安倍晴明さんと言えば、フィギュアスケートの羽生結弦選手がフリースタイルのBGMで映画「陰陽師」からサウンドトラック「SEIMEI」を選曲していますが、この映画のモデルとなった方です。職業は陰陽師です。
明治以降陰陽道が廃れ、歴史の授業で取り上げられることはなく、「帝都物語・荒俣宏さん著」、「陰陽師・夢枕漠さん著」などで有名ですが、岡野玲子さんのコミックス「陰陽師」で描いた妖しげな術を駆使する姿でイメージが定着しました。そもそも、陰陽道とは中国古代の陰陽五行説に基づいて形成された俗信で、木火土金水の五行と、日月、十干十二支の組合せに、相生相克の理を当てはめて吉凶を判断するもので、日時、方角をはじめ、人事全般に行為、運勢の良否を規定したものです。そして陰陽師とはその天文、暦、占術などを行い、祈祷や祭祀を担当する、当時最先端のお仕事です。また、天皇や要人を呪術的な力で守る、SPのような重職も担ったそうです。
晴明さんの生きた平安時代は「貴族文化が花開いた時代」「女性は十二単をまとい、和歌や、管弦の宴を毎日のように開いていた」「源氏物語や枕草子が書かれた時代」など華麗な時代を思い浮かべると思いますが、実際は奈良時代には概念のなかった「怨霊」「物の怪」が登場するようになり、特に貴族は、まじないや占いなどにより、生活にも支障が出るようになり、中頃になると天皇の外出が極端に減り、宮中から出る事がほとんどなくなった時代です。晴明さんの陰明師という仕事には、そんな怨霊や鬼を退治することも含まれていました。
例えば、今日は南東の方向が悪いと出ると「方違い」といって悪い方角を避けてとおったり、日が悪いと出れば「物忌み」と称して、その日は一日家にこもったり。そして、何か悪い出来事や印が現れれば、陰陽師を呼んでその原因を占ってもらっていたそうです。
921年の生まれとされていますが、出自は定かではなく、物語や伝説上では父は安倍保名(あべのやすな)さん、母は狐の化身・葛の葉(くずのは)さん。出身は大阪府・和泉、香川県・讃岐、茨城県・筑波など諸説あります。奥さんの名は不明ですが、息子の吉平さん・吉昌さんも後を継ぎ、陰陽師となり、現在は27代目が継いでいます。
晴明さんは幼い時に京に上り、陰陽師・賀茂忠行さんの元で修行し、式神(鬼神)を見ることが出来たそうです。天皇や藤原道長さんら貴族のために占いをしたり、陰陽道諸々祭を取り仕切ったそうです。著書に占いを集大成した「占事略決」があります。
その生涯は神秘的なエピソードで彩られ、晴明さんが陰陽師として歴史の表舞台に登場するのは57歳の時。道長さんに重く用いられるようになってからでした。案外お年を召した後です。そして、それまでの若い頃の記録はほとんど残っておらず、晴明さんがどうやって陰陽寮(朝廷内にある役所)の天文博士という地位にまで登りつめたのかは、よく判っていないそうです。
文献には何か事あるごとに天皇や貴族に晴明さんが、呼び出された記録が、たくさん残っています。また、平安時代の貴族の日記や仏教説話集にも、鬼神を見て師匠を救った、天変を察して花山天皇の退位を知った、よく式神(鬼神)を使い、老僧と術比べをして勝った、草の葉を投げて蛙を殺した、白犬と共に道長に掛けられた呪いを見破った、蔵人の少将に掛けられた呪いを見破り、呪詛返しをし、呪いをかけた陰陽師を殺したなどの話が載っているそうです。
晴明さんには蘆屋道満さんというライバルがいました。この道満さん、晴明さんの噂を聞き「私以上の天才陰陽師はいないのだ」と言う事を証明するために上京して来て対決をします。
まず、道満さんは庭の砂を手にすると、それに念をかけ空に投げました。すると砂は無数のツバメに変わります。晴明さんは手にした扇で一打ちしツバメを元の砂に戻しました。今度は晴明さんが呪文を使って天空から龍を現し、辺り一面に雨を降らせます。それを見た道満さんは仕返しとばかりに龍を消そうとします。しかし、どれだけ術を駆使しても龍は消えません。それどころか、雨はどんどん激しさを増し、腰の高さにまで水位が増そうかという時、再び、晴明さんが呪文を唱えると雨は止みました。
次の勝負は木箱の中身を当てるという勝負。「これに負けたら弟子になる」と道満さんは宣言します。道満さんの答えは 「木箱の中身はミカンが15個」。これに対して晴明さんは「ねずみ15匹」と答えました。始めから木箱の中身を知っている天皇や公卿たちは、「さすがの晴明ももはやこれまでか」と思います。ところが、木箱の中から出てきたのは、姿を変えた15匹のねずみ達でした。ミカンをねずみに変えるという相手に術の裏を返す技でした(「ほき抄」「安倍晴明物語」より)。
この対決の後、道満さんは約束どおり晴明さんの弟子になりますが、晴明さん中国の唐に留学している間に、晴明さんが中国での修行で得た陰陽道の奥義が書かれた書物「金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)」を盗み出します。そして、道満さんは晴明さんに「自分は夢の中で文殊から「金烏玉兎集」を得た」と嘘を言いました。それを聞いた晴明さんは「そんなはずはない」と、自らの首をかけて道満さんと戦いますが、道満さんは盗んだ時に書き写しておいた「金烏玉兎集」を懐から取り出すと、晴明さんを殺してしまいました。それを知った晴明さんの中国での師、伯道上人は秘術によって生き返らせます。「晴明は生きている」と告げる伯道上人。道満さんは「もし生きていたら、自分の首をやる」といいます。生き返った晴明さんは道満さんの首を斬り、「金烏玉兎集」を焼却しました(「ほき抄」「安倍晴明物語」より)。
ちなみに、この話は実際にあった話ではなく、作り話だと言われています。時代的にこの時、中国には唐という国は存在しません。存在していたのは宋です。また、伯道上人という人物は「ほき内伝」を著し、陰陽道の奥義を極め、1000年も生きた人物らしいのですが、架空の存在らしいのです。他にもいろいろと。
こんな感じで、晴明さんは相手の術を読み、その上を行く技を返す事で(「呪詛返し」の術)勝利を得ています。単に技を使うだけなら、どの陰陽師にも出来ることですから、これが晴明さんの陰陽師として凄いところだと言われています。
晴明さんは1005年に当時としては異例の85歳で天寿をまっとうしました。
江戸時代には人形浄瑠璃や歌舞伎の世界で、晴明さんと道満さんの対決物が流行したそうです。また、事実に脚色を加え、時代風刺を物語の中に織り込めながら壮大な物語が作られ、人気が沸騰していったそうです。