(2020年2月に訪問した際のことです)
全国の米軍専用施設の約70%が集中する沖縄県。
1945年の沖縄戦の最中に、宜野湾一帯が米軍の支配下に置かれると米陸軍工兵隊の発注により中頭郡宜野湾村(現;宜野湾市)の一部土地を強制接収し、2,400m級の滑走路を持つ飛行場が建設されました。沖縄戦は6月23日に組織的戦闘が終結したとされていますが、日本との本土決戦(連合軍側から見た場合ダウンフォール作戦)に備えるため、兵員および物資の輸送のために建設が続けられました。沖縄戦による地元住民が避難したり、収容所に入れられたりしている間のことです。
これが「普天間飛行場」の始まりになります。
1951年に「サンフランシスコ講和条約」が締結され、日本は主権を回復したものの、当時は東西冷戦のまっ只中でもあり、本土から沖縄に移された米軍部隊もあり、沖縄では基地が拡張され、なおも米軍の統治下に置かれました。米軍による強制的な接収を意味する「銃剣とブルドーザー」という言葉も生まれました。
1995年に米兵による少女暴行事件が起こると、沖縄県民の怒りが爆発し、宜野湾海浜公園で開かれた県民総決起大会には、8万5000人(当時の沖縄県の人口は127万人)が集まり、この事件をきっかけに、沖縄県内では米軍基地の返還・閉鎖を訴える運動が高まります。
反基地運動の高まりを受け、日米両政府は沖縄の基地を削減する方針で交渉。1996年に当時の橋本龍太郎首相とウォルター・モンデール米駐日大使は、普天間飛行場を5〜7年以内に返還することで合意したと発表します。しかし、返還には条件があり、代わりの基地を沖縄県内に建設するというものでした。
そして、代替候補地として浮上したのが、米海兵隊基地キャンプ・シュワブ(名護市)がある辺野古地区に海上基地を建設する案が有力となり、これが今に至る普天間飛行場の移設をめぐる問題なのです。当然、辺野古地区への移設案をめぐっては、「環境破壊」や「県内でのたらい回しだ」といった反対意見が挙がりました。
1998年2月の名護市長選では、移設容認派の候補が当選。同年11月の県知事選でも自民党推薦の候補が選ばれます。すると、沖縄県は1999年に辺野古を移設候補地に決定。市長が移設受け入れを表明し、日本政府も辺野古への移設を決定しました。
市街地のど真ん中に位置し「世界一危険な飛行場」との異名もある普天間飛行場では、以前から重大事故の危険性が指摘されてました。
2004年8月には、普天間飛行場の米軍ヘリが沖縄国際大学(宜野湾市)の構内に墜落。夏休み中で人がいなかったため、人的被害はありませんでしたが、周辺の住宅地には校舎の外壁や機体の破片が飛散し、事故後には飛行場の返還を求める声が高まり、2006年5月に日米両政府は「米軍再編ロードマップ」に合意し、辺野古への新基地の建設と、米海兵隊員約8000人のグアム移転などが決まります。
2009年の衆議院選挙で民主党が圧勝し、政権交代となり、鳩山由紀夫首相(当時)となります。民主党は「沖縄ビジョン(2008)」で普天間飛行場を含む米海兵隊基地の「県外への機能分散をまず模索」「国外への移転を目指す」と明記、2010年1月には名護市長選で、基地反対派の候補が当選し、沖縄県では県外移転への期待が高まります。
しかし、鳩山首相は公約の「最低でも県外」を進めようとしますが、すでに日米間で合意済みのロードマップを見直すことに米国側は難色を示し、新たな移設候補先も見つからず、移設計画の早期実施を求めるオバマ大統領(当時)に理解を求めましたが想定どおりには進まず、2010年5月に鳩山首相は普天間飛行場を辺野古周辺に移設する方針を正式に表明し、県外移設を断念します。
2012年12月の衆議院総選挙で民主党が敗北。自民党が政権与党に復帰し、普天間基地の辺野古移設計画が再び動き始め、第2次安倍晋三政権の下、沖縄県は辺野古沿岸部の埋め立てを承認しました。
ところが2014年。沖縄の政治が大きく動きます。1月の名護市長選で基地反対派の現職市長が再選。さらに12月の県知事選では、「あらゆる手法を使って辺野古新基地建設を阻止する」と訴えた「オール沖縄」の候補が当選します。
2015年10月に埋め立て承認の「取り消し」に踏み切りますが、国側は反発。国と県が法廷闘争を繰り広げる異例の事態となりますが、2016年12月に最高裁で「取り消し処分は違法」とする判決が確定し、沖縄県が敗訴します。
2018年に入ると再び沖縄の政治に変化が出ます。1月の名護市長選では、自民党などが支援した辺野古への移設容認派候補が選出。すると、7月27日に沖縄県事は前知事が出した辺野古沿岸の埋め立て承認の「撤回」を表明しますが、その直後の8月8日に現職知事が急逝。これに伴い、9月30日に沖縄県知事選が実施され、「遺志を受け継ぎ、辺野古に新たな基地は造らせない。普天間飛行場の閉鎖・返還を一日も早く実現するよう政府に強く要求する」とした候補者が当選、新知事に就任します。
さて、嘉数高台公園にある地球儀を模した展望台があります。
展望台からは360度見渡せるのパノラマが広がり、条件が良ければ慶良間諸島まで見ることもできます。眼下には宜野湾市の市街地が広がり、その中に沖縄の米軍基地問題で頻繁に報道されている普天間飛行場を見ることが出来ます。展望台には私のほかに、三脚にカメラを固定して普天間飛行場を撮影する人などの方が多くいました。
日米が返還に合意してもうすぐ四半世紀25年になります。宜野湾市の4分の1を占める普天間飛行場は、今も市街地のど真ん中にあります。
あらためて、2度とこない今日という1日を大事に大切に過ごしたいと思います。
良いことはずっと続き、良くないことには、必ず終わりが来ると信じていきましょう。
今日も、私のブログを最後まで読んでいただき、ありがとうございます。明日もまた、元気にここでお会いしましょう。