野球小僧

衣笠祥雄 / 元;広島東洋カープ

元;広島東洋カープの衣笠祥雄さんが4月23日に亡くなりました。享年71歳。鉄人と呼ばれ、2215試合連続試合出場記録日本記録・世界2位記録、連続フルイニング出場歴代3位、通算安打数歴代5位、通算本塁打数歴代7位の記録を持っています。

1970年代後半から1980年代にかけて「赤ヘル打線」を山本浩二さんと牽引。1975年のカープ初優勝に貢献し、1979年の日本シリーズで球史に残る名場面となった「江夏の21球」では、9回裏ノーアウト満塁のピンチに江夏豊さんを励まし、勝利を呼び込んで球団史上初の日本一になりました。1987年に23年間にカープ一筋の選手生活を終えて引退。同年に国民栄誉賞を受賞。現役時代の背番号3は永久欠番になっています。

衣笠さんは京都・平安高校(現;龍谷大平安高)時代に強肩強打の捕手として2度の甲子園出場を果たし、1965年に当時のカープとしては破格の契約金1000万円で入団しました。早速外国車を買って乗り回していましたが、何度も事故を起こし、球団に免許を取り上げられてしまいました。以来、野球に専念し、1年目の1965年5月16日の中日ドラゴンズ戦で早くも一軍デビューを果たします。

しかし、「将来の正捕手」と期待されていたものの、内野手にコンバートされるきっかけとなる事件が同年9月5日、読売ジャイアンツ戦のダブルヘッダー第1試合でした。この日、衣笠さんは途中出場し、マスクをかぶっていました。ジャイアンツが3点をリードして迎えた4回2アウト一塁、投手の城之内邦雄さんが3ストライク目を空振りしました。しかし、投球がショートバウンドだったため、バッターにタッチしなければいけないところを、ボールをそのまま城之内さんにトスすると、さっさとベンチに引き揚げてしまいました。

城之内さんはボールを避けると一塁に向かい、衣笠さんがベンチの指示で気づいたときには、振り逃げセーフとなりました。試合は2対7で敗れました。その後、衣笠さんは10月のシーズン終了まで4試合マスクをかぶったが、翌年から内野手にコンバートされました。

コンバートは打撃に専念できるファーストでした。すると、入団4年目にはホームラン21本を記録し、クリーンアップを打つまでに成長し、当時の背番号28にちなんだ「鉄人28号」から「鉄人」と呼ばれていました。「鉄人」のニックネームが示すとおり、野球選手の中でも小柄な体格(175cm)でありながら、身体が頑丈で、負傷しても休まず試合に出場することも多く、その頑丈さで連続試合出場記録日本記録を打ち立てたのです。

また、衣笠さんといえば、ボールを怖がることなく踏み込んでフルスイングし、当たればスタンド一直線という豪快な打撃が売りでしたが、その一方で、デッドボールも多く、清原和博さん(元・オリックスバファローズほか)、竹之内雅史さん(元・阪神タイガースほか)に次いで歴代3位の通算161個を記録しています。

ュースでも取り上げられていましたが、1979年8月1日のジャイアンツ戦。7回2アウト二・三塁で、西本聖さんから左肩にデッドボールを受けました。6回までカープ打線を1失点に抑えていた西本さんでしたが、6点リードの7回に突然制球を乱し、この回3つ目のデッドボールでした。西本さんは仰向けに倒れ込んだ衣笠さんに「すいません」と謝ったものの、1イニングに3度もぶつけられたカープナインは収まらず、両チーム入り乱れての乱闘劇となり、2人が退場となりました。

衣笠さんは病院で診察を受けた結果、左肩甲骨の骨折で全治2週間と診断され、翌日の試合に出場するのは不可能と思われました。この時点で衣笠さんは1970年10月19日のジャイアンツ戦以来、1122試合連続出場を続けており、飯田徳治さん(元・国鉄スワローズほか)の持つ当時の日本記録まであと124に迫っていました。

そして、翌日のジャイアンツ戦、衣笠さんは「バントならできる」と訴えてベンチ入りし、7回1アウト一塁で代打として出場。打席に立っているだけでも記録は継続するのでしたが、江川卓さんの速球を3度フルスイングし、3球三振に倒れました。

試合後の「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は(自分がうまく避けられなかった結果、責められた)西本君のために」のコメントは、名言だと思います。

2016年にカープが25年ぶりにリーグ優勝した時は、「カープは広島の文化であり、宝です」と語っていた衣笠さん。そのインタビューがありました。

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「1975年はカープと中日による激闘で、球団史上初のリーグ優勝を決めたのは129試合目でした(当時は130試合制)。この年は、私も選手として苦しい思いをたくさんしました。それでも優勝できたことで、広島の街が大きく盛り上がったのを今でもよく覚えています。球団創立期に資金集めに奔走した初代監督の石本秀一さんが、テレビカメラの前でボロボロと涙を流していた姿は、今でも忘れられません。ただ、その年のシーズンオフは何か空しいものがあった。その原因に気づいたのは、年明けの1976年1月になってからでした。それは、日本シリーズを制覇した証しである優勝ペナントを手にしていなかったことでした。1975年は激闘の疲れもあったのか、日本シリーズでは阪急を相手に1勝もできずに敗れました。1月になってはじめて、それがとても悔しくなった。その後、1979年に日本シリーズを制し、初の日本一になったのですが、翌年のキャンプで優勝ペナントが飾られている光景は素晴らしいものでした。リーグ優勝と日本一では、それほどの違いがある。今の選手たちも、リーグ優勝で浮かれてはいけません。今年(2016年)は一番・田中広輔、二番・菊池涼介、三番・丸佳浩の若手3人で打線を固定できたことが、チームに好循環を生みました。彼らが安定した活躍をしたことで、新井貴浩のようなケガを抱えるベテラン勢を休ませながら起用することができました。そのほかでは、ホームゲームで圧倒的な力を見せたことが大きかった。勝率は約7割で、これはマツダスタジアムを真っ赤に埋め尽くしたファンの後押しがあったからできたことでしょう。カープは広島の文化であり、宝です。広島の人たちは、あいさつをする前に『昨日の試合は良かったなあ』なんて話をする。それも、創立期から市民が球団を支えてきたからなのです。だからこそ、カープの選手たちは、これからも人々に勇気と希望を与える存在であってほしい。それが僕の願いです。」

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ご冥福をお祈りいたします。


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
昨日の午後にメールのニュース速報で知りました。先週の解説の様子で心配されていたところでした。

野球のプレースタイルには、見習うべきものが多かった方だと思います。

衣笠さんが「私に野球を与えてくださいました神様に感謝します」と生前語っていましたが、「私に衣笠さんを観させてくださいました神様に感謝します」です。
eco坊主
おはようございます(*Ü*)ノ"☀

昨日ネットで知った突然の訃報で驚きました。
まだ71歳・・若すぎます。

1975年のオールスターでの山本浩二さんとの1試合2HRの共演とその後の赤ヘルの快進撃、そして創立25年目の初優勝は覚えています。
衣笠さんのあのヘルメットが飛ぶフルスイングも!

今では骨折や怪我にも関わらず出場し続けたことで鉄人という呼び名が浸透していますが入団当初の背番号#28で鉄人28号から来ていることも。

ご冥福をお祈りいたします。
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