長野県の高校野球界の一時期を築かれた名将が1年半ぶりにグラウンドに戻って来ました。今年、71歳になりますが試合前のシートノックを行うなど、「この年代でも頑張れることを示していきたい」と言うとおり、まだまだお元気です。
今までの松商学園高と長野日大高を指導した32年間の高校野球監督生活で通算選抜3回、選手権大会8回、甲子園14勝(11敗)という経歴を残しています。
出身は長野県池田町。高校時代は松商学園高校で内野手として活躍し、甲子園に出場しています。高校卒業後は明治大学へ進学し、四年時には副主将を務めています。同期には主将だった現・横浜DeNAベイスターズの高田繁GM、一学年下には一期下には現・株式会社楽天野球団の星野仙一取締役副会長がいます。
1968年に明治大学卒業と同時に母校松商学園野球部の監督に就任、翌年には最年少監督としてチームを甲子園出場に導いています。一時期、監督を退いていましたが、再び監督に就任、松商学園高で2期22年で選抜大会に2回、選手権大会に7回出場しています。
特に1991年には上田佳範さん(元中日ドラゴンズ)をエースとして、選抜大会準優勝、選手権大会ベスト8、国体優勝という、近年(と言っても20年以上前)の長野県高校野球を最も熱くした最強チームを創りあげました。なお、この時の春の選抜大会一回戦で愛知・名電高(現; 愛工大名電高)と対戦し、エースだったイチロー選手(現; マイアミ・マーリンズ)に3-2で勝利しています。
また、夏の選手権大会三回戦では三重・四日市工業高の井出元健一朗さん(元中日ドラゴンズ)と上田さんの延長16回を投げ合い、最後は押し出しデッドボールという結末でした。その後も何度か甲子園出場を果たしますが、2004年4月に部内の不祥事により、引責辞任しました。
その後、多くの学校から誘いがかかりましたが、「甲子園に出たことのない学校で自分の力を試したい」という理由で長野日大高を選びます。2005年1月に監督に就任しましたが、練習場の広さや練習時間の少なさ。選手も松商学園高では県内外からトップクラスの選手が集まるものの、長野日大高ではほとんどが長野市とその近郊の出身という差に驚いたそうです。「素直でいい子だが勝負に対する執着心に欠ける」と感じたそうで、練習試合では群馬・高崎経済大付高9-20、東京・日大三高に7-45でという大敗でした。「飛び込めば取れる打球を取らない」「迷ったら走塁しない」というのが長野日大高でのスタートでした。
しかし、2008年に長野日大高創部50年目にして初の甲子園(春の選抜大会)へ連れて行き、ベスト8まで勝ち進みます。更に2009年には夏の選手権大会にも出場を果たし、ベスト16まで勝ち進みました。
この2009年選手権大会の初戦は栃木・作新学院高との一戦。雨により2日間の順延後の試合では10-8で打ち勝ち、二回戦では奈良・天理高に7-6で逆転勝ち、三回戦は愛知・中京大中京高に5点リードされますが、追いついたものの、5-15で敗れ去りました。しかし、甲子園常連ともいえるこの3校との対戦は印象に残るものでした。
そして、2014年の選手権大会長野県大会二回戦で敗れた後に、長野日大高を退任しています。
「何より野球が好き」「もっと長野県の野球を強くしたい」「身体はどこも悪くなくて元気」
おそらく、中原監督自身の集大成となると思われる、今回の監督就任。
その初戦を観に来た観客から拍手で迎えられました。この次、公式戦初勝利のときにはもっと大きな拍手で包まれるでしょう。