ラグビー日本代表で主将、監督を務めた神戸製鋼ゼネラルマネジャーの平尾誠二さんが先日53歳という若さで亡くなりました。
以前話題になったテレビドラマ「スクール☆ウォーズ」は平尾さんが京都・伏見工高三年時の全国制覇がモデルでした(ドラマ内では、平山誠の名前で四方堂亘さんが演じていました)。荒廃した高校のラグビー部を司令塔(SO; スタンドオフ)として奇跡の日本一に導き、そのプレーは華麗なステップや突破力で魅了しました。
高校卒業後、同志社大へ進学し、1982~1984年度に史上初の全国大学選手権3連覇に貢献しました。この頃のラグビー日本選手権は大学王者と社会人王者が対戦する方式でしたが、北の鉄人・新日鉄釜石を破ることは出来ませんでした。しかし、新日鉄釜石の司令塔だったSO松尾雄治さんとの「読み合い」は、名勝負数え歌として国立競技場の大観客を沸かせました。
大学を卒業し、英国留学中の1985年にアマチュア規定で日本代表を外されるということがあり、多くの企業からのオファーも消滅してしまいましたが、声を掛け続けてくれた神戸製鋼へ入社。昭和天皇崩御に揺れた1988年度シーズンに、26歳で神戸製鋼ラグビー部の主将に就任するや、「万年優勝候補」と陰口をたたかれていた同部を初の社会人大会優勝、日本選手権優勝に導きます。
これで、伏見工業高校、同志社大学に続いて、高校以降は所属したチームすべてで日本一になったことになります。平尾さんは勝利の女神に愛された男でした。
その直後には日本代表監督に就任したばかりの故・宿澤広朗さんに主将就任を要請され、いったんは答えを保留したものの、直接会って話し合い、意気投合するや要請を受諾。そのまま1989年5月28日にスコットランドを破る大金星を挙げ、1990年の第2回ワールドカップ・アジア・太平洋地区予選では、トンガ、韓国を破って2大会連続の出場を果たしました。そして迎えた1991年の本大会では、ジンバブエ代表を破り、日本代表初勝利を挙げました。この勝利が昨年のワールドカップ・イングランド大会で日本代表が南アフリカ代表を破るまでの、唯一の勝利でした。
神戸製鋼では主将を退いた後も選手としてチームに貢献し、1994年度に日本選手権で大東文化大学を破って新日鉄釜石以来の7連覇を達成しました。
34歳の若さで日本代表監督に就任、「スペースをつくるラグビー」を追求し、世界での経験を仲間へ落とし込むなど、卓越した理論や情熱、カリスマ性で「ミスターラグビー」と呼ばれました。一方で神戸製鋼への恩義を忘れず、神戸には最大の愛情を注いぎ、1994年度の日本選手権7連覇達成の2日後に阪神・淡路大震災が起こると、ラジオから「皆で立ち上がりましょう」と呼びかけるほどでした。
現役時代の平尾さんは男から見てもカッコいい人でした。
ラグビーにおけるプレースタイル、所属しているチームは憎たらしいほど強くなり、自身もダンディーと言っていいような品格でした。
平尾さんは2019年のワールドカップ日本大会についてこう話していたそうです。
「本当はねえ、1人の観客として“オールブラックスは強いな”とか“ジャパンはこんなラグビーやっとったらアカンだろ”とか言いながら、試合を見て楽しみたいんだ」
あまりにも早いノーサイドです。
でも、もしかすると、平尾さんは53年という時間の中に、自分のラグビー人生をすべて費やすことが出来ていたのかも知れません。それは平尾さん自身でなければ判らないことです。
今年の夏に、神戸製鋼の合宿の映像をタブレットで見つめ「昔の神戸製鋼みたいになった」と喜んでいたそうです。昨年秋のトップリーグ開幕前には「空前のラグビーブームで今は(注目が)五郎丸君にシフトされているが、シーズン終わりには神戸製鋼一色にしたい」と、トレードマークのひげをさすっていたそうです。
病気の自身を周囲に見せず、最後までダンディーで格好よくピッチを去って行った53年の人生。
ご冥福をお祈りいたします。