もはや,死もなく
ポール・V・ジョンソン長老 七十人
昨年の復活祭の時期,アリサが亡くなる1か月ほど前に,彼女はこう綴っています。
愛する人々の死を悼んだことのある全ての人にとって,復活は大きな希望の源です。
先週は復活祭でしたので,わたしたちは再び主イエス・キリストの贖いの犠牲と復活に心を向けたことでしょう。
この1年間,わたしは普段よりも復活について考え,思い巡らせてきました。
約1年前,娘のアリサが亡くなりました。
8年近くの間がんと闘った彼女は,数々の手術とさまざまな治療を受け,喜びの奇跡と深い落胆を幾度も繰り返しました。
現世の生涯の終わりが近づくにつれ,わたしたちはアリサの体調がどんどん悪化していく様子を目にしました。
愛くるしい目の小さな赤ん坊から,才気あふれるすてきな女性,妻,母親へと成長を遂げた大切な娘が衰弱していく姿を見て,胸が締めつけられる思いがしました。
わたしの心は張り裂けそうでした。
昨年の復活祭の時期,アリサが亡くなる1か月ほど前に,彼女はこう綴っています。
「復活祭はわたしのあらゆる希望の象徴です。
いつか自分が癒やされ,完全になり,いつか体内から金属やプラスチック部品がなくなり,いつかあらゆる恐れが消え,不安から解放されることを思い起こさせてくれるのです。
それが今すぐ実現するように願っているわけではありませんが,美しい来世の生活があることを信じていて本当に良かったと思います。」
イエス・キリストの復活は,まさにアリサが望んでいたことを確かなものとし,「〔わたしたち〕のうちにある望み〔のための〕説明」を一人一人の心に植え付けてくれます。
ゴードン・B・ヒンクレー大管長は,復活は「人類の歴史の中で最も大いなる出来事」だと語りました。
復活はイエス・キリストの贖罪によって実現し,偉大な救いの計画においてきわめて重要な出来事です。
わたしたちは天の両親の霊の子供です。
この地上に来たとき,わたしたちの霊は肉体と一つになりました。
わたしたちはこの世の生涯に関わるあらゆる喜びや困難を経験します。
人が死ぬと,霊は肉体から離れます。
復活によって,人の霊と肉体は再び一つになることができ,しかも今度は不死不滅の完全な肉体で,痛みや病気を味わったり,その他の問題にさらされることはないのです。
復活した後,霊が再び肉体を離れることはありません。
救い主の復活が完全に死に打ち勝ったからです。
わたしたちが永遠の目的を達成するには,この不死不滅の命―霊と肉体の両方が永遠に一つとなること―が必要なのです。
霊と不死不滅の体が分離しないように完全に結合すると,「満ちみちる喜びを受ける」ことができます。
実際のところ,復活がなければ,わたしたちは満ちみちる喜びを受けることはなく,永遠に惨めな状態となります。
忠実で義にかなった人々でさえ,肉体と霊が分離した状態を囚われの状態と考えています。
わたしたちは復活を通してこの囚われの状態から解き放たれます。
つまり,死の縄目または鎖から贖われるのです。
霊と肉体の両方がなければ,わたしたちは救われません。
わたしたちは誰しも肉体的,精神的,情緒的な限界や弱さを抱えています。
このような試練―今はとても手に負えないように思える幾つかの問題も,いつかは解決します。
復活した後は,このような問題に悩まされることはありません。
アリサは自分と同じがんの患者の生存率を調べましたが,がっかりするような数字でした。
彼女はこうつづっています。
「でも,治すすべはあるので怖くはありません。
イエスは既にわたしや皆さんのがんを治してくださいました。……
必ず治るのです。
それを知っていてよかったです。」
「がん」という言葉の代わりに,わたしたちが直面するその他の肉体的,精神的,情緒的な病名を入れることができます。
復活のおかげで,そのような病気も既に治っているのです。
復活の奇跡,つまり完全な治癒は現代医学の力では及びませんが,神の力に及ばないことではありません。
救い主が復活され,わたしたち一人一人にも復活をもたらしてくださるので,完全に癒やされることが可能であるとわたしたちは知っているのです。
救い主の復活は,主が神の御子であり,その教えが真実であることを証明しています。
主は「かねて言われたとおりに,よみがえられた」のです。
主が不死不滅の体をまとって墓からおいでになったこと以上に,主の神性を示す証拠はありません。
わたしたちは,新約時代に主の復活を目撃した人々の証言を知っています。
福音書に書かれている男女に加え,新約聖書には,復活された主を数百人が実際に目にしたと書かれています。
モルモン書にも,さらに数百人が主を見たと記録されています。
「そこで群衆は進み出て,主のわきに手を差し入れ……た。
彼らは……自分の目で見,自分の手で触れ,この御方が,将来来られると預言者たちによって書き記された主であられることを,確かに知って証した。」
これら古代の証人に加えて,この末日にも証人となった人々がいます。
実に,この神権時代の幕開けにおいて,ジョセフ・スミスは御父とともに現れた復活された救い主にまみえました。
生ける預言者や使徒は,キリストが復活され,生きておられることが現実のものであると証してきました。
ですから,「わたしたちは,このような多くの証人に雲のように囲まれている」と言うことができます。
また,わたしたち一人一人も,復活祭で祝う出来事が本当に起こったこと,つまり実際に主が復活されたことを聖霊の力によって知ることができ,この雲のように取り囲む証人の一人となることができるのです。
救い主の復活という事実によって,わたしたちの悲嘆に暮れた心には希望が押し寄せます。
なぜなら,主の復活によって,福音の他の全ての約束,すなわち復活と同じくらい奇跡的な約束ですら全て実現するという確信が得られるからです。
わたしたちは,主がわたしたちの全ての罪を清める力を持っておられることを知っています。
主はわたしたちが経験する,あらゆる苦痛と苦難と不平等を御自身に受けられたことを知っています。
わたしたちは,主が「御自分の翼にある癒しによって死者の中からよみがえられ〔た〕」ことを知っています。
わたしたちの中で何が壊れようと,主はそれを完全に戻すことがおできになるのです。
わたしたちは,主が「〔わたしたち〕の目から涙を全くぬぐいとって下さ〔り,〕もはや,死もなく,悲しみも,叫びも,痛みもな〔くなる〕」ことを知っています。
信仰を持ち,主に従うなら,わたしたちは「この完全な贖罪を成し遂げられた……イエスを通じて完全な者とされ〔る〕」ことが可能であると知っているのです。
ヘンデルは霊感あふれるオラトリオ〔訳注―宗教的な楽曲〕「メサイア」の終盤,復活への喜びをうたう使徒パウロの言葉に美しい音楽をつけました。
「ここで,あなたがたに奥義を告げよう。
わたしたちすべては,眠り続けるのではない。
終りのラッパの響きと共に,またたく間に,一瞬にして変えられる。
というのは,ラッパが響いて,死人は朽ちない者によみがえらされ,わたしたちは変えられるのである。
なぜなら,この朽ちるものは必ず朽ちないものを着,この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
……〔そして〕聖書に書いてある言葉が成就するのである。
『死は勝利にのまれてしまった。 死よ,おまえの勝利は,どこにあるのか。死よ,おまえのとげは,どこにあるのか。』……
しかし感謝すべきことには,神はわたしたちの主イエス・キリストによって,わたしたちに勝利を賜わったのである。」
わたしは,主イエス・キリストの贖罪と復活によって与えられている祝福に感謝しています。
子供を墓に横たえ,伴侶のひつぎを前に涙し,親や愛する誰かの死を悼んだことのある全ての人にとって,復活は大きな希望の源です。
霊としてではなく,復活した肉体を持って愛する人々と再会することは,何と力強い経験になることでしょう。
わたしは母と再会し,母の優しい手の感触を感じ,愛情深いまなざしを見たくてたまりません。
父のほほえみを見,笑い声を聞き,父の復活した完全な姿を目にしたいです。
また,わたしは信仰の目を通して,アリサがこの世の煩いや死のとげの及ばない状態―すなわち復活し,完全にされ,栄光にあふれ,喜びに満ちているアリサの姿を思い描くことができます。
数年前の復活祭に,アリサは次の簡潔な言葉を記しました。
「主の名によって受ける命。
本当に大きな希望。
いつでも。
全てのことを通して。
それを思い起こさせてくれる復活祭が大好き。」
わたしは,復活が現実のものであることを証します。
イエス・キリストは生きておられ,主のおかげで,わたしたちは皆再び生きることができるのです。
イエス・キリストの御名により,アーメン。
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このお話しは、末日聖徒イエス・キリスト教会2016年4月の総大会からご紹介しました。
備えていれば
恐れることはない
大管長
ゴードン・B・ヒンクレー
主の守りと導きを願い求められるように生活する必要があります。……主の戒めを進んで守らずに主の助けを得ることはできません。
愛する神権者の兄弟たち,皆さんは広大な世界の各地でこの集会に参加しています。
あらゆる人種,部族を代表する成人と青少年であり,神の家族の一員である皆さんは何とすばらしいグループに成長してきたことでしょうか。
神がわたしたちに下さる賜物たまものには何と大きな価値があることで
しょうか。
神はその聖なる権能,永遠の神権,人の不死不滅と永遠の命をもたら
す力の一部をわたしたちにお与えになっています。
しかし,多く与えられる者は多く求められることをわたしたちは知って
います(ルカ12:48;教義と聖約82:3参照)。
だれも完全な人物ではないことを,わたしは承知しています。完全な道を知っていますが,必ずしもその知識に基づいて行動しているわけではありません。
けれども,大体においてそのように努力していると思います。
御父が望んでおられるような人物になるよう努力しています。
これは非常に高い目標です。
この目標を目指して努力している皆さんに賛辞を贈ります。
あらゆる面において模範となる生
活を目指している皆さんに主の祝福がありますように。
さて,皆さんもよくご承知のように,合衆国のメキシコ湾岸諸州は最近,荒れ狂う風と水によって壊滅的な被害を受けました。
多くの人が全財産を失いました。
被害額は膨大な額に達しています。
被災者は文字どおり数百万人に上り,多くの人の心は恐れと不安でいっぱいになっています。
人命も奪われました。
こうした事態を受けて,多くの助けの手が差し伸べられています。
思いやりが示され,被災者に家庭が解放されました。
キリスト教精神の崩壊を好んで口にする批判家たちは,こうした状況で諸教会が実施していることに目を向けるとよいでしょう。
たくさんの宗派が驚くべきことを
成し遂げています。
その中で少なからず活躍しているのがわたしたちの教会です。
大勢の人が,工具とテント,それに輝く希望を携えて,遠くまで出かけています。
神権者が復興のためにささげた時間は延べにして数十万時間に上っています。
一時に3,000から4,000人の神権者が参加しています。
今晩もその地で復興に取り組んでいる神権者たちがいます。
言葉に表せないほどの感謝でいっぱいです。
皆さんへのわたしたちの感謝と愛と祈りをお伝えします。
二人の地域七十人,フロリダに住む
ジョン・アンダーソン兄弟とテキサスに住むスタンレー・エリス兄弟がこうした実に大変な作業のほとんどを指揮してきました。
けれども二人は,援助を提供してくれた大勢の兄弟たちと青少年のおかげだと真っ先に言うでしょう。
多くが「末日聖徒助けの手」と書かれたベストを着ています。
そして,支援を受けた人たちから愛
と尊敬を得ています。
支援は被害を受けた教会員に対してだけでなく,どの宗派に所属しているのか分からない大勢の人にも向けられています。
彼らはアルマ書に記されたニーファイ人の方法に従ったのです。
「彼らは……着る物のない者や飢えて
いる者,渇いている者,病気の者,栄養の足りない者を追い払うことがなかった。
また,彼らは富に執着することもなかった。
そのため,老いた者にも若い者にも,束縛された者にも自由な者にも,男にも女にも,また教会員であるなしの区別なく,助けの必要な人々については人を偏り見ることなく,すべての人に物を惜しまなかった。」(アルマ1:30)
各地の教会の成人女性と若い女性は,何万もの衛生キットと清掃キットを配るという,非常に困難な仕事を受け持ちました。
教会は生活用品と食糧,水,慰問品
を提供しました。
わたしたちは赤十字などの機関にかなりの金額を寄付しました。
断食献金や人道的援助基金から数百万ドル(数億円)を寄付しました。
支援を受けた人々と教会に代わって皆さん一人一人にお礼を申します。
わたしはこの出来事が主から下された罰だとは言いません。
繰り返し強調しますが,そのようなことは言っていませんし,推測してもいません。
忠実な聖徒を含め,たくさんの善良な人々が被災者の中にいます。
ためらうことなくわたしがこのようんに言うのは,世界は昔から,繰り返し災害や惨事にさらされてきたからです。
聖文を読み信じているわたしたちは,これまでに起きてきた災い,そして今後起きる惨事について,預言者たちが警告を発してきたことを知っています。
大洪水が発生し,全地が水で覆われたことがありました。
ペテロによればそのとき「水を経て救われたのは,わずかに八名だけ」でした(1ペテロ3:20)。
恐ろしい出来事が人類を襲うことについて疑問を抱いている人がいれば,マタイによる福音書第24章を読んでください。
ここで主はこう言っておられます。
「戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。……
民は民に,国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに,ききん〔と疫病〕が起おこり,また地震があるであろう。
しかし,すべてこれらは産みの苦しみの初めである……
その日には,身重の女と乳飲み子をもつ女とは,不幸である。……
その時には,世の初めから現在に至るまで,かつてなく今後もないような大きな患難かんなんが起るからである。
もしその期間が縮められないなら,救われる者はひとりもないであう。
しかし,選民のためには,その期間が縮められるであろう。」(マタイ24:6-8,19,21-22)
モルモン書には,エルサレムで救い主が亡くなられたときに西半球で想像を絶するばかりの破壊が起きたと記されています。
それを引用します。
「さて,第三十四年一月四日に,全地でこれまでにまったく知られていないような大きな嵐あらしが起こった。
また,激しくすさまじい暴風雨もあった。
また,すさまじい雷があり,まさに引き裂くほどに全地を揺り動かした。
さらに,全地でこれまでにまったく知られていないような非常に強烈な稲妻があった。
そして,ゼラヘムラの町に火がついた。
モロナイの町は海の深みに沈んで,そこに住む者はおぼれた。
また,地がモロナイハの町の上に持ち上がり,その町のあった所に大きな山ができた。……
暴風雨と旋風と雷と稲妻と全地の非常に激しい震動のために,地の全面が変わってしまった。
街道は破壊され,平坦へいたんな道は損なわれ,多くの平らな場所が起伏の激しい所となり,多くの大きな名の知れた町が沈み,多くの町が焼け,また多くの町が揺れ動いて建物が地に倒れ,そこに住む者が死に,
方々の地が荒れ果てるに任された。」(3ニーファイ8:5-10,12-14)
何と途方もなく大きな惨事だったことでしょう。
14世紀にはペストという伝染病で数百万人が命を落としました。
そのほか天然痘など世界的に流行した病気が,おびただしい苦しみと死を何世紀もの間にわたって招いてきました。
紀元79年に,偉大な都市ポンペイはベズビオ山の噴火によって滅びました。
シカゴは大火によって破壊されました。
ハワイは高波で水浸しになりました。
1906年のサンフランシスコ地震では市が崩壊し,約3,000人の命が奪われました。
1900年にハリケーンの直撃を受けたテキサス州ガルベストンでは8,000人が犠牲となりました。
最近では,御存じのように東南アジアの大きな津波によって何千人もの命が奪われ,今なお救援を必要としています。
長老たちの証あかしの後に降りかかる災いについて述べた教義と聖約第88章の啓示には重大な意味があります。
主はこう語っておられます。
「あなたがたの証の後に,地の中でうなりを起こす地震の証が来る。
そして,人々は立っていることができず,地上に倒れる。
また,雷の声と,稲妻の声と,暴風雨の声と,その境を越えて打ち上げる海の波の声の証も来る。
また,すべての物事が混乱する。
そして,必ず人々は気落ちする。
恐れがすべての人に及ぶからである。」(教義と聖約88:89-91)
津波や最近のハリケーンを説明する言葉として,この啓示で使われている「その境を越えて打ち上げる海の波の声」という表現には興味深いものがあります。
過去と現在の紛争で行われた,人の人に対する残虐行為は,言い尽くせない苦痛をもたらしてきました。
スーダンのダルフール地方では,何万人もの人々が殺され,百万人が家をなくしました。
これまで経験してきたことはすべて予告されていました。
これで終わりではありません。
過去に災害が起きたのと同じように,これからももっと起きるでしょう。
ではどうしたらよいのでしょうか。
ノアが箱船を作っていたとき,雨は
降っていなかったという説があります。
けれどもノアは箱船を作りました。
その後に雨が降ってきました。
主は「備えていれば恐れることはない」と言われました(教義と聖約38:30)。
教義と聖約には最も大切な準備についてこのように記されています。
「それゆえ,主の日が来るまで,あなたがたは聖なる場所に立ち,動かされないようにしなさい。」(教義と聖約87:8)
わたしたちはこう歌います。
地のどよめくとき
恐れを救い
地の裁きの日は
シオンに救いませ
(「導きたまえよ」『賛美歌』41番)
主の守りと導きを願い求められるように生活する必要があります。
これは優先順位の第1に挙げるべき事柄です。
主の戒めを進んで守らずに主の助けを得ることはできません。
この教会にはヤレド人やニーファイ人の例に見られるように,不従順に罰が下されることについては証拠が
山ほどあります。
いずれの場合も,邪悪であったために繁栄から完全な滅亡にまで転落しました。
もちろんわたしたちは,雨は正しい者にも正しくない者にも降ることを知っています(マタイ5:45参照)。
しかし,正しい者は死んでも,救い主の贖罪 しょくざいによって救われるので,滅びることはありません。
パウロはローマの人々にこう記しました。
「わたしたちは,生きるのも主のために生き,死ぬのも主のために死ぬ。」(ローマ14:8)
警告に耳を傾ける必要があります。
ニューオーリンズの危険地帯については様々な警告が発せられていたそうです。
地震学者によればソルトレーク盆地は地震の起きる可能性のある地域だそうです。
テンプルスクウェアのタバナクルに大がかりな改修工事を行っているのはおもにこのためです。
歴史を刻んだこのすばらしい建物を地震に耐えるようにしなければならないのです。
わたしたちは災害時のために穀物の貯蔵所と倉庫を建設して,生活の必需品を蓄えています。
でも最良の貯蔵庫は家族の貯蔵室です。
主は啓示の中で言われました。
「あなたがた自らを組織しなさい。すべての必要なものを用意しなさい。」(教義と聖約109:8)
わたしたちの民は75年間にわたって,災いが降りかかるときのために,生き延びられるだけの準備をするよう勧告され,奨励されてきました。
ある程度の量の水,基本的な食品,医薬品,体温を保つための衣類を取り分けておくことができます。
必要なときのために多少のお金も取っておく必要があります。
わたしがこう言ったからといって,デパートやスーパーに走る必要はありません。
これまで長い間にわたって語られて
きたことを話しているだけです。
肥えた雌牛とやせ細った雌牛,実った良い穂とやせた穂についてパロが見た夢を忘れてはなりません。
ヨセフはそれを解き明かして,大豊作の年と飢饉ききんの年が来ることを意味していると説明しました(創世41:1-36参照)。
兄弟の皆さん,主の光,福音,戒めに従って歩むならば,主はわたしたちを祝福し,見守り,助けてくださるという信仰をわたしは持っています。
天の御父はわたしたちの父であり,神であられ,わたしたちは御父の子供なのですから,あらゆる点で御父の愛と関心を受ける資格があります。
そのような生活を送れるよう,イ
エス・キリストの御名によってへりくだり祈ります。アーメン。
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リアホナ/ 2 0 0 5 年 1 1 月 号 から、ご紹介しました。
憂いは喜びに変わるであろう
S・マーク・パーマー長老 七十人
悲しんでいる人,死んだらどうなるのだろうと思っている人など,すべての人に向け,主を信じるように勧めます。
数年前,ソルトレークシティーで集会に参加しているときに,愛する預言者ラッセル・M・ネルソン大管長から挨拶を受けました。
大管長はいつものように温かく,そして親しみを込めて尋ねました。
「マーク,お母さんはどうしていますか。」
わたしは,その週の始めにニュージーランドの実家で母と一緒に過ごしたことを伝え,母は老いてはいるけれども信仰にあふれ,彼女を知るすべての人に良い影響を与えていると言いました。
すると大管長は言いました。
「わたしの愛を伝えてください。……それから,また会えるのを楽しみにしていることも。」
わたしは少し驚いて,「近くニュージーランドに行かれる予定ですか」と尋ねました。
すると大管長は,思慮深い真摯な様子で答えました。
「いえ,そうではなく,来世でお会いするつもりです。」
その返事には,冗談を言っている様子は微塵も感じられず,ごく自然に,淡々と事実を述べていたに過ぎませんでした。
その個人的で無防備な一瞬,わたしは生ける預言者から,死後も人生は続くという純粋な証を聞き,それを感じることができたのでした。
この総大会の週末に,皆さんは,生ける使徒そして預言者がイエス・キリストが復活されたと証するのを耳にするでしょう。
「わたしたちの宗教の基本原則は,使徒と預言者たちがイエス・キリストに立てた証です。 すなわち主が亡くなり,葬られ,3日目に再びよみがえ……られたことです。わたしたちの宗教にかかわるほかのすべての事柄は,〔その真理〕に付随するものにすぎません。」
誠心誠意耳を傾けるならば,御霊が,それらの証が真実であると皆さんの思いと心に告げてくださることを約束します。
イエスが死後,古代の使徒たちに御姿を現されたとき,彼らは永遠に変わりました。
彼らのうち10人は,主が復活されたことを自分の目で確認しました。
その場に居合せなかったトマスは,最初「見……なければ,決して信じない」と言い張りました。
後に主は,トマスを諭して言われました。
「信じない者にならないで,信じる者になりなさい。」
それから,「見ないで信ずる者は,さいわいである」と,信仰の果たす極めて重要な役割について教えられたのです。
復活された主は,主について証する責任を使徒たちに託されました。
今日の生ける使徒と同じように,彼らは世俗的な職を捨てて残りの生涯を,神がこのイエスをよみがえらせたことを大胆に宣言することにささげました。
彼らの力強い証によって,数千人もの人々が招きに応じてバプテスマを受けたのです。
復活祭の朝の輝かしいメッセージは,キリスト教すべての中心を成すものです。
イエス・キリストが死からよみがえられたので,わたしたちも死んだ後に再び生きることができるのです。
この知識は人生に意味と目的をもたらします。
信仰をもって進むならば,わたしたちは古の使徒たちのように,永遠に変わることでしょう。
彼らのように,イエス・キリストを信じる信仰によって,どんな困難にも耐えることができるでしょう。
この信仰は,「憂いが喜びに変わる」時を待ち望む希望も与えてくれます。
わたし自身の信仰は,悲しい出来事に端を発しています。
わたしの父母はニュージーランドで牧羊業を営んでいました。
人生を謳歌していた二人は,若くして3人の娘に恵まれ,一番下の子をアンと名づけました。
ある休日,家族で湖に遊びに出かけたときに,生後17か月のアンがどこかへ行ってしまいました。
数分間必死に捜した末,水の中で息絶えているアンが見つかりました。
この悪夢のような出来事は,言いようのない悲しみをもたらしました。
人生から喜びの一部が永遠に失われてしまったと,何年もたってから父は書き残しています。
この出来事により,両親は人生で最も重要な疑問に対する答えを求めるようになりました。
「可愛いアンはどうなるのだろう。もう一度アンに会えるのだろうか。どうしたら家族が再び幸せになれるのだろうか。」
この悲劇から数年後,末日聖徒イエス・キリスト教会の若い宣教師が二人,牧場にやって来て,モルモン書と聖書に記されている真理を教え始めました。
その真理には,アンが今霊界で暮らしているという確証が含まれています。
イエス・キリストが復活されたおかげで,アンも復活するのです。
宣教師たちは,生ける預言者と十二使徒のいるイエス・キリストの教会が地上に回復されたことを教えました。
そして,イエス・キリストが先任使徒ペテロに授けられたのと同じ神権の権能により家族が永遠に結ばれることができるという,独特で驚くべき教義を教えたのです。
これは真実であると母は瞬時に分かり,御霊の証を受けたのですが,父はそれから一年間,疑念と霊的な後押しの狭間で葛藤しました。
生活習慣を変えることにも抵抗がありました。
眠れぬ夜を過ごしたある朝,父は部屋を行ったり来たりしながら母に向かって言いました。
「今日バプテスマを受けるか,一生受けないかのどちらかだ」と。
母が宣教師に事情を話すと,宣教師はすぐに,父に芽生えたかすかな信仰の炎が今,燃えるか消えるかの瀬戸際にあることに気づきました。
その日の朝,わたしたち家族は近くの海岸に行きました。
ボイド・グリーン長老とゲイリー・シェフィールド長老が両親を海に導いてバプテスマを施している間,わたしたち子供は何が起こっているのかも知らずに砂丘でピクニックをしていました。
父はさらなる信仰を表すために,何があろうと自分が交わそうとしている約束に生涯忠実であり続けると,ひそかに主に約束したのでした。
1年後,ニュージーランドのハミルトンで神殿が奉献されました。
その後間もなく,わたしの家族は,アンの代理を務めてくれる人とともに,主の聖い宮の聖壇を囲んでひざまずきました。
わたしたちはそこで,神権の権能によって執り行われた簡素で美しい儀式を通して,永遠の家族として結ばれたのです。
これは大きな平安と喜びをもたらしました。
後年父は,アンの悲劇的な死がなかったら,回復された福音を受け入れるのに十分なほど謙遜になることはできなかっただろうと話してくれました。
しかし主の御霊は,宣教師が教えたことが真実だという希望を与えてくれたのです。
両親の信仰は成長を続け,やがて燃える証がそれぞれの人生のあらゆる決断を静かに,そして謙虚に,導いてくれるようになりました。
わたしは,後世に示してくれた両親の模範にいつまでも感謝の念を抱くでしょう。
彼らが深い悲しみのゆえに示した信仰深い行いによって,人生が永遠に変わった人の数は数えきれません。
悲しんでいる人,疑いと葛藤している人,死んだらどうなるのだろうと思っている人など,すべての人に向け,主を信じるように勧めます。
信じたいと望み,信仰をもって行動して御霊のささやきに従うならば,この世においても来世でも,喜びを見いだすことができると約束します。
わたしは姉のアンに会える日を心から楽しみにしています。
30年以上前にこの世を去った父と喜びの再会を果たすのも楽しみです。
信仰によって生きることには喜びがあると証します。
また,イエス・キリストが生きておられることを見ないで信じ,聖霊の力によって知ることにも喜びを見いだせると証します。
わたしは,心の底から,イエス・キリストと回復された福音に従うことを選びます。
そのことにより,生活のあらゆる面で祝福を受けてきました。
イエスがキリストであり,神の御子,わたしたちの救い主,贖い主であられることを知っています。
イエス・キリストの御名により,アーメン。
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このお話しは、末日聖徒イエス・キリスト教会2021年4月の総会から、ご紹介しました。