野球小僧

打撃投手 / バッティングピッチャー

通常、ピッチャーはバッターに打たれないために球を投げます。しかし、ユニフォームを着たピッチャーではあるものの、支配下登録はされていないため、選手ではありません。背番号は3桁またな、なし。仕事は「バッターにひたすら打たれること」です。
打撃投手は、バッターの練習のための球を投げるピッチャー。英語ではbatting-practice pitcherと言い、バッティングピッチャーは和製英語です。

各プロ野球チームでは専門のバッティングピッチャーがいます。主に現役を退いたピッチャーが務めることが多いです。

先日、中日ドラゴンズは戦力外を通告した西川健太郎選手と2012年までドラゴンズに在籍し、今年広島東洋カープを戦力外になった久本祐一選手をバッティングピッチャーとして採用したと発表しました。
2人は、11月12日に行われた合同トライアウトを受験。しかし、選手としてではなく、バッティングピッチャーとして契約となりました。久本選手は落合博満GMから「お前だから電話した」とオファーがあり、「帰らせていただきます」とと即答したそうです。西川選手はトライアウト後にクラブチームからオファーがあったというが「引退にはなるが、これからもドラゴンズをサポートしたい」と話しています。このように引退後の選手の受け皿ともなっているます。

2003年に現役を引退し、バッティングピッチャーに転向した現横浜DeNA二軍の島田直也ピッチングコーチは「打たれない投球から打たれる投球を投げなければいけない」、「打球の飛ぶ先を確認することなく黙々と投げる」、「短時間(10分程度で、現役ピッチャーの半分以下の時間)でウォームアップを済ませなくてはならない」など、苦労したそうで、事実、現役時代とは異なる環境から、この世界でも生き残れる者は少ないそうです。

平均的な年俸は500万円~800万円程度ですが、中には1000万円クラスのバッティングピッチャーも存在するそうです。これはスコアラーや用具係など裏方の業務を兼ねる場合が多いからだそうです。専門職としてのバッティングピッチャーの元祖は佐藤玖光さんだそうです。佐藤さんは九州工高から丸井・林建設を経て、1969年ドラフト外で西鉄ライオンズに入団。スリークォーターが基本としているものの、サイド、アンダーからの変則投法でスライダー、カーブ、シンカーを武器に中継ぎで登板。1973年に太平洋クラブライオンズを戦力外になり、テストを受け1974年に広島東洋カープに移籍し、同年に引退。現役通算は46試合0勝3敗でした。1975年からバッティングピッチャーに転向して、チームを裏から支え続け、1995年にセ・リーグから特別表彰を受けました。表彰から3年後の1998年10月退団しています。
水島新司さんのマンガ「あぶさん」には佐藤さんのエピソードがあるそうです。特別表彰を受けた佐藤さんがカープのピッチャー時代にオープン戦で景浦安武さんと対戦し、ホームランを浴びたことを回想するという内容で、「俺の引退より景浦の引退の方が早い」と対抗意識を燃やす場面です。

パ・リーグには南海ホークス(現; 福岡ソフトバンクホークス)に西村省一郎(旧名; 省三)さんが、バッティングピッチャー兼スコアラーとして活躍していました。西川さんは近畿大学ではノーヒットノーラン1回、21奪三振を記録。1961年に南海ホークスへ入団。1年目から先発で1試合に登板しますが、1962年に肩を複雑脱臼するという大けがを負い、その後3シーズンは一軍登板なし。1964年にMLBサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下マイナーの教育リーグに村上雅則さん、高橋博士さんらと野球留学で参加。帰国後、1967年8月18日の東映フライヤーズ戦でプロ初勝利を初完封で飾りました。1970年に引退。現役時代はスライダーを武器に通算41試合3勝6敗でした。1971年からバッティングピッチャー兼スコアラーに転向し、1978年までバッティングピッチャーを務め、その後もスコアラーとして裏方でチームを支え続けていましたが、スコアラー在職中の1988年6月17日に心筋梗塞のため急逝。47歳でした。

西川さんはコーチ補佐的な仕事もこなし、「軍曹」のあだなで親しまれていました。佐藤さんと同じく水島新司さんのマンガ「あぶさん」では「ネット裏のエース」というタイトルで裏方時代の活躍が描かれています。そこには、「省三」は努力しても報われない名前として改名を勧められたものの、現役時代はこの名前に固執。事実結果は残せず、裏方転身後にそれはチームにかかわる大問題だからとして「省一郎」に改名したとのことです。

バッティングピッチャーは強靱な体力が必要です。「肩は消耗品」といわれる現代では完全に逆行する生活になります。シーズン中なら1日に約120球、多いときは150球を投げるそうです。試合前には必ず投げ、休みはほとんどなく、疲労は蓄積しやすいのですが、ケアして体調保持に努めれば、長期にわたって活躍出来ることもあります。現役の選手のほとんどが40代前に引退してしまうのに対し、50代を超えるバッティングピッチャーもいます。

水谷宏さんは「伝説の打撃投手」と呼ばれた一人です。水谷さんは1968年にドラフト1位で近鉄バファローズ(現; オリックスバファローズ)に入団。ドラフト同期には星野仙一さん、田淵幸一さん、山本浩司さん、福本豊さん、有藤通世さんらがいます。入団時は本格派でストレートとカーブを武器にして、1年目の1969年から一軍に定着し、5月には先発にも起用されるが結果を出せず、4年目にサイドスローに転向しシンカーを武器にして、1973年には中継ぎながら5勝を記録するものの、その後は勝星に恵まれず、登板機会も減り、1978年限りで現役引退しました。その後、西本幸雄さん(元; 近鉄バファローズ監督)からバッティングピッチャー転向を進められ、梨田昌孝さん、佐々木恭介さん、中村紀洋さんら「いてまえ打線」を陰から支えた。打撃投手生活は実に28年に及び、1日150球で年間約4万球、28年間で112万球投げていた計算になります。選手からは「みずさん」の愛称で父のように親しまれ、60歳の定年になるまで投げていました。

また、今年70歳になった千葉ロッテマリーンズの池田重喜さん(バッティングピッチャーで寮長を兼任)は、1965年の第1回プロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから15位で指名されたものの入団拒否。1967年のドラフト会議で大洋ホエールズ(現; 横浜DeNAベイスターズ)から4位で指名され入団しました。主に中継ぎで起用され、1968年に5勝、1969年に4勝を挙げました。1970年11月にトレードでロッテオリオンズに移籍。1971年に3勝を挙げましたが、1972年に右肩を故障してからは登板機会が減り、1976年にはピッチングコーチを兼任。コーチ兼任の開始後はバッティングピッチャー・ブルペンキャッチャー・用具係・トレーニングコーチの役割も担っていたため、一軍公式戦へ登板できず、同年限りで引退。通算成績は155試合13勝12敗。

2000年に寮長に就任した。コーチ時代も、寮長になってからも練習では若手選手に投げ続け、抜群のコントロールを披露しこともあり、2012年より二軍バッティングピッチャーを兼務し、いつしか気づけば70歳のバッティングピッチャーとなっていました。

峰国安さんは長崎・海星高三年生の1958年に夏の甲子園県予選で準決勝へ進出、西海学園に延長11回サヨナラ負けで甲子園出場を逃すするものの。卒業後の1959年に大洋ホエールズへ入団。翌1960年4月10日の中日ドラゴンズ戦で初勝利を挙げ、この年、チーム史上初のリーグ優勝・日本一に貢献し、その後も主にリリーフとして登板。1962年には一軍出場はありませんでしたが、1964年には45試合に登板。1968年のシーズンオフに戦力外になり、その後、読売ジャイアンツから誘われ入団。張り切って練習していたが、首脳陣から、さっぱりブルペンへ行く指示が出ないので、確認してみると実は現役としてではなくバッティングピッチャーとしての採用だったことが判明(春のキャンプ中まで説明はまったくなし)。現役通算189試合7勝9敗。

知り合いにジャイアンツへ移籍したんで頑張ると報告していたそうで泣きそうな顔で落ち込んでいた時に、王貞治さん(現; 福岡ソフトバンクホークス会長)から「峰ちゃん、俺、アンダーシャツ(ユニフォーム用)のサイズを1ダースも間違えちゃってさあ、俺の身長には合わないんだけど峰ちゃんの身長には偶然合うと思うんだ。悪いけど使ってくれないかなあ?」と言われたそうです。

「律儀な王さんが自分のサイズを間違えるはずがない。しかも王さんならば自分で注文しなくてもメーカーから届くはず」と気の毒なくらい落ち込んでいた自分を励まそうとして、王さんが下手な嘘をついた事に峯さんは感激し、それ以後、王さん専属でバッティングピッチャーとして「王の恋人」とまで言われ、王さん引退後も仕事を続けたそうです。

実は峰さんは「王キラー」と呼ばれており、現役通算では打率.247に抑えていたそうです。
1964年9月6日のホエールズ vs. ジャイアンツ戦の初回、52号ホームランを放ち、野村克也さんの持つ日本記録に並びました。迎えた6回、マウンドにはリリーフの峰さんが上がりました。だが、王さんはこの峰さんから新記録となる53号ホームランを放ちました。

バッティングピッチャーにも、いろいろな運命を辿って来ているのですね。 


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
もちろん、バッティングピッチャー素質はありありでしょう。

田子さん? うーん、今一つ記憶になくてすみません・・・このシーズンオフ企画はバッティングピッチャーの話もいいかも知れません。

>彼はどうしているのでしょうか・・・
清原さんの方?
eco坊主
おはようございます(*Ü*)ノ"☀

打たれまいと思って投げて結構打たれた私の草野球時代!
バッティングピッチャーの素養があったのかしら(笑)

田子譲治さん・・鳥取市出身(旧青谷町)
D2で海に入団後兎でバッティングピッチャーとなりました。
清原さんの1年目の高卒選手新記録の31本目を打たれた。
清原さんが兎に移った後はほぼ専属となり「清原の恋人」と呼ばれた。
彼はどうしているのでしょうか・・・
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