野球小僧

野村克也 / 元;東北楽天ゴールデンイーグルス監督、ほか

元;東北楽天ゴールデンイーグルス監督などを務めた野球評論家の野村克也さんが、2002年2月11日に逝去されました。

野村さんは2020年1月25日に2003年から3年間監督を務めた社会人野球のシダックス(2006年に廃部)のOB会に出席して、当時の選手らと旧交を温めていたのが、最後の公式の場での姿でした。

選手として、南海ホークス(1954年~1977年)、ロッテオリオンズ(1978年)、西武ライオンズ(1979年~1980年)で26年間現役を務め、1965年にNPB戦後初で史上2人目の三冠王達成(世界のプロ野球史上初のキャッチャーによる三冠王)、選手出場試合数歴代2位(3,017試合)、通算ホームラン数歴代2位(657本)、通算安打数歴代2位(2,901本)、通算打点数歴代2位(1,988本)、通算打席数1位(11,970打席)、通算打数1位(10,472打数)、通算犠飛数歴代1位(113犠打)、通算併殺打1位(378打)、ベストナイン19回受賞で1位などの記録を持っています。1963年に記録したホームラン52本は日本出身の日本国籍選手における1シーズン最多ホームラン記録(1985年に落合博満さんと同じ)になっています。

また、監督・コーチとして、南海ホークス(1968年~1977)、ヤクルトスワローズ(1990年~1998)、阪神タイガース(1999年~2001年)、シダックス(2002年~2005年)、東北楽天ゴールデンイーグルス(2006年~2009年)の監督を歴任し、平成(1989年1月8日~2019年4月30日)期間の最多勝利記録(1,053勝)を保持、監督出場試合数歴代3位(3,204試合)です。

私が中日ドラゴンズファンに確定する前は、南海ホークスが好きだったということもあり、また、王貞治さんが1973年に3人目の三冠王を獲得するまでの間、戦後初の三冠王・プレーイングマネージャーのかっこよさということもあって、野球小僧の私にとっては、憧れの選手でした。

野村さんの幼いころは貧しく、小学一年生の頃からお兄さんと一緒に新聞配達やアイスキャンディー売りなどのアルバイトをして、家計を助けていました。貧乏生活から脱却したいとの思いから、将来は歌手になろうと中学校のコーラス部に所属したり、俳優になろうと映画館にかよったりしましたが、、当時プロ野球のスターだった川上哲治さん(読売ジャイアンツ)、大下弘さん(東急フライヤーズ、ほか)への憧れ、野球選手を志すようになりました。

中学二年生で野球部に入部。すぐに四番・キャッチャーに抜擢され、三年生の時には地方予選で優勝。京都府大会でもベスト4に入り、青年団の補強選手にもなるほどの活躍でした。中学卒業後は働くようにお母さんから言われますが、お兄さんが大学受験を断念するなどの取り計らいもあって、京都府立峰山高校に進学します。入学後、内緒で野球部に入部したことがお母さんにばれてしまい、退部するよう言われますが、先生の取り計らいにより続けさせてもらいました。野球部は地方大会で一回戦負けの常連であり、二年生時に京都府予選の二回戦まで進んだのが最高で、甲子園など夢のまた夢でした。当時は廃部も検討されており、野村さんもまったくの無名選手でした。

卒業後の進路は先生がプロ野球の監督に手当たり次第に推薦状を送り、当時の南海ホークス監督・鶴岡一人さんだけが返事をくれ、実際に見に来た鶴岡さんの見守る中でランニングホームランを放ち(野村さんが高校時代、打ったホームランはこの1本のみ)、1954年に契約金0円のテスト生として入団しました。

実は野村さんは大のジャイアンツファンでしたが、当時のジャイアンツは藤尾茂さんがキャッチャーで活躍していたため断念。キャッチャー層が薄く高齢化していたホークスなら一軍のレギュラーになりやすいと考えたことでもありました。

ただし、当時のホークスは毎年優勝争いを繰り広げており、シーズン当初は出場機会が無く、一年目は9試合で11打数無安打でした。さらに、シーズンオフに戦力外通告を受けますが、、「もしここでクビになるようなら生きていけません。南海電鉄に飛び込んで自殺します」と辛抱強く交渉し、担当マネージャーに「お前のような奴は初めてだが、若い内なら人生はやり直せる。お前は活躍できないんだぞ。俺の目は確かだ」と言われ、また、秋季キャンプ中に正キャッチャーが交通事故、2番手がトレード、3番手がデッドボールを受けてケガをしたことでキャッチャー不足となったこともあり何とか残留しました。

運も味方したこともありますが、それだけでは、後の三冠王にはなれません。

キャッチャーとしては肩が弱かったこともあり、秋季キャンプでファーストへのコンバートを言い渡されますが、当時は球界を代表する飯田徳治さんがいたこともあり、「このままではレギュラーになれない」と考え、砂を詰めた一升瓶やテニスボール、握力計、鉄アレイなどを使って筋力を鍛え、遠投で肩を強化しました。さらに、まっすぐ投げることができていないことを指摘され、その原因がボールの握り方も知らないことであったことから、考えることの重要性を知り、「遠投は体全体で投げること」という先輩の言葉を「体全体を鍛えればいい」と解釈し、当時はまだタブー視されていたウエイトトレーニングを始めたりしました。

このような努力が実り、2年目は一軍出場はなかったものの、二軍で打率2位の成績を残し、シーズンオフの秋季キャンプでキャッチャーに再コンバートされます。野村さんは、こういう経験もあって、指導者となってからはプレースタイルなどについて考えることの重要さを説いています。

そして、3年目の1956年の春季キャンプで一軍に抜擢され、以降レギュラーに定着しました。

1968年からはコーチ兼任となり、1969年11月に34歳の若さで選手兼任監督に就任しましたが、1977年9月にシーズン終了まで残り2試合の時点で監督を解任されます。原因は、当時愛人関係にあった沙知代さん(2017年12月8日逝去)の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由(野村さん自身は否定)と言われており、後にスワローズの監督に就任した頃には、TVなどでもよく出演していたので、その頃のことで記憶にある方は多いのではないかと思います。

ある意味、おしどり夫婦ともいえるでしょう。

野村さんは沙知代さんについて、こう語っています。

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私たちはプレゼントのやり取りなども一切しなかった。誕生日も、結婚記念日も、クリスマスも、日常と何ら変わりなく過ごした。入籍した日も正確には記憶していないくらいだ。まだ若い頃、一度だけ、誕生日にブローチをプレゼントしたことがある。ある店で、沙知代が「これいいわね」と言っていたので、覚えておいて、次の誕生日にプレゼントしてやろうと企てたのだ。

ところが、喜んでくれると思いきや、「なに、これ」の冷たいひと言だけ。それどころか沙知代は翌日、そのブローチをお店に返品してしまった。

店員さんの手前、少し褒めただけで、実際には、なんとも思っていなかったようだ。

そのとき、沙知代に金輪際、プレゼントをするのはよそうと思った。

そんな妻に失望したかといえば、そうでもない。

贈り物を断るときなどに、よく「お気持ちだけ頂戴しますので」と言うことがある。だが、沙知代は物の中に「お気持ち」は見ない。純粋にモノとして見る。

目の機能としては、とてもシンプルだし、精度が高いとも言える。

モノにとっても、沙知代のような人物に目利きをされた方が幸せではないか。気持ちが入っているからと言って、モノの良し悪しは変わらないのだから。

恐ろしいほど正直な女だな。

どこかで、そうおもしろがってもいた。

ブローチの一件を話すと、よく「どんな女性でも、花をあげれば喜ぶものですよ」とアドバイスされる。そのたび、私はこう言葉を返したくなったものだ。

どんな女性の「どんな」の中に含まれない女性も、この世には存在するのですよ、と。その代表格が沙知代だ。

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沙知代さんを亡くしてからの野村さんは一時期、まったく元気がなかったように見受けられました。

それでも、最近はまた、あちこちでぼやきが聞こえてきたところではありましたが。

シダックス野球部で始動した選手の多くは指導者になっています。北海道日本ハムファイターズの武田勝ピッチングコーチ、立正大の坂田精二郎監督など、約30人に上ります。OB会では1人ずつから近況を聞き、「教えを引き継いでくれるのはうれしい。役立ってるとは思ってなかった。人は人を残すのが仕事」「見つける、育てる、生かすというのが指導者の使命。どうしても自分の欲が先行してしまう。チームのため、選手のために考えること」と語っていました。

「選手を育てる上で一番大切なのは愛だ。愛なくして人は育たない」

野球よりも沙知代さんを愛した野村さん。ご冥福をお祈り申し上げます。

コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。

どのこニュースとワイドショーも野村さんか、COVID-19でしたね。

なんだかんだ言っても、プロ野球界に1つの野球スタイルを持ち込んだ野村さん。確かに野球は確率の競技でもありますので、そこに目をつけたことは、素晴らしい功績だったと思います(私が褒めたところで、どうにもなりませんが)。
eco坊主
おはようございます。

キャリアだけ見ても凄いキャーでしたね。そしてONへの反骨心も。
監督時代そして解説者(タレントも含めて)の頃の一言一言には賛同するものもあれば(兎党として)反発するものもありましたが、的を射てましたね。
沙知代夫人については・・・(省略)

ご冥福をお祈りいたします。合掌
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