田子譲治さんは鳥取県気高郡青谷町(現; 鳥取市)出身の元プロ野球選手です。
1981年のドラフトでロッテオリオンズから2位指名を受け鳥取西高から入団。当時監督であった金田正一さんによる大絶賛を受けて(甲子園大会での好投)のものでした。しかし、「高校を卒業するまでは学生。プロでの練習は認められない」という鳥取県教育委員会、同県高野連の方針で鹿児島キャンプに参加できず、早くても3月11日の卒業式以降でなければチームに合流することが出来ませんでした。当初、田子さんは卒業試験が終了した2月10日の翌日から鹿児島入りする計画でしたが、田子さんだけを特別扱いするわけにはいかないというのがその理由でした。
いつも前向きで口が達者なことから“9割9分10厘”というあだ名が付いた田子さんでしたが、この決定にはへこみ、夏の甲子園での活躍とさわやかな笑顔で一躍人気者になり、バレンタインデーには全国からチョコレートが届いたものの、それには見向きもせず自室に閉じこもるばかりでした。大器の最初のつまづきは、その後のキャリアに大きく影響し、甲子園優勝ピッチャーの近鉄バファローズ・金村義明さん(報徳学園高)よりも評価が高く、読売ジャイアンツ1位指名の槙原寛巳さん(大府高)と双璧とされ、11球団からあいさつを受けた田子さんですが、キャンプに参加できなかった結果を急ぎ、やみくもに練習したことで右肩を痛めました。
入団から3年間で一軍登板なし。4年目に一軍デビューを果たすものの、3分の2でKO。迎えた5年目の1986年9月19日、後楽園球場での日本ハムファイターズ20回戦で先発し、ようやく初勝利。この年2勝をマーク。しかし、これが最初で最後の実質的なプロ野球生活でした。翌年から今度はヒジを痛め、二度と一軍に上がれぬまま1990年に戦力外通告を受け、1991年からジャイアンツのバッティングピッチャーになりました。現役時代に当時西武ライオンズの清原和博さんが高卒新人の最多記録となる31本目のホームランを放った際の相手ピッチャーが田子さんであり、清原さんがジャイアンツへ移籍した後の特打の時はよく登板し、「清原の恋人」と呼ばれることもありました。2001年、清原さんは不調で六番に降格、チームも6年ぶりの7連敗を喫するなどしていた時も清原さんの特打に付き合い、その結果、ホームラン2本、4打点の活躍を見せてチームを8試合ぶりの勝利に導いた試合後のヒーローインタビューで清原さんは「付き合ってくれた田子さんに感謝したい」と感謝を述べました。自宅のテレビで夕食を食べながら観戦していた田子さんは突然の感謝の言葉に感激し、箸を持つ手が震えたそうです。
打球が直撃し、顔面を骨折したこともあったそうですが、毎日ひたすら打者に気持ちよく打たれるためだけに投げ続け、回転のいい良質な球筋は、重量打線を縁の下から支え功労者でした。なお、オリオンズを解雇され、ジャイアンツにバッティングピッチャーとして採用された時、年俸が25%以上アップしたそうです。
2009年にケガのため引退、2010年4月より食での地域連携とプロのあり方を考え指導者の下、地域連携と元プロ野球選手のネットワークを生かしたセカンドキャリアネットワークを構築しています。
1979年秋。鳥取西高は一年生の田子譲治さんをエースに新チームを発足。しかし、秋の東部地区リーグで鳥取商高に0-11でコールド負けを喫する出だし。迎えた秋季大会は鳥取西は初戦の二回戦で由良育英高を3-2で敗ったが、準々決勝で鳥取商高に2-6で敗れる。
1980年4月。鳥取西高野球部復活の切り札として、井上博志さんが監督に復帰。1973年の第55回記念大会で鳥取西高を甲子園に導いた、「野球博士」と呼ばれた名将。この年は三年生は4人だけ。田子さんらの二年生中心のチーム編成でした。春季大会。鳥取西高は初戦の二回戦で昨秋に続いて由良育英高と対戦。中盤まで3-0とリードするが田子さんが突然崩れ、守備も乱れ、6回に5失点して3-5で初戦敗退。
1980年7月。練習試合の成績も今一つであったが、前年度の甲子園ベスト4の浪商高(現; 大体大浪商高)と練習試合を行い、田子さんは8回まで1点に抑える好投。最終回に守備が乱れて逆転を許し、3-4で敗れたものの、チームは自信を取り戻す。
選手権鳥取大会。鳥取商高 vs. 由良育英高の開幕戦は、昨秋優勝校でこの大会でも優勝候補の鳥取商高が0-3で敗れ、第二試合の倉吉北高 vs. 八頭高も、0-6とリードされた倉吉北高が8・9回で逆転する波乱を感じさせる大会幕開けだった。鳥取西高の初戦は二回戦で大会未勝利の米子高に決定。しかし、「鳥取西は倉吉産に練習試合で敗れており(0-2)、ベスト4への道のりは容易ではない」という評価だった。
鳥取西高の初戦、vs. 米子高。鳥取西高は米子高ピッチャー陣を打ち込んで中盤までで6-0と大量リードするものの、田子さんが米子高打線に捕まり、試合後半は完全に米子高ペース。しかし、鳥取西高は6-4で何とか逃げ切り勝利。準々決勝は、倉吉工高を延長15回の激戦で6-5で降し、続いて鳥取工高を9-6で破った打線好調の倉吉産高。練習試合で敗れている相手であったが、鳥取西高が4-2で倉吉産高に勝利し、1974年以来のベスト4。
準決勝で対する米子東高は昨年からのエース松山さんを擁する、優勝候補の一角。この両校の対戦するのは数年ぶり。試合は鳥取西高が4回裏に1点先制。米子東高は6回表に2点を取って逆転すると、鳥取西高もその裏にすぐ同点に追いつく、ライバル校同士の対戦にふさわしい試合となり、2-2のまま延長戦。延長10回表、米子東高はノーアウト満塁のチャンスを迎えるが、鳥取西高がしのいで無得点。しかし、11回表に米子東高は2点を上げると、鳥取西高の応援スタンドは悲鳴と大きなため息で包み込まれた。11回裏の鳥取西高の攻撃は連続ヒットでノーアウト一・二塁。1アウト後の打席には田子さん。田子さんの一打は外野の頭を越える2ベースで、2者が生還して同点に追いつく。2アウト二塁から打席に入ったバッターの一打は「おおっ」という歓声と一瞬の静寂の後、右中間を破り、二塁から田子さんがホームを踏み、劇的な逆転サヨナラ勝ち。鳥取西高にとって、1973年以来7年ぶりの決勝進出。
決勝は準決勝で延長10回裏のサヨナラホームランで由良育英高を1x-0で勝ち、この大会、苦しい試合をくぐり抜けてきた選抜出場の倉吉北高と、ここまで無失策の堅い守備と準決勝での劇的なサヨナラ勝ちで勢いに乗る鳥取西高。 鳥取西高・田子さん、倉吉北高・坂本昇さんの両二年生エースの先発で試合は始まった。4回裏の鳥取西高の攻撃。ランナーを二塁に置いてのセーフティバントを倉吉北高の守備が間に合わない一塁に悪送球し、鳥取西高が1点を先制。しかし、6回表に今大会ノーエラーだった鳥取西の内野陣にエラーが続き、ランナーがたまったところで倉吉北高が一挙4点を奪う。結局、鳥取西高は1-5で倉吉北高に敗れ、7年ぶりの甲子園出場はならなかった。
1980年秋。悔しい逆転負けで甲子園を逃した鳥取西高は秋の東部地区リーグの優勝は鳥取商高に奪われたものの、田子-藤岡のバッテリーをはじめ、主力の一・二年生が多く残り、期待を抱かせる新チーム。
秋季大会の鳥取西高の初戦の相手の倉吉工高に3-0で勝ち、二回戦では10月10日に米子工高と対戦する予定が、天候不順による長雨で順延が続き、10月下旬まで延期されるという日程のアクシデントが発生。しかし、鳥取西高は米子工高に6-2で勝利。準々決勝は東部地区リーグ優勝の鳥取商高。しかし、相手ピッチャーの制球難に乗じて10-1のコールドで完勝。あと一つ勝てば中国大会の出場権を得て、選抜出場に近づく。だが、その準決勝の相手の倉吉東高の前に1-3で敗れ、中国大会出場を逸す。
1981年の春季鳥取県大会。春の東部地区リーグを制した鳥取西高は、中・西部地区の優勝校倉吉北高・境高、それに倉吉東高とともに優勝候補。鳥取西高の初戦は、昨秋に対戦した倉吉工高。延長13回裏にサヨナラ勝ち。しかし、準々決勝では鳥取商高のピッチャーに抑え込まれて1-2で敗退。好投手と期待された田子さんでしたがは、結局は秋春の中国地区大会や山陰選抜大会などの県外大会には参加することはありませんでした。
1981年初夏。選手権鳥取大会を前に王者・倉吉北高は調子を落としているものの、優勝候補はやはり倉吉北高。続いて春優勝の米子工高、春に倉吉北高を破った八頭高、境高であり、鳥取西高の期待度は高くなかった。県大会抽選会の結果、鳥取西高は倉吉北高とは別ゾーンとなった。初戦は創部以来未勝利の鳥取西工高。二回戦の相手は打撃力のアップが伝えられる青谷高。順調に勝ち進めば準々決勝では、春に倉吉北高を倒した八頭高との対戦が予想された。
1981年7月。鳥取大会開幕直前に衝撃的なニュース。倉吉北高野球部で暴力事件が起きたという。上級生が下級生に尻バットを行い、部内暴力が常態化しているという内容。しかし、県高野連は「出場に問題なし」の判断だった。そして、夏の鳥取大会が開幕。選手宣誓は前年度優勝校の倉吉北高・主将。しかし、その夜「倉吉北高、夏の鳥取大会出場を辞退」というニュースが流れた。事の真意は不明なままだったが、世間を騒がせた責任を取って、鳥取大会出場を辞退することにした。選手たちには開会式が終わったあと学校に引き上げてから知らされたという。
倉吉北の出場辞退から一夜明けた大会2日目第一試合 鳥取西高 vs. 鳥取西工高。田子さんは調子が悪く、鳥取西工高に先制点を許す。すぐに鳥取西高が逆転し、追加点を重ねて行き6-2で鳥取西工を降す。ちなみに、この試合の球場補助員は倉吉北高の野球部員が当番だったそうだ。
二回戦は鳥取西高が2点先制するが、「打倒田子」(田子さんは青谷中出身で、中学野球部のチームメイトが多く青谷高に所属)に燃える青谷高に、田子さんが9回裏につかまり、2-2の同点。さらに1アウト二・三塁のピンチを迎える。1点入れば青谷高のサヨナラ勝ちで鳥取西高の甲子園の夢は消える。ここで青谷高がスクイズを仕掛けるが、鳥取西高が見破り、ピンチを脱した鳥取西高は延長10回表に1点を挙げて勝利。
この試合を境にして、田子さんのピッチングが冴えてくる。準々決勝の八頭高に田子さん2安打10奪三振で完封し、4-0で準決勝進出。準決勝の境高には12-1で圧勝し、2年連続で決勝進出。
決勝は昨秋の県大会準決勝で対戦し、ノーヒットノーラン目前の屈辱の敗退を喫した倉吉東高。鳥取西高は1回裏に先制。その後も4回・7回・8回に1点ずつ加え、田子さんは倉吉東高打線を寄せ付けない4安打10奪三振のピッチングで4-0の会心の勝利で、8年ぶり19回目の夏の甲子園出場が決定。
この年、鳥取西高の応援スタンドで吹奏楽部が演奏していたのは松田聖子さんの「夏の扉」。拳を天に突き上げ「フレッシュ! フレッシュ! フレッシュ!」と応援するスタイルだったという。
8年ぶり19回目の出場を決めた鳥取西高の大会前の評価は低く、目立つ存在ではりません。この大会は、報徳学園高の金村義明さん、名古屋電気高の工藤公康さん、北陽高の高木宣宏、京都商高の井口和人さんら好投手がそろった大会であり、田子さんは特に目立た存在ではなかった。
鳥取西高の初戦は大会2日目の第三試合、相手は予選を通じて打ちまくった強打のチームの青森県代表・東奥義塾高。 先攻の東奥義塾高は初回いきなり、1アウト三塁のチャンス。ここで田子さんは三番・四番を連続三振に打ち取るったのが、この試合での奪三振ショーの始まりとなり、以後、一人のランナーも許すことなく7回を除く毎回2個の16奪三振の準完全試合。打線も終盤にようやく得点を挙げて5-0での勝利。
二回戦の相手は荒木大輔さんを擁する前年夏の準優勝校、報徳学園と並ぶ東の優勝候補の 東東京の早稲田実高に決まった。二回戦最後の試合となった鳥取西高 vs. 早稲田実高。田子さんは力みからか球数が多く、2回表に守備陣の乱れから1点を先制される。3回までに既に球数は80球近くに達していたものの、3回以後は早稲田実高を完全に抑え込み、毎回三振。鳥取西高は何度かスコアリングポジションにランナーを送るが、相手の堅い守備に阻まれ得点が挙げられず、ついに7回に田子さんが捉まり4連打を浴びて一挙に4失点。鳥取西高は荒木さんから8安打を記録し、田子さんは6安打8奪三振に抑えたものの、早稲田実高に0-5で敗れた。
なお、鳥取西高を破った早稲田実高は、三回戦で金村さん擁する報徳学園高に4-5×でサヨナラ負けだった。
大会後、田子さんは甲子園大会での好投が認められ、韓国遠征のメンバーに選ばれ、韓国との第三戦に先発、韓国打線を7回まで3安打1失点に抑える好投でした。
もし、田子さんの希望どおり2月にキャンプイン出来ていたら、田子さんはどんな記録を残していたのでしょうか・・・