2020年8月に発売された、マイクロマガジン社の「地域批評シリーズ50 これでいいのか長野県(編者:鈴木ユータさん・岡島慎二さん)」。近くのどこの書店へ行っても一押しのごとく並べられていて、「これでいいのか?」と思ってしまいます。
この一冊で長野県の歴史、県⺠性、地域文化、それと県内の地域問題など、確かに「改めて地元を見つめ直す」一冊です。
さて、長野県のソウル・ミュージック(?)で県民の90%以上が歌えるといわれている県歌「信濃の国」。たとえるならば、鳥取県民が唄う(?)童謡「ふるさと」、群馬県民にとっての「上毛かるた」などの県民性を語るうえで話題に上る歌です。
ちなみに、私は、小学校の時に山梨県から転校してきたときに、音楽の時間に同級生が当たり前のように唄っていることに驚きでした。ほかにも、当時、県外から転校してきた友人もいましたが、もちろん唄えません。まあ、山梨県といえば「武田節」ですから。そもそも、県歌なんてものがあることを初めて知った次第です。
この「信濃の国」は、信州大の前身校のひとつ、長野県師範学校(現;信州大学教育学部)の教諭であった浅井洌(あさいれつ)さんによる作詞に、同じく師範学校教諭であった北村季晴(きたむらすえはる)さんの作曲で、1899年に運動会での女の子のダンス用にと頼まれて作られました。1968年に県歌に制定されています。
現在は信州大教育学部附属長野小学校の校歌としても歌い継がれています。また、各地の小学校の運動会でのダンス競技で観られることもあります。
この県歌にまつわるエピソードがあり、1つは1948年に長野県庁舎が火事になり、春に開催された第74回定例県議会で、長野県を南北に分割しようとする分県意見書案が中信・南信地方(合併前の筑摩県域)出身議員らから提出され、大紛糾したそうです。このときに、聴衆していた分割に反対する北信地方と東信地方(合併前の長野県域)の住民が「信濃の国」の大合唱を行なわれたといわれています(結果的に分割は投票の結果、廃案)。ただし、歌が唄われていた記録はないそうです。
2つめは、1968年に白馬村で行われた第23回国民体育大会・冬季スキー競技大会の県旗掲揚の際、中学生ブラスバンドの演奏に合わせて、約3000人の観衆が大合唱が沸き起こり、これが全国に報じられました。
ちなみに、歌は6番まであり、1番と2番で県内の地理や自然、3番では明治のころの県内産業、4番は名所旧跡、5番は昔の偉い人、そして6番で学問の道を進もうという歌詞になっています。なお、4番のみメロディーとテンポが異なる、珍しさもあります。
♬信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
聳ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地
海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき
♬四方に聳ゆる山々は 御嶽乗鞍駒ケ岳
浅間は殊に活火山 いずれも国の鎮めなり
流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川
南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり
♬木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し
民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑とりて 蚕飼いの業の打ちひらけ
細きよすがも軽ろからぬ 国の命を繋ぐなり
♬尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚の床
木曽の桟かけし世も 心してゆけ久米路橋
くる人多き筑摩の湯 月の名にたつ姨捨山
しるき名所と風雅士が 詩歌に詠みてぞ伝えたる
♬旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も
春台太宰先生も 象山佐久間先生も
皆此国の人にして 文武の誉たぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽きず
♬吾妻はやとし日本武 嘆き給いし碓氷山
穿つ隧道二十六 夢にもこゆる汽車の道
みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い
あらためて、2度とこない今日という1日を大事に大切に過ごしたいと思います。
良いことはずっと続き、良くないことには、必ず終わりが来ると信じていきましょう。
今日も、私のブログを最後まで読んでいただき、ありがとうございます。明日もまた、元気にここでお会いしましょう。