てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

てつがくカフェ@ふくしま2024.4.20.「常識ってなに?」

2024年04月19日 14時01分30秒 | 開催予定
常識というものは世間一般に信じられているほどの根拠をもたない。
ーアルベルト・アインシュタインー


てつがくカフェ@ふくしま2024.4.20.
【テーマ】「常識ってなに?」
【日 時】2024年4月20日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/87860136066?pwd=VEmhQbjtfpmAZWDyqdunqsw4aAr3Qq.1
        ミーティングID: 878 6013 6066
        パスコード: 6K6g42

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回の「常識ってなに?」は、

1月に行われた「てつがくカフェ」で

参加者から募集したテーマの中から選んだものとなります。



まず、「常識」という言葉を調べると下記の文章が掲載されておりました。

常識…一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。
「常識がない人」「常識で考えればわかる」「常識に欠けた振る舞い」「常識外れ」
[補説]common senseの訳語として明治時代から普及。
[類語]通念・良識・思慮・分別ふんべつ・知識・教養・心得こころえ・コモンセンス

【引用:デジタル大辞泉】
URL:https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B8%E8%AD%98-79273



今回のテーマである「常識」と聞いて、

個人的に思い浮かんだ事柄は「歩行者の信号無視」についてです。



先日、車の走行中

青信号だったので交差点を直進しようとした際に

信号待ちをしていた一人の年配女性の様子が挙動不審だったので、

徐行して交差点に進入しました。

すると、その年配女性は突然、信号を無視して道路を渡ろうと歩き始めました。

私は慌ててブレーキを踏み車は完全に停止しました。

幸い対向車も停車したため、年配女性は道路を渡りきりましたが、

この時、私はその年配女性に対して「非常識な人だな」と感じました。



調べてみると、道路交通法第7条では

「道路を通行する歩行者または車両等は、

信号機の表示する信号または警察官等の手信号等に従わなければならない」

と規定されています。

罰則も定められているため、信号無視をすれば歩行者であっても、

最大2万円の罰金もしくは科料に処される可能性があるそうです。



上記のような事例もあり、私は

「交通ルールを守る」=「常識」

「信号無視をする」=「非常識」と捉えてしまいましたが、

皆様は「常識」あるいは「非常識」についてどのようにお考えでしょうか?



4月は進学、就職、職場の人事異動や転職といった環境や立場が変わる時期でもあります。

そうした環境や立場が変わればこれまで自身が常識と思っていた事が通じなかったり、

戸惑いを覚えたりといった事が起こるのではないでしょうか?



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告3.11特別編2024「福島サウンドスケープ-耳で振り返る震災・原発事故後の13年間-」

2024年03月31日 12時53分39秒 | 〈3.11〉特別編記録
大変遅くなりましたが、3月9日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には14名、オンラインでは4名の計18名の方にご参加いただきました。









・まず最初第一部ということで、永幡さんご提題いただきます。永幡さんは、ご存知の方はご存知だと思いますが、ほぼほぼ毎回のようにこの「てつがくカフェ@ふくしま」に参加してくださっている常連さんなんですけど、僕の同僚で福島大学の共生システム理工学部において、音響学の専門家でいらっしゃって。3.11の後ですね、ずっと福島市内のあちこちで録音を続けていらっしゃいまして。その音をずっと13年間分撮り溜めてきた記録をもとに今日は提題を発表いただきたいというふうに思っています。

・皆さん、こんにちは永幡です。座って喋るのに慣れていないので、授業とかといても立って喋ってるので立ったまま進めて行きたいなと思っています。今日のタイトルは「沈黙の春ー再考 サウンドスケープの視点から」となります。今映しているスライドの写真っていうのは、これから色々と出てくるところですので、今ここで説明するのは省いていきなり話に入ってきたいんですけれども、話を始めるにあたって多分サウンドスケープという言葉をあんまりご存知ない方の方が多いのかなと思います。ちなみにサウンドスケープという言葉にピンと来る方ってどれぐらいいらっしゃいますか?会場の中でも、極めて少数派なのでまずはその説明からにしたいと思います。「サウンドスケープ」というのは音響学の分野で定義されている言葉なんですけれども、「あるコンテクスト(背景、状況、場面、文脈)の中で個人または人々が近く経験・理解した音環境」という風に、とてもややこしい定義になってます。何故こんなややこしい定義するかというと、古くから音響学の中でその音の問題を考える時に、あんまり人がどう聞いて音を聞いているかどうかってことを意識することなく、機械で測るとか、そういうようなことで、なんか音の環境の事はちゃんと分かったような気になってる時代が長く続いたので、それじゃまずいでしょっていうところから、こういうふうに人が一体どうやって音の関係を聞いてるんだろうかってことにも注目しましょうということで立ち上がったからです。あんまりこの話を長くするとややこしくなってしまうので、ごく簡単なところだけ一言二言説明しておくと、人あるいは人々と音環境との関係性を読み解く分野なんだって思っていただけると、大きな間違いはないだろうと思っています。その音環境っていうのは、物理的な特徴の把握をすることを主としますし、人々っていう部分に関しては心理的あるいは社会的な反応なんかを記録しながら、それらの関係性を見て行きましょうというような研究を普段はしています。このサウンドスケープという概念は元を辿るとマリー・シェーファーという人、2021年に亡くなってしまいましたけれども、カナダの作曲家の方が作り上げた概念だと言えます。言葉自体は、それより前に使ってる人がいるっていう報告が最近色んな所でされてるんですけれども、多分それはそうなんだろうと思いますが、実際にその言葉を学術的な意味づけを初めて付けた人は誰から言うと、このマリー・シェーファーに遡るのが正しいだろうと思ってます。この方はカナダを代表する作曲家でなんですけれども、1965~75年ぐらいまでサイモンフレーザー大学というカナダのバンクーバーの隣町だったと思いますけれども、バンクーバーから電車に乗って行くことができますが、そこで教えて方です。この人の主要な著書というのが『チューニングオブザワールド』は日本があって、日本語では『世界の調律』と訳されておりますが、こんな本です。今、手に入りやすいのはこの一番右側に文庫版と言っても分厚い文庫なので、すごく値段は張るんですけれども、それだけの読む価値はある本だと僕は思っていますけれども、そういう本があります。この話にも少し後で出てきますけれども、もう一個の大事なキーワードは『沈黙の春』です。『沈黙の春ー再考』というタイトルで出てますから、『沈黙の春』なんですけれども、『沈黙の春』っていうのはレイチェル・カーソンという人が書いた本のタイトルです。新潮文庫から出版されていて、今日会場で持ってきてるのは、古いので表紙が違ってますが、中身はどちらも同じです。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』というのは、国際的に環境問題に関心が高まったきっかけの一つと言われていて、いわゆる名著と呼ばれているような本の一冊です。『沈黙の春』というのを読んだ事ある方ってどれぐらいいますか?結構皆さん読んでますね。でも、読んでらっしゃる方もいるだろうと思ったので、持ってきていて今日の話を進めるのに、必要な所だけ少し朗読したいかなと思います。冒頭の部分なんですけれども、「明日の為の寓話」というふうにタイトルが付いています。
(以下朗読部分)


1.明日のための寓話

 アメリカの奥深くわけ入ったところに、ある町があった。生命あるものはみな、自然と一つ
だった。町のまわりには、豊かな田畑が碁盤の目のようにひろがり、穀物畑の続くその先は丘
がもりあがり、斜面には果樹がしげっていた。春がくると、緑の野原のかなたに、白い花のか
すみがたなびき、秋になれば、カシやカエデやカバが燃えるような紅葉のあやを織りなし、松
の緑に映えて目に痛い。丘の森からキツネの吠え声がきこえ、シカが野原のもやのなかを見え
つかくれつ音もなく駈けぬけた。
 
 道を歩けば、アメリカシャクナゲ、ガマズミ、ハンノキ、オオシダがどこまでも続き、野花
が咲きみだれ、四季折々、道行く人の目をたのしませる。冬の景色も、すばらしかった。枯れ
草が、雪のなかから頭を出している。その実やペリー(奬果)を求めて、たくさんの鳥が、やっ
てきた。いろんな鳥が、数えきれないほどくるので有名だった。春と秋、渡り鳥が洪水のよう に、あとからあとへと押し寄せては飛び去るころになると、遠路もいとわず鳥見に大勢の人たちがやってくる。釣りにくる人もいた。山から流れる川は冷たく澄んで、ところどころに淵をつくり、マスが卵を産んだ。むかしむかし、はじめて人間がここに分け入って家を建て、井戸を掘り、家畜小屋を建てた、そのときから、自然はこうした姿を見せてきたのだ。

 ところが、あるときどういう呪いをうけたのか、暗い影があたりにしのびよった。いままで 見たこともきいたこともないことが起りだした。若鶏はわけのわからぬ病気にかかり、牛も羊も病気になって死んだ。どこへ行っても、死の影。農夫たちは、どこのだれかが病気になったという話 でもちきり。町の医者は、見たこともない病気があとからあとへと出てくるのに、とまどうばかりだった。そのうち、突然死ぬ人も出てきた。何が原因か、わからない。大人だけではない。子供も死んだ。元気よく遊んでいると思った子供が急に気分が悪くなり、2、3時間後にはもう冷たくなっていた。

 自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。みんな不思議に
思い、不吉な予感におびえた。裏庭の餌箱は、からっぽだった。ああ鳥がいた、と思っても、
死にかけていた。ぶるぶるからだをふるわせ、飛ぶこともできなかった。春がきたが、沈黙の
春だった。いつもだったら、コマツグミ、ネコマネドリ、ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声
で春の夜は明ける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが、いまはもの音一つし
ない。野原、森、沼地 みな黙りこくっている。

 農家では鶏が卵を産んだが、雛は孵らず、豚を飼っても、何にもならなかった。小さい子ば
かり生れ、それも 2、3 日で死んでしまう。リンゴの木は、溢れるばかり花をつけたが、耳を
すましてもミツバチの羽音もせず、静まりかえっている。花粉は運ばれず、りんごはならない
だろう。

 かつて目をたのしませた道ばたの草木は、茶色に枯れはて、まるで火をつけて焼きはらった
ようだ。ここをおとずれる生き物の姿もなく、沈黙が支配するだけ。小川からも、生命という
生命の火は消えた。いまは、釣りにくる人もいない。魚はみんな死んだのだ。

 ひさしのといのなかや屋根板のすき間から、白い細かい粒がのぞいていた。何週間まえのこ
とだったか、この白い粒が、雪のよう、屋根や庭や野原や小川に降りそそいだ。

 病める世界 新しい生命の誕生をつげる声ももはやきかれない。でも、魔法にかけられたのでも、敵におそわれたわけでもない。すべては、人間みずからまねいた 禍いだった。
 
 本当にこのとおりの町があるわけではない。だが、多かれ少なかれこれに似たことは、合衆
国でも、ほかの国でも起っている。ただ、私がいま書いたような禍いすべてのそろった町が、
現実にはないだけのことだ。裏がえせば、このような不幸を少しも知らない町や村は、現実に
はほとんどないといえる。おそろしい妖怪が、頭上を通りすぎていったのに、気づいた人は、ほとんどだれもいない。そんなのは空想の物語さ、とみんな言うかもしれない。だが、これらの禍いがいつ現実となって、私たちにおそいかかるか 思い知らされる日がくるだろう。

 アメリカでは、春がきても自然は黙りこくっている。そんな町や村がいっぱいある。いっ
たいなぜなのか。そのわけを知りたいと思うものは、先を読まれよ。

(レイチェル・カーソン著『沈黙の春』新潮文庫、新潮社、1974 年。)

というふうに今読んだところなんですけれども、「春が来たが沈黙の春だった。今は物音一つしない。野原は森、沼地、皆黙りこくっている」というところからこのタイトルがきてる訳ですね。これ、なんで鳥も何でもかんでも、皆が黙りこくってしまったか。これは化学物質、農薬とかですね。それをバンバン使うようになって、その結果として生き物がみんな死んでしまった。実際にアメリカで今みたいにすごく本当にそういうような町がある訳ではないんだけれども、タイトルは「明日の為の寓話」と付いてましたけども、色んな所で起きている事をどんどん足し合わせていって、なので全てが同時に起こっているような所ってのはその当時もなかったようですけれども。なんだけれども、一個一個の話っていうのはあるような感じで。今のままほっとくとこうなるよってことを警告したそういう本です。その化学物質で生き物がいなくなった春を描写したので、そこから始まってる。コレだけ今日認識して頂けると、この後の話に付いていけるのかなと思っています。それと、録音を聞いてもらう前にもう一言だけ付け加えてお話しておきたいのがサウンドスケープについて。僕の分野の研究分野において、「沈黙」というキーワードは結構大事なキーワードなんだよってことを人と話したいと思います。『世界の調律』という本の中では、「沈黙(サイレンス)」というのが一番最後の一個前の章にあります。その「沈黙」について色々語られていますが、そこから大事なことを抜き出しておくと「心と精神の落ち着きを取り戻すためには、静寂な時間が必要だ」てのが、「沈黙」を考えるとキーワードです。もう一個のキーワードとして、大事なことは「生命と繋がる概念であり、死と繋がる否定的なものと捉えられる傾向にある」と。だから今の『沈黙の春』というのは、正に後者の方のパターンで書かれている。なので、この『沈黙』には二つの意味があるんだという事をまず最初にお話ししておきたいと思います。今日この後、20分から30分ぐらい音選んで聞いてもらおうと思ってるんですけれども、原発事故後に福島市内の定点観測をずっとしていました。大体同じ場所で音を取っています。その音がどのように変わっていったのかっていうのを、是非聞いていただきたいなと思ってるんですけれども。録音を始めたのが2011年5月1日です。なぜ5月1日かというと、その前日まで福島大学で避難所やってました。避難所を手伝っていてなんか気分が録音しようという気分になってなかったっていうのが一つ。あともう一つは、僕の研究室が酷いことになっていて、今日レコーダー持ってきてますけどこれの風防が見つからなかったんですね。この風防がないと風がちょっと吹いたらもう音は取れません。現実的に取れなかったというのも実際あります。「なんでもっと早く取らなかったんだ」というのを色んな事で色々言われたりするんですけれども、そういう二つの事情から録音始めたのはその辺になってしまいましたという所です。この後、いくつか音を選びながら聞きたいと思います。


~録音再生/10分休憩~

・それでは、第二部の「てつがくカフェ」を始めていきたいというふうに思います。第一部で永幡さんから「福島サウンドスケープ」をご提題いただきました。『沈黙の春』ということに関しても色々とお話いただいたんですが、それを踏まえて13年間振り返るとということで、まずは聞いてみての感想でも構いませんし、最後に永幡さんからいくつか今日皆さんに考えていただきたいテーマみたいなこともやらせていただきましたので、それらもぼんやりと考えていければというふうに思っております。

・今「小鳥の森」を意識してなかったという話が出たんですけど僕はですね、小鳥の森いつ行ったんだったかな?多分(震災から)一年経ってないぐらいで行った記憶があるんですけども、あそこだけはちょっと異様に怖かったっていうか。行って凄く「何かあるなぁ」と感じるぐらい。だから、見えない放射線を感じるぐらい僕はなんか凄くここに長居してはいけないと感じるぐらい。 なんか恐ろしさがあったかなというのは、それを急に思い出しました。

・永幡さんの説明をお聞きして、単純な感想なんですけどタイトルに書いてる「耳で振り返る震災原発事故後の13年間」ということなんですが。これ「耳で13年間を振り返るって難しいなぁ」と思って。結局の所、音だけでは中々理解できないかな。「サウンドスケープだけでは理解しづらいなぁ」と思って聞いてました。要するにサウンドスケープ=音風景と(動画を)見合わせて聞き合わせないと中々理解できないのかなという。そうすると、単純に耳で振り返ると書いてあるんだけど、中々それは理解できなかったかなというのが私の感想。それと「小鳥の森」について今ちょっと話題になってましたけど、私は原発事故前から偶に「小鳥の森」に行ってたんですが、画面に出て小鳥たちの鳴き声が聞こえる場面も出てきましたけど。原発事故前も別に人の出入りってあんまり無かったような場面にしょっちゅう出くわしてたんです。私の行く時間帯が悪かったのかもしれませんが。ということで、人はあんまり出てなかったし、それに対して小鳥は盛んに囀っていたという状況は変わってなかったから画面を見てて、そういう印象を受けました。ただ、場面を見て音と重ね合わせて理解しますと。やっぱり原発放射線の線量が高くて、人手が少なくなったと。その辺はよく理解できたかなと思いますし、あとコロナ禍が始まってからも、あまり外出しなくなったということで人手が少ない場面があってそうだったなという感想です。

・あの「小鳥の森」に関しては、多分時間帯によるんだと思います。あそこはやっぱり学校の研修で行くとか、そういうのが多かったりとか、元々子どもたちがよく行くような場所。子連れで行くような場所だったので、そういう時間帯に行くと常に誰かいるんだけれども。あんまり子どもが来ないような時間帯を狙っていけば確かに。元々少ないと言えば少ないのかもしれないですね。

・貴重な資料ありがとうございました。あんまりよく理解してないので、単純な質問なんですけども、『沈黙の春』だと動物のようなものが沈黙するじゃないですか。水俣も猫から沈黙していくじゃないですか?今回福島の資料を見た時におり、「アレ?沈黙してないじゃないか」というか。「えっ?全然沈黙してないじゃん?」という感じで思ってて。でも、人間は沈黙してるんですけど、そのギャップっていうか。どういう風に捉えればいいのかなっていうのが、今日見せてもらった資料をレイチェル・カーソンの『沈黙の春』とか水俣と比較してギャップが捉え方を教えていただければなと思ったんです。

・基本自由に捉えてもらったらいいなと思ってるんですけれども。僕自身の捉え方としては、レイチェル・カーソンが言ってる『沈黙の春』とは違った沈黙が起こってるんだと思っていて。コロナで起こった沈黙もやっぱりレイチェル・カーソンの言っている事とは違った事が起こっていて。なので、20世紀に起こった『沈黙の春』、あるいは「沈黙」というものと、21世紀に我々が今経験している「沈黙」というのは同列では語れないだろうなと僕は考えています。

・さっきの『沈黙の春』というのは、あれは実際にあったこととまた違うんですか?じゃあ、まず質問で人間もアレだし動物もアレだって『沈黙の春』で、最初説明あったんですけど、あれは実際にあったことなのかな?まずそれ一つね。そして、あとこちらの方も言った通り、私も一番最初「小鳥の森」とか、人はね、あの出てこないんだけども、結局原発もやっぱり科学のアレですよね。それなのに小鳥とか、そういうの沢山鳴いているでしょ?だから、こちらの方も言っているように、私もそこで「アラっ?」て一瞬思ったんですよね。あの原発の近くでなくて、「小鳥の森」はかなり離れているから、鳥は色々飛ぶからね。だから私、最初の一つとあと二つ目の質問は相馬市の原発があった所は、そこの野生の鳥というのはどうなのかしらなと思ったの。「小鳥の森」みたいに騒々しく鳴いてるのかなって。それ2つ目の質問なんですよね。そして、あくまでも。鳥はあくまでも野生だからね。野生だから別にその辺はどうなのかな?例えばだよ、鳥かごに常にね、野生じゃなくて鳥屋さんに売ってる鳥かごにね、売ってるペットセンターで売ってるね鳥をどこを原発の放射線の高い所に置いたら、その辺は野生の鳥と変わるのかな?って。この三つね、私それさすごくね感じたの。その三つの質問ちょっとお願いします。

・まぁ、答えられる方がいらっしゃったらどなたでも。永幡さんいかがでしょうか?

・レイチェル・カーソンの『沈黙の春』はあれ、あのままのことが起こっている所はまず無いと著者自身が書いていて。ただ、色んな所で起こったことを重ね合わせて行くとああいう風な事に、最終的になってくんじゃないかっていう問いかけで書いています。なので、完全に全てが黙りこくった所というのは無いと思います。野生の生き物がどうかという話については、多分世話人とかあれだよね相馬市に近いから、後で補足してもらえればと思うんですけども、基本的に少なくとも耳で聞こえる範囲では鳥は減ってないんではないかと思います。色んな仕事で相馬市の方に行くことあるんですけれども、別に普通に鳥は鳴いているし。あとチェルノブイリの時の記録っていうのは、これもCDが出てるんですけども、やっぱり録音した人が居て。チェルノブイリの場合は、本当にもうチェルノブイリのかなり近くで録音してるんですけれども、やっぱり生き物の声はちゃんと聞こえてるし、むしろチェルノブイリに関しては、人が完全にあの日本以上にその広い範囲に渡って住むことが出来なくなったので、なんか野生の王国になってるというような報告もあるようですから。その意味で例えば、遺伝子レベルで何が起こってるかとかっていうのを厳密調べ始めたら、もしかしたら何かあるのかもしれないですけども、少なくとも耳で聞こえる範囲、目で見える範囲で見る限りにおいては、生き物は生きてますよね。それは間違いないと思います。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓








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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま3.11特別編2024「福島サウンドスケープ-耳で振り返る震災・原発事故後の13年間-」

2024年03月18日 12時38分26秒 | 開催予定
てつがくカフェ@ふくしま2024.3.9.
【テーマ】「福島サウンドスケープ-耳で振り返る震災・原発事故後の13年間-」
【日 時】2024年3月9日(土)
     14:00~15:00 提題/「沈黙の春」再考:サウンドスケープの視点から
     15:10~17:00 てつがくカフェ
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/86379270927?pwd=NL3KZaC50BwCVYhfxBfC1bU5Wc3R2y.1
        ミーティングID: 863 7927 0927
        パスコード: 1gu5e7

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp(世話人/石井)





てつがくカフェ@ふくしまの常連参加者のお一人である永幡幸司さんは、

福島大学共生システム理工学類の音響学の専門家として、

2011年5月8日より福島市内の各所で継続的に音を録取し、

「福島サウンドスケープ」として発信し続けています。

「サウンドスケープ」とは音の風景という意味で、

環境のなかで軽視されがち、ないしは後回しにされがちな音に注目し、

音が織りなす環境にスポットを当てていこうとする概念です。

13年にわたって録音された福島サウンドスケープは、

震災・原発事故が福島市民に及ぼした影響や、

その後少しずつ復旧・復興していく様子、

さらに、コロナ禍がもたらしたまた少し異なる変化などを、

克明に記録しています。



当日はいつもより1時間早い、14時00分スタートで、

永幡氏より約1時間ほど、編集された「福島サウンドスケープ」に基づいて、

「『沈黙の春』再考:サウンドスケープの視点から」というタイトルで、

ご報告いただきます。

それをじっくりお聴きいただいたあと、

「耳で振り返る震災・原発事故後の13年間」というテーマで、

哲学カフェを行っていきます。

これまで映画などを題材に、映像を見ての特別編は何度か企画しましたが、

音を聴いての特別編というのは初めての試みです。

是非皆さまご参加いただき、福島の音に耳を傾け、

感じたこと考えたことを自由に発言してみてください。



今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.2.17.「てつがくに何を求めているのか?」

2024年03月17日 14時38分56秒 | 定例てつがくカフェ記録
2月17日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には13名、オンラインでは5名の計18名の方にご参加いただきました。





・今回のテーマは「てつがく」は平仮名にさせていただいて、ダブルミーニングというかいわゆる「哲学」ですね。哲学という学問に対して何を求めるのかっていうことと、この哲学カフェは福島をここでやってるわけですけども、その「てつがくカフェ」とか「てつがくカフェ@ふくしま」とかに何を求めるのかと。そういうようなことでダブルミーニングで「哲学」に何を求めるのかと言うことで、本日のテーマとさせていただきたいと言うふうに思います。

・あの哲学というものがなぜ必要になるのかということは、人間がまずいろいろ疑問を持つからではない。というのが始まりだと思いますが。「なぜ私がここに居るのか?」「なぜ世界があるのか?」ていう風な意味で疑問を持ち始めたことが哲学の始まりかなと思います。日々何も考えずにその日、その日流されて生きている方には哲学は必要はないのかなと。だから、自分自身が疑問を持つことが一番初めではないかなと思います。

・まず哲学の始まりという話いただきました。

・続けてそうですね、若い頃にいろいろ本読んだり、形而上学とか読みましたがもう五十年前のことでもう忘れました。その後も色々論理学とかチラチラとこう齧っては来たんですけれども。一番疑問に思ったのは「なぜあのこの世の中に悲しいことが多々あるのか?」ということ思って。まあ、若い頃ですから20代ぐらい?それを個人の力ではどうすることもできない。どうすることもできないけど、見てるしかないんだけれども、まあ悩んでどうにかしたいんだけど。多分ですね今回の石川県の被災でも、それなりの個人個人ができることはあると思うんですけれども。でも全世界の人々を救うことはできない。ということは、疑問に思って日々悩んか悩んだこともあります。ということをお伝えしたいと。

・今日は「哲学になにを求めているのか?」っていうことなんですが。要するに「哲学って何だ?」ということだと思うんです。で、色んな学問「哲学」も学問の一つかなということなんですけど、経済学にしろ法律学にしろ(学問の)対象があるんだと思うんですね。で、哲学の対象と何かというと「哲学だよ」って言われると、もうそうかなって気がしないでもないんですけど。まぁ、私はざっくばらんに言って哲学の対象っていうのは考え方っていうか、真相。神の問題も含めて「神ってなんだ?」というか。ちょっと前に神の問題を(てつがくカフェで)話し合いしたんだけど、世話人から「神が存在するのか?しないか?」非常に大きな問題、そういうの考える分野として「唯心論」ってのがあるって言われたんですけど。でそういう意味での神なんかも哲学の対象かなと風に思っているんです。だから大雑把に言葉の使い方として、東洋哲学とか西洋哲学とか、場合によってはギリシャ哲学色んな言われ方をするんですよね。法律学は法律を対象としてる。でも、法哲学っていうのもありますよね。学生時代に習ったような気もしないでも。あるいは経済学にしたって、ものすごく細かく行くと色んな風に分かれてるわけですけど。で、哲学についてはニーチェの哲学とか、マルクスだとか、あるいはスピノザだとかデカルトだとか、カントだとかヘーゲルだとか。まあ、そういうのを取り上げて、ヘーゲル哲学、カント哲学とか個人個人の考え方も含めて、哲学っていう風に呼んだりしてるわけだけど。まあ。大雑把に言って、考え方や思想を対象にしてるのかなというふうに思っているんです。哲学の役割とか哲学の狙いっていうのは、これも非常に曖昧な言葉ですけど「本当の事を追求する」。「本当の事ってなんだ?」っていうことになるとまた問題なんですけど、真実だとか事実とかいろんな形で言い換えられると思うんですけど。要するに「本当の事って何?」っていうことそれを主に追求するのかなというふうに思っております。

・ええ今日の「何を求めるのか」というのが議題になってますけども、結局「何を求める」っていうことは、あのうまぁ哲学の場合は「真理」が一応の究極の目標だと言われてはおります。それであの先ほど。ああ、前回ですか?前々回かその前か「神」についての対話もありましたけれども結局ね、哲学は心理を求めて神の神学、宗教神学は神の存在を求める。結局、それは自分が救われるということにつながる。というか、それを求めているのかなと。結局、哲学は心理を求めて、その心理によって自分自身が、まあ世界も合わせてかもしれませんが、救われるということ。宗教はまぁ、自分自身もまた世界も神によって救われるのではないかということを求めているのではないかと思います。

・私、あの哲学が何を求めるかっていうのはちょっと私お話ししないんだけども。あのー、デジタルクーポンってありますよね。スマホ持ってる人はデジタルクーポンを手続きして5000円で、で1500円とかね。あれさ、スマホ持ってる人は5000円で1500円、1万円で2,500円。それ全部さ、補助はさ税金でやってんだよ。いや、それは別に構わない。こっから私の言いたいことはスマホとかさ無い人ね。わざとそういうのない人ね。全くのゼロだよ。これはひどいじゃないですか?本当にひどい。補助はなんでも税金からやるよ。けどさ、スマホのない人はゼロだよ。ひどいよこれは。そして私もちょっとその話しをしたらば、みんなそれさ不満持ってさ。電話ジャンジャンいったみたいね。そして、初めて2回目にデジタルのあれ紙になったのね。前は紙クーポンだったんだよ。最初この人は二期目だからね今度。最初は紙クーポンだったんだから平等に。そして二期目選挙に受かった途端には、全くのもうこれはひどいよ。すべて税金でしょ?機械の無い人がゼロだって?ちょっとそれでジャンジャン苦情がいっぱいいったみたいね。それで2回目そうなったみたいね。紙クーポンでっていうこと。あれさ、なんにも言わないで黙ってね、お上の言ってることだから何でもハイハイって聞いてみな。そのまま行っちゃうから。あんまりキャンキャン皆が騒いだもんだからそうなったんだ。だからね、我々はね。まともな人選ばないとダメ、本当に。誰とは言わないけれども。野球だって監督が変わればチームも変わっかんね。トップが変われば変わるんだから、なんつったって。そう、私はね、モヤモヤをね。もう本当に私の言ってた事に対してね、あなた達はでどう思うか、そういうのも聞きたいですよ。本当になんでもかんでもうんうん。あのこの人はさあまあ、色々決める人がさ、もういいとこのまあアレだから、もう田舎のこっちに来ては皆逆に舐めて馬鹿にしてんだよね。そんなことしないからね。最後ちゃんと平等に紙クーポンでやったんだ。全くねえダメだまともな人を選ばないと。あとね、とても変だなと思うと騒がなきゃだめ、私一人でどうしようもないけど、みんなでガンガン騒いだからそうなったんだからね。私考えて。まあいろいろ考えて、これでもうすぐあと、あのね、なんか先進国だかなんだかね、日本はねまあ豊かなんだけど。自殺率がナンバーワンのね。自殺率ナンバーワンだよ。先進国だか世界だかなんだかで何か言ってたんだ。ラジオで言ってましたラジオ。結構ね、テレビだとね。案外制限されて本音は言わないんだよ。ラジオだと結構本音で言うんだ。市議会でだっけ?自殺率で言ってた。ねぇ?まあ、政治家はすごいと思う。政治家になって金が入ったら、もうそういう所に頭ばっかり行ってるから、そっちの方ににばっかり政治家は行ってんじゃないの、政治家は?30年間ずっと一般庶民の人がさ、全然戦前から豊かにならなくてね。だからなれの果てそうなったでしょ?政治家はね、もういい加減金取る方にばっかり頭行ってんだ。いかに国民のことを考えててとか、そうじゃないよ。まあ、あの政治の人見てて、分かるでしょ。だから、本当にもうそれを選んでいるのは我々だから、もうちょっと利口になきゃならないと思います。私、今三つ言いましたけど、これに対してまあね、いろいろ考えて。まあそれに対してどう考えているか聞きたいなと思いまして、終わります。

・デジタルクーポンが出てきて、めちゃくちゃ面白いなって思ったんですけど。まあ、実際そのスマホがないと言う点で政策の利益を受けるかどうかが決まってしまうっていうのは、デジタル化を推進していこうっていう政策の不備があるかなっていう。それをまあ、政治主導で行うか、公共の場で行うかわかりませんけども、まあ、スマホの復旧とかデジタル機器の利用を推進して行くという政策も含めて行うべきだったなって言うことは僕も感じております。で、でその後、広くまあ哲学というところに結びつけるのであれば、その政治の進め方ということについても、まあギリシャ哲学も然りですし、あとフランス革命当時ギュスターヴ・ル・ボンとかの辺りの人は民衆と政治の関係ですよね。その辺りもまあ、話してる人も結構いるので、今の話も全く哲学とは無縁ではなくて、関わりのある話かなと思って伺ってました。それで、自殺率が多いというところで、まあそこでもこう社会においてどう生きるかであるとか、社会における人はどういうものを求めているか、何をする人かっていうのを考えるっていうところも、やっぱりその哲学のフィールドにあがってくるのかなというふうに感じています。だからその辺り、ちょっと深めると面白いかなって思うます。

・今回参加は2回目になります。まず私の方から考えとしてお伝えしたいのが、二つ大きくありまして、一つが「哲学をするってどういうことなのかな」っていうことです。私は元々福島大学出身で世話人の倫理学の授業とか、あと哲学の他の先生の授業とかも受けたことがあるんですけど、哲学と倫理学ってなんかどう違うのかなっていうのが私よくわからなくて。哲学も専門で勉強してきたことはないんですが、道徳的なものとかとあと哲学するってどういう?違いがあるのかなっていうのがあんまり分からないので、まあそこを皆さんにお聞きしたいなって思ったっていうことと。あともう一つが、「哲学に何を求めるのか?」っていう今回の議題についてなんですけれども、自分のことについて言った時に考えられるのが、私の話になっちゃうんですけど、私は自分が分からないし、他人のことも分からなくて、自分と他人を理解するため、結局自分って何なんだろうとか、他人がわかんないから。わかることは絶対できないんですけど、でも、その足しにするために哲学するっていう行為、ちょっと本を読んだりとか、そういう本当に勉強ってほどではないんですけど、そういうことをしているんだろうなって。そして今、こういうふうにZoomを通して哲学カフェに参加させていただいて、皆さんのご意見とかを聞かせていただいて。じゃあ自分って何なんだろう、「どういう考えを持ってるんだろうっていうのを深めたいのかな?自分は」って言うふうに思っています。

・今日のテーマ「哲学に何を求めているのか?」ってこれ主語がないじゃないですか?だからいろいろ広いなあと思っているんですけど。まあ、でもやっぱり「誰が」によって答えは結構変わるもんだなぁっていうのが、まず最初に思ったことですで。またですね。この哲学がひらがなになってるっていうところも、まあ学問としての哲学じゃなくて、哲学カフェとかそういった試みについてもあるというお話ありましたけど。そうすると「哲学カフェ」とか、「哲学対話」と呼ばれるものに求めるものっていうのが、哲学に求めてるんじゃない場合っていうのも当然あるのかなと思うんですね。例えば、その人が集まる場を求めているので、別に哲学カフェじゃなくてもよかったとか。あるいは、そういう機会を求めている、そういう哲学的な話とか、ちょっとなんか小洒落た話とか、カッコつけた話とかをしたいな。人にかっこいい、頭いいって思われたいなっていう。そういう機会とか承認とかを求めたりする場合も、あるんじゃなかろうかと思うんですね。純粋にと言っていいのかどうか、分かんないですけど、哲学に求めているそういう気持ち、「哲学やりたい」「哲学的な話に触れたい」というので求めているのは、やっぱり知的な刺激を求めているんじゃないかなと思うんですね。で、それはなんなのかっていうと、やっぱり「分からないことの答えを何かしら求める」っていうのが人間の中には共通してあるんじゃないのかなって気がします。で、「分からないの答えを求める」っていうものなんだとするとですね。俺は分かってんだぞっていう人にはその欲求が多分ないんだと思うんですね。だから、分かってるつもりの人には哲学は多分魅力のないものなんだと思います。でも子供がまあ、三歳とかぐらいの子供が家の中のことがだんだん分かってきて。あっちに行ったらそのお水があるとか、あっちに行ったら遊ぶ場所があると。家の中のこと全部わかったぞといざ外に出てみると、知らない世界がそこに広がってるわけですね。で、幼稚園に行くとか、ご近所が広がっていって、いつも行く場所から今度かなり遠い場所に行く。大人になって見ると、近くのスーパーだったりするんですけど。でもちょっとした冒険だったりしますよね最初の頃。それが市内とか県内とかそういう風に広がっていくと分からないことだらけになっていて。で世界の他の国があるっていうことを知ると、さらに分からないことが広がって分からないことだらけは、もっと広がる。それを分かったつもりにならないっていうことをしないと哲学って何の意味もないのかなって言うような気がします。「哲学に何を求めているのか?」っていうのは、だから、分からないと思うことに対しての答え、純粋なその好奇心を満たすものなんじゃないのかなと思います。

・最初に今日のテーマが「哲学に何を求めるか?」ということだったんで。それは哲学っていうのは、他の学問も色々と対象に思ってるでしょう。だから哲学の対象って何かっていうことを言ったんですが。求めてるもの、哲学の対象は哲学かっていうと、なんか訳分かんなくなるんですけど。物事の本当のこと、真実とか事実とかって言い換えてもいいと、そういうものを求めるのかなと言うふうに思うんですが、今日のテーマ「哲学に何を求めるか?」ということで出されているわけですが、これについてはここに出席する、あるいは参加する人が、哲学それなり哲学というものを考えて、その哲学に何を求めるのかっていうことの意見を求められているのかなというふうに思ったんですが、先ほど終了が出てないんじゃないかということだったんですが、我々出席者が哲学について考えて、その哲学に何を求めるかっていう意見を求められているということ。あるいは視点を変えて、社会から見て哲学はどういうことを求められてるのかっていう、そういう考え方もできると思うんです。まあ、そういうことで主語の問題、哲学とか倫理の人が出てきたんですが。まあ、哲学と倫理の違い、まあ私やっぱり、単純な頭で考えて倫理というのは、いわば哲学の一つの分野と考えていいのかな?中身は人と人との関係で望ましい。それはダメなものも悪い場合も含んでいるわけですが、望ましいあり方を倫理学かなと考えています。ということで、倫理学は哲学の一分野と考えて良いのではないかな?世話人が倫理学の教授ということであれば、その点、哲学と倫理学の違いをどう考えなってるのか、お聞きできればいいなというふうに思ったんです。

・それは答えなきゃいけないだろうなと思っておりました。まあ答えるっていうか、僕なりの考え方ということですけども。哲学というのは、先ほど皆さんがおっしゃってくださっているように、その分からないものを求めて行く。だから、正にソクラテスは「無知の知」って言ったわけですけど、自分は知らない、答えを知らないんだと。皆その当時のソフィストと言えば、知恵がある者、知識のある者、知恵を持っている者っていう人たちがソフィストなんですけど、ソフィストたちは「自分たちは答えを知っているぞ」っていうふうに言ってたんだけど、自分は全然答えを知らないのに。それで、とある神殿の信託によってソクラテスが一番知恵があるんだっていう風に、そういう信託があった時にソクラテスは「でも、私は何も知らないのに」と。そこではたと考えて、「自分は知らないということを知っている」「答えを持っていない」「答えを知らないからこそ、知りたくてたまらない」と。だから、哲学は「フィロソフィア」っていうわけですけども、これ要するに知を愛するって何かっていうと知りたくて知りたくてたまらない、自分は知らないので知りたくて知りたくてたまらない。そういう意味じゃ心理とか本当のことを求めていくっていう営みが哲学の出発点にあったんだろうなと。で、僕は哲学っていうのはあまり良い訳語(翻訳)だと思っていなくて。経済学は経済を学ぶし、心理学は心理を学ぶんだけども、哲学の哲って何だろう?「聡い」とか「賢い」とかっていうような言葉なんですけど、もともと「希賢哲学」っていうふうに訳されたのは明治時代に。つまり「希」は希望、「賢哲」は要するには知恵ですね。知恵と賢さ、賢さを望む=「フィロソフィア」。まあ、賢さを望むっていう風に訳して「希賢哲」と訳したんだけど、それがまあ略されて「哲学」になったわけですが。「哲学」って僕意味分からないなっていうふうに思っていて。僕は「フィロソフィア」は「哲学」なんて言う変な言葉じゃなくて、「学問」って訳せば良かったんだと僕は思ってます。実際に18世紀19世紀の初めぐらいまでは全ての学問は「哲学」というふうに呼ばれていて。つまり、「ナチュラルフィロソフィー」「モーラルフィロソフィー」。全ての学問が「フィロソフィー」だったんですね。で、それは何かっていうと、正に皆知らないから、自分で考えて答えを提示するんだけども、その弟子たちはそれを信じるのではなくて、それをまた疑ってかかると。「本当にそうなんですか?違うんじゃないの?」と。で、また自分で考えると。だから、哲学は本当に哲学者の数だけ哲学があって、思想家の数だけ思想はあると。そうすると、その考えた人が沢山いれば、それだけ沢山のデカルトの思想やライプニッツの思想とか色んな人が沢山出てきちゃうわけですけれども、まあ学問をずっとそんな感じで、それまではそうだったんですけど、近代以降、学問がそれでも「皆が勝手に色々言ってるだけじゃダメでしょ」って話になって。やっぱり、データと言うか、つまり、私たちが見たり聞いたりできる私たちの経験によって、きちんと「確かめられる事だけでやっていきましょうね」っていう形になって、それが実証科学っていう話なんですけど、実証的にデータに基づいて観察したり、実験やったり、それに基づいて分かることだけは分かるようにしましょうと。それで、「見えない神様とかなんか、そういうようなもので説明するのはやめましょうね」と。それが実証科学っていう運動が起こって学問のあり方が実証科学によって全然ガラッと変わって、そっからだんだんこう「知」を積み上げていくことができるんです。皆分かってることじゃなくて、段々「知」を積み上げていくことができるようになったっていうのがまあ。16~17世紀ぐらいから始まったのかな。そういうのが、どんどん実証化が進んでいくと、どんどん発見がた沢山あって。で、発見が沢山あるともう昔は、哲学者ってのは全ての学問を全部やったんですね。『アリストテレス全集』なんか見るともう天文学から心理学から生物学から法学から、全部一人でやってるわけです。それはもうずっとカントもそうだし、ヘーゲルもそうで。18~19世紀の初めですかね、ぐらいまでは全ての学問は一人で全部やると。哲学者と呼ばれる人が全ての学問全部やるっていうふうにやっていたんだけども、ただやっぱそのヘーゲルのちょっと前ぐらいから、やっぱその凄く実証化が進むともう知識がどんどん積み重なって、それによってもあの一人でやりきれないっていう風になってて。じゃあ、もう「私はこれだけ専門になります」みたいに段々分かれていって。それが分業化ってことが起こっていて。それはつまり、学問が科目に分かれていく。つまり科学になっていくとで実証科学っていうのは実証できる。事柄や実験を通して実証できることできちんと積み上げていこうということになって。そうすると、その個別の一個が持ってるのが、まあ独立して、まだ全て学問が別だったんだけど、そっからだんだんこう色んな学問が実証化がうまく行ったところは、どんどんまあ哲学が独立して行ったっていう感じだと僕は思っています。で、だから結局今、現代の哲学というのは、その実証化できなかった部分。実証的に研究できなかった部分だけが残ってしまって。で、ついこの間までやっぱ哲学の一番主要な部分は認識論っていう「どうやって私たちは心理を知るのか?」「心理はどうやって知ることができるのか?」っていうことを考える部分だったんですけども、実は最近そこも実証化されてきていて。つまり大脳生理学とか認知心理学とかみたいなものは、どんどんは分かって、脳の中で何が起こっているのかっていうのは、昔は全くブラックボックスで分かんなかったんだけども、脳の中でどういう活動が起こってるかって言う脳の部位とか、その活動とかも分かるようになってきて。その認知の仕方、認識の仕方に関しても、もう結構実証的に分かるようになってきていてっていうような時代になってきて、だからそういう意味では哲学に残されているのは実証できないと言ってるのが、だんだん減ってしまってるんだけど、それでも実証できないと言っても、「神様いるのか?」っていうふうな経験を超えて、前世とか来世とか死んだと魂どうなるのかとか神がいるのかいないのかって話は実証的には分からない。私たちの経験によっては分からないわけで。そういう問いが残っているっていうのと、哲学と倫理学の関係で言うならば、倫理学は「私たちはどう生きるべきか?」とか、「何が正しいことなのかとか?」っていうのもこれも実証できない。つまりアンケートをとって、皆がどういう風に考えてるかっていうのは分かるんだけど。それはアンケートで何パーセント、何が正しいって考えるみたいなことは、実証的にデータを集めることができたとしても、じゃあ70%の人がこれが正しいって考えているからといって、それが正しいと言えるかっていうとそれは言えない。つまり、人間の生き方とかに関わってくることっていうのは、実は実証的には今の現段階においてはまだ「どう生きるべきか?」とか、「何をどんなルールを守るべきか?」とか「どんなルールに従うべきか?」っていうのも、今のところまだ分かっていなくて、そういうまだ実証できていないっていう問いが残っていて。だから、多分哲学の中で倫理学って、やっぱその哲学もも勿論実証ができなかったと意図して一つ大きく残っていて。倫理学も哲学の一部分だけど、「哲学」は別にその人間の生き方とか、それだけにかかってるわけじゃないので、さっきの「心理とは何か?」とか「神がいるのか?」とか、「時間とは何か?」とか、そういったような理論的な哲学問題ってのは、どちらかというと「純粋哲学」とか「理論哲学」と言いますけど。「倫理学」の方は、割とその人間の行動とか行為とかに関わってくるところと思っています。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2024.2.17.「てつがくに何を求めているのか?」

2024年01月25日 20時10分18秒 | 「てつがくカフェ@ふくしま」について
偉大な哲学者ほど、一般民衆の質問に答えるということがむずかしくなる。
ーヘンリク・シェンキェヴィチー


てつがくカフェ@ふくしま2024.2.17.
【テーマ】「てつがくに何を求めているのか?」
【日 時】2024年2月17日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】ホットコーヒー無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/86189918602?pwd=nQVIadjcDV1V6KOCuD9vWVQRBRmflJ.1
        ミーティングID: 861 8991 8602
        パスコード: 8nh290

【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回のテーマである【てつがく】ですが、

学問の一つの分野である「哲学」としての意味と

「てつがくカフェ」の略称としての意味の

二通りに解釈可能な言葉として捉えて頂き、

参加者の皆様がそれらに何を求めているかについて語り合います。




つまり、「哲学」という学問に対して具体的に何を求めているのか?

哲学に「人生の救い」を求めているのか、

あるいは何かしらの「発見」や「知見」を求めているのかという問いと

「てつがくカフェ」という活動(対話型のイベント)や

「てつがくカフェ@ふくしま」という団体の運営に関して、

改善や要望として、どのようなことを求めているのか?

といったことをテーマとして議論していく回となります。



「てつがくカフェ@ふくしま」は2011年5月から始まり

これまでの12年9カ月で延べ2800人を超える方が参加し、

今現在10~20人くらいの方がイベントに参加しています。



10年以上も活動を続けていると、

当然のように出会いや別れといった体験を繰り返していきます。



何年も参加し続けてくれる常連の方もおられますが、

延べ2800人以上の参加者のうち、

そのほとんどは初参加あるいは途中から「来なくなった方」が占めています。



なぜ、来なくなってしまったのか?

理由は人それぞれあるかと思います。

自分の考えていたものとは大幅に違っていた。

「何も得られそうにない」と失望して去って行ったなどなど。



そうした個々人の求めているものと違ったことで、

「哲学」あるいは「てつがくカフェ」から離れていくのだとしたら、

何も言わずに離れていくのではなく、

せめて何を求めていたのかを伝えていってから去って欲しいという想いで、

今回のテーマを選んでみました。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.1.20.「        」

2024年01月24日 11時56分01秒 | 定例てつがくカフェ記録
1月20日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には11名、オンラインでは4名の計15名の方にご参加いただきました。





ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・今日はですね、年に一回テーマを決めないで、この場でテーマを決めて話し合うというそういう回になっておりますので、まず最初20分ぐらいで、テーマを皆さんからどんどん出して頂いて。それで、その中から今日はどういう話し合いをしようかということを決めたいと思います。あと最近はずっとやってるんですけども、今日いろいろテーマが出た中で、じゃあ来年度っていうか、4月以降まだ何もテーマが決まっておりませんので、今日取り上げなかったテーマを見ながらですね。来年度以降のテーマを決めていきたいというふうに思ってますので、とりあえず何でもたくさん色んなことを話し合ってみたいというテーマを出していきたいというふうに思います。

・世話人が子どもを連れてきたんで思いついたんですけど「子育て」なんてどうかな、あとはそうですね、この頃よく「生きづらさ」とかっていうことを新聞なんかマスコミで取り上げられたんですけど、「生きづらさ」っていうことと、あとはスマホ社会ですけど、「スマホの利用」とかね。

・今の「子育て」をテーマとしては、問いにするとしたらどんな感じなんですか?

・「男の育児休暇」とかね。そういうの非常に少ないということなんですけど、まあ子供の育て方について非常に困ってるっていうか悩んでる人がなんか世の中多いようなんですよね。だから、子育てどういうことに気をつけて、あるいはどういう風にしたらいいのかってことあたり考えたらどうかなと言う風に思います。あと「生きづらさ」ですね。時々、新聞で見るんですけど。生きづらさを抱えている人が多いっていうのは、特に女の人がよくそういうことをおっしゃってるようなんですが。ええ、今あのそれぞれ。生きていて、「どんな生きづらさあるのかな?」とそれはどういうところから来てんのかなと言うようなことです。あと、スマホについては、私はスマホ使ってないんですけど。どこに行ってもバスに乗っても電車に乗ってもどこでもみんな。まあ、昔だったら私の若い頃は電車に乗ってると週刊誌とか新聞の見てたんですけど、今はもうそういう奴ほとんどいなくて。まあ、中学生ぐらいからお年寄りまでみんなスマホを使っているようなことなんですけど、どんな使いかたをしてるのかなというようなことです。

・今年みんなで議論してみたいなと思ってたテーマですが、方向性を絞っての話ではなくて、大きな言葉単位で3分くらいちょっと記載していただければと思います。20ちょっとあの読み上げますのであの書いて頂いてもよろしいでしょうか?「愛」が一つで目す。2つ目が「人生」です。3つ目が「人格」。4つ目が「世界」。

・「世界」っていうのはどういう意味の世界でしょう?

・この世界ですね。まあ地球、まあ、現世でもいいです。この世とかでいいですね。

・色んな国があるっていう世界ではなくてではなく?

・この世で結構です。あと次に「刹那」もしくは「今」と書いていただいても結構です。次が「価値」。次に「宗教観」、「宗教」でも結構です。次に「死生観」「人生観」「正義」「笑い」「競争」「孤独」「常識」「自由」「光と影」。

・「光と影」というのは、これはどういうニュアンスでしょうか?

・そうですね。生き方についての「光と影」っていうような意味合いで。あと「家族」「仕事」「幸せ」「お金」。最後に「魂」。

・単語的な形でたくさん出していただきました。

・大きく考えて、議論ができればと思っております。

・何回も今まで言ってきたんですが、「宇宙の開発」って。特に今行われてる月面に到着したりして、色々競争してますよね。特にJAXAが昨日かなんかにあの小さなロケットあれを落としたとかね。全くルールらしいルールっていうのがないんですよね。宇宙はベーシックなやつあるみたいだけど、その抜け目みたいなのがたくさんあって。なんとなく遠い世界だけどという気ですよね。それといつも出てくる「多数決」っていうのですよね。

・私も考えてきて、一番目が「天皇」っていうか、まあもうちょっと具体的に言うと「皇位継承問題」。大きく天皇のことでいいと思いますけど。次先ほど収束したみたいな話ありましたけれども、「コロナ」を総括しないわけにはいかないだろうみたいな。この四年間の出来事でこれ憲法問題っていうと、みんなの苦情に直結して考えちゃうんですが、最近ちょっと一部のSNS上のごく一部にしかすぎないと思うんですが、緊急事態条項がどうのこうのって言ってる人たちがいて、どうしても気になってしょうがないんで、まあ。憲法の中でも特にその緊急事態条項。一般的に興味ない人はもう全く興味無いと思うんですが、いわゆる「陰謀論」。これはもうね、なんの興味もない人もね多いと思うんだけど、興味ある人はもうのめり込んじゃって。次広い意味で「日本人論」ですね。もう歴史的な経緯も含めたトータル的な「日本人論」ですよね。今の日本を見ているだけではなくてですね。次「マスコミ論」ですね。メディア論とテレビ論って言ってもいいんだけど、まあ大体こんな感じですね。

・最近読んだ本の中で刑法39条心神耗弱の減刑理由、それが不必要だという学説を拝見しまして、まあそれについてちょっと皆さんのご意見賜れればなぁなんて思います。

・一つは「文春砲の功罪」。マスコミの中に入るのかもしれないですけど、ああいう風になんだろうな特定なものを狙って、あの暴き立てることがもちろんいい面もあるんでしょうけども、問題点もあるだろうし、それが。あの。なんだろうな世の中に蔓延ってるってことはどういう意味があるっていうのは、ネタとして面白そうだなと。あともう一つは、これも時事ネタであのあれですね「派閥」。結社の自由という観点から見ると、禁止っていうのはおかしな話だし、であのあの「派閥が悪いんじゃないとか?」って言ってる政治家もいる。まあ、いろんな立場がありえると思うので、どう見るのかっていうのを考えてみると面白いと思います。

・テーマに「自由」と出てるんですけど、「自由と平等」ということで議論したどうかなと?それともう一つは「社会的格差」。まあ、これは「経済格差」が。一番根っこにあるんだと思いますけど、そういう意味での。社会的格差の実態と、どういう所から出てきてるのか、どうしたらいいのかっていうようなことについて議論したらどうかな?

・「戦争」ですね。「戦争」と何か組み合せようと思うといろんなものが組み合わせられるんで、例えば「戦争と自由」とか、「戦争と平等」とか「戦争と格差」とか、「戦争と憲法」とかっていうのはあるので。「戦争とは何か?」あるいは「戦争はどうして起きるのか?」

・補足的にあのその私が言った「マスコミ」ってのだと「文春砲」とか、まだまだご存じない方多いと思うんですが、あの「キャンセルカルチャー」って言葉があるんですが。「キャンセルカルチャー」というこの言葉がどんな意味なのか聞きなれない言葉だと思うんですが。まあ、一つのテーマとして最近去年起きたジャニーズとか、あと宝塚とか最近では松本人志とかに関係する言葉なので、ちょっとキーワードとして言葉だけちょっと述べさせて頂きます。

・せっかくだから簡単に説明していただけますか?

・「キャンセルカルチャー」っていうのは2010年代ぐらいからアメリカでちょっとこう出てきた、なんというか社会的な風潮みたいなもので。結局キャンセルってのは、取り消すとかね。あの除外するとか削除するとか、いろんな意味があるんですが、結局ズバリ言っちゃうと、大衆やマスコミが自分の気に入らない有名人や成功者にいちゃもんつけて引きずり下ろそうとする。その社会的な風潮みたいなものをウィキペディアでね。あの興味ある方、調べれば出てくると思いますけど。そういうの「キャンセルカルチャー」って言います。だから、去年からのジャニーズから起こっている出来事を、あの社会科学的な用語を使って言えば、「キャンセルカルチャー問題」なのかなっていうことです。とりあえず以上です。

・もう一つ、あの「民間人」っていう言葉よくいろいろ最近戦争を見てると全く無知の人みたいな感じで言われてるんで、ちょっと気になってました。

・「民間人」が出てたら、「一般人」はなんだろう一般じゃない人ってなんだっていうんですね。

・じゃあまぁ、あのだいぶ出るには出たので、ここからはとりあえず今日何をしゃべるかっていうことで絞っていきたいと思いますが、今日お話しするのはどれがいいですかね?あまりにもたくさんありすぎて見えない。

・あの天皇とか憲法の問題はなんか5月とかとあの憲法の日とか、あるいは11月の文化の日も憲法がらみですかね。あるからですかね、なんかそういう風に合わせた方が、話したい人がたくさん来てくれて盛り上がるのかなっていう意味でなるじゃないほうがいいかなと。

・今ですね。あの社会的にクローズアップされているのは、パレスチナの問題とか、あとはハマスの問題だなと思ったんですけど、それだけです。

・先ほどあの「天皇の問題」と「憲法の問題」っていうのがこうなんかこう、まあ一体のものであるみたいな話になっちゃったんだけども。あくまでも私があの「皇位継承問題」って言ったのは、「憲法問題」というよりも、もう純粋に「皇位継承問題」ですっていうこと。天皇の話は天皇の話で一年を通じていつでもいいかなみたいなふうにちょっと思ったもんね。

・最初からずっと読んでいくと「子育て」「生きづらさ」「スマホ」「愛」「人生」「人格」「世界」「今世」「宗教」「宗教観」「死生観」「正義」「笑い」「競争」「孤独」「常識」「自由」。「自由」には「自由と平等」みたいなのがでてましたね。あとは生き方としての「光と影」。「家族」と「子育て」はまあ半分似てるところもあるかもしれないですね、含まれるという感じがある。「仕事」「幸せ」「お金」。「自由」は昨年確かとりあげていたし。「仕事」だと「お金」なんかも最近やってたかもしれないですね。「魂」というのは話したことがないかもしれませんね。「心はあるのか?」でまあ、「魂」の話を若干だから。「宇宙開発」は確かに前から出てるんですけど、僕が興味なくて。後回しにしちゃうところがあるので、この後また一年間のテーマを組む時に僕が中心になって考えちゃうとまた外れちゃうから今日宇宙開発やっちゃうっていうのがあるかもしれません。「多数決」とかってのは、この物事の決め方っていうのは結構重要な問題で前やってないかな。「天皇」とか「皇位継承皇位継承」ね。皇位継承の話って結構、まさに天皇制ありきですよね。天皇制は認めた上でっていう話で、僕はというと天皇制はアリなのかっていうところから話したくなっちゃうので、まあでも皇位継承に絞ってっていうのもあるかもしれません。「コロナの総括」はしてないのかな?やってないかな。ここから「憲法」で特に「緊急事態条項」ですね。「緊急事態条項」に関してっていう話ですね。ちょっとそういうのが最近話題になってるって知らなかったんですけれども、「陰謀論」ね。これも多分。僕に選ばれたら「陰謀論」とか最初から関係ない思っちゃいがちなので、今日やっちゃうっていうのはあるかもしれません。「日本人」ってなんか去年だか一昨年やったような気がしなくもないですけど、まあ、あの何回でも行ってもいいので。これ「マスコミ」とか「文春砲」の話、これも面白いですね。また「キャンセルカルチャー」っていうそういう側面からとらえていくっていうのはなるほどなと思いました。あと「心神耗弱」ですね。これもそうだね取り上げたことないけれども結構話してもいい問題かもしれませんね。「文春砲」はあの今、非常にホットな話題ではあるかもしれませんが。「派閥の問題」「社会的格差」。「戦争」の定義だったり原因であったり、民間人とか一般人とかからパレスチナの問題というのが出てきます。

・「戦争」についてはちゃんと自分で勉強してきて、「ハマス」でも「パレスチナ」もそうですかね。「パレスチナ」もちょっとやっぱりポットではあるけれども、ちょっともうある程度知識というか、勉強が必要な感じはしなくもないですよね。

・勉強が必要っていう意味で、「宇宙開発」も多分何が行われているのかっていうのをある程度分かってないと話にならない気もするので。だったら事前に勉強の時間が欲しいです。勉強したくないなら知ってる人に話してもらうみたいな。

・どうしようかなどこら辺で落とそうかな?えっと。確かに「パレスチナ」の話。まあこれ、政治のこと、勉強しなきゃなって言うと「派閥」もそうで。もう30分以上時間とっちゃってますので、まあそんなに長く話せないっていうのもあって。まあ、いつもだからこの会話割と軽めのにしましょうねっていう風に行ったりもしなくもないんですが。

・としては、テーマとして「文春砲」とかね「派閥」なんか面白いなと、あとその他いっぱい出てるんですが、全部やってればいいと思うんです。それぞれおもしろいこと話せると思うし、話し合えると思うので。ただ今日話したいということであると、まあ、今申し上げたと「文春砲」とか「派閥」とかかなと。

・まあ、そうですね。僕も「文春砲」の功罪はまあもうこの場で話せるかもしれないなというふうに思っているところもあって。まぁ、マスコミ一般に広げてもいいので、「文春砲」を代表とするまあマスコミみたいな話で今日話していくのはいかがでしょうか?


・結構みんな会場の方はうなずいたいただいた方多いんですけども。ズームの方もよろしいでしょうか?ありがとうございます。じゃあ今日はですね、いろいろ出た中で「マスコミ」。特にその「文春砲」に代表される、現在のマスコミの活動というか、そういうものについて語り合っていきたいと思います。「マスコミの功罪」ということで、「マスコミ」や「文春砲の功罪」ということで話し合っていきたいというふうに思います。









上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓








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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2024.1.20.「        」

2024年01月07日 10時21分18秒 | 開催予定
1月のてつがくカフェはテーマを決めずに、当日の参加者同士で話し合ってテーマを決める回となります。

てつがくカフェ@ふくしま2024.1.20.
【テーマ】「      」(当日の話し合いで決めます)
【日 時】2024年1月20日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】ホットコーヒー無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/87952888458?pwd=anCbnjjl4dKMzaIpvWIKbrkrr7VLKQ.1
        ミーティングID: 879 5288 8458
        パスコード: 0sdmWR

【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



さて、前述のように1月はテーマを決めずに

当日集まった皆様と一緒に何について話し合うかを考えたいと思います。

最近気になっている問題、話したいテーマ、取り上げて欲しい作品(映画、小説)などお持ちより下さい。

また、今回採用されなかったテーマでも、

今後てつがくカフェで取り上げていきたいと考えております。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2023.12.16.「心はあるのか?」

2024年01月06日 13時31分08秒 | 定例てつがくカフェ記録
12月16日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には10名、オンラインでは7名の計17名の方にご参加いただきました。








ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・それでは、始めていきたいと思います。本日は「心はあるのか?」というテーマで、普通は人間には心はあるというふうに皆思って当たり前のように常識のように考えて生きている訳ですけれども。しかし、心そのものを見ることは出来ない訳で、本当に心はあるのかと皆さんとも一カ月に一度しかお会いしない訳ですけれども、帰ったらスイッチ切られて皆ただ倉庫に入れられて、寝てたりしないんでしょうかというね。本当にこの一カ月も皆さん生きてらっしゃったんでしょうかね、人間としてとか。色んな事を疑い出せばきりがないんですけれども。「心はあるのか?」というテーマで、あるかないかだけじゃなくって「心って何なんだろう?」ってことで何でもご自由にご発言頂ければというふうに思っております。それでは、どなたからでもどうぞ。

・今世話人の言っていた電源を切った云々かんぬんについて、ちょっと引っ掛かりがあったのでそこから責めようかなと思ったんですが、電源を切って止まっていたとしても心は無くなると考えているとしたら、それはどういう根拠からですか?別にオンオフされたとしても、その後また持続的に繋がればそれは別に心があったと出来そうなもので。我々が本当に生きているかどうか、それがずっと続いているかどうかという問題と、心があるかないかという問題は実は全然独立の別の話なんではないかと思うんですけれども、繋がりがあるとするならどこにあるかそこだけまずは確認させてください。

・物凄く端折ってしまったので、皆ロボットじゃないのという事ですね。ロボットでただの機械で心なんて無いただの機械じゃないんでしょうかねと。ロボットだとするならば、勿論スイッチ入った時の瞬間に受け答えは出来るかもしれないけれども、単にプログラミング通りに受け答えしているだけで。ということは、そこには意識が無い心は無いということもあり得るし。勿論ロボットにだって意識や心は生じるという事は、あり得るとは思うんですけれども。なんにせよ、人間であるならば皆意識があって心があって、毎日寝ている間はそれはどうなってるのかお休みしているのか何なのか分かりませんけど。勿論目が覚めれば同じ心が持続しているというふうに考えられているわけだけれど。実際それを見た人はいませんよねっていうふうなことと。例えば、ここにドラえもんが居たとしたら、ドラえもんが居てあんだけのび太や静香ちゃんや皆とちゃんとコミュニケーションをして、普通にお話しできる相手であるから皆ロボットだということを忘れているけれども、本当にロボットだとすると意識も心も無くただプログラミング通りに、何か「ドラえも~ん」とのび太君に泣きつかれたら、何かしら出すようにただ設定されているだけで、たまたまそういうふうにやっているだけだという様なことも考えられると。つまり、心も意識もないロボットという事を。多分ロボットと言われればそうなんだろうけれども、しかしあんなふうに受け答えが出来てしまえば、心や意識はあるよねっていうふうに思ってしまう。と、同じような事が実は人間同士でも起こっているのかもしれないとかね。まぁ色んな事を考えると。じゃあ、そもそも心って何なのかってそういう事で言わせて頂きました。

・今世話人が仰った「心」とか「意識」という言葉を使いましたけど、今日のテーマは「心はあるのか?」「(それとも)ないのか?」と。だから、「心」ってどういうふうに考えるのかってことがまず始まりかなって思うんですよね。「心って何?」「意識?」。あるいは、色んな言い方「魂」だとか、「霊魂」「霊」だとか、あるいは「精神」だとか。場合によっては発せられる「言葉」も心というふうに「言霊」というふうに言うわけだから。そういう事でやっぱり、「心はあるのか?ないのか?」ことを結論を出すためには、「心をどういうふうに考えるのか?」「心はどういうものなのか?」っていうことをまずしっかり受け止めないて考えないと有る・無しは出てこないのかなというふうに思うんです。

・まず「心はあるのか?」ということで、心の定義が一番重要かと思いますけれども。結局「心」というのはどんな働きをするのかという事を考えれば、我々は心と体を持ってますね。体をもってその中に脳の働きがあって、ある程度行動を決定する意思を持って動くという辺りが心の原点かなと思います。大体我々がここに集って「心はあるのか?」という事を議論していること自体が心の存在を前提としているんじゃないかというふうに思います。

・今の方に質問なんですけれども、もし心の働きを脳の働きとして意思を持って行動を決定する事が出来るとするならば、動物にも心はあると捉えていいという事ですかね?

・「一寸の虫にも五分の魂」ではないですけれども、私は動物にも心はあると、生物全般に心があるんじゃないかと。植物にもそれなりに反応して、音とか話しかけとかに反応して、何かしら行動に起こす能力があるようだという事も何か説明されているのかなというふうに思います。

・今植物の話が出てきましたけれども、少なくとも植物には脳は無い。そうすると、今の話は少なくとも矛盾するような気がしていて。じゃあ、脳の働きっていうのは心とは関係ないと考えれば良いんでしょうかね?

・そこら辺にいくと、結局「ロボットに心はあるのか?」という問題と一緒で、結局植物というのはロボットと近い存在かもしれません。脳的な仕組みと言うか働きは作るけれども、意志とか自覚とか、生命の為に生きるていう自覚が無いのがロボットかなというふうに思います。その辺り、結局人間霊長類が一番なんですけれども、霊長類以下でもある程度自分で判断して生きるために行動を起こして、その結果が跳ね返ってくる。その最たるものが、人間だというふうに。人間は最高潮に脳が発達しましたので、その中で複雑な働きがそれが「心」に近いかなという感じはしますね。

・二つお話しさせて頂きたくて、一つ目「心とは何か?」の所で言ていたかと思うんですけど、私は「感情」だと思いました。テーマが始まった時に、ロボットとか植物の事を頭に浮かべたんですけれども、ドラえもんみたいに喜んだり、起こったりするのは心有ると思えるんですが、自分の中ですぐに出てきたので感情を持っているかどうかかなと思いました。というのと、今の植物の話を聞きながら思いついたのが、心と反するものとして条件反射で動くものがちょっと心とは違うのかなと思いました。

・今の方に質問なんですけど、心=感情というふうに聞こえたんですが、そういう事ですか?心は感情だと仰ったから、感情というのは心の働きの一つかなと私なんかは考えているのね。そこら辺はどうなんでしょう?

・ちょっと、そこまで考えては無かったので、お話ししながら考えていきたいと思います。

・世話人が「心は見えない」と仰っていたけど、その通りだとは思うんだけど。要するに私は今喋っているんですね。動かしている。これってある意味では「見える」んですよね。心が喋っている。つまり、「見えない」という事はそういうふうに思えるけど、心があるか無いかだとやっぱり。例えば、このペットボトルだとここにある。これは「ある」というふうに大体言えると思うんですけど、こういう形では確かに心って無いんだろうと思うんですよね。だから、見えないというふうに言っていいのかもしれないけれども。例えば、楽しくなってランランと始まったりですね、体を動かして飛び回っていると。要するに、それって「見える」訳だし、それって「心」じゃないかなというふうにも思えるんですけど如何でしょう?

・「見える」「見えない」というのも、「有る」「無い」とは関係のない概念かと、関係のない話かと思えていて。要するに、例えば「言葉」って見えないですよね。「言葉」自体は見えないけれども、「言葉」は実在していて我々が喋っている事は少なくともこれは「言葉」なので、「言葉」はある訳ですよ。なので、「見えるか?見えないか?」という事と、「有るか?無いか?」という事はこれまた独立の話なので、「心は見えるか?見えないか?」という事と「心はあるのか?無いのか?」という話は直接は関係ない。だから、「心はあるのか?」という問いに対して「見えない」というのは、直接関係ない話をしているような気がします。

・ここで原点に戻るんですけれども、結局は「物質が主体か?」それとも「心が主体か?」という事になると哲学本来の観念論(現実に基づかず、頭の中で組み立てた考え・論)と物質が基本の、私も一時期傾倒したんですけれども唯物論(宇宙の本質は物質であって、精神は物質に規定されると主張する説)、元々の共産主義社会で言えば「全て物質が基になっている」という事であるので、それから言えば心も物質で出来ているんじゃないかなと。私も最初は観念論から入って唯物論を一応、共産主義・社会主義に傾倒した時期もありましたので、その辺りは唯物論も。今は全体は心主体と言うか、人間物質で出来ている訳ですけれども、心の働きによって穏やかな、豊かな生活が出来ているんじゃないかというふうな意味で心はそういう働きをするんじゃないかなと思います。

・「心は物質で出来ている」と以前は唯物論を信じていたというお話だったかと思うんですけど、「心は物質で出来ている」と言った時に、物質というのはこういう物の集まりで出来ているという事とちょっと違うんではないかなと。要するに、物で物質で出来ていると言った場合、ある塊で化学物質ではなくて、そういう物で出来ていたとしても「働き」だと思うんです。化学物質の働き、機能。「働き」というとさっき喋っているんだけど、「言葉は見えない」と仰られたように「働きは見えない」。だから、そこの「心は物質で出来ている」と言った時になんか塊、原子のね一つひとつ集まってできているというような事とはちょっと違っている。そういうものの「働き」なんだと。「働き」というのは見えない。だと私は思っているんです。

・先程私が申し上げたのは、当時高校生ぐらいの時ですか、唯物論にハマったというだけの事で今現在は全然信じていません。というのは、素粒子の時代ですから。素粒子はどこから来てどこに行くのかという事さえ分かっていない時代。という事は、物質はあるのか無いのかも分からない状態ですから、新しい物質が素粒子以下からまたどんどん出てきている状態ですから、化学はどんどん進んでいくんだけれども科学を超えた物が「心」なのかなと。

・「心」と「意識」は全く同じとも思えないんですが、意識って心の大部分を占めているのかなっていう気はしているんですよ。さっき世話人が眠りから覚める時に、覚醒する時に脳が働きだすんだけれども、その時意識が始まるんですね。だから、要するにそうすると無意識で病人の場合、植物人間意識が無いという状態の場合、呼びかけても反応しない。でも、そういう人に対して「生きている」という事は言うんだけれども、「心がある」というふうに言えるのかなというふうに。あまり家族の方でもね死んではいない植物人間でもね、息もしているし心臓も動いているし、脳もどこか働いているのかなと思うんでしょうけど、意識が無い。何の呼びかけに対しても反応しない。そういう時に、「心はある」って言えるのかなと、思っているのかなと。そこら辺はどう考えるんですかね皆さん。

・意識があるから心は存在するというのも早計かなと。意識があるからその人が存在する、意識があるだけでは。世話人が先程仰られたように家に帰ってパタッと寝て電池が切れたらそこで終わり。私はSF映画大好きなので、『マトリックス』状態を観られた方は思い浮かべれば、こうズラっと並んでいて意識はあるんだけれども、体は拘束されて電圧、電気だけ引かれている状態。そんな感じも、意識があってその中で心もあるのかもしれない。夢の世界の中で、結局『マトリックス』というのは夢の世界の中の話ですから、そういう意識があってもそういう状態もあるのかなと。その『マトリックス』の場合は、体は一応持ってますよ。体もあって脳もあって、その中で意識もあってその中で動いているんだけれども、囚われているという状態もあるのかなと。『マトリックス』に限った事じゃなくて、SF映画では結構そういう、結局ね意識だけを機械に移植してその中で絶対に死ななくて生きていくというような試みというか、そういう映画もありました。

・今のお話の仕方、心は意識にあるいは体のマトリックスにというふうな言い方をされたそのマトリックスと体とかの意識と関連して、マトリックスって言うからそれどういう事なのって聞きたくなっちゃうんですね。それと意識だけを移して死なないようにするっていう事をSFならばそういう事は勿論考えるでしょうね。考えるでしょうけど、それってどういうふうにやるのって質問したくなる。

・初めて来させて頂いたんですが、今日のお題(テーマ)について気になった点があって、私趣味でプログラム組んでおりましてここ最近AIとか出だし初めまして、AIの仕組みとか根本的なものを組んでいく中で今お話になっている記憶の集合体をハードディスク等に収め、個人をコピーする事を可能であると私は思っています。そもそも人間というのはコンピューターというかAIですかね、人は何かを模して物を作っていく中で人間の脳、ニューロンからニューラルネットワークを含めた脳みその構造体をコンピューターのプログラムとして、作り上げましたので基本的な流れは人間の脳みその基本的な構造と変わらない状態だと思っています。今回参加させて頂いたっていうのも、私が有機物であり人であるという中でAIを組んでいく中で、「人間を作りましょう」という考えは絶対しないんですけど。より近い思考を持つ事が可能なのかどうなのかというのが気になっておりまして、今回立ち寄らせて頂いたんですが。その先、AIを組んでいく中でステップをどんどん組み上げていくと自己意志を持たせようとする工程というのが出てくると思うんですが、実際これはプログラムで可能だと思っています。ただ、その根本的に有機物と個体が、草とか人もそうですけど無機物、石であったり物体物質、動かない物質を分ける中で専門家ではないので、効果的に物を言える訳ではないんですが、どこで何が違うのかっていうところになってくると根本的に最初に組み込まれているDNAしかり、子孫繫栄生き抜く事、生存していく事がベースにあると思うんですね。AI作る中で判断というのがイチかゼロの世界から、それが記憶の集合体から重み付けを作って判断するっていう中で絶対的なイチかゼロではない要素から判断値を出す最適値を出すっていう事があるんですが、有機物としての存在をそもそもは電子とかの最小構造から考えれば、石も人も変わらないでしょうけども。そこから有機物であるという部分を含めて考えて、そこから生き残るっている、生存しオリジナルからコピーを作っていって存在を消さないようにするっていう事が、記憶と言うか細胞の記憶の中に埋め込まれていて。それに対して、判断しているのかなって思っております。その中で、心ただそのここでこうここに何しに来たんだという話になるかもしれないんですけれども、今ちょっと気になっているのは恋愛をしない、子どもを作りたいと思わないという若者が増えているとか、少子化って実はお金が無いからじゃないからっていう部分も含めて、恋愛というものがなんか人から離れていくっていうのは、実は心を無くしていっているのではないのかなと思っていまして、ちょっとそこが気になってきたんです。本来であれば、生存生き抜く中で子孫を残すという使命がある中で、そこが感情のもとになるかと思うんですけど、そこを無くしていく現代の人間ってどこに行くのかなっていう問いでした。



上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2023.12.16.「心はあるのか?」

2023年12月12日 17時26分20秒 | 開催予定
てつがくカフェ@ふくしま2023.12.16.
【テーマ】「心はあるのか?」
【日 時】2023年12月16日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】ホットコーヒー無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
https://us05web.zoom.us/j/88683999508?pwd=zQxSDxt3ROILHgN6dbAGeTJZ9fLEib.1
        
        ミーティングID: 886 8399 9508
        パスコード: 9NvSBM

【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp






今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。


今回のテーマは、「心はあるのか?」です。

「心」というのは由緒正しい哲学のテーマであり、

心とは何か?、心はどこにあるのか?、

心は身体の死とともに消滅するのか(それとも不死なのか)?

といった問いは紀元前よりずっと問われ続けてきました。

デカルトは、「私は思考する、ゆえに、私は存在する」を哲学の根幹に置くことによって、

心身二元論を鮮明に打ち出しましたが、

デカルト以降の近現代哲学史はそれとの格闘の歴史であったとも言えるでしょう。


心というのは目に見えるものではありません。

自分に心があることは自明であるとすべての人が思っており、

それとの類推で、ほとんどの人は他人にも心があると信じていますが、

それを証明しようと思うとそう簡単な仕事ではありません。

逆に、AIや ChatGPT などの近年の急速な進歩を目の当たりにすると、

ドラえもんのように、私たちと自由自在にコミュニケーションを取れる

ロボットが開発されるのも時間の問題と思われ、

そのようなロボットが私たちの目の前に現れたとき、

それは機械なんだから心なんて持たないはずだと判断できる常識派は少数となり、

心を持った存在として扱う人間のほうが多数派となるかもしれません。

そうなったとき、そうしたロボットと他人(=他の人間)とはどこがどう違うのか?

これをさらに突きつめていけば、自分にとって自明であるはずの「自分の心」すら、

それほど自明のものではないということがわかってくるでしょう。


てつがくカフェと名乗っているわりには、

本格的な哲学的テーマを取り上げることはあまりないのですが、

今回は満を持して「心」というテーマに挑んでみます。

「てつがくカフェ@ふくしま」は、

誰もが「当たり前」と信じていることを掘り下げて、

みんなで自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

シネマ・本deてつがくカフェ報告2023.11.23.

2023年12月11日 13時25分48秒 | 定例てつがくカフェ記録
11月23日(木)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には11名、オンラインでは3名の計14名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・今日はですね、大体1年分くらいテーマを決めてるんですけど、今月は空けておいて何も決めていなかったんですね。どうしようかと思っていたら、8月に「宗教を問う」というテーマでやった時に、沢山の方が参加してくれて、特に新しい方も参加してくださいまして。多分政治的な状況もあるかもしれませんし、宗教に関して関心が高いのかなと思いまして。この「てつがくカフェ」はいつもはテーマについて話すだけなんですけども、たまに「本deてつがくカフェ」という本を読んできて皆で話し合うとか、「シネマdeてつがくカフェ」など映画を一緒に鑑賞してその映画について語り合うみたいなことをやっておりまして。最近その二つをどちらもやっていなかったので、「シネマdeてつがくカフェ」をやりたいなと思っていまして。それで、宗教で結構人が集まったからそれに気を良くして宗教がらみの何か映画はないかなと思っていくつか探して。この遠藤周作原作の『沈黙』はつい最近ですよね、映画化もされてまして。洋画としてスコセッシ監督のもと映画化されておりまして。いつもはこの場で、15時から始める前の時間に、まだ視ていない方のために映画観賞会というのをやりまして、この場で映画を観てやっていたんですが、借りて観たら物凄く長くてとてもじゃないけど上映会やっていられないと。ということで、上映会は無しにしてその代わりに小説も読んできていいのかなということで、小説でもいいですし映画を観て頂いてもいいですし、この『沈黙』という映画ないしは本を題材に信仰とかあるいは疑いとかについて考えてみたいなと思って選ばせていただきました。どちらも非常に重厚な作品で、テーマも非常に重たいという。僕も高校の教科書だかで読んだっきり、重たい暗い話だなと思ってそれっきり読んでいなくって。僕も読んだことがなくって、今回初めて読んだというか。だけど、とても面白かったですね。色々と語り合いたいこともあるんですけども、ここからは皆様にご自由にお任せ致しますので、発言のある方は手を挙げて頂ければと思います。

・私は本しか読んできていないんですけど、それでここのボードに二つ書いてあるんでね、ちょっとお聞きしたいなと思ったのはこの『沈黙』という小説と映画について、同じような遠藤周作さんが出した重大なテーマとして、追及している事と映画でやろうとしている事、この辺の違いというか。同じような突っ込み方でやられていたのだろうかと、その辺ちょっとお聞きしたいなと思った。両方観た方に。

・私も映画と小説両方観てですね、細部は大分違っているところもあるなという感じはしました。脚本なんかでも、映画の一番最後のところなんかロドリゴが亡くなるところを描かれていて、その時に日本人の妻が小っちゃいロザリオなんだか十字架なんだかを渡してみたいなことが描いてあって。でも、(小説では)一つもそんなことはなかったので、多分いつもというか小説と映画があった場合に、やっぱり小説の方は内面の事は書けるんだけれども、それが映画だと画像でしかあるいは台詞でしか表せない訳ですから、その部分映像化という形で小説とは違う形で映画化しているというところは多々あるかなと。あと、人物の描き方に関してもちょっと違うかなと色々違いはあるかなと思いますけれども。でも、テーマ自体は全く同じであったり、というふうに私は受けとめておりましたが、どなたか他に何か両者比べてみて何か思った事はありますでしょうか。

・私は本で読んで、こういうふうな理解をしたんですけど。ここのテーマというのが宗教、ここでいうキリスト教ですけど、キリスト教の弾圧と拷問に対して信仰あるいは教会、団体を維持する、その問題かなと。要するに弾圧・拷問と信仰の維持を扱ってるのかなと。もう一つは、題名にあります通り「沈黙」なんですね、神の沈黙の問題。それともう一つは、弾圧による訳ですけどその時に起こってきた二人ともフェレイラとロドリゴの二人のパードレが出てくるんだけど、その人たちの信仰の変質というか、そういうことがあったと。そこら辺が、テーマと言えばテーマかなと。そういうふうに理解したんですけど。いかがでしょう。

・何がテーマだったのかということで、いくつか挙げて頂きました。

・私の意見はですね、良い映画というか優れた映画、僕本読んでいないんで映画しか観ていないんですけども、これテーマはですね別に一つという事ではなくて色々ある訳で、色んな方面から色んな角度から語れるし、考えられるというのが優れた作品だと思うんですね。なので、僕思ったこと一つは直接これがテーマだと、大きなテーマだという話とは別として、映画の中で大変印象に残った台詞がですね、「沼に何か植えようとしても育たないんだ」という話をしてましたよね。要するに日本という国に、キリスト教を根付かせようとしていっぱい宣教師がやって来たけども、それに対して奉行の方が言った台詞が、「日本は沼だ。沼に何か植えようとしても育たない」と。「日本にキリスト教は根付かない」という事を言いました。それがとても興味深くてですね、なぜかと言うと当時は鎖国の中でキリスト教の弾圧をしてた訳ですよね。その弾圧の理由については色々と諸説あったりしてよく分からないですけども、いずれにしてもかなりの弾圧をしていた。にもかかわらず、その弾圧される前には結構な数の日本人のカトリック教徒、クリスチャンがいた、特に九州、西日本にはということもある訳ですね。ここでもしも、幕府などによるですねキリスト教の弾圧が無かったら日本にキリスト教が根付いたっていうか。今でも当然クリスチャンはいますけれども、もうちょっと深い意味で日本人の一般的なその考え方に根付くことは出来たのかどうか、どうだったのかという事を考えちゃうですね。僕は意外とちょっと否定的でやっぱり日本は西洋と違うので、キリスト教は根付かせようとしても、沼に何か植えようとしているようなもんだというふうに捉え方で。もしそこで、キリシタンの弾圧が無かったとしてもそんなにキリスト教の国にはならなかっただろうと、当然思う訳なんですけれどもどうなんでしょうねと感想でした。

・今の点に関しまして、ちょっと補足しますと小説の方はその辺詳しく書いてあって、映画だとあんまり出てこなかったんじゃないかなと思いますけども。「日本が沼である」と、日本にはキリスト教が根付かないし、日本には30~40万の数字が出ていたかと思いますが、それは別に本来のヨーロッパでのキリスト教信仰とは違うんだということを。要するに、日本人は自分たちなりの宗教、神観、デウス、神の事も大日と言い換えたりとか、みたいな形に。さっき信仰の形の変質って話もありましたが、それとは別に小説の中でも宗教そのものが変質している、キリスト教が変質してしまったんだということは結構書かれていて、それが一つのテーマになっていたのかなというふうには思いました。

・私今回初めててつがくカフェに参加したんですが、今回の宗教に関するテーマなんですけれども、皆さんは宗教って言葉を使う時にどういった面を考えたりしますか?例えば、自分が「宗教」という言葉を聞くと神様がいるかどうかとか、あるいは死後の世界とかそういうふうなことを考えるんですけれども、その他にも話は出たりしますか?

・私が「宗教」というふうに言われた時に思うのは、宗教って神様だとかいうことは当然なんですけど、「創始者がいる」ってことと「教義がある」ってこと。仏教でいえばお経ですね。その他、やっぱりね集まりというか教会というか集団というか、信者による団体。この三つぐらいが大きな要素なのかなというふうに考えて。要するに「創始者」と「集まる場所」とお経というか「バイブル」的なものね。その三つかなと思っているんです。

・今のに対する質問なんですが、そうすると例えば「神道」。「神道」も例えば、本当に神社の神主さんとかになるために勉強している人は別かと思いますけども、一般に我々、我々というと誰を指すのか不明瞭な言葉になってしまうけれども。「神道」を別に勉強した訳でもなく、取り敢えず正月になったら初詣に行く人、あるいはお葬式の時ぐらいしか仏教の経典なんて聞くことが無くて、ちゃんとそれを読んだことが無いような人って、それは宗教の信者に入らないって理解にはならないですか?

・そこはさっき三つ言ったんですけども、ちょっと「神道」の場合は違うなという感じはします。要するに「神道」だって、祝詞(のりと)とかね言葉で書いたものはあるんですね。あと宮司(ぐうじ)さんとか宮仕えの人とか、それとお社(やしろ)とかありますよね。「神道」の場合は、今は「神道」の集団というか団体が作られているよね。そういう意味では、似たところはあるんじゃないかなという気がしますけど、「神道」の場合自然に力というかそういうものに対する信仰というか重視というか、そこら辺から始まってて、ちょっとキリスト教とか仏教とは違うんじゃないかなというふうには思っています。キリスト教の場合は、まずは「創造者」そしての「神様」というものを考えられたんだと。これはもう旧約聖書の創世記からあるわけだけど、仏教の場合はお釈迦様、仏陀という、まぁこれは歴史的な人間が創始したということでそういう色んな初めから言葉をたれていくことで法華経とかね、「仏様はこういうことを言ったんだ」と初めから言葉は発しているんだけれども、その点はちょっとキリスト教の場合は違うのかなと。バイブル以前の問題もあるんだけれども、初めから言葉があった訳ではないかなというふうには思います。あまり質問への答えではないかもしれないけど。

・ちょっと、ズレるかもしれませんけど「神様」と仰いましたよね。「神様」とかあるいは、デウスのことを日本では「大日如来様」と。要するにもっと自然の多神教みたいな形で自然と結び付けて行われて。だから、違いはあると思うんですよ。宗教がなぜ起きたか、なぜこんなに普遍的になるかといったら根本的に人間に「良心」があるからだと思うんですよ。だから、罪悪感があるからだと思うんですよね。何かやった時に「申し訳なかった」「お天道様に対して申し訳ない」とか。それは日本人の感覚だとそういうかもしれないし、西洋の感覚だったらやっぱり「罪の意識」ってあると思うんですよ。そういうところから、何かもっと大きな絶対者みたいな。日本だったらもっと親しみのある自然の神様だったりするんですけど、自分を見守ってくれたり、あるいは自分を戒めてくれる存在っていうものがあるから人間は人間として、形と言うか心を持っていける。そういう意味で、そう思考するために宗教って作ってきたんじゃないかって私は思うんです。

・今のに対する質問なんですけれども、そうすると例えば無宗教の人とかというのは、人間の良心は無くなってしまい罪悪感が無いという話になってくるんでしょうか?それとも、何か別の理由でそのような人が出てきたというのが説明できるんでしょうか?

・無宗教=良心が無いってことはないと思うんですよ。宗教が無くても良心というのは、無いとは言えないと思うんですよ。ただそういう方便として作ったんじゃないかもしれないけれども、非常に人間の、人って弱い存在ですよね。それを側面から支えるということが、人間個人が知っているんだと思うんですよね。だから、長い歴史の上で一人の人がそう思ってんじゃないから宗教って広まって来たんじゃないかなと思うんですよ。それは宗教じゃなくても個人的にはこの宗教って持っていないんですけど、帰依しているものはないし。ないけれども、やっぱり心のどこかに罪悪感があって、これは良くないんだという気持ちはありますよね。あると思うんですよ、どの方にでも、犯罪者にでもあると思うんですよね。だから、人間の根源みたいなところに必ず良心ってあるんではないかなって思っています。だから、無神論者だから無いってことはないと思います。

・もう一つ質問させてほしいんですけども、皆が良心があるとしてその上で昔ながらの宗教が信じられてきた。なんだけれども、今無神論の人達が出てきているということは、どのように説明できるんでしょうか?

・今申し上げたのは、神を否定するという事ですよね。良心が無いって事ではないって事ですよね。違いますか?どういう人の事か具体的には分からないけれども、よく日本人だと「信仰ありません」とか「無宗教です」とか結構平気に言いますよね。でも、それを海外に行く時に空港で無宗教みたいに書くと「これはアナーキストじゃないか」と海外では思われちゃうという話ですよね。要するに「良心が無い奴」だと海外では思われるかもしれないけど、でも日本人は良心が無いかというと良心はあると思うんです。宗教とは関係なく良心と言うのは人間のどこかに存在している物だと思うんです。それで、宗教のあるかないかと関係なくあると思うんです。

・宗教は何かしら救ってくれる絶対的なものというふうに考えるとしたら、自分は無神論者でスタンスは神様は基本的に信じていないと昔はそうでした。基本的にというのは実際に自分の目で見ないといるかどうか分からないからと。見ない事にはいないって事も言えないから、だから基本的には信じていないというスタンスでいました。そういった無神の状態のまま3年ほど前に、あの限りなくあの世に近づいたんですけどその時に色んな光景があったんですけども、その中に必ず光の玉があったんですね。これが傍にあるととても安心するというか。それまで自分が置かれていた苦悩とか悲しみとか、そういうものが一切無くなって良い状態の空っぽというか、そういうのを感じましたね。確かキリスト教では自殺というのは一番許されない罪と聞いたんですけども、自分はそれを選んでも光の下に行った。今は神様いるかどうかって言われたら、「分からない」と答えます。というのも、光も何も言わなかったんです。神様だ、キリストだ、仏陀だとかそういうことを言わなかったんです。何も言わずにただ光としてそこにあったという感じなので、無神論者でも救われるようなものがあると思います。

・先ほどの話に倫理学者として話を付け足すと、仰られた通り倫理学もそうだし善悪ってことに関しても、長い間基本は宗教を中心に、「神がこう言っているから」とか「聖書に書いてあるから」とか。これはどこの宗教でもそうな訳ですけども、それは宗教の教義の中に善悪に関する教義というのもあって、それに基づいて善悪が教えられて教会とかそういった所で教えられるというのが、長らくあった訳で多分日本もどうなのかな?「神道」なり「仏教」なり、それがその「教義」というのが善悪の判断の基準だったんだろうと思うんですね。ただ、やっぱりそれが近代以降になって倫理学の方も宗教とか神とかが中心ではなく人間中心に考えて、「人間にとってどうか?」とか「人間は幸福か?」とか「人間は自由なのか?」とか、人間の自由や幸福というものに基づいて倫理学を作り直していこうと。つまり、人間の立場から倫理学を作り直していこうという。それは、近年の化学が人間の立場で人間は何を知ることが出来るのかという形でこの世界を知ろうとして様々な化学が発達していったのと同様に倫理学もその方向に来ていて、私たちはその先の世界としてむしろ神を前提としない、聖書とか何かしらの本とか神様の言葉とかを前提にしないで、善悪を考えることが出来る、考えるのが普通になってきている訳ですけれども。永らくヨーロッパはずっとキリスト教の伝統が強くって、それを中心に考えている。小さい頃に洗礼を受けて、教会に毎週通っていてそこで説かれて、それが良い事というふうに考えて生きている訳でそういう宗教が無い人ってのは正に仰られたように無神論者=良心が無い、善悪が無い、見境付かない何するか分からない人という風に思われるところがある訳です。実際そんなことは無いと僕は思っているけれども、未だにそういう観念は強いのかなと思います。



上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

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