野球小僧

川勝傳 / 元;南海ホークスオーナー

私は中日ドラゴンズファンとともに中学生くらいまではパ・リーグファンでした。テレビではあまり放送されませんでしたが、オールスターや日本シリーズでパ・リーグのチームが勝つと嬉しいものでした。

1970年代前半は西鉄ライオンズを受け継いだ太平洋クラブライオンズ・クラウンライターライオンズ、東映フライヤーズから日拓ホームフライヤーズと新チームが出来、子ども目線での新しものに興味が惹かれました。また、阪急ブレーブス、近鉄バファローズ、南海ホークスと関西私鉄三大チームも好きでした。特に太平洋クラブライオンズ・クラウンライターライオンズと南海ホークスのファンでした。

その頃のホークスのオーナーが川勝傳(かわかつ でん)さんです。

川勝さんは1901年生まれ。1928年に立命館大学卒業後、電通へ入社し、後同盟通信に転じ経済記者となります。1937年、同盟通信社内国経済部長、大日本紡績連合会理事、東京出張所長、寺田合名理事となり、後に日本スピンドル製造の社長に就任しました。

川勝さんが南海電鉄の社長に就任したのは、1968年のことでした。当時の南海電鉄は1967年4月からの1年間で、重大事故3件(1967年4月に急行とトラックと衝突、先頭2両が河原に転落。7月に駅構内で信号を無視した急行と普通列車が衝突、1968年1月に駅構内で信号を無視した急行が引込み線に入っていた回送電車に衝突)を引き起こし、南海電鉄本社内部がごたごたしていた時期で、社長が壺田修さんから稲次さんに代わったばかりだったのですが、その引責辞任に伴う就任でした。

そして川勝さんはそのままホークスオーナーに就任しました。オーナー一年目は主力のケガや不振が重なり、当時パ・リーグ記録となる15連敗するなどして、2リーグ分裂後初の最下位で終わり、飯田徳治さんは1年で監督を辞任しました。後任監督に川勝さんはホークスの顔の野村克也さんに監督兼任を要請しました。この時、野村さんは条件として、ヘッドコーチとしてブレイザーさんを招聘することと、資金面での協力を願い出て了承し、監督に決まりました。

1970年は優勝したロッテオリオンズに引き離されたとはいえ、シーズン2位と躍進しますが、1971年は不振に陥り成績も5割をきって4位に転落。この時から一部ベテラン選手と野村さんとの間に軋轢が起こり始めます。川勝さんは現場の責任者は野村さんであるから、まず彼がどういうようにしてくるか見るべきとの考えから敢えて介入せず、野村さんが示した投手、内野手、外野手にそれぞれ主将をおくという案を了承することになります。

1972年は近鉄バファローズとゲーム差なしの3位になったものの、パ・リーグが西鉄ライオンズの黒い霧事件によって、観客離れがあり、どうするかで悩んでいた時、川勝さんは前・後期2シーズン制を提唱して他のオーナーを説得し、1973年からの導入が決まります。

一方、野村さんはこの年あたりから家庭内に隙間風が吹くようになり、東京での遠征の際に出会った女性との関係が始まったと言われています。また、チーム内では門田さんとの間で問題が発生。後にお互いの言葉の行き違いがあり和解しました。

1973年は前期優勝。この時、川勝さんはグラウンドに降りてきて監督、コーチ、選手とともに喜び、球場に詰めかけていたファンに手を振ってこたえました。これが川勝さんが経験した唯一の優勝でした。後期は「死んだフリ」をしてブレーブスには12敗1分でしたが、プレーオフでブレーブスを破り、7年ぶりに日本シリーズに出場しました。

この年のオフ、日拓ホームフライヤーズの西村オーナー(当時)が突然「パ・リーグに未来はない。まず南海と近鉄の合併だ」と発言したことがマスコミで報じられるという、プロ野球再編事件がありました(ところが本体の営業が不振に陥った日拓が日本ハムに球団を譲渡)。

1974年はなかなか波に乗り切れずシーズンは3位で終了。

この年に読売ジャイアンツが野村さんと東京で密かに会って入団要請していたことが後年明らかになっています(野村さんは上記の女性のついでに?)。報道では当時ジャイアンツの球団常務だったロイ佐伯さん、広報担当の張江五さんが証言しているため、事実とのことです。結果は当時監督だった長嶋茂雄さんが反対して幻に終わりました。

1975年は開幕からチームは不振で5位に終わります。そしてこの年のオフに江本さんと江夏さんを中心とした4対2のトレードが成立します。

1976年は江夏さんは6勝12敗でしたが、投手陣の踏ん張りもあって2位でシーズンを終えます。

1977年はシーズン途中から江夏さんをリリーフに固定し、ピッチャーの分業を本格的に定着させるきっかけを作ります。

前年あたりから、野村さんの女性問題が注目されるようになり、観客席でヤジを飛ばしていた人に現夫人が近づき、文句を言ったところ口論になったということがありました。女性問題が起きていた時、川勝さんは「男の上半身と下半身は、時には別々の方向を向いていることもあるのや」と笑い飛ばしていたのですが、大阪豊中の自宅マンションに泥棒が入り、それで現夫人と同棲していることが判明してマスコミに報道されてしまします。この時、野村さんは前夫人との間で離婚調停中(翌年に成立)で、いわゆる不倫が騒ぎの原因でした。また、現夫人の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」も野村さんを大事にしていた川勝さんの耳にも入りました。

こういった問題が一気に出てきたこともあり、川勝さんもこれ以上は放っておけず、本社が調査に入りますが、この調査をした人の中に元監督の鶴岡一人さんに近い人がいたという噂です。シーズン残り2試合を残して、電話で監督解任の旨が野村さんに告げられます。

そこから野村さんの抵抗が始まり、マンションにこもったまま外出しませんでした。そして1週間後、ホテルで野村さんは「野村監督解任、広瀬監督誕生・・・」から始まり、名言の「私は鶴岡元老にぶっ飛ばされたということです。スポーツの世界に政治があるとは思いませんでした。(中略)、わかってる。解任の決め手は葉上さん(野村さんの親代わりの葉上照澄:比叡山延暦寺大僧正)やろ。『彼女と別れなければ野球が出来なくなる』と言われた。彼女も葉上さんに会って話を聞いて欲しいと頼んだが、向こうは『帰れ』の一点張り。それで彼女が『それが仏の道を説く人・・・』と言ったのが印象を悪くしたんだろう。葉上さんがオーナーに悪く吹き込んだんだろう」の1時間弱の演説会になったと言われています。また、後援会などからも「監督を取るのか、愛人を取るのか」と聞いた時、「愛人を取る」が答えだったとのことでした。結局、1978年のオフに野村さんは退団、その後オリオンズに1年、西武ライオンズに2年在籍して球界を引退します。

川勝さんはこの間も沈黙したままだったようですが、野村さんの会見で名前が出た鶴岡さんと葉上さんには直接謝罪したそうです。これだけの騒ぎになった背景の一つには、野村さんの前夫人は南海電鉄本社の重役の娘さんでだったということもあるかも知れません。

この1978年のシーズン2位を最後にホークス暗黒時代となります。目まぐるしく監督は変わっていきますが成績は常にBクラスのまま。この間、南海電鉄本社の取締役を退いた川勝さんですが、球団オーナーだけは頑として離れず、この頃から噂された球団譲渡についても「ワシの目の黒いうちは絶対に売らん」と言い放ち、球団に対するなみなみならぬ愛情をみせます。また、新人選手の入団発表には必ずといっていいくらい時間の許す限り同席し、握手して励ましていました。

また、余程の事がない限り通勤に会社の公用車を使うことはなく、電車での通勤を通したそうです。「実際に乗ってみないとお客さんの気持ちはわからない」とのことです。それと、球場でもスタンドで試合を観戦し、酔っぱらったファンから文句を言われながらもじっと話を聞いていた人でした。

そして1988年4月23日に川勝さんが亡くなり、9月にダイエーに球団譲渡が正式に決定しました。南海ホークス50年の歴史のうち20年間オーナーを続け、ホークスを愛した川勝さんでした。

野村さんは、後年、インタビューでこんな話をしています。

シーズンの終盤、公式戦がまだ2試合残っている段階で、クビ宣告を受けました。その理由は、成績不振ということではなく、のちに結婚するサッチー(沙知代・現夫人)との交際が原因でした。スポーツ紙にも、野村の愛人問題ということでいろいろと書かれました。当時結婚していた女性との関係はすでに破たんし、離婚を前提にした別居生活を送っていたんです。ですから、サッチーと出会ったから家庭を捨てたということでは決してなかったんですよ。

しかし、プロ野球という人気商売において、そうしたスキャンダルに対する世間の目は厳しいものです。球団としても決断を迫られ、オーナー、球団代表、後援会長、後援者らが集まったトップ会談の末、私の解任が決定したのです。

その中で、プロ野球選手としての資質と女性問題は別物であるとして、最後まで私をかばってくれたのが川勝オーナーでした。チームの強化に貢献した私に恩義を感じてくれていたようで、その直後にお会いした際、「申し訳ない。俺一人では野村君をかばいきれなかった」と頭を下げられた。私の不徳が招いた解任劇だっただけに、こちらこそ申し訳ない気持ちでしたが、そう言ってくれる方がいるだけで救いにもなりました。 

ただ、そうは言っても、今後の身の振り方を早く考えなければいけないわけです。スキャンダルの影響か、予定されていた日本シリーズのゲスト解説の話もなくなり、正直、「もうプロ野球の世界で生きていくことはできないのか……」とも思い始めていました。

そんなとき、サッチーの提案で、荷物をまとめて車で東京へ向かうことになったんですよ。私は関西の人間だから、東京に行くといっても何のアテもない。それどころか、自分から野球を取ったら何も残らないですし、42歳という年齢から他に働き口があるかもわからない。

もう本当にしょげまくってね。車を運転して東名高速を走っているときも、「これからどうやって生きていけばいいんだ、俺は……」なんて、一人でずっとしゃべっていたんですよ。そうしたら、サッチーが大きな声で言うんです。

「なんとかなるわよ!」って。

彼女にしてみれば、自分が東京で頑張らなければ仕方がないという気持ちが強かったんでしょうね。背中をドンと押されたかのように、勇気づけられましたね。「そうか。なんとかなるか。やれる限りのことをやってみるしかないな」と。

結局、私はその後、ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)で1年間、西武ライオンズで2年間プレーし、45歳まで現役生活を続けることになりました。2つの球団に移籍できたのは、「野村は野球の知識が豊富だし、現役としてもまだ使えるから採ったほうがいい」と口添えしてくださった川勝オーナーのおかげなんです。

我が人生の危機について振り返るとき、南海ホークス在籍時も含めて、大変お世話になった川勝オーナーのことを思い出さずにはいられません。

そして、それを乗り越えるきっかけを作ってくれた「なんとかなるわよ!」という言葉は、今でも心に刻まれています。

野村沙知代さんのご冥福をお祈りいたします。


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
野村さんと沙知代さんの話だと、どうしても克則さんの懐妊ではなく、監督解任騒動のことかなと。とすれば、当時のオーナーのお話ということで。

野村さんが一線を退いてからは、あまり表にも出てきませんでしたね。体調的にもあったと思います。

野村さんはがっくりと来ているみたいですね。

ご冥福をお祈りいたします。
eco坊主
おはようございます(*Ü*)ノ"☀

突然出てきた川勝傳 元南海ホークスオーナー
なんでかな~と思いつつ読み続けていて途中で分かりましたよ!
良くも悪くも(失礼)野村克也氏を支えた方でしたからね。
熟女バトルといえば必ずどっかで絡んでおられた元気なイメージしかないのですがもう85歳になられていたのですね。

ご冥福をお祈りいたします。


因みに私、読売ジャイアンツのファン一筋です。
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