戦国時代、あの村上水軍が拠点とした”今治”・「来島海峡」。先日(5/27)、その”今治”・「来島海峡」
近くにある「大角海岸公園」から瀬戸内海を挟んだ広島側の”竹原”まで、”瀬戸内横断クルーズ”を実施した。
村上水軍は三島(来島、能島、因島)村上氏から成り、瀬戸内海のど真ん中を四国(伊予)側から中国(安芸
・備後)側に亘って制海権を発揮し、毛利元就の中国地方制覇に貢献した。村上水軍を束ねた村上武吉は水軍と
しての存在性を強く意識して振る舞い、当時(中・北部)九州の覇者であった大友宗麟の領地(豊後府内・沖浜、
博多津)等にも進出し、商船から”帆別銭(ほべちせん)”を徴収する見返りに瀬戸内の航海の安全を保障して
やっていたという。
今回のクルーズも計画的には水軍の”三島(来島、能島、因島)経由ルート”(案)があったが、地理的な下
調べもできていない状況と一日折返しの時間的な制約下では諦めざるを得なかった。
別案の”大角海岸から竹原”ルートについても、"斎灘(いつきなだ)"を往来する貨物船の類は視界の範囲だけ
で常時10隻を下回ることはなく、この"斎灘"の縦断が大きな壁となっていた。
最悪、”しまなみ海道”を使って近場の島めぐりをして帰ろう・・・と考えながら、[大角海岸公園]で車中泊し、
早朝の"斎灘"を眺めていると、漁船が多いが貨物船類の往来が途切れていることに気付いた。
早速準備をして、7:30"竹原"へ向け出艇。"斎灘"中央部で左方向から3隻の貨物船が1kmに接近してきた
が灘上に浮かぶ赤灯台の脇でやり過ごす。"大三島"のフェリー着岸地近くで漁を終えて港に上がった老夫婦に
"竹原"までのルートを再確認し、「竹原の鉄塔」を目印に・・・と教えられた。
以後、”大三島”を右に曲がり、”大崎上島”を左手に見つつ、”福島”、”大横島”の脇を通過していく・・・
”大横島”の脇からは、漁師さんから教えて貰った「竹原の鉄塔」が薄っすらと見えてきた。
ここまで、ほぼ無風のべた凪・・・快調すぎるが蒸れて暑い。出艇時、冷えていたのでと着込んだウェットスー
ツが邪魔になる。”大三島”の先、”佐組島”に上陸して着替え・・・と休憩。ほんの10分の後、再出艇する
と「竹原の鉄塔」もくっきりと見え始めた。
”竹原”の近くでは、ヨットが小島群の間を走り抜けていき・・・瀬戸内沿岸の素晴らしい景観をみせつける。
「竹原発電所の鉄塔」下まで来たので、時間的には折返し・・・としたいが、喉の渇きと空腹にはかなわない。
12:00発電所脇の整備された砂浜に上陸し、近くのコンビニで軽食と飲み物を調達して12:30には折返
し出発。
”大横島”を過ぎて、向かい風と1m弱の波になったが、日のあるうちに”斎灘”を再縦断することを考えると
馬鹿力も出るもの・・・。往路とおなじく”大三島”と”柏島”の間を抜け”斎灘”に出る。
”斎灘”の掛かりで通過する貨物船群の様子を見て、しばしアイドリング。貨物船群が遥か数km先にしか見え
なくなった(航行する貨物船群が一時途絶えた)とき、灘の縦断にかかる。灘の中央部にかかる頃、数km先に
見えた貨物船群が隊列をなすが如く、カヤックの進行方向先500mを通り過ぎる。左右の往来数で10隻以上
が小型浮遊物を現認して回避行動をとってくれているようだ。お礼の気持ちで一杯でした。
その後、左右から合計5隻程接近され、4隻は当方で回避行動し、1隻だけは強行突破させて戴いた。
5/27(水)17:00前後に”斎灘”を通過された貨物船等群の航海士さんに厚くお礼を申し上げます。
終盤は向かい風と間隔をあけずに寄せる波に悩まされたが、17:30無事、”大角海岸公園”に帰着した。
>前日(5/26午後)の”来島”近辺ショートクルーズの模様
>瀬戸内横断クルーズ
(7:30に)”大角海岸”から出発(写真は前日夕方に撮影のもの)
>”大三島”手前で三隻の貨物船をやり過ごす。
>”大三島”の掛かりの状況
>”大三島”(フェリー乗り場)と”柏島”の間を抜けると”福島”が見えてきた。
>”福島”先で左手側に”大崎上島”を望む。
>右手側には先程通り抜けてきた”大三島”を望む。
>”大三島”と”大崎上島”の間の海峡丁度中央”大横島”越しに薄っすらと”竹原”の鉄塔が見えてきた。
>左手側”大崎上島”が切れて、”佐組島”となる。
>ウェットスーツが蒸れて熱射病になりそう・・・、休憩を兼ねて”佐組島”へ上陸。
>”佐組島”先から見る”竹原火力発電所”の二本鉄塔”。
>発電所近くの景観。
>発電所横の整備された砂浜に上陸(軽食と飲料を仕入れ、これから折返し!)
>帰路は、中途(大横島先から)で東からの向かい風と波高(徐々に1m超え)により、写真を撮っている余裕
はなかった。
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