12月に行なわれる全国高校駅伝で佐久長聖高校で駅伝部監督就任後、13年連続出場し、優勝を含む12回入賞させた名監督といってもいい方です。
今年の箱根駅伝では、花の2区で17人をゴボウ抜きして大会MVPを獲得した東海大・村澤明伸(2区)を始め、優勝した早稲田大・大迫傑(1区)、駒沢大・千葉健太(6区)の区間トップで駆け抜けた選手は佐久長聖高校出身です。
全体を見渡しても11人が登録され、出場9人、駅伝部員は24人(だったと思います)と単一高校としては突出しています。
![]() |
「人間力」で闘う―佐久長聖高校駅伝部強さの理由(わけ) 価格:¥ 1,470(税込) 発売日:2011-03 |
以前の長野県内の高校駅伝といえば、上伊那農業高校、東海大三高校が県代表の常連でしたが、全国レベルとしては、まだまだ力不足でありました。
それが、当時ダイエーでマラソンランナーとして1996年のアトランタ五輪を目指していた20代と若い両角監督に1995年に佐久長聖高校駅伝部監督就任要請されます。
この年、佐久高校から佐久長聖高校へと校名を変更し、中高一貫教育とし、名門校を目指そうとしていました。そのために野球部、駅伝部に力を入れ、学校を有名にするためでもありました。
しかし、その就任要請も楽なものではありませんでした。
「部員はゼロ。練習グランドもない。しかし5年以内に高校駅伝に出場して欲しい」
就任して最初に取り組んだのはグランド作りと部員の勧誘。中学生生徒の家の玄関先で門前払いがほとんど。今は進学校として有名ではありますが、当時どちらかというと・・・。子どもを通わせたくないのも判る学校でした。
また、佐久長聖高校の駅伝部を知ってもらうため、自ら広告塔となって各種長距離大会にも出場していました。自ら走ることで、自分のことを知ってもらうことが、有力中学生を勧誘のためでもあります。そして、少しずつ強い選手が佐久長聖に集まってきます。
「この時に、選手時代以上の根性がつきましたね。毎日草むしりや地ならしをし、生徒の親に頭を下げ続けたというのは、全国広しといえども教師の中では、僕ぐらいでしょ。だから、他の高校に絶対負ける訳には行かなかったんです」
そして、1998年に全国高校駅伝に初出場。しかも4位入賞という快挙付きを果たします。
「僕は生徒に何かを押し付けたり、強制したりすることはありません。自分で何のために苦しい思いをしているのかを理解すれば、自然と伸びるようになるし、身体にも細かな神経が行くんです。陸上の最後の勝負は、いかに自分を知っているかですから」
駅伝部は全員合宿生活。生活行動をチェックしながら、自分で判断し行動するように仕向けていったそうです。
「人様の大事なお子様をお預かりしているんですから。緊張感がありますし、責任の重さを常に感じています」
とも言っています。
さて、そんな両角監督ですが、今年の4月から母校の東海大学陸上競技部駅伝監督に就任しています。
もちろん、箱根駅伝の優勝を期待されてのことでしょう。
ですが、夢は「オリンピックチャンピオンを育てること」だと言っています。
今日も、その先のゴールへ向けて、「人間力」のタスキをつないでいけれる選手になるように、グラウンドで指導していることだと思います。