去年の冬,わたしの娘は大変な吹雪の中,車を運転していて恐怖を感じたそうです。その話を聞いていて,昔わたしも二人の息子を連れて同じような経験をしたことを思い出しました。末の息子のジョーが3歳,もう一人のラリーが6歳のときのことです。6月にサンフランシスコからユタに向かって車を走らせていました。天気は実に快適でした。
息子は母親に話しかけ「大変だった」ことを伝えているうちに,気持ちが楽になり,ほっとしているようでした。天の御父のみもとに行こうとするわたしたちにとって,祈りはこれと同じです。わたしたちは,助けが必要なときに御父が心にかけてくださることを知っています。
だれもが人生で試練や苦難に直面する
今話した出来事は,大変な旅ではありましたが,つかの間で,長く尾を引くこともありませんでした。しかしながら,この世の生涯で遭遇する試練や困難の多くは,もっと厳しく,ずっと尾を引くように思えます。わたしたちは皆こうしたことを人生の浮き沈みの中で経験します。この大会を視聴している人の中にも,今この時に,きわめて深刻な事態に直面している人が大勢いることでしょう。
わたしたちは預言者ジョセフの嘆願に共鳴します。ジョセフが偽りの告発により,数か月にわたってリバティーの監獄に捕らわれていたときのことです。「おお,神よ,あなたはどこにおられるのですか。あなたの隠れ場を覆う大幕はどこにあるのですか。」
主の答えは心を慰めるものでした。
「息子よ,あなたの心に平安があるように。あなたの逆境とあなたの苦難は,つかの間にすぎない。
その後,あなたがそれをよく堪え忍ぶならば,神はあなたを高い所に上げるであろう。」
回復によって明らかにされた基本的な教義の一つは,義がもたらされるためにはすべての事物に反対のものがなければならないという教えです。この世の生涯はいつも容易に進むわけではなく,また,そのように意図されているわけでもありません。むしろ試練と証明の時期なのです。アブラハム書にはこうあります。「そして,わたしたちはこれによって彼らを試し,何であろうと,主なる彼らの神が命じられるすべてのことを彼らがなすかどうかを見よう。」ハロルド・B・リー長老は次のように教えています。「時には,わたしたちにとって最善のものや永遠の報いをもたらすものが,その時点では最も困難なものと思えることがあります。また,禁じられていることが,しばしば最も望ましいものに思えることもあります。」
小説『二都物語』の冒頭は,よく知られている次のような言葉で始まります。「それはおよそ善き時代でもあれば,およそ悪あしき時代でもあった。」聖文は,どの世代であってもそれぞれに最良の時代と最悪の時代を経験することを明らかにしています。わたしたちは皆,善悪の戦い光と闇やみ,希望と絶望という対照的な存在に無縁でいるわけにはいかないのです。ニール・A・マックスウェル長老は次のように説明しています。「わたしたちは瞬時に取って代わる苦楽の経験を,この短い死すべき世の最後の最後まで味わう必要があります。」わたしたちは,教義から,善が悪に打ち勝つこと,悔い改め清められた者に永遠の命が与えられることを知っています。
ディケンズがこの小説を書いているころとほぼ時を同じくして,西部の山間に入植した初期の聖徒たちの英雄的な努力が始まっていました。
たとえ共通した信仰を持っていたとしても,聖徒たちは数多くの困難に直面し,それぞれにまったく異なった期待を抱いて,ノーブーを去る日を迎えました。前途を楽観する者もいれば,心配する者もいました。ヘレン・マー・ホイットニーとバスシバ・スミスという二人の人物はその良い例です。二人は自分たちの思いを実に力強く記録に残しました。
ホイットニー姉妹はノーブーを去るときに抱いた期待を次のように記録しています。「……小さなリボンや付け襟,レースなどをすべて荷物の中に入れた。これから行く所では買えないだろうから。わたしたちはこの俗世を離れてロッキー山脈を越え,だれも行きたいと思わないような所へ行く。……そこには富む人も貧しい人もいないだろう,いるのは正直な人と徳高い人だけだ。……」ホイットニー姉妹の記録は,理想的とも言える楽観主義に貫かれています。
バスシバ・スミス姉妹の記録もやはり信仰に満ちてはいますが,幾らか不安があったことも読み取れます。彼女は,ミズーリ州で暴徒が聖徒に敵対して群れを成した様子を見ていますし,使徒であったデビッド・W・パッテンの死にも居合わせています。
ノーブーから避難したときのことを振り返って,彼女はこう記しています。「その大切な場所で最後にしたことは,部屋をきれいにし,床を掃き,ほうきをドアの後ろのいつもの場所に片付けることだった。そして万感の思いを込めて,ドアを閉め,まだ見ぬ未来に向かって進み出した。神を信じる信仰を抱きつつ,ミズーリ州でつらい場面に感じた思いよりはむしろ,西部にあって最後には福音とその真実不変の原則が確立されるという確信をもって,進み出したのだ。」
二人とも末日聖徒の開拓者の女性として,生涯を通じて福音の教えを忠実に実践し,シオンを築くためにすばらしい奉仕の働きをしました。二人は数多くの試練や困難になお遭遇したものの,忠実に堪え忍んだのです。ホイットニー姉妹は楽観的だったにもかかわらず,最初の3人の子供を出産時や出産間近に亡くしました。そのうちの2人が亡くなったのはノーブーからソルトレークへの旅の途中でのことでした。ホイットニー姉妹は,信仰を守った記録によってわたしたちに祝福をもたらし,やがて使徒オーソン・F・ホイットニーの母親となったのです。
スミス姉妹の記録には,聖徒たちが西に向かって進んだときに経験した貧困や病気,困窮の様子が書かれています。1847年3月には母親が亡くなり,その翌月には2番目の息子のジョンが生まれました。その場面を彼女は短く記録しています。「わたしのこの最後の子は,たった4時間しか生きられなかった。」その後,彼女はソルトレーク神殿のメイトロンとなり,やがて中央扶助協会の第4代会長となっています。
わたしたちは初期の聖徒たちが経験した艱かん難なん辛苦に強く胸を打たれます。ブリガム・ヤングは,1856年2月に,こうした苦難についていささかユーモアを交えて次のように述べています。「試練の時について少し話したいと思います。皆さんも御存じのように,わたしはこれまで,飢え死にを恐れる人がいるなら,その人を去らせ,豊かな土地へ行かせなさいと言ってきました。わたしは最後のラバの耳の先からしっぽの先まで食べ尽くしてしまうまでは,飢え死にの危険があることを心配したりはしません。飢え死にすることを恐れてはいません。」
さらに次のように続けています。「今は仕事に就けない人が数多くいます。しかし間もなく春が来て,不要な苦しみを受けることはなくなります。」
今の時代にわたしたちが直面する問題は,ある意味では過去の問題とよく似ています。最近の経済危機は,世界中で著しい不安を引き起こす原因となっています。雇用や財政の問題はどこででも見受けられます。肉体面や精神面で難題を抱えている人も大勢います。結婚問題や道をそれた子供に悩む人もいます。愛する人を亡くしたばかりの人もいるでしょう。依存症や,不適切で有害な性癖のために心痛を招いている人もいます。そうした試練は,原因が何であれ,本人にも,その人を愛する人たちにも,深い苦悩を引き起こすのです。
わたしたちは,聖文を通して試練の中には益となりわたしたち自身の個人的な成長に必要なものもあることを承知しています。また雨が正しい者のうえにも正しくない者のうえにも等しく降ることを知っています。目にする雲がいつも雨の前兆とは限らないことも確かです。わたしたちの耐える問題や試練,困難がどのようなものであれ,イエス・キリストが成し遂げられた贖しょく罪ざいという,慰めをもたらす教義とは,アルマも教えているように,わたしたちの弱さを救い主が身に受けてくださることであり,「御自分の民を彼らの弱さに応じて……救〔ってくださる〕」
聖典や近代の預言者は,収穫の少ない年もあれば豊かな年もあると断言しています。主もわたしたちに,やがて訪れる問題の多くに備えるようにと望んでおられます。主は「備えていれば恐れることはない」と宣言されました。何年も前,シエラネバダ山脈を横断するときに,あの大吹雪の中で心に傷となって残るような経験をした原因の一つは,あのような突然の出来事にわたしが備えていなかったからでした。聖文から得られる偉大な祝福の一つは,予期しないときにしばしば起こる問題について警告してくれていることです。そういう状況に備えができていることはすばらしいことです。そのような備えの一つが,戒めを守ることです。
モルモン書には数多くの場面で,民は「もし彼らが戒めを守れば」その地で栄えると約束されています。この約束には大抵,もし神の戒めを守らなければ御み前まえから絶たれるであろうという警告が伴います。御み霊たまの祝福,すなわち聖霊の働きかけを受けるということは,その地で真に栄え,備えをするためには,明らかに不可欠な要素なのです。
試練がどのようなものであるかを問わず,現在豊かに頂いているわたしたちが,頂いている祝福をきちんと認識しないとしたら,感謝の心が足りないと言われても仕方ありません。開拓者の受けた艱難がどれほどつらいものであったかを十分知ったうえで,ブリガム・ヤング大管長は,感謝することについて,その重要性を次のように語っています。「わたしは,赦ゆるされない罪を別にすれば,忘恩の罪以上に重い罪を知りません。」
救い主と贖罪への感謝の念
わたしたちはこの上ない感謝の念をイエス・キリストとその贖罪に向ける必要があります。この大会を視聴している皆さんの中にも,現在,大変な試練や困難に立ち向かっていて,天の御父に祈るとき,心の中では「今,大変なのです」と言いたい気持ちの人が大勢いることも承知しています。
皆さんに,ある姉妹の実話を紹介したいと思います。ユタ州グランツビルに住むエレン・イェーツというこの姉妹は,10年前の10月初旬,ソルトレークの職場に向かう夫のレオンにお出かけのキスをして見送りました。しかしこれが,生きたレオンを見た最後となりました。その日,初出勤に遅れてしまいゆっくり走る車を追い越そうとした20歳の青年の車と衝突して,二人とも即死してしまったのです。イェーツ姉妹は,二人の高速機動隊員がこの訃ふ報ほうを伝えに来たときは,ショックと悲しみに打ちのめされたそうです。
彼女はこう記録しています。「将来のことを考えようとしたとき,見えたのは,ただ暗闇と苦痛だけでした。」ところが,亡くなった夫の親友が,偶然にもその青年のワードのビショップだったのです。ビショップは彼女に電話をして,青年の母親,ジョアン・ウィルモアが話をしたがっていると伝えました。彼女はそのときのことをこう回想しています。「自分自身の悲しみと苦痛ばかりに心が向いていて,その青年や青年の家族のことまで考える余裕などありませんでした。そんな自分に気づいて動揺しました。すると突然,ここにも自分と同じように,あるいは自分以上に悲しみに暮れている母親がいることを悟ったのです。わたしはぜひおいでいただきたいと伝えました。」
ウィルモア夫妻は彼女の家に着くと,自分たちの息子の過失によりレオンの命を奪ってしまったことに対する心からの悲しみとお詫びの言葉を述べました。そして,救い主が小さな女の子を抱き上げておられる絵を差し出しました。イェーツ姉妹はこう言っています。「つらくて耐えられなくなると,この絵を見て,キリストがわたしのことを個人的に知っていてくださることを思い出しています。キリストはわたしの寂しさや試練を知っておられるのです。」イェーツ姉妹を慰めた聖句です。「元気を出しなさい。恐れてはならない。主なるわたしはあなたがたとともにおり,あなたがたの傍らに立つからである。」
毎年10月が来ると,イェーツ姉妹とウィルモア姉妹は一緒に神殿に参入し,イエス・キリストの贖罪が備えられていることに感謝をささげます。(二人は今日きょうここカンファレンスセンターに一緒に来ています。)救いの計画に,また永遠の家族がいることに,そして,夫婦と家族が幕のいずれの側でも一つに結ばれるという聖約に対して感謝をささげるのです。イェーツ姉妹はこう結んでいます。「この試練を通じて,わたしは天の御父と救い主の愛をこれまで感じたことがないほど豊かに感じるようになりました。」そして,こう証あかししています。
「キリストの贖罪やキリストの愛で癒いやすことができないほど大きな悲しみや苦痛,病は存在しません。」
この二人の姉妹が示してきた愛と赦しは,実にすばらしい模範です。イエス・キリストの贖罪を二人の生活に効力のあるものとしているのです。
ゲツセマネの園の救い主を思い出してください。贖罪の過程で,苦痛があまりにも大きかったため,あらゆる毛穴から血を流されたとあります。救い主は御父に呼びかけたとき,「アバ」という言葉を使われました。これは苦しみにあえぐ一人の息子が父親に向かって発した叫びだったと解釈できます。「わが父よ,もしできることでしたらどうか,この杯さかずきをわたしから過ぎ去らせてください。しかし,わたしの思いのままにではなく,みこころのままになさってください。」
イエス・キリストの贖罪は,わたしたち一人一人がこの世の生涯で出合うあらゆる試練や困難にも及ぶことを証します。時にわたしたちは「あのね,大変だったんだよ」と言いたいときがあります。そんなときこそ,主がそこにおられることを実感し,その愛の御み腕うでに抱かれて平安を得られるときなのです。
愛する預言者トーマス・S・モンソン大管長は,この8月の誕生日に,世界中の教会員が贈れる理想のプレゼントは何ですかと質問されて,迷わずこう答えました。
「つらい時を過ごしている人を探し出し,……その人のために何かしてあげてください。」
わたしは皆さんとともに,人類を救ってくださる御方であるイエス・キリストに永遠に感謝をささげます。主が世の救い主,贖あがない主であられることを証します。イエス・キリストの御み名なにより,アーメン。