その少年は機関車と野球が大好きでした。
6歳のある日。ニューヨーク・ヤンキースのファンだった少年はお父さんに連れられ、ヤンキースタジアムで試合を観ます。
0対1とヤンキースが1点負けている九回裏2アウトランナー一塁。「パパ見てて、僕の大好きなあのバッターが必ずホームランを打って、サヨナラ勝ちするからね、きっと見てて、勝てるよ」と、そんな少年をお父さんはニコニコしながら見ています。
すると少年の大好きなバッターがホームランを打ってヤンキースはサヨナラ勝ち。感動した少年はお父さんに問いかけます。
「お父さん、僕もメジャーリーガーになれるかな?」
「ああ、なれるさ! 最後まで諦めなければ」
少年はその言葉を信じ、メジャーリーガーになることを夢見て血の滲むような努力を始めます。
ちなみにメジャーリーグは「メジャー」を頂点として「3A」2A」「1A」「B」「C」「D」というピラミッド形式にランク付けされています。
少年にとって大リーグを目指すことは「挫折との戦い」、「苦悩の日々の連続」です。
最初は草野球チームに入りますが、一度も練習には参加させてもらえません。
しかし少年は不平・不満を言わず、毎日玉拾いをし、一人で素振りの練習を続けます。
中学校卒業後は野球学校へ通いながら、いろんな球団の入団テストを受けましたが、どこにも合格できません。
でも、諦めず、雨の日も風の日も、黙々と練習を続けます。そんな彼の姿を見ていた先生が、全米のDリーグの監督に「うちに熱いやつがいる、見に来てくれないか、お願いだ」と電話します。そして、Dリーグの監督が集まり、少年は全力でプレーしますが、どこからも声はかかりません。
それでも少年は諦めずに、ただ一途に努力を続けます。
野球学校を卒業し、24歳になり、ニューヨークでDリーグへ入団テストを受けに行きます。「入団テストを受けさせて下さい。ここに10ドルあります。これが今の僕の全財産です。もし活躍できそうに無かったらこれを返さなくても結構です」と言い、オーナーは「10ドル儲けた」と思います。しかし、オーナーの期待を裏切るプレーで、ニューヨークのセミプロ球団に入団します。
「大好きな野球ができる。僕はセミプロ球団でもかまわない」と喜び、そこで、素晴らしい成績を残し、その活躍により1Aへ昇格し、打率.381で首位打者という素晴らしい成績を残します。
翌年に2Aリーグに昇格し、次の年には打率.333厘、ホームラン10本、68盗塁でMVPを取ります。
それでも、まったくおごること無く、努力をし続けます。そして、その姿は野球の神様は見続けていたのです。幸運の扉が開かれます。
この年のオフにメジャーリーグへ昇格決定し、翌年に夢が叶いヤンキースタジアムでメジャー初打席を迎えます。しかし、
1球目・・・空振り、2球目・・・空振り、3球目・・・空振り
初打席は空振り三球三振。
それでも、ヤンキースタジアムの観客は総立ちとなり大きな拍手を送ります。しかも、打席を離れた後もずっと拍手が鳴りやみません。
この打席を含め、この年は77試合に出場し、51安打、13打点、打率.218というもの。そして彼のメジャーでの成績が記録されたのはこの年のみ。翌年から再びマイナーリーグで野球を続け、4年後に引退します。
でも、たった一年のメジャー生活で、記録にも残らないような成績でした。
しかし、彼が使っていたグラブは現在アメリカ野球殿堂に飾られています。
ピーター・J・グレイ(Peter J. Gray)
アメリカ合衆国ペンシルベニア州ナンティコーク出身(1915年3月6日生)の左投げ左打ちの外野手。セントルイス・ブラウンズ(ボルティモア・オリオールズの前身)所属。
6歳の時に大好きな機関車を見に行って、事故に遭い右腕を根元から失ってしまい、片腕の野球選手として第二次世界大戦中の1945年にメジャーでプレーし、マイナーでもピーターがプレーする姿をスタンドから観ていた観衆は感動を覚え、その姿は戦争により障害を抱えた人たちに感動を与えました。
ピーターのお父さんは
「あの時、もしも彼から野球という夢まで奪ってしまえば、もう彼には何も残らない。“諦めるな”と言うしか、他になかった」
と言っていたそうです(ちなみにヤンキースタジアムでサヨナラホームランを打ったのはベーブ・ルースだった)。
この言葉だけを信じ、差別を受け、練習にも参加させてもらえず、入団テストには合格しない。
その辛く、苦い、苦しい思いを乗り越え、努力し続けた結果である、その偉大な三振にだということを知っていたからこそ、惜しみない拍手が贈られたのだと思います。
引退後は故郷に帰り、少年野球の指導をし、2002年に、生まれ故郷のペンシルベニア州で87歳でその生涯を閉じます。
ピーターが亡くなる前に残した言葉です。
「私の子どもの頃の夢は、ヤンキースタジアムで野球をすることでした。そして、それを叶えられたことが、自分の人生にとって、もっとも素晴らしい出来事だったと思います。自分のような、身体に生涯をもつ者にとって、練習こそがすべてでした。でも、たとえ練習しても自分にやってくるチャンスはわずかなものでした。ある時こう言われたことがあります。「両方の腕があっても、野球をするのが難しいのに、片腕で野球なんかできる訳がないだろう」と。それでも諦めず、自分は常に夢に向かって練習したのです。最後に好きな言葉を送ります。『勝者は決して諦めない。』」
私は思います。
何の不自由もなく、道具も環境にも恵まれています。それでも、ちょっとした困難に当たったり、自分の思うようにならないことですぐに不平不満なこと言う、へこたれたりする。そして、自分から諦めてしまう。
世の中には自分の思いどおりにならないことの方が多い。
好きで始めたことなら、なんで簡単に諦められる。それっぽっちの覚悟だったのか。そんなちっぽけな夢だったのか。
何か勘違いしているのではないか。
グラウンドで白球を追いかけるだけ。
試合に出たくても出られない。野球をやりたくても出来ない人のことを考えてプレーしたことがあるのですか。
それを考えれば、最後までボールを追わない、全力で走らない、簡単にボールを見逃す。
野球が出来ることの有難さ、嬉しさをもっとプレーで表現しなさい。
恥ずかしいと考えないのか。
A winner never quits.
勝者は常に諦めない。
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