野球小僧

江崎昭雄 / 元;中日ドラゴンズ

江崎昭雄さん(えさき・てるお=元;中日ドラゴンズ、チーフスコアラー)が2月19日に名古屋市内の病院で亡くなりました。81歳でした。

江崎さんは愛知・中京商(現;中京大中京高)では、二年生の時にエースとして1951年の第23回選抜高等学校野球大会に出場。一回戦で岐阜・長良高に2-0で完封勝ちしましたが、二回戦の準々決勝で長崎・長崎西に0-3で敗退。チームメートには鹿野鉱一さん(元阪神タイガース)がいました。

高校卒業後は日本大学(東都大学リーグ)に進学し、5度の優勝に貢献し、1955年の第4回全日本大学野球選手権大会では、決勝戦で明治大の秋山登さん(元大洋ホエールズ)に0-1で完封され準優勝。翌1956年でも、決勝戦で関西大の村山実さん(元阪神タイガース)に1-2で敗れ準優勝。大学時代の同期に人見武雄さん(元阪急ブレーブス)、畠中良雄さん(元阪急ブレーブス)がいました。

大学卒業後の1957年に毎日オリオンズへ入団。同年はルーキーながら28試合に登板し、3勝1敗、防御率3.25と活躍しますが、二年目、三年目は5試合、8試合の登板で勝利はなし。1959年オフに近鉄バファローへ移籍。1960年には48試合に登板し、自己最多となる6勝(11敗)を挙げるものの、1961年は48試合1勝(7敗)、1962年は2試合0勝で、オフに中日ドラゴンズへ移籍。しかし、肩を痛めて、1試合の登板に終わり、1963年に引退。

失礼ながら、現役時代には選手としては良い成績を残すことが出来ませんでした。しかし、引退後にスコアラーとしてドラゴンズに残り、その後、チーフスコアラーだった1982年に名スコアラーとしてチームに大きく貢献しました。

1982年のドラゴンズの優勝は劇的かつドラマチックでした。元監督の近藤貞夫さんに率いられ、野武士軍団と呼ばれたこの年は、奇跡の逆転劇を見せ、最終戦130試合目で優勝を決めました。

エース小松辰雄さんがケガで戦線離脱、谷沢健一さん、大島康徳さんらの主軸は打率2割と低迷、ピッチャーもピリッとしない中、中尾孝義さん平野謙さん、上川誠二さんらの若手の台頭もあり、前半戦を首位読売ジャイアンツと1ゲーム差で折り返しました。

8月15日の広島東洋カープ戦で1-4とリードされた八回に宇野勝さんの逆転3ランで勝ち、ここでカープが優勝争いから後退し、後半戦初めて首位に立ち、優勝争いはジャイアンツとの一騎打ちになります。しかし、8月24日からのジャイアンツ三連戦。この時、首位ドラゴンズ、二位ジャイアンツのゲーム差が0.5、一つ勝てば優位に運べると後楽園球場に乗み、初戦;江川-郭、二戦目;加藤-都、三戦目;西本-三沢となりましたが、まさかの三連敗。逆に2.5ゲーム差を付けられ、優勝争いに大きく差を付けられます。8月末時点ではジャイアンツ残り試合20、ドラゴンズ29試合。日程的に厳しい状態になっています。9月14日のドラゴンズ残り20試合の時点で首位ジャイアンツのとゲーム差は4まで広がっています。

しかし、この後、優勝へ向かって奇跡の逆転劇を演じていきます。9月25日の阪神タイガース戦。七回が終了時点で3点差のビハインド。しかし、八回裏に宇野さんの2ラン、九回裏に谷沢さんの同点タイムリー、大島さんのサヨナラ勝ちで勢いに乗り、首位ジャイアンツとのゲーム差2.5で、続く28日からのジャイアンツとの尾張決戦と呼ばれた三連戦になります。

初戦、ジャイアンツの江川さんに八回まで4安打2点に抑えられましたが、九回裏に代打豊田さん、モッカさん、谷沢さんの三連打で満塁とし、大島さんの犠牲フライ、宇野さんの2ベースで1点差とし、中尾さんのタイムリーでついに同点に追いつきます。そして、十回裏に大島さんが二試合連続のサヨナラヒットを放ち、待望の逆マジック12が点灯します。二戦目は谷沢さんの逆転3ランで勝利し、首位を奪回、しかし、三戦目は西本さんの前に敗れ、ゲーム差は1.5で首位の座を明け渡しました。

しかし、調子の上がらないジャイアンツを横目にドラゴンズは復帰した牛島和彦さんの4試合連続セーブなどでマジックを減らし、シーズン最終試合の大洋ホエールズ戦で八年ぶりの優勝をしました。

実はこの1982年は大同特殊鋼㈱(愛知県)とチームで試合分析用コンピューターシステムを球界最初に導入しています。私もこの時には凄いものが出来たと驚いたものでした。その主体になったのが江崎さんでした。ホーム試合では当時のナゴヤ球場のスコアラー席にに据え置いてデーターを即時入力し、ビジター試合ではデーターを電話送信して蓄積しました。その結果、ナゴヤ球場では35勝15敗10分という高い勝率を残しました。

また、当時球界随一のピッチャーであった江川卓さん(元読売ジャイアンツ)に対して、バッターが打ち損じていたものの、空振りが極端に少なかったカーブに注目し、狙い球をカーブに絞ることを進言し、9月28日の逆転勝ちで優勝に導きました。そして、この功績が認められ、1985年に二軍ピッチングコーチを務め、その後は査定担当に就任し、2001年までドラゴンズに在籍していました。

1982年と言えば、まだパソコンが世に出始めるかどうかの頃です。今のようなノート型なんかは、まだ影も形もありません。感性が重要視されていた時代に統計的手法で分析したデーターを元にした近代野球を持ち込まれた方でした。

昨年、チームに多大な貢献をされたのでOB会で表彰したいと申し出たところ、「やせて、もう人前に出られる状態じゃないですから」と辞退されていたそうです。それでも、一年間だけコーチとしてユニフォームを着ていた時期には多くの笑顔が見られたとのことです。

ご冥福をお祈りいたします。


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
いやあ、1982年の優勝は感動的でしたね。この年の優勝パネルありますから。

一番はキャッチャーの中尾さん。それまでのキャッチャーの概念を180度変えましたから。

ちなみに、この年に16勝を挙げて優勝に貢献した都裕次郎さんは、現在スコアラーとして活動しています。

私はこの江崎さんの話は知っていました。本当にパソコンが姿を現し始めた頃。もちろん、高級品でした。

今考えるとIT時代の幕開けの年ですね。

eco坊主
おはようございます。

江川、西本、定岡の三本柱に新浦、加藤初という5人ローテ―の年ですね。
中軸も篠塚ー中畑ー原で固定されていたな~

確かに江川が攻略されましたが竜は粘り強かった!!
シーズン引き分けが19もありましたもんね。
長崎と田尾の首位打者争いもあって最終戦に5打席敬遠とか・・

すみません。
竜のスコアラーの方は全く存じ上げていませんでした。

ご冥福をお祈りいたします。 合掌
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