しい迫害の的になっていました。暴徒たちはジャクソン郡の家から彼らを追い出し,教会員の中には,近隣のほかの郡に身を落ち着けようとする人たちもいました。しかし,迫害は続き,何度も命を脅かされていました。この困難な状況の中で,主は,預言者ジョセフ・スミスがオハイオ州カートランドにいた頃に次の指示を啓示されました。

「それゆえ,シオンについて心に慰めを得なさい。すべての肉なるものはわたしの手の内にあるからである。安らかにしていて,わたしが神であることを知りなさい。」

わたしは,「安らかにしてい〔なさい〕」という主の勧告には,単に話さない,動かないという以上のことが含まれると思います。恐らく主は,「いつでも,どのようなことについても,どのような所にいても」主と主の力を思い起こしてそれに頼るようにという意味で,そう言われたのではないでしょうか。ですから,「安らかにしてい〔なさい〕」とは,困難なことを行い,それを克服する力を与えてくれる霊的な安らぎの究極の源である救い主に絶えず焦点を当てることを,思い出させる言葉なのかもしれません。

岩の上に建てる

真の信仰は,主イエス・キリストが中心です。それは,永遠の父なる神の聖なる独り子であられる主を信じる信仰であり,主を信じ,主が贖いの使命を果たされたことを信じる信仰です。

「キリストは律法の目的を達せられた。そして,キリストを信じるすべての者を,御自分に属するものと主張しておられる。また,キリストを信じる者は一切の善いものを固く守るので,キリストは人の子らを弁護してくださる。」

イエス・キリストはわたしたちの贖い主であり,永遠の御父に対する仲保者,弁護者であって,生活の霊的な基を築くべき岩であられます。

ヒラマンは,こう説明してします。「覚えておきなさい。あなたたちは,神の御子でありキリストである贖い主の岩の上に基を築かなければならないことを覚えておきなさい。そうすれば,悪魔が大風を,まことに旋風の中に悪魔の矢を送るときにも,まことに悪魔の雹と大嵐があなたたちを打つときにも,それには不幸と無窮の苦悩の淵にあなたたちを引きずり落とす力はない。なぜならば,あなたたちは堅固な基であるその岩の上に建てられており,人はその基の上に築くならば,倒れることなどあり得ないからである。」

キリストが,生活の基を築くべき「岩」に象徴されていることから見えてくるものは,たくさんあります。この聖句で救い主は基ではない,ということに注目してください。むしろ,わたしたちは主の上に自分の霊的な基を築くようにと勧告されているのです。

建物の一部である基礎は,建物を地面に固定する部分です。堅固な基礎は,自然災害やそのほかの多くの破壊的な力から建物を守ります。確かな基礎はまた,その下にある地面に負担がかかるのを避けるために,広い範囲に構造物の重さを分散し,建築に水平な表面を提供します。




建物が長い間頑丈で安定した状態でいられるためには,地面と基礎とのつながりをしっかりと安定させることが不可欠になります。しかも,ある種の建築では,アンカーボルトと鉄の棒を使って,建物の基礎を「岩盤」,すなわち,表面の土や砂利などの下にある硬い岩に固定することがあります。




それと同様に,確固としてしっかりとしたものであり続けるために,わたしたちは生活の基をキリストの岩に固定しなければなりません。救い主の回復された福音の神聖な聖約と儀式は,建物を岩盤に結びつけるために使われるアンカーボルトや鉄の棒にたとえることができます。神聖な聖約を忠実に受け入れ,復習し,覚え,新たにするたびに,わたしたちの霊的なアンカーボルトは,イエス・キリストの「岩」にさらに確実に,しっかりと固定されます。

「さて,神を信じる者はだれであろうと,もっと良い世界を,まことに神の右に一つの場所を,確かに望むことができる。この望みは信仰から生じ,人々にとってその心をしっかりとした不動のものにする錨となる。そしてそのような人々はいつも多くの善い行いをし,神をあがめるようになる。」

徐々に,そしてますます時がたつにつれて,「絶えず徳で〔わたしたちの思いを飾る〕」ようになり,「神の前において〔わたしたちの〕自信は増し」,「聖霊は常に〔わたしたちの〕伴侶とな〔ります。〕」わたしたちはさらに揺るぐことがなく,根を張り,堅く立ち,しっかり踏みとどまるようになります。生活の基が救い主の上に築かれるとき,わたしたちは「安らかに」なるという祝福を受けます。つまり,神が天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの救い主であられるという霊的な確信が与えられるのです。

神聖な時間,聖なる場所,そして家庭

主はわたしたちがこの心の内の安らぎを経験し,それについて学ぶことができるように,神聖な時間と聖なる場所の両方を与えてくださっています。

例えば,安息日は神の日であり,御子の御名によって御父を覚え,礼拝し,神権の儀式に参加し,神聖な聖約を受けて新たにするために設けられた神聖な時間です。わたしたちは毎週,家庭学習をしているときや,「聖徒たちと同じ国籍の者」として聖餐会やそのほかの集会に集っているときに,主を礼拝します。主の聖日においては,わたしたちの思い,行動,態度は,わたしたちが差し出す神へのしるしであり,神への愛を表すものなのです。毎週日曜日には,自ら望むのなら,安らかにして,神が天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの救い主であられることを知ることができます。

安息日の礼拝の中心となるのは,「〔主の〕聖日に祈りの家に行って,〔わたしたちの〕聖餐をささげ〔る〕」ことです。わたしたちが安息日に集まる「祈りの家」とは,集会所やそのほかの承認された施設,すなわち敬虔さと礼拝と学びの聖なる場所です。それぞれの集会所や施設は,主の御霊が宿り,神の子供たちが「贖い主を知る」ようになる場所として,神権の権能によって奉献されています。自ら望むのなら,聖なる礼拝の場では「安らかにして」,神が天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの救い主であられることをいっそう確かに知ることができます。

神殿は,神を礼拝し,神に仕え,永遠の真理を学ぶために特別に聖別されたもう一つの聖なる場所です。主の宮では,よく行くほかの場所とは,考え方も行動も,服装も異なります。主の聖なる宮で,自ら望むのなら,わたしたちは安らかにして,神が天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの救い主であられることを知ることができます。

聖なる時間と聖なる場所のおもな目的はまったく同じで,天の御父とその計画,主イエス・キリストとその贖罪,人を教化する聖霊の力,救い主の回復された福音の神聖な儀式と聖約に関連する約束に繰り返し注意を向けることです。

今日は,以前強調した原則をもう一度言います。家庭は,個人と家族が「安らかにして」,神がわたしたちの天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの救い主であられることを知ることができる,神聖な時間と聖なる場所の究極の組み合わせであるべきです。安息日や主の宮で礼拝するために家を離れることは,もちろん大切なことです。しかし,その聖なる場所や活動で得られる霊的な視点と強さを家庭に持ち帰って初めて,わたしたちは現世の第一の目的に焦点を当てて,堕落した世に蔓延する誘惑に打ち勝つことができるのです。

安息日や神殿,家庭で現在経験していることを通して,わたしたちは聖霊の力によって強められ,御父と御子との聖約上のつながりが絶えず強化され,神の永遠の約束において「完全な希望の輝きを持〔つ〕」ことができるようになります。

家庭と教会がキリストにあって一つに帰せしめられるならば,四方から悩まされても思いと心が苦悩することはないでしょう。状況や試練に戸惑うことがあっても,絶望することはないでしょう。迫害を受けることがあっても,自分が決して独りではないことも分かるでしょう。わたしたちは,霊的な強さを頂いて,堅固で揺るがず,忠実であり続けることができます。

約束と証

イエス・キリストの「岩」の上に生活の基を築くならば,聖霊によって祝福され,個人的で霊的な魂の安らぎを受けることによって神がわたしたちの天の御父であられ,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの救い主であられることを知り,覚えておくことができるようになると約束します。 そして,困難なことを行い,克服することができるように祝福されるのです。

神が天の御父であり,わたしたちは神の子供であり,イエス・キリストはわたしたちの贖い主,救いの「岩」であられることを,喜びをもって証します。主イエス・キリストの神聖な御名により証します。アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2024年4月の総大会からご紹介しました。

どんな結果になろうとも,神殿の聖約のおかげですべてはうまくいく

2024-09-27 07:28:59 | 日記
神殿の聖約のおかげですべてはうまくいく
ヘンリー・B・アイリング管長 大管長会第二顧問

皆さんが神殿で交わした聖約や,これから交わす聖約を尊ぶこと以上に大切なことはありません。

愛する兄弟姉妹の皆さん,総大会のこの部会は,わたしにとって神聖な時間となっています。世界中の何百万もの末日聖徒と友人の皆さんに話す割り当てに感謝しています。皆さんを愛しています。主も皆さんを愛しておられます。

50年以上前,わたしはアイダホ州レックスバーグにあるリックスカレッジの学長を務めるという特権にあずかりました。1976年6月5日の朝,妻のキャシーとわたしは,親しい友人の結び固めに出席するために,レックスバーグからアイダホフォールズアイダホ神殿まで車で向かいました。もちろん,当時4人の幼い男の子がいましたから,神殿参入は勇気あるベビーシッターの助けがなければできません。大切な子供たちをベビーシッターに預けて,ほんの30分ほど車を走らせました。

いつものように,その日の神殿での経験はすばらしいものでした。ところが,神殿の結び固めが終わって帰宅の準備をしていると,何人もの神殿ワーカーや参入者が神殿のロビーで緊張した面持ちで話しているのに気づきました。すぐに神殿ワーカーの一人が,アイダホ州東部に新しく建設されたティートンダムが決壊したのだと教えてくれました。800億ガロン(3億立方メートル)以上の水が,ダムから近隣の300平方マイル(775平方キロメートル)の谷に流れ込んでいました。レックスバーグの町の大部分が水没し,家屋や車が洪水で流されました。9,000人の住民の3分の2が突然家を失いました。

ご想像どおり,わたしたちは愛する子供たちや何百人もの大学生と教職員,そして愛する地域社会は大丈夫だろうかと考え,心配しました。家から30マイル(50キロ)も離れていないのに,携帯電話や携帯メールが登場するずっと前のことで,子供たちとすぐに連絡を取る方法はなく,道路はすべて通行止めで,アイダホフォールズからレックスバーグまで車で向かうこともできませんでした。

わたしたちはその晩,アイダホフォールズでモーテルに泊まるしかありませんでした。キャシーとわたしはモーテルの部屋で一緒にひざまずいて,愛する子供たちと,この悲劇的な出来事の影響を受けている何千人もの人々の安全を,天の御父にへりくだり祈りました。今でも覚えていますが,キャシーは子供たちが心配で,明け方まで部屋の中を歩き回っていました。わたしも心配でしたが,心を落ち着かせて眠りに就くことができました。

ところがすぐに,永遠の伴侶がわたしを起こしてこう言ったのです。「ハル,こんなときにどうして眠れるの。」

そのときです。ある言葉がわたしの心と思いにはっきりと浮かびました。わたしは妻に言いました。「キャシー,どんな結果になろうとも,神殿のおかげですべてはうまくいくよ。神と聖約を交わして永遠の家族として結び固められているのだから。」

その瞬間,わたしたち二人がすでに真実だと知っていた事柄を,主の御霊が心と思いに確認してくれたかのようでした。つまり,適切な神権の権能によって主の宮でのみ執り行われる結び固めの儀式が,わたしたちを夫婦として結びつけ,子供たちをわたしたちに結び固めているのです。確かに恐れる必要はありませんでした。そして,後に息子たちの無事を知り,感謝しました。

トーマス・S・モンソン大管長の次の言葉が,あの忘れられない夜にキャシーとわたしが感じたことを最もよく表しているかもしれません。「神殿に入ると,ある種の霊性がもたらされ,……平安を感じることができます。救い主が語られた次の御言葉の真の意味が理解できます。『わたしの平安をあなたがたに与える。……あなたがたは心を騒がせるな,またおじけるな。』」〔ヨハネ14:27〕

わたしは聖なる神殿に参入する度に,その平安を感じるという祝福を受けてきました。初めてソルトレーク神殿に入った日のことを思い出します。若いころのことです。

わたしは天井を見上げました。高くて白い天井は部屋をとても明るくして,まるで空に向かって開いているかのようでした。その瞬間,ある思いがはっきりとした言葉として湧いてきました。「以前にこの明るい場所に来たことがある。」しかしその後すぐに,自分の声ではなく,次の言葉が心に浮かびました。「いいえ,あなたはここに来たことはありません。生まれる前のことを思い出しているのです。あなたは主がおいでになることのできるこのような神聖な場所にいたのです。」

兄弟姉妹の皆さん,わたしはへりくだり証します。わたしたちは神殿に参入するとき,自分の霊が永遠であることと,御父および御子と自分との関係,そして天の家に帰りたいという究極の望みを思い起こすことができます。

最近の総大会の説教で,ラッセル・M・ネルソン大管長は次のように教えています。

「霊的に最も安全な場所は,神殿で交わした聖約の中で生活することにあります。」

「わたしたちが信じるすべてのことや,神が聖約の民と交わされる約束はすべて,神殿に集約されています。」

「神殿で聖約を交わしてそれを守る人は皆,イエス・キリストの力にさらにあずかることができるようになります。」

ラッセル・M・ネルソン大管長はまた次のようにも教えています。「神と聖約を交わすと,わたしたちは中立というどっちつかずの立場を永遠に離れます。神は御自分とそのようなきずなを築いた人々との関係を,決して放棄されることがありません。実のところ,神と聖約を交わした人は皆,特別な種類の愛と憐れみを受けることができます。」

ネルソン大管長の霊感あふれる指導の下,主は全世界で神殿の建設を加速してこられました。それは,今後も続きます。これにより,神のすべての子供たちが救いと昇栄の儀式を受け,神聖な聖約を交わしてそれを守る機会を得られるようになるでしょう。神聖な聖約を交わすにふさわしくなるための努力は,一度すればよいものではなく,生涯続けなければなりません。それにはわたしたちの心と勢力と思いと力のすべてが求められると,主は言っておられます。

神殿の儀式に頻繁に参加することで,主に献身することを習慣にすることができます。神殿の聖約を守り,それを覚えているなら,聖霊を招いて伴侶とし,聖霊によって強められ,清められることができます。

そして,約束が真実であることを証する,光と希望を感じる経験をするかもしれません。神と交わす聖約の一つ一つが神に近づく機会であることが分かるようになり,神殿の聖約を守りたいという望みが心の中に生まれるでしょう。

こう約束されています。「わたしたちが神と交わしている聖約のゆえに,神は決してうむことなくわたしたちを助けてくださり,わたしたちに対する神の憐れみ深い忍耐が尽きることは決してありません。」

愛ある家族の結びつきが確かに死後も永遠に続くという約束を得られるのは,神殿で交わす結び固めの聖約を通してです。神の神殿で交わした結婚と家族の聖約を尊ぶならば,利己心や高慢という悪から守られます。

主の方法で家族を導くたゆまぬ努力があって初めて,きょうだい同士が絶えず気遣い合うようになります。子供たちに,自分のきょうだいのために祈る機会を与えましょう。仲たがいの芽を素早く察知し,無私の奉仕の行い,特にきょうだいに対する奉仕の行いを積極的に認めてください。きょうだいが互いのために祈り,奉仕するとき,心は和らいで互いに向かい,親に向かうでしょう。

これは,ある意味で,マラキが預言者エリヤの訪れについて預言したときに述べていることです。「彼は先祖に与えられた約束を子孫の心に植え,子孫の心はその先祖に向かうであろう。そうでなければ,主の来臨の時に,全地はことごとく荒廃するであろう。」

試練や困難,心の痛みは,すべての人が必ず経験します。「肉体に与えられたとげ」を避けて通れる人はだれもいません。それでも,神殿に参入し,聖約を覚えているなら,わたしたちは主から個人的な導きを受ける備えをすることができます。

キャシーとわたしが結婚してユタ州ローガン神殿で結び固められたとき,結び固めを執行してくれたのは当時のスペンサー・W・キンボール長老でした。短い話の中で,こんな助言をもらいました。「ハルとキャシー,電話がかかってきたらすぐに出かけられるような生活をしてください。」

最初は,その助言が自分たちにとってどのような意味を持つのか分かりませんでしたが,召しが来たときに主に仕えるために出かける備えができているよう,最善を尽くして生活しました。結婚して10年近くたったころ,教会教育委員長のニール・A・マックスウェルから思いがけない電話がありました。

「すぐに出かけられる」ようにという,神殿でキンボール大管長から受けた愛にあふれた助言が現実となったのです。キャシーとわたしは,のどかな暮らしと思われたカリフォルニアでの家族の状況を後にして,右も左も分からない場所で割り当てを果たす召しを受けたのでした。しかし,わたしたち家族は出発する用意ができていました。啓示の場所である聖なる神殿で預言者が見た将来の出来事が起こり,そのときわたしたちは準備ができていたのです。

愛する兄弟姉妹の皆さん,わたしは証します。皆さんが神殿で交わした聖約や,これから交わす聖約を尊ぶこと以上に大切なことはありません。聖約の道のどの辺りにいようと,神殿に参入するにふさわしくなり,参入する資格を得るよう強くお勧めします。状況が許すかぎり頻繁に参入してください。神聖な聖約を神と交わし,それを守ってください。50年近く前,アイダホフォールズのモーテルの部屋で真夜中にキャシーと話したのと同じ真理を,わたしは皆さんに断言することができます。「どんな結果になろうとも,神殿の聖約のおかげですべてはうまくいく」のです。

わたしは証します。イエスはキリストであられます。主は生きていて,御自身の教会を導いておられます。神殿は主の宮です。ラッセル・M・ネルソン大管長は地上における神の生ける預言者です。わたしは大管長を愛しています。そして皆さん一人一人を愛しています。イエス・キリストの聖なる御名により,アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2024年4月の総大会からご紹介しました。

イエス・キリスト教会には現在,稼働中の神殿が177,建設中または改修中の神殿が59,計画および設計段階にある神殿が99,合わせて335の主の宮がある。詳しくは,公式の神殿リストを参照。(2023年10月8日現在)

日本の神殿は、札幌、東京、福岡、
沖縄の4箇所があります。





電話(81) 98-993-9870









あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。(ヘブル10:35)

2024-09-25 11:24:20 | 日記
イエス・キリストを通して受ける聖約に基づく確信

ウリセス・ソアレス長老 十二使徒定員会

主の宮に入るとき,わたしたちはイエス・キリストのより気高く,より聖なる弟子になることを学ぶ神聖な旅に出るのです。

愛する兄弟姉妹,わたしたちがこの週末に指導者たちの霊感に満ちたメッセージによって霊的に新たにされ,わたしが「イエス・キリストを通して受ける聖約に基づく確信」と呼んでいるものを感じて喜びを得られるように祈っています。この確信は,神が聖約を守る人に約束しておられる祝福を受けるという,穏やかでありながらも揺るぎない確信であり,今日の困難な状況の中でとても必要とされているものです。

ラッセル・M・ネルソン大管長の霊感あふれる指導の下に,世界中に新設されている主の宮は,教会員の間に大きな喜びをもたらし,主の王国の発展を示す重要なシンボルになっています。

昨年10月,わたしはカリフォルニア州フェザーリバー神殿の奉献式での荘厳な経験を振り返りながら,わたしたちは時として,地元に新しい神殿が建つことに興奮するあまり,神殿で交わす聖約の,より神聖な目的をおろそかにしていることはないだろうかと思いました。

各神殿の正面には,「聖きを主にささぐ」という厳粛な言葉が刻まれています。この霊感に満ちた言葉は,主の宮に入るときに,イエス・キリストのより気高く,より聖なる弟子になることを学ぶ神聖な旅に出るようにという,はっきりとした招きです。神の前で厳かに聖約を交わし,救い主に従う決意をするとき,わたしたちは心を変え,霊を新たにし,神との関係を深める力を授かります。そのような努力により,霊が聖められ,神とイエス・キリストとの神聖なきずなが形作られ,永遠の命の賜物を受け継ぐという約束が与えられます。この神聖な旅の結果,わたしたちはイエス・キリストを通して交わした聖約の中での日々の生活に向けて,より神聖で,より深い確信を得るのです。

そのような確信は,神との神聖なつながりの頂点であり,イエス・キリストとその贖いの犠牲に対する献身と感謝の気持ちを増してくれます。人を愛し,奉仕する能力を高め,ますます暗さを増し落胆してしまうような不道徳な世界で生きていく強さを与えてくれます。特に,人生がつらいとき,試練が長く続くとき,状況が困難なときに,敵がわたしたちの心に深く感じさせようとする疑いや落胆,恐れ,挫折,心痛,絶望の種に打ち勝つ力を与えてくれます。聖書の次の一節は,現世の困難という強風に立ち向かうわたしたち一人一人に的確な助言を与えています。「自分の持っている確信を放棄してはならない。

愛する兄弟姉妹の皆さん,イエス・キリストを通して主の宮で交わした聖約に対して真の確信を得る人は,この世で受けられる最も強い力の一つを得ているのです。

今年,『わたしに従ってきなさい』でモルモン書を研究する中で目の当たりにしたように,ニーファイは主の命令に従って版を手に入れるといった困難や挫折に直面したとき,その忠実さを通して,聖約に基づく確信がもたらすこのような力を見事に実証しました。ニーファイは,レーマンとレムエルの恐れと不信仰をひどく悲しみましたが,主が版を渡してくださるという確信を抱き続けました。ニーファイは兄たちに言いました。「主が生きておられ,またわたしたちが生きているように,わたしたちは主から命じられたことを成し遂げるまでは,荒れ野にいる父のところへは下って行きません。」ニーファイは主の約束を確信していたので,命じられたことを成し遂げることができました。後にニーファイは示現の中で,このような確信が及ぼす影響を見ています。「わたしニーファイは,神の小羊の力が,小羊の教会の聖徒たち,また……主の聖約の民のうえに下るのを見た。彼らは義と神の力とをもって,大いなる栄光のうちに武装していた。

わたしは,主の愛に満ちた約束と力が神の子供たちの生活に流れ込み,人生の状況に立ち向かえるように彼らを強くするのをじかに見てきました。先日,神殿での礼拝から帰宅した妻は,神殿で経験したことにどれほど深く心を動かされたかを話してくれました。主の宮に入ると,車椅子の男性がとてもゆっくりと進み,また,杖をついた女性が非常に苦労して歩いて行く姿を見たそうです。二人とも,主の宮で礼拝するために,勇気をもって参入していました。妻がイニシャトリーのエリアに入ると,片腕と,もう片方の腕の大部分を失った優しそうな姉妹が,割り当てられた務めを美しく,また神々しく果たしていました。

その経験について話し合い,わたしたち夫婦が得た結論は,主の宮で交わした聖約を通して神から与えられる永遠の約束を心から信じる純粋な確信だけが,あの凍てつくような日に,個々の状況がどうであろうと,キリストのすばらしい弟子たちを家から出て行かせることができたということでした。

愛する友人の皆さん,わたしたちに持てるものが一つあるとすれば,そして,今後の試しや試練に遭うときの助けとなるよう,子供や孫たちに伝えられるものが一つあるとすれば,それはイエス・キリストを通して交わした聖約に対する確信でしょう。そのような神聖な確信を得ると,忠実に従う人に主が約束されたように生活する助けが得られます。「わたしの弟子たちは聖なる場所に立ち,動かされない。

イエス・キリストを通してそのような確信を得るには,どうすればよいでしょうか。謙遜になり,救い主を生活の中心とし,イエス・キリストの福音の原則に従って生活し,救いと昇栄の儀式を受け,主の聖なる宮で神と交わした聖約を尊ぶことによって,その確信がもたらされます。

2019年10月の総大会の結びの言葉で,わたしたちの愛する預言者は,聖約に基づく確信を得るための重要なステップについて思い起こさせ,こう言いました。「主の宮に参入する個人のふさわしさには,多くの霊的な備えが求められます。……個人のふさわしさには,主にさらに似た者となり,正直な市民,よりよい模範,そしてより聖い人となるために,思いと心を完全に改めることが求められます。」ですから,神殿に参入する準備の仕方を変えるなら,神殿での経験が変わり,それによって神殿の外での生活も違ったものとなるでしょう。「そうするときに,神の前においてあなたの自信は増し,神権の教義は天からの露のようにあなたの心に滴るであろう。

わたしの知っているあるビショップは,初等協会の最年長のクラスを「初等協会」のクラスではなく,「神殿準備」クラスと呼んでいます。そのビショップは1月になると,クラスの生徒と教師をビショップ室に呼んで,神殿参入に備えるためにこの一年をどのように過ごすかについて話し合います。また,神殿推薦状の面接で尋ねる適切な質問について話し合う時間を取り,その後,初等協会のレッスンでも採り上げるようにします。そして,1年後にビショップ室に来るときには自信をもって,聖約に基づく確信を抱き,神殿推薦状を受けて主の宮に参入する用意ができているように,準備をするよう子供たちを招きます。今年そのビショップは,神殿に行くのを楽しみにしている,よく準備ができ,確信を抱いた4人の若い女性から,元旦の午前0時1分に推薦状を印刷してほしいと求められました。

準備が必要なのは,初めて神殿に参入する人だけではありません。わたしたち全員が,主の宮に参入する準備を絶えず行う必要があります。わたしの知っているあるステークでは,「家庭中心,教会サポート,神殿行き」というモットーを採用しています。「神殿行き」の「行き」に当たる英語の「bound」は興味深い単語で,ある方向を目指すことを意味しますが,結びつけられる,固定される,決意する,確信するという意味もあります。つまり神殿に向かうことは,わたしたちを救い主に結びつけ,正しい方向性と安定を与え,イエス・キリストを通して受ける聖約に基づく確信を確かに抱かせてくれるのです。ですから,わたしたちは皆,神殿が近くても遠くても,主の聖なる宮で主とお会いする次の約束をしておくことで,そのような結びつきを意図的に深める必要があります。

わたしたちの愛する預言者,ラッセル・M・ネルソン大管長は,これらの重要な原則について思い起こさせ,こう述べています。「神殿は,救い主と主の教義がまさにその中心に据えられているため,わたしたちの信仰と不屈の霊性を強めるうえで最も重要です。神殿で指示と御霊を通して教えられるすべてのことは,イエス・キリストに対する理解を深めてくれます。主の必須の儀式は,神聖な神権の聖約を通して,わたしたちを主に固く結びつけてくれます。そして,わたしたちが聖約を守るならば,主はわたしたちを癒し強める主の力を授けてくださいます。ああ,これから先,何と主の力が必要なことでしょう。

救い主は,わたしたちが主の御名によって御父と聖約を交わすときに,どのように行動すべきかを明確に理解できるように準備することを望んでおられます。また,わたしたちが特権や約束や責任を経験できるように,そして現世で必要な霊的な理解や目覚めを得られるように準備することを望んでおられます。主は,わたしたちが主と主の宮で受ける儀式や聖約を進んで生活の中心にしようと,わずかでも望みを持ち,義にかなった努力をするのを御覧になるとき,わたしたちが必要とする奇跡と深い憐れみをもって,完全な方法で祝福してくださいます。

主の宮は,わたしたちがより高く,より神聖な方法で変えられる場所です。ですから,聖約による約束に希望を抱くことで変えられ,高い所から授けられる力をもって武装して神殿を出るとき,わたしたちは自分の家庭や生活の中に神殿を持ち込むのです。主の宮の御霊を受けるとき,わたしたちは完全に変わります。

またわたしたちは,生活の中で主の御霊が制限されないことを望むなら,だれに対しても不親切な感情を抱くことはできませんし,抱いてはいけないということを神殿で学んでいます。心や思いの中で,不親切な感情や考えに場所を与えると,ソーシャルメディア上であれ,家庭の中であれ,思いやりのない言動を生み出し,主の御霊がわたしたちの心から離れる原因となります。ですから,確信を捨てることなく,むしろ強くしてください。

現在も進められ,さらに加速している神殿の建設は,これからもわたしたちに胸の高鳴りと,霊感と,祝福を与えてくれるでしょう。しかしそれ以上に重要なのは,神殿に参入する準備の仕方を変えるときに,神殿での経験が変わり,それによって神殿の外での生活も違ったものになるということです。この変化によって,わたしたちがイエス・キリストを通して神と交わした聖約に対する確信に満たされますように。神は生きておられ,イエスは救い主であられ,この教会は地上に回復された主の教会です。これらが真実であることを,救い主イエス・キリストの聖なる御名により敬虔に宣言します,アーメン。

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このお話は、2024年4月の末日聖徒イエス・キリストの総大会からご紹介しました。
赤字青字太字は、個人的に追加しています。

光の柱と一筋の光 

2024-09-23 07:30:46 | 日記
光の柱と一筋の光 アレクサンダー・デュシュク長老 七十人

わたしたちも一度に一筋ずつ光を受け,自分自身の「光の柱」を経験できるようになります。

圧倒されるような霊的経験がないために自分の証に不安を抱いている方々へ,このお話を通して平安と確信をお届けできれば幸いです。

イエス・キリストの福音の回復は,あふれんばかりの光と真理から始まりました。ニューヨーク州北部に住む,ジョセフ・スミスというごく平凡な名前を持つ10代の少年が,森に入って祈ったのです。神の御前における自分の状態と立場に不安を感じていたジョセフは,罪の赦しを得たいと望んでいました。また,どの教会に加わるべきか分からず,明確な答えと平安,すなわち光と知識を求めていたのです。

ひざまずいて祈り,「心の願いを神に告げ始め」ると,ジョセフは深い闇に取り巻かれました。邪悪で,抑圧的で,実在する何者かに妨害され,舌がしびれて話せなくなりました。闇の力が激しくなり,ジョセフは死ぬかと思うほどでした。しかし,ジョセフは「自分を捕らえたこの敵の力から救い出してくださるようにと,あらんかぎりの力を尽くして神に呼び求め〔まし〕た。」すると,「今にも絶望し,破滅に身を任せようとしたその瞬間」,これ以上耐えられるかどうか分からなくなったとき,あふれんばかりの光が木々の間に輝きわたり,魂の敵と暗闇を追い払ったのです。

そして,太陽よりも明るい「光の柱」が次第に降りてきました。一人の御方が現れ,次に,別の御方が現れます。「筆紙に尽くし難い輝きと栄光」を持つ方々でした。最初に天の御父がジョセフの名を呼び,「別の御方を指して,『これはわたしの愛する子である。彼に聞きなさい』」と言われます。

あふれんばかりの圧倒的な光と真理により,回復が始まりました。神からの啓示と祝福が,まさに洪水のように押し寄せました。新しい聖文,神権の鍵の回復,使徒と預言者,儀式と聖約が回復され,主のまことの生ける教会が再び確立されたのです。その教会は,イエス・キリストの光と証,回復された主の福音をもって,地を満たすことになります。

そのすべて,そしてそれ以上のものが,一人の少年の命がけの祈りと,光の柱から始まりました。

わたしたちにも,切実に欲しているものがあり,霊的な混乱や世の闇からの解放を求めています。 わたしたちも,自分で知る必要があります。ラッセル・M・ネルソン大管長が「回復の栄光あふれる光に浸」るようにとわたしたちを招いているのはそのためです。

回復の偉大な真理の一つは,天が開かれていること,すなわち,わたしたちも高き所から光と知識を受けられるということです。それが真実であることを証します。

しかし,わたしたちはある種の霊的な罠に注意しなければなりません。時々,忠実な教会員が,あふれんばかりの霊的経験,すなわち自分自身の「光の柱」を経験していないために落胆し,教会から離れてしまうことがあります。スペンサー・W・キンボール大管長は,「目を見張るようなことを期待していると,絶えず与えられている啓示を感知することができなくなります」と警告しています。

ジョセフ・F・スミス大管長は,次のように回想しています。「〔わたしが若いとき〕主はわたしに特別なことは示されませんでした。むしろ,ここにも少し,そこにも少しと,教訓に教訓,規則に規則を加える方法で,真理を示してくださいました。」

兄弟姉妹の皆さん,これが主の典型的なパターンです。主はわたしたちに,「光の柱」ではなく,一筋の光を一つ,また一つと送ってくださいます。

こうした光は,絶えずわたしたちに注がれています。聖文の教えによれば,イエス・キリストは「世の光であり命であられ」,主の「御霊は世に来るすべての人に光を与え」,主の光は「広大な空間を満た」し,「万物に命を与え」るものです。キリストの光はまさに,わたしたちを取り囲んでいます。

わたしたちは,聖霊の賜物を受け,信仰を行使し,悔い改め,聖約を尊ぶ人は,そのような神聖な光を絶えず受ける資格があります。デビッド・A・ベドナー長老の印象的な言葉にあるように,「わたしたちは『啓示のうちに生きている』のです。」

それでも,人は皆異なります。神の光と真理をまったく同じ方法で経験する人はいません。少し時間を取って,これまで自分が主の光と御霊をどのように経験してきたか,考えてみてください。

皆さんはそのようなあふれんばかりの光と証を,悩んでいた「〔事柄に対する心の〕平安」として経験したことがあるかもしれません。

あるいは,「あなたの思いとあなたの心に」とどまり,人を助けるなどの善を行うように促す「静かな細い声」として経験したことがあるかもしれません。

恐らく皆さんは,教会のクラスや青少年のイベントに参加する中で,イエス・キリストに従い,忠実でいたいと強く感じたことがあるかと思います。もしかしたら,立ち上がって,真実であってほしいと願う事柄を証したら,それがほんとうに真実だと感じたことがあるかもしれません。 あるいは,祈りの中で,自分は神から愛されているという喜びに満ちた確信を得たことがあるかもしれません。

イエス・キリストについての証を聞いて,心を動かされ,希望に満たされたことがあるかもしれません。

モルモン書を読んでいるときに,神が自分のために用意してくださったかのように,聖句が心に迫ってきたことがあるかもしれません。

人に仕えるとき,その人に対する神の愛を感じたことがあるかもしれません。

悩みや不安を抱えていて御霊を感じるのが難しくても,これまでに受けてきた「主の深い憐れみ」を思い出す賜物があるかもしれません。

天から証の光を受ける方法はたくさんあり,これらはほんの数例にすぎません。いずれも劇的ではないかもしれませんが,わたしたちの証を築いているのです。

兄弟姉妹の皆さん,わたしは「光の柱」を見たことはありませんが,皆さんのように,多くの聖なる光を目にしています。何年もの間,わたしはそのような経験を大切にするよう努めてきました。そうするうちに,さらに多くのことを認識し,心に留めるようになりました。目覚ましいとは言えないかもしれませんが,わたしにとっては貴重な例を幾つか挙げたいと思います。

10代のころ,わたしはあるバプテスマ会で騒がしくしていました。集会が始まる直前に,わたしは,座って敬虔にしなさいという御霊の促しを感じ,集会の残りの時間,その促しに従いました。

伝道前は,自分の証に不安がありました。家族で伝道に出たことのある人はなく,わたしにできるか分かりませんでした。イエス・キリストについて,より確かな証を得ようと必死に学び,祈ったのを覚えています。そしてある日,天の御父に心から祈っていると,光と温かい気持ちを強く感じました。そして,自分自身で知ることができたのです。

それから何年もたったある晩,「純粋な知性」である聖霊を感じて目覚め,自分が長老定員会で奉仕する召しを受けると告げられると,2週間後にはそれが現実になりました。

ある総大会で,尊敬する十二使徒の一人が,わたしが聞きたいと思って友人に話していた証を,まさに語ったことがありました。

ある友人が遠くの小さな病院で,心臓が止まり,意識を失い,人工呼吸器をつけて横たわっていたときに,彼のために大勢の兄弟たちとひざまずいて祈ったのを覚えています。わたしたちが心を合わせて,助かるように嘆願したとき,彼は目を覚まし,人工呼吸器の管を自分ののどから引き抜きました。彼は現在,ステーク会長として奉仕しています。

大切な先輩が若くして亡くなり,わたしの心に大きな穴が開いていました。愛する友人であり,良き相談相手だった彼が夢に現れて,とても霊的な気持ちで目覚めたことがあります。笑顔で喜びにあふれる彼の姿を見て,彼は心配ないことが分かりました。

わたしの受けた光を幾つかご紹介しました。皆さんにも,光に満ちた証を経験したことがあるでしょう。こうした光を認識し,心に留め,集めて「一つに帰せしめ」るなら,すばらしく,力強いことが起こり始めます。「光は光に結びつき」,「真理は真理を迎え入れ」ます。一筋の証の光と力は,一つ,また一つと,他の証とつながり,強められていきます。教えに教え,訓戒に訓戒,ここにも一筋の光,そこにも一筋の光と,一度に一つの小さな,価値ある霊的瞬間を積み重ねていくことで,光に満ちた霊的経験の核がわたしたちの中に育っていきます。一筋の光は,完全な証を構成するほど力強く明るいものではないかもしれませんが,それが幾つも集まることによって,疑いの闇にも負けない光となります。

「おお,それならば,このことはほんとうではないだろうか」と,アルマは尋ねています。「わたしはあなたがたに言う。確かにほんとうである,と。」

主は「神から出ているものは光である。光を受け,神のうちにいつもいる者は,ますます輝きを増してついには真昼となる」と説いておられます。

兄弟姉妹の皆さん,やがて「非常な熱意」を通して,わたしたちも一度に一筋ずつ光を受け,自分自身の「光の柱」を経験できるようになります。そして,その「光の柱」の中で,愛する天の御父がわたしたちの名を呼び,救い主イエス・キリストを指して,「彼に聞きなさい」と招かれていることが分かるでしょう。

イエス・キリストが世の光,命であり,あなたとわたしにとっての光,命であられることを証します。

イエスが神の御子であり,主の生ける預言者と使徒によって導かれているまことの生ける教会の頭であられることを証します。

わたしたちがいつまでも主の輝かしい光を認識し,受け入れ,世の闇よりも主を選ぶことができますように。 イエス・キリストの御名により,アーメン。

(2024年4月末日聖徒イエス・キリスト教会総大会からご紹介しました。

確かに、私たちは、神の子どもであり、愛の神さまは、私たちに啓示を与えて、助けてくださいます。これは、技術です。この技術は、私たちが人生で身につけなければならない最も大切な技術です。
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Pillars and Rays By Elder Alexander Dushku Of the Seventy
We too can have our own pillar of light—one ray at a time.

My message is for those who worry about their testimony because they haven’t had overwhelming spiritual experiences. I pray that I can provide some peace and assurance.

The Restoration of the gospel of Jesus Christ began with an explosion of light and truth! A teenage boy in upstate New York, with the very ordinary name of Joseph Smith, enters a grove of trees to pray. He’s worried about his soul and his standing before God. He seeks forgiveness for his sins. And he’s confused about which church to join. He needs clarity and peace—he needs light and knowledge.

As Joseph kneels to pray and “offer up the desires of [his] heart to God,” a thick darkness envelops him. Something evil, oppressive, and very real tries to stop him—to bind his tongue so he cannot speak. The forces of darkness get so intense that Joseph thinks he’s going to die. But he “exert[s] all [his] powers to call upon God to deliver [him] out of the power of this enemy which [has] seized upon [him].” And then, “at the very moment when [he’s] ready to sink into despair and abandon [him]self to destruction,” when he doesn’t know if he can hang on any longer, a glorious brilliance fills the grove, scattering the darkness and the enemy of his soul.

A “pillar of light” brighter than the sun gradually descends upon him. One personage appears, and then another. Their “brightness and glory defy all description.” The first, our Heavenly Father, speaks his name, “pointing to the other—[Joseph!] This is My Beloved Son. Hear Him!”

And with that overwhelming burst of light and truth, the Restoration has begun. A veritable flood of divine revelation and blessings will follow: new scripture, restored priesthood keys, apostles and prophets, ordinances and covenants, and the reestablishment of the Lord’s true and living Church, which will someday fill the earth with the light and witness of Jesus Christ and His restored gospel.

All that, and much more, began with a boy’s desperate prayer and a pillar of light.

We too have our own desperate needs. We too need freedom from spiritual confusion and worldly darkness. We too need to know for ourselves. That is one reason President Russell M. Nelson has invited us to “immerse [ourselves] in the glorious light of the Restoration.”

One of the great truths of the Restoration is that the heavens are open—that we too can receive light and knowledge from on high. I testify that is true.

But we must be wary of a spiritual trap. Sometimes faithful Church members become discouraged and even drift away because they haven’t had overwhelming spiritual experiences—because they haven’t experienced their own pillar of light. President Spencer W. Kimball warned, “Always expecting the spectacular, many will miss entirely the constant flow of revealed communication.”

President Joseph F. Smith likewise recalled, “The Lord withheld marvels from me [when I was young], and showed me the truth, line upon line, precept upon precept, here a little and there a little.”

That is the Lord’s typical pattern, brothers and sisters. Rather than sending us a pillar of light, the Lord sends us a ray of light, and then another, and another.

Those rays of light are continuously being poured down upon us. The scriptures teach that Jesus Christ “is the light and … life of the world,” that His “Spirit giveth light to every man [and woman] that cometh into the world,” and that His light “fill[s] the immensity of space,” giving “life to all things.” The Light of Christ is literally all around us.

If we have received the gift of the Holy Ghost and are striving to exercise faith, repent, and honor our covenants, then we are worthy to receive these divine rays constantly. In Elder David A. Bednar’s memorable phrase, “we are ‘living in revelation.’”

And yet, every one of us is different. No two people experience God’s light and truth in exactly the same way. Take some time to think about how you experience the light and Spirit of the Lord.

You may have experienced these bursts of light and testimony as “peace [spoken] to your mind concerning [a] matter” that has worried you.

Or as an impression—a still, small voice—that settled “in your mind and in your heart” and urged you to do something good, such as helping someone.

Perhaps you’ve been in a class at church—or at a youth camp—and felt a strong desire to follow Jesus Christ and stay faithful. Maybe you even stood and shared a testimony that you hoped was true and then felt it was.

Or maybe you’ve been praying and felt a joyful assurance that God loves you.

You may have heard someone bear testimony of Jesus Christ, and it touched your heart and filled you with hope.

Perhaps you were reading in the Book of Mormon and a verse spoke to your soul, as if God had put it there just for you—and then you realized that He did.

You may have felt the love of God for others as you served them.

Or maybe you struggle to feel the Spirit in the moment because of depression or anxiety but have the precious gift and the faith to look back and recognize past “tender mercies of the Lord.”

My point is that there are many ways to receive heavenly rays of testimony. These are just a few, of course. They may not be dramatic, but all of them form part of our testimonies.

Brothers and sisters, I have not seen a pillar of light, but, like you, I have experienced many divine rays. Over the years, I’ve tried to treasure such experiences. I find that as I do, I recognize and remember even more of them. Here are some examples from my own life. They may not be very impressive to some, but they are precious to me.

I remember being a rowdy teenager at a baptism. As the meeting was about to begin, I felt the Spirit urge me to sit down and be reverent. I sat down and stayed quiet the rest of the meeting.

Before my mission, I was afraid my testimony wasn’t strong enough. No one in my family had ever served a mission, and I didn’t know if I could do it. I remember studying and praying desperately to receive a more certain witness of Jesus Christ. Then one day, as I pled with Heavenly Father, I felt a powerful sense of light and warmth. And I knew. I just knew.

I remember being awakened one night years later by a feeling of “pure intelligence” telling me I would be called to serve in the elders quorum. Two weeks later I was called.

I remember a general conference where a beloved member of the Quorum of the Twelve Apostles spoke the exact words of testimony I had told a friend I hoped to hear.

I remember kneeling with hundreds of brethren to pray for a dear friend who lay unconscious on a ventilator in a small, faraway hospital after his heart had stopped. As we united our own hearts to plead for his life, he woke up and pulled the ventilator out of his own throat. He serves today as a stake president.

And I remember waking up with strong spiritual feelings after a vivid dream of a dear friend and mentor who passed away far too early, leaving an enormous hole in my life. He was smiling and joyful. I knew he was OK.

These are some of my rays. You have had your own experiences—your own light-filled bursts of testimony. As we recognize, remember, and gather these rays “together in one,” something wonderful and powerful begins to happen. “Light cleaveth unto light”—“truth embraceth truth.” The reality and power of one ray of testimony reinforces and combines with another, and then another, and another. Line upon line, precept upon precept, here a ray and there a ray—one small, treasured spiritual moment at a time—there grows up within us a core of light-filled, spiritual experiences. Perhaps no one ray is strong enough or bright enough to constitute a full testimony, but together they can become a light that the darkness of doubt cannot overcome.

“O then, is not this real?” Alma asks. “I say unto you, Yea, because it is light.”

“That which is of God is light,” the Lord teaches us, “and he that receiveth light, and continueth in God, receiveth more light; and that light groweth brighter and brighter until the perfect day.”

That means, brothers and sisters, that in time and through “great diligence,” we too can have our own pillar of light—one ray at a time. And in the midst of that pillar, we too will find a loving Heavenly Father calling us by name, pointing us to our Savior, Jesus Christ, and inviting us to “Hear Him!”

I bear witness of Jesus Christ, that He is the light and life of the whole world—and of your personal world and mine.

I testify that He is the true and living Son of the true and living God and that He stands at the head of this true and living Church, guided and directed by His true and living prophets and apostles.

May we recognize and receive His glorious light and then choose Him over the darkness of the world—always and forever. In the name of Jesus Christ, amen.

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こちらから、音声を聞くことができます。