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「 また 会う日まで 」

2021-11-30 04:57:26 | 日記
トーマス・S・モンソン
トーマス・S・モンソン大管長
大管長
それぞれの国で,わたしたちが良き市民となり,それぞれの町で,良き隣人となれますように。教会員と同様に,ほかの信仰を持つ人々とも良い友人になりましょう。
兄弟姉妹,霊感あふれる,非常にすばらしい大会だったと皆さんも感じたことでしょう。この2日間,主の御み霊たまを豊かに感じ,わたしたちは感動し,この神聖な業への証あかしが強まりました。世界中のすべての教会員を代表し,この大会で話したすべての兄弟姉妹に感謝を表します。モルモン書にあるモロナイの言葉が思い浮かびます。「また教会員の集会は,御霊の働くままに,聖霊の力によって教会員が指導した。教えを説くことも,勧めることも,祈ることも,請い願うことも,歌うことも,聖霊の力によって導かれるままに行われた。」

この総大会で聞いたことを,いつまでも覚えていることができますように。わたしたちが聞いたメッセージは来月号の『エンサイン』(Ensign)および『リアホナ』に掲載されます。メッセージを研究し,その教えについて深く考えるよう,強く勧めます。

この大会で解任された兄弟の皆さん。長年にわたる献身的な奉仕に,わたしたちは深く感謝しています。皆さんの数え切れない貢献によって,教会全体が益を受けてきました。

はっきりとお伝えします。天の御父は,今こん日にちこの世界でわたしたちが直面している困難をよく御存じです。御父は,わたしたち一人一人を愛し,御父の戒めを守ろうと努力し,祈りを通して御父を求めるときにわたしたちを祝福してくださいます。

兄弟姉妹,わたしたちは世界的な教会の会員です。教会員は世界中にいます。それぞれの国で,わたしたちが良き市民となり,それぞれの町で,良き隣人となれますように。教会員と同様に,ほかの信仰を持つ人々とも良い友人になりましょう。すべてのことにおいて正直で誠実な男女になりましょう。

世界中に,おなかをすかせ,貧困に苦しんでいる人がいます。わたしたちは手を取り合って,苦しみを和らげ,必要なものを提供することができます。互いを思いやる心を持つ皆さんの奉仕に加え,教会の基金への惜しみない寄付のおかげで,教会は,世界のどこで災害が起こっても,すぐに行動することができます。教会は,真っ先に駆けつけて,できる限りの援助を行っています。皆さんの優しさに感謝しています。

違った種類の困難もあります。特に若い人の中に,麻薬や不道徳,非行集団,それらに伴う深刻な問題を抱えている人がいます。さらに,孤独な人,夫や妻を亡くした人,ほかの人との交わりや優しい気遣いを切望している人がいます。わたしたちが,周囲の人々の必要に敏感に気づき,助けの手と愛ある心を差し伸べることができますように。

兄弟姉妹,天が確かに開いており,イエス・キリストの回復された教会が,今日この地上に存在し,救いの岩の上に立てられていることは何という祝福でしょうか。絶えざる啓示は,イエス・キリストの福音にとって欠かすことができません。

皆さんの家路が守られますように。平和と調和と愛のうちに生活できますように。救い主の模範に日々従えますように。

兄弟姉妹のうえに神の祝福がありますように。わたしとすべての中央幹部のための祈りに感謝します。わたしたちは心から皆さんに感謝しています。

クリストファー・マーロウの戯曲『ドクター・フォースタスの悲劇』(The Tragical History of Dr. Faustus)に描かれているフォースタス博士は,神を信じず,サタンの道に従っていました。したい放題な生活の末,罰が待ち受けるばかりとなった邪悪な生涯の最後で,博士は後悔の弁を述べます。「〔燃える〕火よりもはるかに悲惨なこと〔がある〕。神の御み前まえからの永遠の追放だ。」

兄弟姉妹,神の御前からの永遠の追放が最も深い悲しみであるなら,神の御前で永遠の命を得ることは最も大切な目標です。

わたしたちがこの最も尊い報いを得るために,熱心に努力し続けることができるよう,心を込めて祈ります。

この業が真実であること,また救い主が生きておられ,御自身の教会をこの地上で導いておられることを証します。わたしの愛する兄弟姉妹の皆さん,6か月後に再会するまで,お別れを申します。わたしたちが仕える,ナザレのイエス,救い主,贖あがない主の御み名なにより,アーメン。


本日もお読みいただいて、ありがとうございます。

このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2008年10月の総大会から、ご紹介しました。

青字、赤字は追加しています。

すべてのことにおいて正直で誠実な男女になりましょう。


May we be men and women of honesty and integrity in everything we do.


願我們在所行的一切事上都能誠實正直。


11月最終日 良い1日をお祈りします。



あのね,大変だったんだよ」 クエンティン・L・クック長老 十二使徒定員会 わたしたちは,聖文を通して

2021-11-29 02:55:04 | 日記
「あのね,大変だったんだよ」
クエンティン・L・クック長老
十二使徒定員会
わたしたちは,聖文を通して試練の中には益となりわたしたち自身の個人的な成長に必要なものもあることを承知しています。
去年の冬,わたしの娘は大変な吹雪の中,車を運転していて恐怖を感じたそうです。その話を聞いていて,昔わたしも二人の息子を連れて同じような経験をしたことを思い出しました。末の息子のジョーが3歳,もう一人のラリーが6歳のときのことです。6月にサンフランシスコからユタに向かって車を走らせていました。天気は実に快適でした。

シエラネバダ山脈をドナー峠の頂上に向かって登り始めたころ,まったく突然に何の前触れもなく,猛吹雪に見舞われてしまったのです。そんな事態に備えていたドライバーは一人もいません。わたしたちの前にいたトレーラーは二つに折れ曲がり,2車線をふさいでいます。スリップして道路から飛び出してしまったトラックや車もあります。空いていた1車線に,わたしたちの車も含め多くの車が集中しました。スリップして追突事故を起こさないようみんな必死でした。こうして車の流れは完全に止まりました。

わたしたちは6月のこの大吹雪に何の備えもできていませんでした。暖かい服もなく,ガソリンもだいぶ少なくなっていました。わたしは二人の息子と体を寄せ合って寒さをしのぎました。車の中で何時間も過ごした後,ようやく除雪車やレッカー車がやって来て,大渋滞を起こしていた大量の車を片付け始めました。

最終的にはわたしたちの車もレッカー車に引かれて,峠の反対側にあるガソリンスタンドまで連れて行ってもらいました。そこでわたしはすぐに妻に電話をしました。前の晩から電話を待っていた妻が心配しているだろうと思ったからです。妻は二人の息子に代わってほしいと言いました。3歳の息子の番になると,息子は震える声でこう言いました。「あのね,大変だったんだよ。」

息子は母親に話しかけ「大変だった」ことを伝えているうちに,気持ちが楽になり,ほっとしているようでした。天の御父のみもとに行こうとするわたしたちにとって,祈りはこれと同じです。わたしたちは,助けが必要なときに御父が心にかけてくださることを知っています。
だれもが人生で試練や苦難に直面する
今話した出来事は,大変な旅ではありましたが,つかの間で,長く尾を引くこともありませんでした。しかしながら,この世の生涯で遭遇する試練や困難の多くは,もっと厳しく,ずっと尾を引くように思えます。わたしたちは皆こうしたことを人生の浮き沈みの中で経験します。この大会を視聴している人の中にも,今この時に,きわめて深刻な事態に直面している人が大勢いることでしょう。

わたしたちは預言者ジョセフの嘆願に共鳴します。ジョセフが偽りの告発により,数か月にわたってリバティーの監獄に捕らわれていたときのことです。「おお,神よ,あなたはどこにおられるのですか。あなたの隠れ場を覆う大幕はどこにあるのですか。」

主の答えは心を慰めるものでした。

「息子よ,あなたの心に平安があるように。あなたの逆境とあなたの苦難は,つかの間にすぎない。
その後,あなたがそれをよく堪え忍ぶならば,神はあなたを高い所に上げるであろう。」

回復によって明らかにされた基本的な教義の一つは,義がもたらされるためにはすべての事物に反対のものがなければならないという教えです。この世の生涯はいつも容易に進むわけではなく,また,そのように意図されているわけでもありません。むしろ試練と証明の時期なのです。アブラハム書にはこうあります。「そして,わたしたちはこれによって彼らを試し,何であろうと,主なる彼らの神が命じられるすべてのことを彼らがなすかどうかを見よう。」ハロルド・B・リー長老は次のように教えています。「時には,わたしたちにとって最善のものや永遠の報いをもたらすものが,その時点では最も困難なものと思えることがあります。また,禁じられていることが,しばしば最も望ましいものに思えることもあります。」

小説『二都物語』の冒頭は,よく知られている次のような言葉で始まります。「それはおよそ善き時代でもあれば,およそ悪あしき時代でもあった。」聖文は,どの世代であってもそれぞれに最良の時代と最悪の時代を経験することを明らかにしています。わたしたちは皆,善悪の戦い光と闇やみ,希望と絶望という対照的な存在に無縁でいるわけにはいかないのです。ニール・A・マックスウェル長老は次のように説明しています。「わたしたちは瞬時に取って代わる苦楽の経験を,この短い死すべき世の最後の最後まで味わう必要があります。」わたしたちは,教義から,善が悪に打ち勝つこと,悔い改め清められた者に永遠の命が与えられることを知っています。

ディケンズがこの小説を書いているころとほぼ時を同じくして,西部の山間に入植した初期の聖徒たちの英雄的な努力が始まっていました。

たとえ共通した信仰を持っていたとしても,聖徒たちは数多くの困難に直面し,それぞれにまったく異なった期待を抱いて,ノーブーを去る日を迎えました。前途を楽観する者もいれば,心配する者もいました。ヘレン・マー・ホイットニーとバスシバ・スミスという二人の人物はその良い例です。二人は自分たちの思いを実に力強く記録に残しました。

ホイットニー姉妹はノーブーを去るときに抱いた期待を次のように記録しています。「……小さなリボンや付け襟,レースなどをすべて荷物の中に入れた。これから行く所では買えないだろうから。わたしたちはこの俗世を離れてロッキー山脈を越え,だれも行きたいと思わないような所へ行く。……そこには富む人も貧しい人もいないだろう,いるのは正直な人と徳高い人だけだ。……」ホイットニー姉妹の記録は,理想的とも言える楽観主義に貫かれています。

バスシバ・スミス姉妹の記録もやはり信仰に満ちてはいますが,幾らか不安があったことも読み取れます。彼女は,ミズーリ州で暴徒が聖徒に敵対して群れを成した様子を見ていますし,使徒であったデビッド・W・パッテンの死にも居合わせています。

ノーブーから避難したときのことを振り返って,彼女はこう記しています。「その大切な場所で最後にしたことは,部屋をきれいにし,床を掃き,ほうきをドアの後ろのいつもの場所に片付けることだった。そして万感の思いを込めて,ドアを閉め,まだ見ぬ未来に向かって進み出した。神を信じる信仰を抱きつつ,ミズーリ州でつらい場面に感じた思いよりはむしろ,西部にあって最後には福音とその真実不変の原則が確立されるという確信をもって,進み出したのだ。


二人とも末日聖徒の開拓者の女性として,生涯を通じて福音の教えを忠実に実践し,シオンを築くためにすばらしい奉仕の働きをしました。二人は数多くの試練や困難になお遭遇したものの,忠実に堪え忍んだのです。ホイットニー姉妹は楽観的だったにもかかわらず,最初の3人の子供を出産時や出産間近に亡くしました。そのうちの2人が亡くなったのはノーブーからソルトレークへの旅の途中でのことでした。ホイットニー姉妹は,信仰を守った記録によってわたしたちに祝福をもたらし,やがて使徒オーソン・F・ホイットニーの母親となったのです。

スミス姉妹の記録には,聖徒たちが西に向かって進んだときに経験した貧困や病気,困窮の様子が書かれています。1847年3月には母親が亡くなり,その翌月には2番目の息子のジョンが生まれました。その場面を彼女は短く記録しています。「わたしのこの最後の子は,たった4時間しか生きられなかった。」その後,彼女はソルトレーク神殿のメイトロンとなり,やがて中央扶助協会の第4代会長となっています。

わたしたちは初期の聖徒たちが経験した艱かん難なん辛苦に強く胸を打たれます。ブリガム・ヤングは,1856年2月に,こうした苦難についていささかユーモアを交えて次のように述べています。「試練の時について少し話したいと思います。皆さんも御存じのように,わたしはこれまで,飢え死にを恐れる人がいるなら,その人を去らせ,豊かな土地へ行かせなさいと言ってきました。わたしは最後のラバの耳の先からしっぽの先まで食べ尽くしてしまうまでは,飢え死にの危険があることを心配したりはしません。飢え死にすることを恐れてはいません。」

さらに次のように続けています。「今は仕事に就けない人が数多くいます。しかし間もなく春が来て,不要な苦しみを受けることはなくなります。」

今の時代にわたしたちが直面する問題は,ある意味では過去の問題とよく似ています。最近の経済危機は,世界中で著しい不安を引き起こす原因となっています。雇用や財政の問題はどこででも見受けられます。肉体面や精神面で難題を抱えている人も大勢います。結婚問題や道をそれた子供に悩む人もいます。愛する人を亡くしたばかりの人もいるでしょう。依存症や,不適切で有害な性癖のために心痛を招いている人もいます。そうした試練は,原因が何であれ,本人にも,その人を愛する人たちにも,深い苦悩を引き起こすのです。

わたしたちは,聖文を通して試練の中には益となりわたしたち自身の個人的な成長に必要なものもあることを承知しています。また雨が正しい者のうえにも正しくない者のうえにも等しく降ることを知っています。目にする雲がいつも雨の前兆とは限らないことも確かです。わたしたちの耐える問題や試練,困難がどのようなものであれ,イエス・キリストが成し遂げられた贖しょく罪ざいという,慰めをもたらす教義とは,アルマも教えているように,わたしたちの弱さを救い主が身に受けてくださることであり,「御自分の民を彼らの弱さに応じて……救〔ってくださる〕

聖典や近代の預言者は,収穫の少ない年もあれば豊かな年もあると断言しています。主もわたしたちに,やがて訪れる問題の多くに備えるようにと望んでおられます。主は「備えていれば恐れることはない」と宣言されました。何年も前,シエラネバダ山脈を横断するときに,あの大吹雪の中で心に傷となって残るような経験をした原因の一つは,あのような突然の出来事にわたしが備えていなかったからでした。聖文から得られる偉大な祝福の一つは,予期しないときにしばしば起こる問題について警告してくれていることです。そういう状況に備えができていることはすばらしいことです。そのような備えの一つが,戒めを守ることです。

モルモン書には数多くの場面で,民は「もし彼らが戒めを守れば」その地で栄えると約束されています。この約束には大抵,もし神の戒めを守らなければ御み前まえから絶たれるであろうという警告が伴います。御み霊たまの祝福,すなわち聖霊の働きかけを受けるということは,その地で真に栄え,備えをするためには,明らかに不可欠な要素なのです。

試練がどのようなものであるかを問わず,現在豊かに頂いているわたしたちが,頂いている祝福をきちんと認識しないとしたら,感謝の心が足りないと言われても仕方ありません。開拓者の受けた艱難がどれほどつらいものであったかを十分知ったうえで,ブリガム・ヤング大管長は,感謝することについて,その重要性を次のように語っています。「わたしは,赦ゆるされない罪を別にすれば,忘恩の罪以上に重い罪を知りません。
救い主と贖罪への感謝の念
わたしたちはこの上ない感謝の念をイエス・キリストとその贖罪に向ける必要があります。この大会を視聴している皆さんの中にも,現在,大変な試練や困難に立ち向かっていて,天の御父に祈るとき,心の中では「今,大変なのです」と言いたい気持ちの人が大勢いることも承知しています。

皆さんに,ある姉妹の実話を紹介したいと思います。ユタ州グランツビルに住むエレン・イェーツというこの姉妹は,10年前の10月初旬,ソルトレークの職場に向かう夫のレオンにお出かけのキスをして見送りました。しかしこれが,生きたレオンを見た最後となりました。その日,初出勤に遅れてしまいゆっくり走る車を追い越そうとした20歳の青年の車と衝突して,二人とも即死してしまったのです。イェーツ姉妹は,二人の高速機動隊員がこの訃ふ報ほうを伝えに来たときは,ショックと悲しみに打ちのめされたそうです。

彼女はこう記録しています。「将来のことを考えようとしたとき,見えたのは,ただ暗闇と苦痛だけでした。」ところが,亡くなった夫の親友が,偶然にもその青年のワードのビショップだったのです。ビショップは彼女に電話をして,青年の母親,ジョアン・ウィルモアが話をしたがっていると伝えました。彼女はそのときのことをこう回想しています。「自分自身の悲しみと苦痛ばかりに心が向いていて,その青年や青年の家族のことまで考える余裕などありませんでした。そんな自分に気づいて動揺しました。すると突然,ここにも自分と同じように,あるいは自分以上に悲しみに暮れている母親がいることを悟ったのです。わたしはぜひおいでいただきたいと伝えました。」

ウィルモア夫妻は彼女の家に着くと,自分たちの息子の過失によりレオンの命を奪ってしまったことに対する心からの悲しみとお詫びの言葉を述べました。そして,救い主が小さな女の子を抱き上げておられる絵を差し出しました。イェーツ姉妹はこう言っています。「つらくて耐えられなくなると,この絵を見て,キリストがわたしのことを個人的に知っていてくださることを思い出しています。キリストはわたしの寂しさや試練を知っておられるのです。」イェーツ姉妹を慰めた聖句です。「元気を出しなさい。恐れてはならない。主なるわたしはあなたがたとともにおり,あなたがたの傍らに立つからである。

毎年10月が来ると,イェーツ姉妹とウィルモア姉妹は一緒に神殿に参入し,イエス・キリストの贖罪が備えられていることに感謝をささげます。(二人は今日きょうここカンファレンスセンターに一緒に来ています。)救いの計画に,また永遠の家族がいることに,そして,夫婦と家族が幕のいずれの側でも一つに結ばれるという聖約に対して感謝をささげるのです。イェーツ姉妹はこう結んでいます。「この試練を通じて,わたしは天の御父と救い主の愛をこれまで感じたことがないほど豊かに感じるようになりました。」そして,こう証あかししています。

キリストの贖罪やキリストの愛で癒いやすことができないほど大きな悲しみや苦痛,病は存在しません。

この二人の姉妹が示してきた愛と赦しは,実にすばらしい模範です。イエス・キリストの贖罪を二人の生活に効力のあるものとしているのです。

ゲツセマネの園の救い主を思い出してください。贖罪の過程で,苦痛があまりにも大きかったため,あらゆる毛穴から血を流されたとあります。救い主は御父に呼びかけたとき,「アバ」という言葉を使われました。これは苦しみにあえぐ一人の息子が父親に向かって発した叫びだったと解釈できます。「わが父よ,もしできることでしたらどうか,この杯さかずきをわたしから過ぎ去らせてください。しかし,わたしの思いのままにではなく,みこころのままになさってください。」

イエス・キリストの贖罪は,わたしたち一人一人がこの世の生涯で出合うあらゆる試練や困難にも及ぶことを証します。時にわたしたちは「あのね,大変だったんだよ」と言いたいときがあります。そんなときこそ,主がそこにおられることを実感し,その愛の御み腕うでに抱かれて平安を得られるときなのです。

愛する預言者トーマス・S・モンソン大管長は,この8月の誕生日に,世界中の教会員が贈れる理想のプレゼントは何ですかと質問されて,迷わずこう答えました。

つらい時を過ごしている人を探し出し,……その人のために何かしてあげてください。

わたしは皆さんとともに,人類を救ってくださる御方であるイエス・キリストに永遠に感謝をささげます。主が世の救い主,贖あがない主であられることを証します。イエス・キリストの御み名なにより,アーメン。


本日もお読みいただいて、ありがとうございます。
このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2008年10月の総大会から、ご紹介しました。
赤字青字は追加しています。

つらい時を過ごしている人を探し出し,……その人のために何かしてあげてください。


“Find someone who is having a hard time, … and do something for them.”


「去找一個遭遇苦難的人,為他們做點事。」


今日も良い1日をお祈りします。





人生の旅路に喜びを見いだす

2021-11-28 04:59:38 | 日記
人生の旅路に喜びを見いだす

トーマス・S・モンソン大管長
大管長
この人生を大切にしましょう。人生の旅路に喜びを見いだし,友と家族に愛を示しましょう。
愛する兄弟姉妹,今朝,皆さんの前に立ち,謙虚な気持ちになっています。わたしの思いを占めてきた事柄,皆さんに分かち合うべきだと心に感じてきた事柄を話すに当たり,わたしのために皆さんの信仰と祈りをお願いします。

まず,この地上で決して避けられないこと,すなわち,変化するということについて話します。だれでも次のようなことわざを聞いたことがあるでしょう。「変化ほど常に変わらずあるものはない。」

人は一生を通じて,変化に対処しなければなりません。喜ばしい変化も,そうでない変化もあります。愛する人の死,予測しなかった病気,大切にしていたものの喪失など,人生には突然の変化もあります。しかし,ほとんどの変化は少しずつゆっくりと起こるのです。

この大会はわたしが十二使徒に召されてから45年目の大会に当たります。当時,なりたての使徒として,十二使徒定員会と大管長会の14人の傑出した先輩たちを見上げました。一人,また一人と,彼らは天の故郷へ旅立ちました。ヒンクレー大管長が8か月前に亡くなったとき,わたしは自分がいちばん古い使徒になったことを悟りました。45年以上の歳月の間に起きた変化は緩やかでしたが,今振り返ると途方もなく大きなものに思えます。

今週,モンソン姉妹とわたしは60回目の結婚記念日を祝います。新婚時代を思い返すと,当時と今のわたしたちの生活が大きく変化したことに気づきます。結婚生活を始めた日に傍らにいてくれた,それぞれの愛する両親は亡くなりました。何年にもわたって生活を喜びで満たしてくれた3人の子供は,成長して自分たちの家庭を築きました。孫の大半は成長し,今では4人のひ孫がいます。

時々刻々,わたしたちは,かつていたところから,今いるところへと移って来たのです。すべての人の人生は,似たような変化をたどります。わたしが人生で経験する変化と皆さんが経験する変化を比べると,ただその細部が違っているにすぎません。時は決して立ち止まることなく絶え間なく進み,それに伴って,変化が訪れるのです。

死すべき世は,一人一人に与えられた唯一無二の機会です。長く生きれば生きるほど,一生の短さを悟ります。様々な機会が訪れては去ります。地上でのこの短い人生で得られる教訓の中で,最も重要な教訓の一つは,大切なこととそうでないことを区別するよう教えてくれる教訓であると,わたしは信じています。皆さんに切にお願いします。したいことを全部するだけの時間が与えられるような,非現実的な架空の将来のためにあれこれ計画している間に,人生で最も大切な事柄をやり過ごしてしまわないようにしてください。そうではなく,今,人生に喜びを見いだしてください。

わたしは観劇が好きで,妻フランシスから「観劇中毒」と呼ばれるほどです。様々なミュージカルを大いに楽しんできましたが,中でも大好きな作品の一つは,アメリカ人作家メレディス・ウィルソンが書いた『ザ・ミュージックマン』(The Music Man)です。主要な登場人物の一人,ハロルド・ヒル教授の警告的なセリフを紹介します。「明日のことばかり考えていると,気づいたときには,空っぽの昨日ばかりがたまっていた,ということになりますよ。」

兄弟姉妹の皆さん,今日きょう何かをしなければ,明日になって思い起こす価値のある事柄は何もないのです。

以前,この人生哲学の具体例を話したことがありますが,もう一度伝える価値があると思いますので,何年も前にアーサー・ゴードンがある全国向けの雑誌に投稿した話を引用します。

「わたしが13歳,弟が10歳くらいのときのことです。父がサーカスに連れて行くと約束してくれました。しかし昼どきになって電話が入り,急な仕事で,父は町に行かなくてはならなくなりました。わたしと兄は,サーカスには行けなくなったと言われてがっかりすることになるだろう,と心の準備をしました。しかし父は〔受話器に向かって〕こう言ったのです。『町へは行けません。後回しにせねばなりません。

テーブルに戻って来た父に,母がほほえんで言いました。『サーカスはまたいつか来るでしょ。』

父は答えました。『そうだね。でも,子供時代は二度と戻って来ないんだよ。』」

成長し親もとを離れた子供を持つ皆さんの多くは,時々寂しさに襲われ,子供が幼かったあのころをもっと深く味わっておけばよかったと悔やむことがあることでしょう。もちろん,昔に戻ることはできません。時は進むのみです。過去を思い続けるよりも,今日,今ここでできることに最善を尽くすべきです。将来を楽しい思い出で満たすためにできることをすべて行うのです。

今,子育て中の皆さんは,きれいに磨いたばかりの家具に付いた小さな指紋や,家中に散らかったおもちゃ,畳んだ端から崩されていく山のような洗濯物,こういった光景があっという間になくなってしまい,意外にもそのことに大きな寂しさを感じるようになるでしょう。そのことを心に留めてください。

ストレスというものはどんな状況にもあります。最善を尽くして対処しましょう。しかし,ストレスのせいで,最も大切なものをないがしろにしてはなりません。最も大切なものとは,たいていは周りの人のことです。わたしたちは,「自分が相手をどれほど愛しているかを,相手は十分知っているはずだ」と思い込みがちですが,当然そうだと決めてかかってはいけません。知らせなければならないのです。ウィリアム・シェークスピアはこう書いています。「愛情を示さぬ方かたは,愛さぬのと同じこと。」優しい言葉をかけ,愛を示したことで後悔することは決してありません。そのような行為が,最も大切な人との関係から除外されるなら,いつか後悔する日が訪れます。

久しく連絡を取り合っていない友に手紙を送り,子供を抱き締め,親を抱き締め,もっと「愛しているよ」と言い,いつも感謝を伝えましょう。愛すべき人よりも,解決すべき問題の方を重要視しないでください。友は遠くへ去り,子供は成長し,愛する人は次の世へ逝きます。彼らの姿が消え,「もし今なら」「あのときああしていれば」と思うまでは,その人がいるのは当然のことだと思ってしまいがちです。作家のハリエット・ビーチャー・ストーは言いました。「墓前に流された哀絶の涙には,伝えなかった言葉や,やり残した行いが込められている。」

1960年代,ベトナム戦争中に,教会員の兵士ジェイ・ヘスは,北ベトナムで銃弾を受けました。その後の2年間,家族は彼が死んだのか生きているのか分かりませんでした。実は,彼はハノイで捕虜として収容されていたのです。やっとのことで手紙を書く許可が出ましたが,25単語以内という制限がありました。同じ状況に置かれたら,皆さんやわたしは家族に何を伝えるでしょうか。2年以上も会っておらず,再会できるかどうかも分かりません。彼からだと認識でき,家族にとって教訓となる言葉を送りたいと思ったヘス兄弟はこう書きました。「大切なこと。神殿結婚,伝道,大学,前進,目標,家族の歴史を記録に残すこと,年2回の写真撮影。」

この人生を大切にしましょう。人生の旅路に喜びを見いだし,友と家族に愛を示しましょう。いつの日か,明日は底を突くのですから。

新約聖書のヨハネによる福音書,第13章34節で,主は勧告しておられます。「わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互たがいに愛し合いなさい。

皆さんの中には,ソーントン・ワイルダーの古い戯曲『わが町』(Our Town)をよく知っている人もいるでしょう。そして,物語の舞台となった町グローバーズ・コーナーズを思い出せるでしょう。物語の中で,エミリー・ウェッブは難産のために亡くなります。そして4歳の息子とともに残された若い夫ジョージの孤独と悲しみが描かれます。しかし,エミリーは安らかに世を去ることを望まず,再び人生の喜びを経験したいと思いました。彼女は地上に戻って,もう一度12歳の誕生日を生きることを許されます。最初は若返れてうれしいと思いましたが,喜びはすぐに色あせます。将来起こることを知っていたエミリーには,その日を喜ぶことができません。生きている間に人生の意義とすばらしさにまったく気づけなかったことは,悔やんでも悔やみ切れませんでした。安息の場所に帰る前にエミリーは言います。「人は,自分が生きている一刻一刻に,人生の貴さをかみしめているかしら。」

人生で何が最も大切かを悟ると,受けている祝福に対する感謝の念に満たされます。

ある有名な作家が言いました。「豊かさと貧しさは,並行する現実として人生に同時に存在している。心の中にあるどちらの庭に目を向けるかは,常に本人が意識して選ぶのだ。……人生に足りないものにとらわれないという選択をし,例えば,愛,健康,家族,友人,仕事,美しい自然,〔幸福〕をもたらす事柄を追求することなど,豊かにあるものに目を向けて感謝するなら,自分の幻想が作り出した荒れ地は消え去り,地上の天国を味わうことができる。」

教義と聖約第88章33節にはこうあります。「ある人に贈り物が与えられても,彼がそれを受け取らなければ,それは彼にとって何の益があるだろうか。見よ,彼は与えられるものを喜ばず,その贈り物の贈り主をも喜ばない。」

古代ローマの哲学者ホラティウスは勧告しています。「神がどのような時代を下さろうと喜んで受けよ。喜ぶことを来る年も来る年も先送りするな。そうすれば,たとえどのような状況に置かれようと,幸せな人生だったと言えるようになる。」

何年も前に,ボーグヒルド・ダールの話に感動しました。1890年ミネソタ州でノルウェー出身の両親から生まれ,幼少期から重度の視覚障がいに苦しみました。ハンディキャップがあるにもかかわらず普通の生活を送りたいと強く願った彼女は,固い決意で努力し,自分が取り組んだほとんどすべての分野で成功を収めました。障がいが重すぎるので無理だと言う教育者たちの忠告を聞かずに,彼女は大学に進み,ミネソタ大学から学士号を取得しました。その後コロンビア大学とオスロー大学で学びました。結局は,ミネソタ西部とノースダコタで8つの学校の校長を務めました。

17冊の著作のうちの1冊で,次のように書いています。「見える方の左目には深い傷があって,視界が遮られるので,何を見るにも,その狭い透き間から見ている感じでした。本を読むときには,本を顔に近づけて,目を思い切り左側に寄せるようにしなければなりませんでした。」

1943年,すでに50歳を超えていた彼女に奇跡が起こりました。医療技術の画期的な進歩により,長年奪われていた視力がかなり回復したのです。新しい,胸躍る世界が開けました。飛ぶ鳥や,流し台で光を受けて輝く泡,毎晩見る月の満ち欠けなど,だれもが当たり前だと考えるような小さなことを見てとても喜びました。ある著述をこう締めくくっています。「愛する天のお父様,あなたに感謝します。心から感謝します。」

ボーグヒルド・ダールは,視力が回復する前も後も,受けた祝福への感謝に満たされていました。

92歳で亡くなる2年前の1982年,最後の著述が出版されました。タイトルは『生涯幸せ』(Happy All My Life)です。彼女には感謝の心があったので,試練の中にあっても祝福を見いだし,豊かに生きることができたのです。

新約聖書のテサロニケ人への第一の手紙第5章18節で,使徒パウロはこう述べています。「すべての事について,感謝しなさい。これが,……神があなたがたに求めておられることである。

重い皮膚病を患った10人の人々の話を思い出してください。

「そして,〔イエスは〕ある村にはいられると,重い皮膚病にかかった十人の人に出会われたが,彼らは遠くの方で立ちとどまり,声を張りあげて,『イエスさま,わたしたちをあわれんでください』と言った。

イエスは彼らをごらんになって,『祭司たちのところに行って,からだを見せなさい』と言われた。そして,行く途中で彼らはきよめられた。

そのうちのひとりは,自分がいやされたことを知り,大声で神をほめたたえながら帰ってきて,イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。

イエスは彼にむかって言われた,『きよめられたのは,十人ではなかったか。ほかの九人は,どこにいるのか。

神をほめたたえるために帰ってきたものは,この他国人のほかにはいないのか。』」

主は預言者ジョセフ・スミスを通して与えた啓示で,こうおっしゃいました。「すべてのことの中に神の手を認めない者……のほかに,人はどのようなことについても神を怒らせることはない,すなわち,ほかのどのような人に向かっても神の激しい怒りは燃えない。」わたしたちが天の御父に感謝する者の一人でいられますように。感謝しないことが深刻な罪なら,感謝は最も崇高な徳の一つに数えられるでしょう。

人生に変化が訪れることは避けられませんが,感謝の心を持ち,最も大切な事柄で一日一日をできる限り満たせますように。大切な人たちを大切にし,愛を言葉と行いで表せますように。

最後に,わたしたち皆が,主なる救い主イエス・キリストに感謝を表せるよう祈ります。主の栄えある福音は「人はどこから来て,なぜここにいて,死ぬとわたしの霊はどこに行くのか」という人生の難題に答えてくれます。

主は祈り方を教え,仕え方を教え,生き方を教えてくださいました。主の生涯は愛の遺産です。病人を癒いやし,虐げられた人を引き上げ,罪人を救われました。

お独りになられる時が来ました。一部の弟子は主を疑いました。裏切る者もいました。ローマの兵士にわきを刺され,怒り狂った群衆に命を奪われても,ゴルゴタの丘には憐あわれみの言葉がこだましました。「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。

それより前に,主は,恐らく地上での使命の極致を思い浮かべながら,こう嘆かれました。「きつねには穴があり,空の鳥には巣がある。しかし,人の子にはまくらする所がない。」「客間には……余地がなかった」という言葉だけが主に向けられた唯一の拒絶の言葉ではなく,それは始まりにすぎませんでした。それでも主は皆さんとわたしに主を受け入れるよう招いておられます。「見よ,わたしは戸の外に立って,たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら,わたしはその中にはいって彼と食を共にし,彼もまたわたしと食を共にするであろう。

悲哀を知っているこの悲しみの人,この栄光の王,この万軍の主はどなただったのでしょう。この御方こそ,わたしたちの主,救い主,神の御子,救いの源であられます。この御方は「わたしに従ってきなさい」と招き,「あなたも行って同じようにしなさい」と教え,「わたしの戒めを守り……なさい」と嘆願しておられます。

主について行き,主の模範に倣い,主の御言葉みことばに従いましょう。そうしながら,感謝という神聖な贈り物を主にささげましょう。

兄弟姉妹の皆さん,人生の変化を受け入れ,何が最も大切かを悟り, 常に感謝を表し,そのようにして旅路に喜びを見いだせますように,心から祈ります。イエス・キリストの御名みなにより,アーメン。


本日もお読みいただいて、ありがとうございます。

このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2008年10月の総大会からご紹介しました。

赤字青字は、追加しています。


父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。


“Father, forgive them; for they know not what they do.”


「父啊,赦免他們;因為他們所做的,他們不曉得。」


喜びの1日になりますように、今日も頑張りましょう。



クリスマスの真の喜び

2021-11-27 04:41:13 | 日記
クリスマスの真の喜び

トーマス・S・モンソン大管長
愛する兄弟姉妹の皆さん,今夜,こうして皆さんとともに,お話と音楽を通して,わたしたちの救い主,贖い主であられる主イエス・キリストの誕生を祝うことができうれしく思います。

クリスマスは1年で最も輝かしい季節です。同時に,ほとんどの人にとって慌ただしい季節です。この季節の忙しさに心を奪われるあまり,重点の当て方を間違い,ベツレヘムの聖者の誕生を祝うことでもたらされる純粋な喜びを忘れることがないようにと願い,祈っています。

クリスマスの真の喜びは,より多くのことをしようと急ぐときには感じられません。クリスマスの真の喜びは,救い主をこの季節の中心に置くときに,見いだすことができるのです。

馬小屋で生まれ,飼葉おけに寝かされた救い主は,天から来られ,死すべき人として地上での生涯を送り,神の王国を確立されました。主の輝ける福音により,世の人々の考え方は変わりました。主はわたしたちのために生き,そして亡くなられました。そのお返しとして,わたしたちは主に何をささげることができるでしょうか。

わたしは英国の詩人,クリスティーナ・ロゼッティが書いた次の詩が大好きです。
わたしが主にささげられるものは何だろう。
この貧しいわたしが。
わたしが羊飼いだったら,
子羊をささげよう。
博士だったら,
自分の務めを果たそう。
しかし,このわたしがささげられるものは何だろう。
ささげよう,自分の心を。
クリスマスを祝うとき,わたしたちは救い主が教えらえた無私の愛を示す必要があります。得ることではなく,与えることによって,クリスマスの精神は生かされます。互いに思いやる気持ちが増します。あまり恵まれていない人々を助けるために,愛をもって手を差し伸べます。わたしたちの心は和らぎます。敵を赦し,友を思い起こし,神に従います。クリスマスの精神は,心の窓から見える景色を照らし出します。わたしたちはこの世の慌ただしい生活に目をやって,物ではなく人にもっと関心を寄せるようになります。

「クリスマスの精神」という言葉の真の意味を理解するには,クリスマスという英語の言葉の最後の音節「マス」を取るだけでよいのです。そうすれば「キリストの御霊」という言葉になります(the spirit of Christmas-mas=the Spirit of Christ)。

デビッド・O・マッケイ大管長は次のように言いました。「真の幸福はほかの人を幸福にすることによってのみ得られます。すなわち,自分の命を得るには,自分の命を失う必要があるという救い主の教義を実生活に応用するということです。要するに,クリスマスの精神はキリストの精神です。キリストの精神は兄弟愛と友情の炎を燃え上がらせ,親切な奉仕の行いをするようにわたしたちを導きます。

それはイエス・キリストの福音の精神です。その精神に従うなら『地に平和』がもたらされます。なぜなら,それは『すべての人に対する善意』という意味だからです。」

救い主に倣ってささげることができますように。自分自身を聖なる贈り物としてささげることができますように。わたしたちは救い主がささげられたすべてを記念してささげます。いつの日か壊れ,忘れ去られる贈り物だけでなく,永遠に価値のある贈り物をささげることができますように。わたしたちが理解と哀れみ,奉仕と友情,そして思いやりと優しさにあふれる贈り物をささげたとしたら,この世界はどれほどよくなることでしょう。

このクリスマスの季節がわたしたちをその栄光で包むとき,わたしたちが,あの博士たちのように,救い主の誕生を祝う指針として,明るく輝く特別な星を探し求めることができますように。わたしたちが皆,救い主への贈り物として,思いやりと愛にあふれる心を携え,あのベツレヘムへと続く道のりを旅することができますように。

兄弟姉妹の皆さん,わたしたちが皆,喜びに満ちたクリスマスを送ることができますように,救い主イエス・キリストの聖なる御名により,願い,祈ります,アーメン


本日もお読みいただいてありがとうございます。
このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2013年大管長会クリスマスデボーショナルから、ご紹介しました。

真の幸福はほかの人を幸福にすることによってのみ得られます。


True happiness comes only by making others happy


要獲得真正的幸福,唯一的方法就是讓他人快樂

良い1日をお祈りします。



恐れるな

2021-11-26 05:04:41 | 日記
恐れるな

L・ホイットニー・クレートン長老
七十人会長会
愛する兄弟姉妹の皆さん,今晩集っているわたしたちは皆,クリスマスとクリスマスの時季を愛しています。美しいクリスマス音楽やクリスマス・キャロル,家族や友達とのクリスマスの集い,笑顔,うれしそうにはしゃぐ子供たちに勝るものがあるでしょうか。クリスマスには,家族や友達,地域社会を結び付ける神聖な力があります。わたしたちはプレゼント交換やクリスマスのごちそうを楽しみにします。

イギリスの作家チャールズ・ディケンズが書いた『クリスマス・キャロル』の中で,スクルージのおいはクリスマスの持つ不思議な力について,的を射たことを言います。

「クリスマスが来ると,わたしはいつもクリスマスの時季というものは結構な時季だと思うのですよ。親切になり,人を赦し,慈悲深い気持ちになる,楽しい時季だと。男も女も皆そろって,心を自由に開き,他の人に目を向け(る),……そんな時季は長い一年の中で他にないと思います。ですからね,……クリスマスだからって金貨や銀貨の一枚ももうけたことはありませんが,それでもクリスマスはわたしにとってすばらしいものですし,これからもそうだと信じています。だからわたしは言うのです。『神よ,クリスマスを祝福してください』とね。」(『クリスマス・キャロル(A Christmas Carol)』〔1858年〕,5‐6)

親として,また,今は祖父として,子供たちや,そのまた子供たちが救い主の誕生を祝い,家族が集まって交流を楽しむ姿を見ながら,クリスマスの持つ不思議な力について,わたしは思いめぐらしてきました。わたしと同じように皆さんも,子供たちが喜んで,無邪気にこの特別な日を心待ちにし,楽しんでいる様子を見てきたに違いありません。子供たちが喜んでいる様子を見ると,わたしたちは皆,過去の楽しかったクリスマスを思い出します。ディケンズはこうも言っています。

「時には子供になるのは良いことです。そして,クリスマスほど,子供になるのに良い時季は,他にありません。クリスマスを始めた偉大な御方自身が子供としてお生まれになったことを祝う季節ですから。」(『クリスマス・キャロル』,67)

わたしはロサンゼルス近郊で育ちました。家はオレンジ畑に囲まれていました。毎年クリスマスになると,日を決めて夜,家族や友達,近所の人を家に呼んだものです。そして,クリスマス・キャロルを歌い,お菓子を食べるのです。これはわたしたち全員にとってすばらしい伝統でした。何時間も,いつまでも合唱は続き,わたしたち子供たちは歌う義務を感じている間は歌いましたが,そのうちにこっそりと抜け出してオレンジ畑で遊んだものです。

妻のキャシーとわたしも南カリフォルニアで家族を育て,比較的海岸に近い所に住んでいました。クリスマスの季節になると,決まってヤシの木が風に揺らぎます。うちの子供たちは毎年,港へ行って,恒例のクリスマスボートパレードを見るのを楽しみにしていました。何百隻もの美しいヨットが色とりどりの光を輝かせながら港を巡るのです。わたしたちは感動して見入りました。

今はソルトレーク・シティーに住んでいるので,キャシーとわたしは子供や孫を地元の劇団による「クリスマス・キャロル」の公演に連れていくのを慣例にしています。毎年,エベネザー・スクルージが心ない世捨て人から,クリスマスの喜びに満ちた幸せな隣人へと,奇跡的な変貌を遂げるのを見て,自分の中にあるスクルージのような性質を捨てようと決心します。もう少し善い人になり,全ての人に慈愛を示した救い主の模範に従おうと思うようになるのです。

クリスマスの時季が来ると自分を変えようという気持ちになるのは,人生を良い方向に変えるイエス・キリストの贖いの力を感じるからでしょう。2,000年以上前,ベツレヘムで神の子がお生まれになりました。人々に愛されているこの話は,ルカ伝に記録されています。

「そのころ,全世界の人口調査をせよとの勅令が,皇帝アウグストから出た。……

人々はみな登録をするために,それぞれ自分の町へ帰って行った。

ヨセフも……ガリラヤの町ナザレを出て,ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。

それは,すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に,登録をするためであった。

ところが,彼らがベツレヘムに滞在している間に,マリヤは月が満ちて,

初子を産み,布にくるんで,飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。

さて,この地方で羊飼いたちが夜,野宿をしながら羊の群れの番をしていた。

すると主の御使が現れ,主の栄光が彼らをめぐり照したので,彼らは非常に恐れた。

御使は言った,『恐れるな。見よ,すべての民に与えられる大きな喜びを,あなたがたに伝える。

きょうダビデの町に,あなたがたのために救い主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。

あなたがたは,幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが,あなたがたに与えられるしるしである。』

するとたちまち,おびただしい天の軍勢が現れ,御使と一緒になって神をさんびして言った,


『いと高きところでは,神に栄光があるように,地の上では,み心にかなう人々に平安があるように。』」(ルカ2:1,3‐14)

天使は自分が現れたときに羊飼いたちが恐れを感じたことを見て取りました。「恐れるな」と言いました。不意に現れたこの天の使者が放つ神の驚くべき栄光を見て,彼らは確かに心の底から恐れました。しかし,天使が告げた言葉は恐ろしいものなどではありませんでした。奇跡的な出来事が起こったことを教えるために,最高の知らせを携えて来ました。人類を贖う業が文字どおり始まったことを告げに来たのです。これほど喜ばしい知らせをもたらした使者は,後にも先にもありません。神の独り子が,この世での生活を始めようとしておられるというのです。「きょうダビデの町に,あなたがたのために救い主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」確かにこれは大きな喜びです。

天使が約束したこの大きな喜びを手に入れることなど,とうていできないと感じることは,誰にでもあります。誰にも欠点はありますし,人生で病気や失敗,問題,失望,そして最後には死という試練に遭います。多くの人が物理的に安全に暮らせる祝福にあずかっている一方で,現在そうではない人もいます。人生でぶつかる問題と格闘し,人生がもたらす痛手を心身に負っている人もたくさんいます。

人生に苦難が付きまとうにもかかわらず,主が今日わたしたちにお与えになるメッセージは,2,000年前に群れの番をしていた羊飼いにお与えになったと同じ,「恐れるな」という言葉です。おそらく,「恐れるな」という天使の言葉は,あの初めてのクリスマスの夜に恐れた羊飼いの心を静めることにとどまらず,今のわたしたちにとって深い意味のある言葉かもしれません。この天使は,救い主がお生まれになったのだから,恐れが勝利することは決してないことを理解させ,究極の恐れを抱く理由などないことを納得させようとしたのでしょうか。この世の問題は永遠に続くことがなく,贖われない人などいないことを思い起こさせるために,こう言ったのでしょうか。

クリスマスに与えられる最高の贈り物は,いつの時代でも,救い主御自身がお与えになった贈り物,すなわち完全な平安です。このように言われました。


「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは,世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな。」(ヨハネ14:27)

平安とは程遠いような世の中にあっても,救い主の平安の贈り物は,置かれている環境に関係なく人の心にも存在し続けることができます。わたしに従ってきなさいという救い主の呼びかけに応えるならば,いつまでも続く恐れは永遠に消え去り,未来は守られます。これが,「すべての民に与えられる大きな喜び」なのです。預言者イザヤはこう言いました。

恐れてはならない,わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない,わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし,あなたを助け,わが勝利の右の手をもって,あなたを支える。」(イザヤ41:10)


2,000年前にベツレヘムで救い主がお生まれになったからこそ,希望があり,贖い,苦痛からの解放,勝利と成功など,すばらしいものがたくさんあります。「悪は倒れ,善は勝利を得る」(「なつかしい鐘は鳴る」『賛美歌』128番〔訳注:日本語の歌詞では省略されている部分である〕)

天使の軍勢が突然現れて,「いと高きところでは,神に栄光があるように,地の上では,み心にかなう人々に平安があるように」と歌って救い主の誕生を高らかに宣言したのも,当然のことと言えます。これほど人に平安を与えるメッセージは他にないのです。これほど人々への善意に満ちたメッセージはありませんでした。

この時季がわたしたち皆にとって,平安と喜びの時季となりますように。「〔その〕日ダビデの町に,〔わたしたちのために〕救い主がお生れになった。この方こそ主なるキリストである。」イエス・キリストの御名により,アーメン。

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このお話は、2015年末日聖徒イエス・キリスト教会大管長会クリスマスデボーショナルから、ご紹介しました。

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恐れるな

Fear not

不要懼怕

今日も、恐れずに周りの人々に親切にできますように。
良い1日をお祈りします。