てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

シネマ・本deてつがくカフェ2023.11.23.『沈黙』

2023年11月14日 11時05分28秒 | 開催予定
11月はシネマ・本deてつがくカフェを開催いたします。

「シネマ・本deてつがくカフェ」とは、

課題作品を「読書」あるいは「鑑賞」して頂き、

その作品について語り合う会となります。

作品の媒体については、映画でも小説でもどちらでも(あるいは両方でも)結構です。

今回語り合う作品は、遠藤周作原作の『沈黙』です。



シネマ・本deてつがくカフェ2023.11.23.
【課題作品】『沈黙』
【日 時】2023年11月23日(木)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】ホットコーヒー無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/89818213911?pwd=EkdL5wCtolHYhgURal3uKyGvZHmtvY.1
        ミーティングID: 898 1821 3911 パスコード: 1xsm69

【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回の「シネマ・本deてつがくカフェ」につきましては、

同日に課題映画鑑賞会を行いませんので、

あらかじめ作品(映画・小説)に触れてきたうえで、ご参加ください。

各自映画を観て感じたこと、小説を読んで考えたことを自由に語り合っていただければ幸いです。



【あらすじ】

島原の乱が収束して間もないころ、

イエズス会の司祭で高名な神学者であるクリストヴァン・フェレイラが、

布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、棄教したという報せがローマにもたらされた。

師フェレイラを捜すために、同僚のガルぺと共に日本に密航した宣教師ロドリゴ。

彼の前に繰り広げられるおぞましいキリシタン迫害。

しかし、神は「沈黙」を続けるままである。



「シネマ・本deてつがくカフェ」は

作品について感じたこと、考えたことを、安心して何でも語り合える場です。

カフェにふらっと立ち寄るかのように、作品を気軽に語れる場があってもいい。

作品のおもしろさを、ワクワクを、 時にはモヤモヤを話したっていい。

そんな想いで開催しておりますので、皆さまのご来場をお待ち申し上げます。

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2023.10.21.「未来に対する責任と希望」

2023年10月24日 14時42分28秒 | 定例てつがくカフェ記録
10月21日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には12名、オンラインでは1名の計13名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・本日のテーマは「未来に対する責任と希望」ということで、まず「未来に対する責任なんてあるんだろうか?」という問いが2月の時に参加者の方から出されて、それについて話し合おうということで今回のテーマを挙げています。特に「未来に対する責任」というのは環境倫理の問題で、資源とか「この地球をどう残していくのか?」とかSDGsですね、サステナブルな持続可能な発展みたいな話にもかかわってくる訳ですけれども。「未来の為に私たちが何か責任を果たさなければならないのか?」という考えが普通に広がってきている訳ですけれども、そもそも「そんな責任なんてあるのか?」みたいなふうに考えてもいいですし、「どんな責任があるんだろうか?」と考えてもいいと思いますし、「責任」のことだけ考えているとちょっと重苦しくなってしまうかなということで、「希望」という言葉も入れました。未来に対して今本当に何の希望も感じないように思うんですけども、今戦争もやっているし、政治も全然良いように行く様な気もしないし、というところで希望もないんですが。でも「未来に対する希望」というものもあれば、出てくるといいかなと思ってテーマを設定させて頂きました。テーマをどう受け止めて頂いても皆様のご自由ですので、どこからでも何かお考えのことがありましたら、どなたからでも挙手をお願いいたします。Zoomの方はマイクでお声掛け頂ければと思います。

・私の場合は、3.11の原発事故がありましたし、それで色々と勉強してきて、そして、汚染水の問題もありますし、本当に「未来に対して責任と希望」と言った場合に大人として、今子供いますし知り合いのお子さん達なんかも結構症状も出てますし、提訴した方達もいますし。やっぱり凄く子供達を守らなかったというのが、一番最初にあったんですね。それは本当に福島の親達が皆そうだったんで。そして、勉強してくる中で子供達の何を見守らなくちゃならないのかっていうと、子供達というのはこういう事故が起きなかった時、未来に対する希望があった訳です。希望があったと必ず言えると思うんですね。だから、そういったものを奪うような事態があって、それで大人として子供達に対する責任と希望。声を上げられない子供達、まだ力も無い子供達のことを考えると本当に子供達に対する責任と希望があるし。子供達の未来に対する責任があるっていうかね、そこのところなんですね。真剣に皆で考えていくということがあれば、そこに始めて希望というのが生まれるのかなと思いました。

・今仰ったことは分かるんですが、今の方は未来だ、子供達に対する責任、あるいは原発事故、汚染水。そういうことに関する定義や責任と希望について、議論しようということなんですが、その責任についてはどういうふうにお考えなのか。要するに責任は「こうあるからこういうふうにしなければならない」という筋書きになると思うんですが、ちょっとお聞きしててどういうふうに具体的に責任をお感じになっていらっしゃるのかなとそこのところをお聞きしたいのですが。

・具体的には、今回の3.11の原発事故については、国も東電も責任を取ってませんし、その上で六人、七人だったかな子供達が甲状腺がんのために、物凄い苦しんでそれで裁判をやっている訳ですね。そして、その現実というのがやっぱりかなり厳しい。体の調子が厳しいですし、子供達の症状が出ていて親と子が一緒になってやっていて。でも、福島県の知事なんかは「そんな提訴するなんて遺憾である」なんて事を言ってますし。ただ、やっぱり自分も子供の事を考えた時に正直症状が出てますし、私の体の調子は良くないですし。だから、そういう運動ですよね、そのことをやっぱり実際にちゃんと責任を取ってもらうような運動ということをやっていかない限りは、希望というのは持てないだろうと思うんですよね。だから、まず今回のこの被爆した子供達の問題以外にも色々と苦しんでいる人がいる訳であって。そういうことをただ見過ごして、なんて言うのか自分に希望があるということは言えるのかなと思うし、その辺のことですかね。だから、とにかく東電とか国に働き掛けていく。そして、皆に実態を知らせていくということは、やらなくてはいけないことではないかなと思います。

・お話を聞いていて、自分としては責任ですね。特に未来に対する責任って考えた時に全然自由にそもそも考えられるから責任がある訳で。個人的には、人間ってあんまり自由意志って自由に考えて決定することってほとんど出来ないと思っていて。じゃあ、責任なんて言うのはほとんど無いんじゃないかなって個人的には思っていたんですけど。ただ、お話を聞いていてやっぱり未来に対する責任ていうものを取っていくことによって、自分自身が気持ち良く生きていくことが出来るのかなと今感じました。

・今お話しをたことを聞いて思ったんですけど、責任の定義は置いておいて、ここに責任が今あるとしたら、今のこの状態よりも良い状態。気分の良い状態だったり、良い環境の状態だったりっていうのを今思う訳ですよね。想像したり、想像出来るということが希望の望む方ですね、今とは違う別の映像を自分の中から自分の意志とか気持ちから望むことが出来て、「そっちの方が良いよね」って自分の中の選択を出来る、その自分が今の状態よりも違う状態を望めるということが未来があるっていうことでもあるし。じゃあ、自分が望んだ所にアプローチをしていく。色んなやり方があると思うんですね。積極的に組織を作って、行動していったり個人的に何か個人の嘆願書を出すとか、SNSで発信するとか。また身近な所で、ご近所さんと話をするとか様々なやり方はあると思うんです。全てのものの基本に全ては変化している、変化しないものは無いっていう。変化していけるっていうこの世界の仕組みがあるので、未来もあるし希望も描く事は出来るのかなって思いました。

・議論の仕方についてこだわっちゃうんですけど、要するに責任について考えようって場合は何か問題が起こって、問題があるから責任についてどうそれを負うかという事になっていくんだと思うんですが。その問題が何かっていう事を出来るだけ明確にしないと議論は先に進まないのではないかなと思う。問題があって、その問題について解決あるいは改善するために、どういう責任を誰がという問題があるんですけど。どういう責任を取ったら、その問題が解決・改善されるのか。そして、どうすれば希望も生まれるのかっていうような話の展開になるのかなっていうふうに思うんですね。ですから、先ほどの原発事故の場合、「子供達が苦しんでいるよ」と、あるいは「被爆した方々がいるよ」と「体調が悪いよ」と。それは「政府の責任だよ」「東電の責任だよ」という事で問題がある。どういう責任を取らせるのかというふうに、具体的な話になっていかないと具体的な問題解決にもならないし、希望も生まれてこないんじゃないかなというふうに、考えてたんですけど。

・今の点に関して、前に「責任とは何か?」だったかな?「責任」について議論した事があって。「責任」という言葉遣いには、幾通りかの使い方があって過去何かしてしまったていう事に対して、その「責任を問う」という言葉の使い方もあるのと。それから、今私子供がいてその子供の未来に対する責任という言葉でも良いのですけれども、その場合の責任というのは何かしてしまった事を何か償うとかとは違いますよね。その子をちゃんと育てていく責任があるとか。多分今回未来に対する責任という言葉をテーマにした時、どちらかと言うと何か起こってしまった事の責任とか、何に対しての責任とか、過去の何かに対する責任という事よりは、これから未来に向けて自分達の子供という具体的に見える人達でも良いのですけれども、もっともっとずっと未来の遠い地球人に対する責任みたいなものがあるんだろうかと言った時には、「責任を取る」という言い方の責任とは違う責任という、その二つの責任があるという事は今日も頭のどこかに入れながら話していった方が議論がぐちゃぐちゃにならなくて良いのかなというふうに思いました。

・未来があるって事は、過去があっての未来だと思います。

・このテーマを見た時に、私はちょうど日大のアメフト部の問題、大麻所持がニュースでやっていて。それで、その後の大学の対応だとか記者会見を見ていると、「学生ファースト」という言葉が出てきたりしているんですけど、それ(学生ファースト)はどこに行ったんだろうなという感じを受けまして。若者とか学生とか、彼らの未来に対する責任を大学はあるのに、それをすっ飛ばして「学生ファーストはどこ行ったよ」という動きを日大がしているので、凄く自分はモヤモヤしているというか。国からの補助金を早稲田大学に次いで2番目に貰っている日大が、問題が起きたことで補助金を貰えなくなるからという理由で副学長に退陣要求とかして、結局身内のごたごたが日大の学生だったり、日大で働いている職員に被害や損害が及んでいるというのが、「どうしたよ?」と言いたくなる。7万人もの学生を預かっている立場の大学の対応に自分は非常にモヤモヤしていて、「日大の未来は暗いのかな?」って日大出身でも何でもないんですけど。今就職活動している日大の学生だったり、アメフト部でも事件にかかわっていない部員へのケアとか彼らのサポートとか、そういう事を考えると中々どうして厳しい未来なのかなと思った次第です。

・半分ちょっと今のに茶々を入れるような形になってしまうけれども、補助金問題でああやって「辞めろ」と言っているのは、もしかすると大学側を贔屓目に見るとすると、補助金みたいに分かりやすいもので確実に人を落とせそうな所で、落とした方がいいからってあの手を使っている可能性はあるなとみていて、あんまり学生の未来を考えていないってあの辺のやり取りだけを見て言っていると危険なのかなって思いました。絡めて考えていうと、日大の人、学生さん達の未来をどうするかって議論、得意アメフト部の人達をどうするかって議論をする時に、「でも、アメフト部の人達自身知っていたんでしょ?」っていうような話ももっと考える必要があるだろうし。そうすると、勿論アメフト部の中に真面目にやっていた人もいるだろうし、全く知らない人もいただろうと思うんですけれども、でも知っていた人もいるだろうし、そうでもない人もいて。なんかそういうのをまとめて、一緒くたにして議論してしまうと何となくぼやけてしまって、原発事故問題もだから同じような事に行きついてしまう気がしていて。なんかぼんやりと、誰に対して何の責任なのかっていう話をしていると、ちょっと話がぼやけるのかなって。僕ちょっと遅れてきたので、見えていない所もあったかもしれないですけども、最初中々話についていけなかったのは誰に対して何の責任の話をしているのかっていうのが、とっても見えにくくてぼんやりした集団に対する話をしているなと思って、見えていたのが感想です。

・今原発の問題と教育の観点の話が出たかと思うんですよね。全ての問題は繋がっているとは思うんですけども。例えば、大学の問題と言えば大学だけではないんですけれども、1990年代からの所謂「新自由主義政策」っていうかね。その中で、教育なんかはもう競争原理の中に置かれているっていう事をまず私達が意識しなかったら、本当の事って分からないじゃないかなっていうふうに思うんですよね。それで、あの国立大学も法人化っていうか、競争しないと生きていけないような大学にされている中で、学生も今まではもっともっと自由があったんだけれども、何というか一つの会社と同じような形で経営されていて本当の学問が出来るような状況に無いっていうふうに私は見てるんですけれども。何と言うか管理されているっていうか、国家に管理されている点が物凄く強くなっている。それは、全て教育の現場において、小学校それから中学高校でそうなんですよね。そういうような状態の中において、とにかく子供達が苦しんているっていう事があって、実際に問題なんかもそういう事とは無縁では無いっていうか。やっぱり、そこに不正なお金の動きというものがあって、全体として教育の内容というのが自ずと変わってきていて。やっぱり、大人の世界が歪められてる中で、そういう事が起こっているという事はあるんじゃないかなって、ちょっと大雑把な話ですけれども、そのように感じています。

・一番初めに話された女性の話は、子供が原発で被爆して甲状腺がんになったという事は、その子が健康で文化的に生きるっていう権利が原発によって奪われたっていう事に対する国なり東電の責任という事で明確になると思うんですけど、それとは対照的に問題が起こった事に対する、誰が問題を起こしてどういう問題が起きたかに対する責任を取るというのと、先ほど世話人が言った子供を育てる責任ていう所でちょっと考えてみて、私相馬市に住んでいて福島市に来る時に玉野が間にあるんですね、山ん所に。あそこをずっと伊豆でしたっけ?あっちで土砂災害をやった所のそこに絡んでいる人がそこに一枚噛んでて、あそこはほぼほぼ禿山になっていてソーラー発電、メガソーラー作っているんですね。地権者はお金をあげていて、お金を凄い金額を借りて回っているので、その人はお金を貰えるからいいですよね、周りに何を言われようが。果たして終わった後儲かった後、撤退して土砂災害、下流域の相馬とかあの辺多分土砂災害起きると思うんですが、起きた時には明確に責任、その人は撤退しているから責任の所在は誰になるかって問題もあるかと思うんですけども。禿山にしてしまったっていうこと事態が、問題が起これば責任は家が土砂崩れした、氾濫したとかね、問題が起こると思うんですけども起こらない状態であんなふうにしてしまった責任とか。問題は起こらないけど、ああいう状態で色んな所に出来てしまって良いのかっていう。なんでしょうね、起こってしまえば責任問えますけど、起こらない状態であれは良いのかなって、私的にはダメじゃないかと。山梨とかはああいうふうな開発が進むのを嫌って、山梨県知事は作らないっていう宣言出したみたいですけど。ちょっと、すみませんまとめってないんですけど、世話人が言った子供に対する責任という方で考えたいなと思うんですけど、やっぱりぼやけてしまうのかな?問題が起これば誰が責任者で、どういう問題が起こったという事が明確化できるんですけれども。すみません、ちょっと中途半端で。

・今のお話を聞いていて感じたのは、まだ起こっていない問題の責任を考える必要があるんじゃないかってお話しだったんですけど、まだ起こってない事に対して良いとか悪いとか価値判断というのを、今の僕達がやっていかないと、勿論行動に移せないので判断をしていく必要があると思うんですが。実際に害を被ったり、恩恵を受けたりっていう未来の人ってのは、勿論孫とか子供とかの世代だったらまだいるかもしれませんから、想像できるんですけれども、それよりずっと先の時代っていうのは実際に価値観も変わってきているかもしれないし、また色んな科学的知見がまた入って来て、「実はこれは悪くはない」みたいな事が起こるかもしれないと考えた時に、何が良くて何が悪いのかって判断をどういうふうにこれからしていけばいいのかって、結構難しい問題っていうか。未来に対して責任を取るっていうのが、なんか簡単にはできないし、先ほどからの女性の話にもあった通り、過去についての責任というのは実際に皆が考えていって責任を追及するっていう可能ではあると思うんですけど、未来というのは過去とは違ってまだ実在していない事なので、それに対して責任を取っていくというのは難しい事なのかなと感じました。

上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2023.10.21.「未来に対する責任と希望」

2023年10月17日 22時53分40秒 | 開催予定
「未来を考えない者に未来はない」 ヘンリー・フォード

てつがくカフェ@ふくしま2023.10.21.
【テーマ】「未来に対する責任と希望」
【日 時】2023年10月21日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】ホットコーヒー無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
https://us05web.zoom.us/j/86389204771?pwd=CmKuVNcGb3BbCD0zKffSakbuaNwSWa.1
        
        ミーティングID: 863 8920 4771
        パスコード: 0x49k5

【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



以前てつがくカフェでやってほしいテーマを募集した際に

「未来に対しての責任には何があるんだろう」というテーマ案を頂きましたが、

「責任」だけでは、ネガティブな思考となってしまいがちなため

ポジティブな要素として「希望」についても語ってみようという事で

今回のテーマとさせて頂きました。



過去てつがくカフェの中で「責任」をテーマを開催したことがありました。

・2020年「責任とは何か?

また、「責任」と似たテーマとして、「反省」や「謝罪」についても話し合ったことがあります。

・2022年「反省と謝罪はできるのか?



「どんな未来を描くのか」や「望む社会の在り方」について語って頂いても結構ですし、

未来のために今できること、あるいは

これからの未来を担う世代に対して

どう責任を持って行動していくのかといった観点で

ご自身の考えを述べて頂いても構いません。

当日集まった参加者の皆様と一緒に

じっくりと「未来に対する責任と希望」について考えていきたいと思います。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2023.9.23.「お金を稼ぐこと」

2023年10月12日 13時27分03秒 | 定例てつがくカフェ記録
9月23日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には7名、オンラインでは2名の計9名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・今日はですね、テーマはお金を稼ぐことと言うテーマを選びました。これも2月に何もテーマ決めずに、皆さんから色々テーマを出してもらって、そのときに「お金を稼ぐことはいいことか?」みたいなテーマが出されたので、それを取り上げます。お金のことをこの哲学カフェで取り上げたのは2012年の時に「お金は大切か?」というテーマで一回やったことがあります。その時は、お金は大切かですから、勿論お金全体の話をしたんですけど、今回は「お金を稼ぐこと」というふうになってますので、お金全般の話になってもいいと思うんですけども。お金を稼ぐという、特に労働とかそういったような方にも近づけながら話していけたらいいのかなというふうに思っております。それでは、ここからは本当にもう自由な対話を待ちたいと思いますので、どなたからでも発言のある方は手を上げてください。

・じゃあ、お金の定義についてはじめたほうがいいかなと思いまして。「お金とは何か」というここから行った方がいい。今の常識で言えば、お金は貨幣というか、通貨というのは何かということになると。国で流通させている代替物というか、物を買うのに値するものを通貨というんじゃないかなと思うんですけれども。それを得るがために稼ぐという活動が入るんじゃないかなというふうに思いますが、いかがでしょうか?

・「お金を稼ぐこと」はどういうことか、はっきりした方がいいかなというふうにという思います。通貨に関しては先ほどの方の仰る通りなんですが、お金というのはそれぞれ、我々毎日生きてて、いろんな希望、欲望があるわけ。「何かしたい」とか「何か買いたい」とか。ということで言えば、我々の希望や欲望をか叶える手段ということを考えてもいいのかなと。そのため貨幣が必要という事になっているんだと思うんですが。それともう一つ「稼ぐ」ということは、単純に言うと「働くこと」なのかな?だから、「お金を稼ぐこと」は働いて金を得るというふうに理解していいのかなと思います。

・今の意見を受けて、補足というか結局「お金を稼ぐこと」というのは、「労働の対価を得る」ということでよろしいのかなと。結局、労働しなければ対価としてのお金は貰えないということだと思います。

・「労働の対価」というふうに仰ったけど、普通そうだと思います。でも、言葉の使い方としては、「荒稼ぎ」とかね。詐欺とか労働なんかあんまり関係ない事に使うんで、必ずしも労働の対価だけではないのかなという気持ちがあります。ちょっといちゃもんつけたりしてすいません。

・「お金を稼ぐこと」ということで言うと、このテーマを見て最初に思ったのは「お金を稼ぐこと」がこの社会っていうか、自分が見てる範囲でなんかもう絶対貸してると思ってて。お金を稼がないとダメみたい。お金稼ぐことはいいことという観念が自分の中に取り付いていて結構、これが辛い。拝金主義が辛いってことを言いたかったです。

・繰り返しいなるかもしれませんけど、お金を持ってれば幸せなのかを考えてもらえば、少し分かるかと思うんですが。お金持ちが必ず幸せとは限らないと思うんです。うちなんか超貧乏ですけども、まあそれなりに夫婦と猫一匹で幸せに暮らしているとは思いますが。お金がなくても、それなりの幸せを感じることはできると思います。

・まず「お金とは」の定義の辺りから。もうちょっと深めて定義のあたりを深めてから、価値判断の話に移っていった方がいいかなというふうに思うんですけども。最初「貨幣」という言い方をして、それを「通貨」って言い換えられて。もともとお金の出発点は「貨幣」だったものが、ある時期から「紙幣」になって。つまり、「貨幣」にはそれなりの何かしら金属的な価値があったわけですけれども、どこからかそれがもうただの紙切れでいいと言う風になった。それで、最近本当に思うのはそういう現金がもう要らないとは言わないけども、給料を現金でもらったことが僕はないのかな、あるのか?バイトしていた頃はあったかもしれないけども、もう全部銀行振込で。通帳に印字されている数字が何ていうかまあ。見たこともないお金というか、でもそれは私のお金でいろんな交換できる。もちろん現金にも変えられるし、それを通じて他の物にも変えれるふうになってきていて。もう今、本当に通帳の数字だなと思っていたら、最近さらに携帯とかスマホの中におサイフケータイというアプリが入っていて、それでもう「ピッ」てやって、なんか出来るみたいな風になってきていて。まあそういうそのお金のあり方自体が終わっているかなっていうことも、今日の話に関係あるのかないのか。「稼ぐ」という意味ではあんまり関係ないのかもしれませんけども。なんかお金のあり方が変わることによって、いろんなのが変わるってことはあるのかなというふうに思って聞いていました。できれば「お金とは?」というところで何かまだありましたらお願いいたします。

・「お金」っていうのは、例えば「あの人がお金持ちね」とかっていうふうに言うのが一般的なんですが、もうちょっと広く「財産」という意味合いでもいいのかなと。元々お金は「金」だから、ゴールドですよね。それが今や仮想通貨で、いわゆる「お札」とか「貨幣」という形ではなくなっちゃって。要するにインターネット上に計上された数字だけ見た。ただ、それは特定の人の名義は付いているということで。 お金というのは「通貨」「紙幣」「財産」、それから「仮想通貨」みたいなネット上の数字に名前のくっついた数字ということを考えてみました。

・お金を「通貨」と言いましたが、現在は電子マネーが結構主流になってきまして、給料自体がで電子マネーで振り込まれるっていう企業もあると聞いています。まあ、私も電子マネーをよく使いますけれども、便利なもんで。結局通用すると言うことは信用しているということで成り立っているのではないかなというふうに思います。

・最近読んだ本ですけど、もう世界は「金本位制」で金をいくら持っているかによって「紙幣」を発行できたみたいなんですけど、いつからかそれを辞めてしまって。国ごとにもばら撒きたいだけばら撒けって。なので、今信用とおっしゃいましたけど、金と紙幣が等価で割合で交換できるって言う時代ではもうなくなって、国によっては発行できればバンバン発行できて、まあここ三年間ずっとコロナだったということもあっても、紙幣がもう大量にばら撒かれているような状況で、やっぱりその紙幣が果たして買い物なんかを普通にコロナ前と同じように買物ができるので、紙幣の価値はあると思うんですけれども。それはやっぱりみんなが信用してるっていうか信じているから、その経済活動が成り立っているのかなって。それが破綻したりすることもどうなんでしょうかね?あんまり経済詳しくないですけど。みんながみんな信用していれば、買い物も成り立てば普通に生活できるからいいのかな。これがだんだんインフレとか、そういった形になってくると、やっぱりお金の価値とかも下がってきたりして。どうなのかなっていうふうに、お金に関しては今話してて思いました。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2023.9.23.「お金を稼ぐこと」

2023年09月01日 11時37分22秒 | 開催予定
「お金で幸せは買えない。だが、お金はあなたが不幸である間、何不自由ない生活をさせてくれる」
劇作家クレア・ブース・ルース


てつがくカフェ@ふくしま2023.9.23.
【テーマ】「お金を稼ぐこと」
【日 時】2023年9月23日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】ホットコーヒー無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/87247340182?pwd=HtGyUHElWHxJKykyxrGRtwbU8if5lr.1
        ミーティングID: 872 4734 0182
        パスコード: 6BnuEH

【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回も参加者の方からリクエストにあったテーマとなります。

厳密には「お金を稼ぐことは良いことか?」という問いの形でしたが、

シンプルに「お金を稼ぐこと」とした理由として、

良い/悪いの二元論の話になってしまうと、

議論の幅が狭まる可能性があることと、

多角的な視点でお金を稼ぐことについて議論したいという想いがあったため、今回のテーマとさせて頂きました。



多角的な視点として例えば、「働き方改革」や「ワーク・ライフ・バランス」といった

これまでの働き方が大きく見直されている中で、

「お金を稼ぐこととはどういうことか?」といった

仕事と生活の調和を実現する働き方の中でお金を稼ぐことについて考える視点もあれば、

あるいは、「勤労意欲」「モチベーション」「成り上がり」といった、

労働に伴う金銭という観点からのアプローチもあるかと思います。

さらには、「マネーリテラシー」や「マネー教育」といった

お金に関する正しい知識・情報を持ち、それを上手く活用することができる能力についてや

学校では教えてくれない株や投資、起業の仕方といったお金に関する教育的視点から

「お金を稼ぐこと」を考えることもできるかと思います。

もちろん、良いことか/悪いことかといった観点からご発言頂いても構いません。



当日集まった参加者の皆様と一緒に

じっくりと「お金を稼ぐこと」について考えていきたいと思います。


「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2023.8.19.「宗教を問う」

2023年08月31日 01時10分50秒 | 定例てつがくカフェ記録
8月19日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。

会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には11名、オンラインでは6名の計17名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・それでは対話に入って行きたいと思います。本日のテーマは「宗教を問う」という大きめな問いにしていました。宗教といえばやはり先だっての安倍元首相の暗殺事件でしょうかね、狙撃事件がありまして。それ以来、特にカルト宗教と言われているというか元統一教会の問題なんかも、だんだん分かってきたり。それが政治とどう結びついていたかみたいな話なんかも現状最近あんまり言われなくなってますけれども、結構大きな問題なのかなというふうに思っていたり、それも含めて、昔から古来からある宗教もそうですし、新宗教とか言われる明治以降ですね出来上がってきた新しい宗教の動向とかもあったり、もう古い話になってしまうのかもしれませんが、オウム真理教の事件とかもあったりとかしてですね、宗教って日本人は割と多くの方はあまり積極的にこの宗教に帰依してると言うのを見せる方はいらっしゃらないんですけれども。でも、お盆の時期はやっぱり、自分のお寺にお参りに行ったりとか。でも、年末はクリスチャンじゃないのにクリスマスをお祝いしたりとか。その1週間後には神社に初詣に行くとか、割とそういう割と宗教に関しては世界的には曖昧なと言われるそういう行動が多いんですけれども、世界全体の中で見ると、こんなに宗教とか信仰が非常に薄い民族は本当に稀なわけでして、今だに強い信仰で生きている人々もたくさんいらっしゃる。その中で、日本には日本独特の宗教のあり方っていうのがいろんな形で出てきていて、それがいろんな問題を起こしたりとかことが起こっていると。そういう中で、「宗教を問う」ということで、結構宗教についてはどこまででも問うことはできるわけですから。非常にラディカルな問いでもあるわけですけれども、そこら辺も含めて、ぜひ宗教について色々と考えを深めていければというふうに思っております。それではどなたからでもご発言をお願いいたします。

・初めてこちらの場にさせてもらったんですけれども、行きたい行きたいと思ってても何年にもなるんですが。だいぶ前から行きたいとは思ってたんですけれども、中々機会がなくてっていうか。色々テーマがあると思うんですけれども、今日の限りましては、「宗教」ということで、どうしても参加したいなということできたもんですから、今回参加させていただいて、意見をちょっと述べさせていただきたいなということでやってきました。

・今日のテーマの「宗教を問う」ということなんですが。最初、こういうテーマだから「宗教っちゃなんだ」っていう話が出てくるのかなと思って。まあ大雑把に言って宗教っていうのは。まあ、一つは教祖様がいると言うこと。それから集まりというか、信者がいて信者の集団があるのかな。それからそういう方々が集まる場所。キリスト教の教会だし、イスラムはモスクだし。仏教で言えばお宮さんだとか、お寺さんだということで。教祖様の前提としては、神様みたいなものを想定と言うと叱られるんだけど、神様・心的なものを信じていると。要素としてはそういう三つぐらいかなと。そこで「宗教を問う」と言うことなんですが。困った時の神頼みとかね。イワシの頭も信心からとか、まあ色々出てくるんだけど。宗教の一番単純な事態というか現象というか。人間はお母さんとお父さんから生まれてくるわけだけど、赤ちゃんはお母さんの子宮から出てきますよ。乳児・幼児がだんだん成長してくんだけど、乳幼児の時期って、言わばお母さんは全能の神様みたい。だからお腹が空けば「お母さん、お腹空いたよ」ということで泣き泣いたりするわけで。もう少し成長して困ったことがあると。「パパママ助けて」と。要するに呼びかけみたいなことをして、助けてくれるママやパパが神様みたい。成長して大人になって、いろんなことを悩んだり、苦労したりの場面に出会うんだけれども、非常に苦しくなると赤ちゃんが「ママ助けて」「パパ助けて」と言ったみたいに大人ではあるけど心的なものにすがりたくなると。まあ、そういう事なのかなというふうに考えているんです。

・今のご意見に対してちょっと補足とまでは行かないと思うんですけれども、結局宗教っていうものは救いを与えるものだというふうな意味と解釈したんですが、間違いではないでしょうか?結局、物質的な今では母親はもう全てであると。ただ精神的な意味では、「神が救いを与える」という風な意味の解釈でよろしいのかなと思います。要するに、我々が神様との関係を求めるのは、根本的には不安があるから。やっぱり不安があるがゆえに解消したいといつも思ってるんですよね。だから、「神様に頼むよ」と。物質的なものを得られるかは、普通は無いけど新興宗教みたいなものでは、そういう見返りがあるようなこと言ってるところもあるかもしれませんけれども。要するに、一般的には信じることによって、悩みとか苦しみだとか、そういうものが癒されるというか。安らぎとか老いることの不安を解消できると言うのが根本かなと私は思う。

・私は日本人は典型的な無宗教者と呼ばれるものだろうなと思いながら、今日この間にいるんですが、今までのお話の中で、不安が根源にあるから、人はその宗教を信じたりするというところに、私もとても納得していて。私は信じる宗教はないんですが、ただ本当に自分が気持ちが不安になった時だとかに何かこう導いてくれる、こうしたらいいよっていうなんかレールみたいなものがあったら楽なのになあって思うことがあって。それが人によって占いだったり、宗教だったり。あとは、今はアイドルとかキャラクターアニメとか漫画とかのキャラクターのそういうを「推し」になったりするのかなと思うんですが。私も実際「推し」がいて、その「推し」が「こういう風な生き方っていいよね」ということを発信してくれれば、「そうだよね」と救われる気持ちになることもあって、その宗教は入ってはいないんだけれども、無意識的に何かこう救いを求めるというか、こういう道があったら自分は楽になるのにっていうところが、根源的な自分の感覚としてあるなというふうには思っています。

・何人の方が不安というようなことをおっしゃっていて、それは確かにその通りだと思うんですけれども。「現世利益(仏教用語。仏を信仰した結果がこの世で実り、欲望や望みが叶う事)」みたいなのありますよね、病気にかかりませんようにとかね。大学受験合格みたいな。そういうのを宗教に求める人もいるし、不安だからってこともあると思うんですけれども。例えば、キリスト教であるとすると、それはもう宇宙の創造とか。要するにあらゆるものが最終的には神の国になるみたいな目的性まである。そういうことで全てを説明してくれる。つまり不安だとかっていうような気分的なものっていうのが、実際にその宗教にはまってしまう人たちのその要因としては大きいと思うんですけれども、そこだけ見ててもちょっと違うかなと思うのは、その宗教的な世界観。それの倫理的な正しさとかですね、美しさとかですね。それが真実だと言い切れるようなロジックとかですね、そっちの部分も見逃してはいけないのかなと思います。例えば、僕はオウム真理教の事件の時、私は彼らの主犯格だった人たちと世代が同じなんですね。それで実際に彼らが通ってた学校とかにも出てたりしますんで。それで、どうしてあんな事なっちゃったのかなっていうのを考えた時に、これ僕決して取材したとかなんとかで裏取ってるわけじゃないんですけれども、思ったのは不安とかもあるでしょう。生き方でどうしたらいいかってのもあるでしょう。同時にオウム真理教というのが。一切合切の正しいことを世の中の真実を明かしていると世界がこういう風になってるんだってことを述べているというふうに、彼らは思い込まされてしまったというところがあると思います。なので、不安感とか感情的な部分と同時にその宗教の持ってるその完全性みたいなことを言いはる。そのやり方についても考えた方が良いなと思います。

・今の意見も踏まえてですね。宗教が人間にとって必要なものは心の拠り所であって、その一つが宗教であると私は思うんですけれども。心の拠り所は何でもいい。哲学でも良いし、その反対側にあるのが宗教ですから。または私も音楽を色々好きで聞くんですけれども、音楽でもいいと。ということ、先ほどの方が無宗教だとおっしゃいましたけれど、無宗教だって別に構わないんですよ。生きる上に必要な物は自分が信じるもの、好きなものそれでいいと思うんですけれども、その中に宗教もあるということをちょっと考えてはもらいたいなというふうに思います。人間信じるものがあれば癒されるというようなことで、宗教という信じるものがあるということともう一つ。それを言葉で言うと、信仰と。そして、仰ぎ見るものもないと中々宗教的にはなんないのかなと言うように思うんです。だから、信じるものがあれば宗教かなと。例えば、俗な言い方ですけど仮にマルクスを信じる宗教なんていう言い方をすると、一部の人に怒られるかもしれないけれど。要するに、マルクスからマルクスの考え方、『資本論』を本当に正しいと信じる。いわばマルクスが教祖様で、要するに今の資本主義のありようやいろんな悲惨な所を直して行くには、それを実行して改革をして、そういう共産主義的な社会を創っていくんだと言う。もちろん、共産党というのを作れば組織になるから、そういうものだって宗教的になり得るんだと思うんですよ。するとオウム真理教の場合、言われたらこんな高学歴な人達がなんでこんな嘘っぱちみたいなものを信じるようになったんだと言い方がまあされたんですけど。今もあちらの方で話されたけど、信じさせられちゃった。教祖が空間に浮かび上がるとか色んなことが本当か嘘かわからないような。そういうようなことを行ったりして、信じさせられちゃったという言い方をされたんだけど、実は信者っていうのはそういうこと信じたんですよね。信じさせられた。それは他から見てそうなんだけど、本人は信じたんです。宗教というのは自ら信ずることがないと中々絶対的なものにはならないというふうに思います。それと私は思うのは、こういう例でキリスト教の場合は神が宇宙の創造者ということで、一神教と言っていいと思うんですけど。これって豪雨とかいろんな自然災害など、昔で言えば嵐とかね。自然災害の裏には。それを起こす神様みたいな存在がやってみる。アニミズムっていうふうに自然の背後にそれを打ち出している存在があるというふうに見てるんだと思う。それで、キリスト教との比較で言うと、旧約聖書ができた頃の時のことを考えると、要するにそのアニミズムとデータとかでこれ言うと、信者からは本当に怒られそうなんだけど、要するに自然災害の背後にそういう打ち出す力を持った存在を神だと。要するに祖先崇拝とかあるんだけど、それを遡って行くともう始まりがあるんじゃないか、必ずそこにぶち当たって。「宇宙の始まりは何?」と、それは神が創造したんだ。そこら辺が一神教の神様の始まりなのかなというふうにも思うんです。そういう意味でアニミズムとちょっと似たところがあるな。キリスト教の旅を追うとそういうふうに捉える人とそういう捉え方だと。私が絶対正しいとは思ってるわけではないんですけど、そんなふうにも思います。

・宗教に関しては勉強をしてないのですが、皆さんのお話を聞いてて感じることはオウムとかもそうですけれども。宗教は信じこみなんで、その信じこみとあと観念論ですよね。あとは人との関わり方。人とどれだけ関わっているかっていうことが関係あるのではないかと言うこと思うんですね。そこに大きく影響しているのが物質的な環境ですね。それがあると思うんですね。古代というか、まず狩猟の時にはみんな獲った獲物を平等に分けたんですよね。ところが農業が発達してくる中で貯めることができるようになりますね。一部の人はいっぱい食べる。そうすると平等な分配ができなくなる。そういうところから精神的な問題が出てくるっていうか。なので、環境というのとあと不安ですね。とりわけこの社会が競争社会であると言うことは、もう本当に否めない事実なので。そういうところでね。やっぱり精神的な不安になるのは当たり前のことなんですよね。その時に宗教に救いを求めるというか。

・今回初めて参加させていただきました。皆さんの色んな積極的なお話をお聞きして、大変ありがたいなと思って興味深く拝見しました。今日の議題の中で宗教についてということでしたので、私自身の考えというか、若い頃は色々仏教とかキリスト教とか、あとは新興宗教とか色々勉強をちょっとやってきたんですね。そん中で感じたのはですね、宗教は色々と立派なことを言ってるんですけども。最終的にやっぱりお金ですから。「浄罪」とか言って、そういったの結構今まで多かったです。だから、信仰の為に、俗に献金とかなんかお金が絡んでくるな。一体どれくらいお金かかるんだろうかって思って、今も悶々としながら今まで生きてきました。確かにそういった組織として成り立つためには、やっぱりお金は必要なんですが。統一教会もそうでしょうけども、なんだかんだ言いながら、やっぱりお金がないと組織として成り立っていかない部分もあるんで。でも本当にそのお金自体が、この我々が生きていく上で、潤滑するには必要なんですけども。宗教として捉えた時になんだかんだお金は必要なのかと。神社に行っても賽銭出せとは絶対言わないけど、賽銭を出すのが当たり前みたいになってるけど。でもそれって本当に神様にお金出してるんじゃなくて。当の神主さんが生活する為に必要な生活費入れてんじゃないかなっていうふうに考えるときあります。教会に行っても献金はありますけど、それって司祭さんの生活するためにとか、あるいはその状況だったためにお金出してんのかいと。新興宗教でも、やっぱりなんだかんだで最後はお金。私、いろんな宗教とかに顔出しましたけど、最後にお金の話が出てきたときに、「これは本物じゃない」と、結果を出しまして。琵琶湖とかの方面に立派な神殿建ましたとか、そういう話聞いた時に「じゃあ出したお金ってそういうのに使われたんですか?」って。だから本当に下世話な話ですけど、宗教を考えたときにそんなにお金は必要なのかなって今でも思ってます。逆に最近人間の基本的な根源的な欲求とかの気持ちとしては、本来人間っての人に喜ばれると嬉しいって本能があるって聞いたことあるんですね。自分が人から愛されたり何かものを送られたり、人様の役に立ったり。あとは人から称賛されたりという人様のお役に立てるような生き方は、できればそれはそれ自体がもうすでに宗教なんじゃないかと。お金関係なしに自分が朝方散歩してる間に夫婦で歩いてる方は見かけたことあるんですけども、落ちているゴミを拾っている人を見かけたことあるんですけど。実際、人から見られない中でゴミを拾ったり、人から認められないけども、誰からも見られてないけども。みんなの役に立てるようなことやってる人を見た時、私は手を合わせました、陰ながら。だから宗教の一番はお金ではなくて、みんなに自分が人様から社会の役に立ってうれしいって、思えてもらえるようなその延長とか、その積み重ねじゃないかと思ってます。

・本日は初めて参加させていただいて、「宗教を問う」というタイトルだったので、ちょっとご参加させていただきたいなと思いまして、私歴史がとても好きで、歴史が趣味でこう色々こうして勉強とかするぐらいなので、宗教に対して深く知識とかはないんですが、歴史を勉強している中で、やっぱり宗教の歴史は切り離せないところがあるのかなっていうところで。今回は「宗教を問う」というところで、またこう宗教に関して考えていたところをおさらい程度にお話したいなと思ったんですが。世界には五大宗教がある中で、仏教、キリスト教、イスラムユダヤ教、ヒンドゥー教とある中でキリスト・イスラム・ユダヤはエルサレムに起因して一神教の宗教に基づいて、日本には中々馴染みがない。イスラム教とかユダヤ教は世界的には、ここが一番大きい信者がいるところなのかなってところはあるのかなっていう風に思ってます。仏教とか江戸時代までは儒教の授業として、どちらかという宗教ではないんですが、教えるところですかね。中国で、清国まではずっと儒教ベースにOSとした国づくりが行われていたところで、日本では飛鳥時代に中国から仏教がどちらかというとこう政治OSとしてこう取り入れられて、政治をするための仏教という形で取り入れられた部分が宗教としては大きくて。当初は貴族の中でやっていたものが、段々歴史を編成するにあたって、浄土宗とかそういった曹洞宗とか日蓮宗とか、そういった市民に街の方、市民単位で教えられるものになってきたのが、今の宗教にどんどん繋がってきてるのかなと。根源として考える中で、今の仏教は元々日本に仏教が来た段階でも、どちらかというと政治のための仏教っていうのがどうしても強かったのかなっていうのがあって。元々日本は多神教ですし、800万の神様を信仰していて、どちらかというと教えではなくて、神様を信仰していた民族の多い所に、仏教の考えが入ってきて、それらがミックスされながら、天皇を中心とする国に多くの神を信仰するというのが日本なのかなっていうのが、根底にはやっぱりどうしてもあって。なので、公無宗教というよりは、本当に元々日本は、色んなものをミックスして良い所どりをしていくのが日本の特徴なのかなというふうに思っています。宗教離れというよりは、まあ元々宗教は日本には馴染みが深くて。おそらく今の市役所とか町村があった機能が元々神社にはお寺にあって、お寺の古跡を管理していたと思うので、どちらかというと市民や町民、村民の方がお寺に行く機会が多くて。そういった中で仏教の教えだったりとか、生まれてから死ぬまでもお寺に行って入って教えてくれることがあったので、そういった教えを学ぶ場所が元々あって、そういった考えを元々もう小さい頃から教わっていたのが、昔の考えなのかなというふうに思っています。そういった中で、キリスト教も西洋の国ではだんだんこう離れているっていうのは、やはり科学の進歩がまあ一番大きいところなのかなっていうふうには思っていて。今まではキリスト教とか、イスラムの教えが世界の全てで創造世界が始まったのキリスト教の創造主は初めて全てを生み出して、全てを作り出して、全ての教えというか。全ての根源は『新約聖書』、あるいはユダヤ教であれば、旧約聖書から全て治まっていたんですが。進化論ぐらいから、だんだん科学が発達してきて、キリスト教の教えじゃないのかなっていうところから、だんだん科学の方にスライドしたきた中で。宗教の教えいうのが中々市民の方に受け入れられなくなってきてる部分があるのかなっていうふうに思ってたら、宗教の歴史っていうところを問うというところなんですが、やっぱり問うというところで、やっぱり教えを教わる場所がまずなくなってしまったというところが、まず一つ宗教離れところがまず一つあるのかなっていうところがあるのと。科学を信じ過ぎた結果、科学で説明できない目に見えないものとかなんともこう解決できない問題への作用がやっぱりあって。それが新興宗教とか眼に見えないものとか、スピリチュアルとか、そういった所への説明をスピリチュアルにこじつけて説明なんか、あたかも本当かのように教えているのが新興宗教とかの部分に関わってくるのかなと思って考えています。まだここまでぐらいしか自分の頭の整理できなくて、宗教ってかなり大きいテーマなので。私はどちらかというと歴史が好きなので、今の皆さんの宗教に対する考え方とか、どういう風に考えてるのかなっていうのを、皆さんの意見とかもちょっと聞きながら自分の考えを深めていきたいなというふうに考えていたので、ちょっと分からせていただいたところではありました。

・今までの話の中で、宗教とお金の話が出てきて。確かに現実的には宗教活動するためのお金が必要になっていると思います。でも、これって考えてみると、人間が生存するためには単純に言って衣食住これが必要で我々生きて行くためには、衣食住を確保するためには働いてお金を得る、お金を得ないと生存できない。こういうことだと思うんですよね。縄文時代やもっと前に自給自足社会はともかく、そういう時代でわなくなって、全て働いてお金を得て生存をしていると。要するに宗教団体も同じですよね。団体として存続する為には人間が存続するためにお金が必要であると同様に、やっぱり宗教団体だってお金が必要となってくる。特に、その宗教団体の方々、信者の方々、これぞ真実だよと、こういうことは社会に広めていかなきゃならないというふうな活動しようとすれば当然お金の問題が出てくる。お金を集めると現金を募ると言うようなことになってくる。ただ、ちょっと見損なっていけないのは、やっぱり宗教心の問題。今日の例で言うとイエスさんは貧しき者は幸いなりと。つまり別に金でもって存続させようということではない。根本は違うんだと言うことを押さえておかなきゃいかんなというふうに私は思ってます。

・そうですね。お金の話が出たところで、私が思うのは、今の宗教界の弊害というのは大乗仏教的な考えが蔓延っているというか。まあ教壇の運営するにはお金がいる。そのためには信者からお金を集める。お寺さんにしても、やっぱりお寺を維持するためにはお金がいるので寄付してくださいと言うことだと思うんですが、結局宗教は進めてもいいけど、強要してはいけないというのが私は思うところなんですけれども、異論はあると思うんですが、日本の宗教に限れば、仏教と神道が混在している状態でその宗教も色々あるんですけれども、基本は先祖崇拝なんですよね。仏教にしろ神道にしろ、国家神道という時もありましたけれども、今の神道で言えば、個人の信仰が一番大事で。それをみんなに押し付けることは、宗教の本来の目的から外れているんではないかなと言うふうに思います。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2023.8.19.「宗教を問う」

2023年07月23日 11時37分50秒 | 開催予定
てつがくカフェ@ふくしま2023.8.19.
【テーマ】「宗教を問う」
【日 時】2023年8月19日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/86215321285?pwd=SGcxb3V5eTB3TXlXQk9CK05FQ1EwUT09

        ミーティングID: 862 1532 1285
        パスコード: A4v9iG

【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

また、当日ぎりぎりの判断で全面 Zoom 開催に変更することもありえますので、

当日お出かけ前にこのブログで開催方法変更が告知されていないかお確かめの上ご来場ください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



昨年8月の「お墓は必要か?」というテーマでは、

お墓の意味や葬式のあり方、死生観などが議論されておりました。

昨年はお盆の時期ということもあり、お墓参りに関するテーマを設定した訳ですが

今年は上記の「墓、葬式、死後の世界」とも関連するテーマであり、

またリクエストにもあった「宗教」について

問い、考え、語り合いたいと思います。



「宗教を問う」という今回のテーマですが、

まず、特定の宗教や団体(宗教法人)を貶める意図がないことをご承知おきください。



ただ、昨年の7月に起きた安倍晋三元首相の銃撃事件を受け、

犯人とその動機についてニュースで取り沙汰されたことで、

事件が起こる前よりも世間が

「新興宗教」について注目するようになったように思えます。



また、事件に関連して宗教団体が多くの政治家と接点を持ち、

ときに選挙支援をし、ときに広告塔として上手く使ってきた実態が明らかになりました。

さらに、事件の背後に「宗教二世の苦しみ」があったことで、

SNS上をはじめ、メディア等で多くの宗教二世が赤裸々な声を上げ始めています。


海外に目を向けると、現在アメリカヨーロッパなどでは「宗教離れ」が進んでいると言われております。

果たしてこれからの時代、宗教は衰退していくのでしょうか?

そして、変化の著しい現代社会において、

今「宗教」には何が求められているのでしょうか?


当日集まった参加者の皆様と一緒に

じっくりと「宗教」について考えていきたいと思います。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2023.7.15.「いじめ」

2023年07月18日 22時10分12秒 | 定例てつがくカフェ記録
7月15日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。

会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には14名、オンラインでは5名の計19名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・本日は「いじめ」というテーマにしてみました。珍しくテーマを問いの形にはしないで、ただ「いじめ」と言うだけになっております。ちょうどこの数日前にも芸能人の方が自殺されたりとかしてですね。どういったことが「いじめ」になるのかどうかといったことも含めてですね、「いじめ」について色んな観点から話し合っていきたいというふうに思います。それで、ここからはご自由に発言してください。発言がある方は会場の方は挙手をお願い致します。そしたらマイクを持って行きますので、マイクを受け取ってからお話ください。

・世話人の方から、事前にてつがくカフェの対話のルールについて説明があったのですが、その中で気になったことが。対等な人間関係という考えで話し合いしてくださいということと、あと上下関係ということを持ち込まないと。例えば、外では上司と部下の関係性、生徒と教師だったり。ということは、普段の社会生活にこういうことが、蔓延ということではないんですけど、かなり、浸透としてるのかなと。対等な人間関係で行きましょうと言うことだけど、中々そうなってない現実の社会があるということと。あと上下関係で、パワハラなんか一種のいじめだと思いますけど、特に上下関係で圧力をかけたりするわけで。こういうのが日本の社会ではかなり蔓延してるというか。蔓延とまで行かないけど、人々の間で意識されてるいうことなんです。それともう一つは、会場に入ってくる時「いじめる側がなんで逃げなきゃいけないの」と書いてあるのを見た訳だけど、ある意味でいじめられた側は逃げて当然だと。だから、いじめられた側がなんで逃げなきゃならないということでしょ?いじめられる側が逃げるっていうのは、ある意味当然だと思う。要するに暴力とかね、圧力がかかってくる訳だから一人でこういう対象になった場合、逃げないと異常に気づく。暴力でやられたら傷ついちゃったわけだから当然逃げていいんじゃないかと。だから、なんでいじめられた側が逃げなきゃいけないのか。だからそういう風にならないような社会を作っていかなきゃなんないということなんで、やっぱり人権意識とかね、そういうのをよく社会の中に、分かるような状況ということが必要なのかな?大変、世話人の話とポスターの文言を見てそんなことちらっと今思いました。

・ポスターに書いてあったセリフはあれはちょっと前にドラマ化されていた。原作は漫画なんですけども、そこに出てくるセリフなんですけど、あれは要するに学校でのいじめを念頭に置いて、いじめられた側が逃げなければならないのか、あるいはいじめられた側を隔離するみたいな、そういうことが行われるんだけど、それはおかしいんじゃないのという。むしろ、いじめる側を隔離すべきなんじゃないのかっていう。そういう文脈で言われているセリフですね。まあ、当然逃げていいし、逃げるべきだと思うんですけども、要するにその学校とか会社もそうかもしれませんけど、やっぱ逃げようがないっていう状況の中で、いじめられた側が逃げなきゃいけないっていうのはおかしいんじゃないのという。逃げるってことは、例えば会社で言うならば、要するにもう仕事がなくなるっていう収入がなくなるってことだし、学校で言うならば、要するに勉学が遅れるっていうことですから、そういうなんでそのいじめられてる被害者側がそういうふうな不利益を被らなきゃいけないのかっていう。そういうちょっと捻った文脈で語られたセリフのかなというふうに思います。

・いじめにあったような時は、状況を正しく理解して逃げるなり、その場の責任を持っている人に対応せまるなり、正しく反応するべきだと思ってたんですけれども、あのテレビを見てびっくりしたのがあの浅田美代子さんっていう女優さんがテレビを見ていて、「ああ、いじめなんてあるのね。大変ね、私の頃はあったのかしら?」みたいなこと言ってたら、お母さんが「あなたいじめられてたじゃないの?学校でひどいいじめが起こってるって大問題になったのよ」って言われて「え、そうなの?」とかいって。浅田美代子さんは周りの人が、「あー、機嫌悪いな」としか思っていなかったという話で。差別とかいじめとか、無視しないで対応すべきだと思うんですけれども、いじめられてる当人が気づかないとかスルーするという状況はどういう意味を持つんだろうと思っていたんですけれども。それで最近のことで、汚染水の海洋放出について、福島の人があまり反応していないのは、自分たちが差別を受けたり、いじめられてるのに、その自覚が無く気づいていないんじゃないのかなっていう状況なんじゃないのかなと、ちょっと結びつけて考えてしまったりしました。

・今の「いじめ」に気が付かなかったって話と繋がるかわかんないんですけど、「いじめ」とあとちょっと笑いにするために「いじり」という言葉もあって。その捉え方って難しいんですよね。本人にとっては「いじり」のつもりでやってるんだけど、受けてる方は「いじめ」に感じてしまう。けど、そこでちょっと笑いが起きちゃったりすると、全体としては笑いとしての答えになっちゃうのってあるなと思って。今、例えばテレビでそういった「いじり」の文化が減ってきてるようです。私もテレビ見なくなっちゃったんで、あれなんですけど。「いじり」で嫌がる人がいたんだなってのは、最近になって風潮で感じるようになりました。

・昔と今が大分違ってるっていうのは、子供が小学校の時にすごく感じたんですけども。昔は近所に駄菓子屋さんがいたり、お店屋さんがあって、学校と家だけでない別な逃げ道があったと。私の知り合いは山で日々過ごしたりとか、逃げ道があったのに今はそれが無くて。学校と家だけの人間関係。そして学校の教師がなんかいじめを見過ごしてしまう。それこそ「いじり」だって言われるけど、やられた方は「いじめ」な訳ですし、そういう世の中が私達が子供の頃とちょっと違うという。親のストレスが子どものはけ口になったり、父親のストレスが母親、母親の陰口が子供にっていうね。それで勝ち組、負け組でいうのがすごく出てきてる感じがすごくあって。お笑いなんかも素直に私はこう全然面白くない人がとっても多いんだけど、こういじって喜んでるみたいな風に感じています。

・先程ありました「いじめ」と「いじり」についてなんですけれども、個人的に高校生の時に、「いじめ」ほどでは「いじり」というか、先ほどおっしゃったように、当時で言うと肩パンと言われるものを受けていた時に、個人的にはそれは「いじめ」ではなく「いじり」なんだと思っていて。でも、今考えるとそれを「いじめ」だっていう風に、例えば先生なり親なりに言ってしまったら、それが本格的な「いじめ」、「いじり」から「いじめ」っていう進化というかというか退化というか、そういう経過を辿ってしまうんじゃないかなっていうふうに思ってしまいまして。だから、当時もその「いじり」なんだと思って。他のその「いじり」の当事者以外のクラスメイトもある意味それを「いじめ」だってこう周りが思ってしまったら、また外から「いじめ」という評価を受けて、自分達がこれいじめられてた、いじめていたんだっていう認識に変わってしまうこともあるのかなと思いまして。だから自分は当事者から「いじめ」という認識が生まれたり、他の第三者から「いじめ」という認識が生まれたり。そして結局、当時はその「いじめ」にしたくなかったっていうところから、何も言わずに過ごしてはいたんですけれども。そういう「いじり」と「いじめ」っていう関係性があるのかなと思います。

・今「いじめ」と「いじり」と言うことを対比的に話が出てきたんですけど。私は思うんだけど、「いじり」っていうのはまあ、何かをいじるっていうのはどういうことなのかなって私が考えたのね。思ったのは「弄る」というのは、人について使う言葉じゃないんじゃない?物について何かを「弄る」ということで。「弄る」というのは物扱いから来てると。要するに、「いじめる」は人間、「弄る」は物扱いなんだけど、それを人間に持ち込んでくるということは、人間は元々物じゃないんだと。それで、物扱いされるの非常に傷つくんですよね。要するにドメスティックバイオレンスなんかもそうなんですよ。例えば、男の人が女の人に暴力する。気に入らないとぶん殴る。要するに物扱いなんですよ。だから、「いじり」と「いじめ」に発展するっていうのは要するに物扱いが段々講じて、いじめになるというのはなるほど、そうだなというふうに思ったんです。

・今のは確かに「いじり」というのは「弄る」から来てんのかなというのは、ちょっとそこまで考えたことなかったんですけども、ただ僕達が子供の頃「いじり」という事は無かったと思うんですね。多分、僕達が子どもの頃は「ふざける」とか「からかう」という言葉があったと思うんです。でもやっぱり、「ふざける」と「からかう」というのは、最初は正に楽しくてというか、お互いにそんなに「いじめてる」「いじめられてる」ということは思ってはないけども、ふざけたりからかったりしてるんだけれども、ただ子供って限度を知らないから、どんどんそれがエスカレートしていってしまって、どっかから要するに別の次元に何か変わってしまうっていうことが僕なんかの頃にもあったような気がしていて。なんか物扱いっていうのかどうかちょっと分からないんですけど、要するに「ふざける」と「からかう」というのは別に「ふざける」「からかう」て言葉は物扱いしている訳ではなくて、友達同士でお互いふざけあったり、からかいあったりっていうのはあったんだろうと思うんだけど、なんかそれがどっかからこう特にある特定の人が常に常にからかわれるそのからかわれるが、もうちょっと段々エスカレートしていくっていう。そういうその正にこの線引きがうまくできないけど、エスカレートしてしまうっていうことはあったような気がしています。

・今、「いじり」という言葉が出たんですけれども、TVなんか見ているとメディアがね、よく「いじる」とかっていう言葉を使うので、そういうところからこの言葉が使われるようになってきたのか。それともどうなのかなと思って、いま考えさせられたんですけれども。やっぱり人間の尊厳っていうものがありますから、そういうことを考えたところ、時に凄く微妙なところがあるだろうと思うんですよね。例えば、「いじり」なのか「いじめ」なのかっていう微妙な他人が見たことと当事者は思ってたことが違うっていうことなんですけれども、その社会って結構勝ち組、負け組っていう話が先ほど出ましたけれども、そういう社会ですので分断して支配するような社会なんですよ。分断しないと支配的できない国家は。なので、こうした回なのであのうやっぱりいじめられてる子が「このいじりはちょっといじめじゃないの?」と思っても、やっぱりいじめられたと思いたくないっていうようなこともあるんじゃないかと。実際、「これいじめじゃないよ」という場合と「いや、そう思いたくない」という人も、もしかしたらいるかもしれないなあって。そういう微妙な大変な大切な心の動きの問題じゃないかなと今感じました。

・私が小学校六年生の時に田舎に母子寮があったんですね。それで、凄く貧しい人がいて、今思えばなんかいじめられてたのかなっていう感じもするんですが、その当時は気がつかなくて。例えば小学校二年くらいの時に「ちびくろさんぼ」っていうお話が国語で取り上げられて、あれはアフリカの人から見るとステレオ化された気分を大変害するものであって、今はもうないんですけども、人権についてとか、その歴史的背景とかを知らないと、自分がいじめてるっていうか、そういうことに気がつかないまますぎるのかなって思いました。だからいろんな人と対話したり、世界を見たり、本を読んだり、何が人権に違反してるのかってのを常に意識しなくちゃいけないのかなと思うんですけど。ちょっと長くなりましたが、うちの子供は小学校一年生の時に、別な子供が「〇〇君がいないから、僕の代わりに叩かれたりしたんだ」ということで、初めて自分の子供がいじめられてたってことに気が付いて、学校の先生がそのいじめる子を暴力振るう訳ですけども。大変なことが起こるんだっていう風に、学校の先生が言ってくれて、その後いじめが続いてかどうかはわからなかったんですけども、小学校五年生で転校して、転校先になじめなくて、空気のような扱いで他の学校の人に「〇〇君はキモイって言われてるよ」というのは、不登校になってから初めて他のお母さんに聞いて、「自分の子供がキモいって言われたの?」みたいな感じで。本当に先生からは「異質だ」と言われたんですね。だから「このままいくと中学校でいじめられるから、今から対策してください」と、その前の学校の学年の先生は勉強ができたので、家庭訪問も5分もかかんないで「〇〇君は問題ないです」と言うから、自分としては変だなと思いながら。まあ、学校の先生がなんかあれば言ってくれると学校を信じてたわけですけど。今の学校というのは昔と違うってのは初めて知りました。もう一言言うと、私が中学生の時にスクールカーストみたいにいじめっ子がいて、「あの子はかわいい。あの子はバカで、あの子はブスで」と全部ランク付けして、いじめる男の子がいたんです。それで、一緒にいじめられてる子と帰っていたので、「どうやったらあいつをやっつけられるんだろう」と毎日話して帰ってて。でもお母さんに言いつけるのは。ちょっと恥ずかしいし、学校の先生に言いつけるっていう気持ちは思いつかなくて、ふっと思いついて次の日、「〇〇を無視する女子の会」を作ったら、そいつが「いや、それはやめてくれ」ということで、いじめが止まって代わりに私がからかわれるようになったんですけども。私もいじめられているのか柱に縛られたりして、最初は遊んでるみたいな感じだったんですけど。そんなあの昔は可愛い「いじめ」みたいなのしかなかったです。ちょっと長くなりましたけど。

・「いじり」というのは、なんとなくあの関西文化なのかなって気がしていて。関西の人達って、とりあえずあの笑い合ってなんぼでがなかった。オチはどこ行ったっていうような世界のような気がするんだけれども、その「いじる」というのは、物扱いかどうかわからないけれども、でも、例えば物なんかでもどういう時に使うかっていうと、何かを引き出そうとするとき、要するになんか計算する時に、「そこのパラメーターいじろうか?」という言葉を使ったりすることを考えると、何かを引き出すことによって、何かを「いじる」ことによって目的に達するための何かを引き出すものが多分「いじる」という。もともとの言葉の使い方で、その関西的なノリから行くと、その笑ってなんぼのものだから、相手の何かをそこから笑いを引き出すために、何か突っ込みを入れる。ていうような話なのかなと思って、その関西のお笑いが関東の方にドッと進出した後に「いじり」文化っていうのはすごく広まったような感覚的に思ってるんです。日本全国で見た時にそういう笑ってなんぼみたいな、お互いにそれをやり合うような文化がないところに、でもその芸人の人達が「いじって」何かするようなものっていうのが、あたかも当たり前かのように入ってしまっているっていうのは、「いじりってのは別にやっても問題ないんじゃない?」みたいな雰囲気で「いじる」という言葉を使って、世話人がさっき言った言葉を使うなら「からかう」とか。多分「からかう」という言葉の方が、その言葉を使う時に自分がやってることが、いいことだとは思わないですね。「からかう」だと明らかに何かを相手の特徴を何かよく引き出すためにの時には「からかう」という言葉は使わないですね。必ず悪いところをあげつらう時に「からかう」という言葉を使っていて。なんだけれども、「いじる」という言葉が手に入ってしまったことによって、「いじる」だと必ずしもだから悪い方に行くわけではない。なんかその言葉が変に、やってることマスクしてしまう。本質をマスクしてしまって、それでその、なんかより「いじめ」がしやすくなってしまった環境にあるのかなって気はして見ています。

・「いじめ」と「いじり」の話になってるんですけど、個人的にはそういった呼び方に違和感を持ってて。「いじめ」という言葉は問題の矮小化というか、問題のレベルを下げているような印象を受けまして。大したことが無いように思わせるというか、そういうことを考えてしまってまして。というのは、学校での「いじめ」とかを子供達同士の悪ふざけだとか、そういうふうに捉えられてしまうっていうところが、僕は危険だなと考えています。学校での「いじめ」とかって、もっと警察とか弁護士とか、そういった人達をどんどん介入させるべきだなというふうには、個人的には思ってます。というのは、未成年者による暴行、器物損壊、侮辱、恐喝、あるいは殺人未遂といったそういったものの総称が、学校だと「いじめ」みたいになるというように感じてまして。これらの犯罪行為に教師だけだとカバーしきれないから、警察とか弁護士とかそういった人達が学校に介入していくべきじゃないかなというふうに私は考えております。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2023.7.15.「いじめ」

2023年07月15日 01時00分27秒 | 開催予定
「いじめの正体とは、“空気”です。特に右から左、左から右へと移動するこの国では空気という魔物の持つ力は実に強大です」(ドラマ『リーガル・ハイ』)


てつがくカフェ@ふくしま2023.7.15.
【テーマ】「いじめ」
【日 時】2023年7月15日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
https://us05web.zoom.us/j/87101242628?pwd=V21GK3lmTzdaT0hJTWJJOUVzaHpWZz09

        ミーティングID:871 0124 2628
        パスコード: nQs3br

【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

また、当日ぎりぎりの判断で全面 Zoom 開催に変更することもありえますので、

当日お出かけ前にこのブログで開催方法変更が告知されていないかお確かめの上ご来場ください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。




全国の学校が把握した昨年度(2022年)の「いじめ」の件数は、 61万件を超えて過去最多になりました。

いじめによる自殺や不登校もまた、前の年度から191件増えて705件となり、

過去2番目の多さとなったことが文部科学省の調査で明らかになりました。



文部科学省は、いじめ増加の背景に

コロナ禍で学校行事の制限や給食の黙食などが続いたことで、

人間関係を築くのが難しくなっていることがあるとみていますが

果たして本当にそれらの事が原因なのでしょうか?


また、「いじめ」は事件に発展する危険性もあります。

いじめが原因で自殺や死亡した事件は数多くあり、

さらには過去にいじめを受けていた被害者が

「復讐」を目的に殺人を起こすといった事件も存在します。



当日集まった参加者の皆様と一緒に

じっくりと「いじめ」について考えていきたいと思います。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2023.6.17.「ジェンダー×セックス」

2023年07月14日 13時19分21秒 | 定例てつがくカフェ記録
大変遅くなりましたが、6月17日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には10名、オンラインでは4名の計14名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・今月は「ジェンダー×セックス」というような形でテーマを掲げさせていただきました。2月にテーマを決めずに、皆様からどんなテーマで話したいかの意見を出してもらったんですけど、その時に色々とテーマ案が出た中で、ジェンダー問題については語り合いたいと。特に男女の話でもありますし、最近はLGBTQみたいなそういう問題もありますし、そのジェンダーの問題について話し合いたいねとのいうのが一方で出されたものですが、それとは別にセックスに関して、これは提案者は皆さんのセックスに対する考えを聞きたいと。自然的な性とか、そういう話じゃなくて、性交のセックスというふうに言っていたかと思いますが、それも含めてジェンダーのことも含めて話すし、セックスのことも話すし。また、このジェンダー×セックスは別にジェンダーとセックスを両方の話をジェンダーに絡めてセックス、セックスに絡めてジェンダーではなくて、ジェンダーの問題は話しもするし、セックスの問題も話してもいいかなというふうに思っているという形で、今日はむしろ二つのテーマを扱っていると言うぐらいのつもりでテーマを立てさせていただきました。なので、ジェンダーであれセックスであれ、どちらでも構いませんので、皆様の方からご自由にご発言いただければというふうに思います。よろしくお願いします。

・ちょっと言葉の使い分けのところで、はっきりしないなと思ったことがあったので、確認をしておきたいなと思ったんですけれども。LGBTQっていうのはジェンダーの問題なんです?セックスの問題なんですか?これをどう考えるのか、丁寧に考えると難しい問題のような気がしていて、なんかその辺でジェンダーとかセックスという言葉をどうやって使っていこうかっていう話のこの場での仮の合意になるのかなという気もしますので、その辺どう考えるのかっていうのを皆さんにお尋ねしたいです。

・これは私もブログでも、まぁ書いたのは別の世話人さんなんですけども。私はプログをアップする時にチェックしていて。一般的にはジェンダーの話のような気もするけども。トランスジェンダーと言った時にセックスの方というか、自然的性っていうんですか?そちらの問題のような気もするしと思って。どうなんだろうなと思って、自分の中で結論を出さないまま、投げかけてしまっていたところがあるんですけども。一番痛いところ突かれました。

・LGBTは私は単純に両方にかかってくるのかなと。Lはレズで性的には同一の方。Gはゲイでしょ?だからどちらも生物学的に同じ人がカップルを組みたいということで。まず、LGBTがどっちか片方に関わっているということじゃなくて、両方に関わっていると考えて。というふうに私は今お聞きして考えたわけです。それとともに、ジェンダーとセックスということについても、概念というか、どういうふうに考えるかとうのをちょっと整理しておく必要があるのかなと思うんです。ジェンダーって定義になるか?要するに社会的な男らしさ、女らしさというように、社会的に形成される性差といのを書かれたり新聞報道なんか出てるんですけど。これもっと具体的に言うと、ちょっと分からないことが出てきて。セックスについても。通常は男性・女性。肉体的な違いと言うことで分けられることが多いんですが、すぐ思うのはセックスだって。これはどういうふうに分けるのかなという気も起こってくるということで、それともう一つはセックスとジェンダーの関係をこう、ビチっとこう分けてんですが。セックスとジェンダーの間には、グラデーションみたいなセックス的なことからジェンダーの方に流れることもあるのではないかないう風に思ってるんで、まずは ジェンダーとセックスというのをどういうふうに定義的というか概念をはっきりさせることも一つ必要かなというふうに思ってまいりました。

・ちょっと停滞しているようなので、思いつきだけで言いますけど。あのジェンダーだっていうのが、社会的な意味での性別差でありという部分が良いと思うんですね。ただ今回LGBTQの法案が通りましたようですけれども、例えばその中で各党ごとに何案かが出ましたね。それで結局、与党案が通っただけで。例えば自民党与党案がセクシャルアイデンティティとかなんとかとかって言ってたのに対して、確か立憲とか共産党の出していたのが性自認という言い方をしてたわけですよね。その辺が違う。性自認というのは、素直に取れば自分で自分の性をどういうふうにどうなのかと。自分で自分の性がどれだというような話であってですね。非常にその個人的な話というかですね。社会的な性差というよりは、もうちょっと個人的なほうに振ってる案なのかなと思ったわけですね。そんなことを考えると、さっきのおっしゃってたセックスとジェンダーというのが、グラデーションであるかというと、そうではないとそんな感じじゃないんですけれども、切り離せないものだなという気はします。セックスと言った時に、ブログの方に書いてあったのは、いわゆるその性差。生物学的な性差みたいに書いてありましたけれども、日本で普通にセックスというと、性行為のこともいうわけですよね。「セックスしましょう」とか「セックスしました」とか。性行為というのも、例えばLGBTQの人たちって、例えばレズビアンの人だったらば、女同士で性行為をしたいとかするとかね。ゲイの人でしたら男同士で。男でも女でも相手は誰でもいいって、まあそういうふうに性行為の実際の性行為がどういう風になるかというのも、やっぱりlLGBTQの人達にとって非常に大きな問題で、それをジェンダーというような、なんて言うんですかね社会的な意味での彼らの人権であったりとかですね、権利であったりとか、そういうのはどういうふうに保証していくかっていうと、まあ社会的な目から見た話と同時にですね。性行為=性差ということに関しての問題というかですね。いろいろその考えるべき点と言うのも、LGBTQっていうのにもある。そういう意味でもジェンダーとセックスを完全に切り離すっていうことは考えにくいと言うふうに思います。

・今セックスとジェンダーのグラデーション的なことはちょっと考えられないという発言だったかと思うんですが。私が言ったのは、例えばセックスというのは生物学的な性差だよ、ジェンダーは社会的に形成されるんだよと言った時に、生物学的な性差といっても男性、女性それ、よく考えると中身は表面的な外観的なことだけじゃなくて、ホルモンの分泌だとかということで言うと。男性ホルモンあるいは女性ホルモンのその違いでも程度だと。男性と言われる人、女性と言われる人の程度に差があるんじゃないの?それが女らしさ、男らしさに通じていくんじゃないか?肉体的に外観的に要するに、男は男性的なものは筋骨隆々としてる、女性に比べると体格が大きいとか。あるいは筋力が増えやすいとか。それに対して女性は弱いとか、あるいはいろいろ、まあ違いがあるわけですけど。そういう概念的なことだけじゃなくて生理学的なことまで、ジェンダーの方に影響してるんじゃないかなというふうに考えて、それはグラデーション的なものもあるのではないかというふうに言ったんです。それとですね、特にジェンダーの場合は「具体的にこういうものがジェンダーだよ」ということを考えて取り上げていくと非常にいいことだとあちらの方もおっしゃってたけどと思います。具体的にこういうことがジェンダーと。というのは、要するにジェンダー平等ということを叫ばれているわけですけど、そういうことが分からないと「平等って何?」という話になってきてしまいますので。

・セックスに関しては性ですね、その男女二元論的な男女だけじゃない性があるということで、これはもう生物学的にもそういうことがあるわけで、それで前の方仰ったように、ホルモンの分泌量によってグラデーションもあると言うことは、私はこれははっきりしていることだと思います。ただここの議論の中で例えばそういうようなことをきちんと、つまり現在の何ですか?正しい認識っていうんですかね?それが分からないままで、そこの部分を議論しても、あんまり意味がないのかなっていうふうには思います。それでジェンダーというのは、私も社会的性差ということですから、男らしさ、女らしさこれはホルモンからくると言うことではなくて、いわゆる社会的に女らしさ男らしさというものを規定されている部分があるんじゃないかと。そういう部分をジェンダーの社会的性差というふうに私は考えているんですけれども。なんかもう少しその多様な、二元論的なではない部分に関して考えていかなかなくてはということまず言いたいということと。それから性を考えるときは今、性の構成要素とかって言って。先ほど仰ったように性自認をどう考えるかとうことですよね。やっぱり自分の生物学的な性はどうか?それから自分が好みの相手はどういう性であるとか。そこから、また自分がその表現したい性はどうかとか。まあ、そういうのもう四つぐらい構成要素が最低でもあげられて部分があって。どこの国だったかもう50種類ぐらいそういう意味ではですね、構成要素があるんだと。でそれを認めているところもあると。たしかタイは17ぐらいもうすでにその種類を認めているということですので。ちょっと何だろう?そういうような基礎知識みたいなものをきちんと持たないで定義づけるってことは、まずできないことなのかなっていうふうに思います。

上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。