ケガなどで登板を回避することも少なくなく、低迷期だった大洋ホエールズをエースとして背負い、「ガラスのエース」とも呼ばれましたが、今ではプロ野球の日本書紀や古事記に書かれているような神話の時代だったようなV9・読売ジャイアンツに立ち向かって投げ続け、対ジャイアンツ戦通算51勝47敗、通算201勝196敗。シーズン投球回が200イニングを突破すること7度でした。
少年期はジャイアンツ、特に長嶋茂雄さんのファン。岡山・岡山東商高のエースとして1965年の選抜大会で39イニング連続無失点の快投を演じて優勝に貢献し、第1回ドラフト会議で中日ドラゴンズから4位で指名。しかし、あこがれのジャイアンツへ入団すべく拒否して社会人・日本石油へ進みます。
しかし、1966年・第2回秋の第二次ドラフト会議で大洋ホエールズから2位で指名されますが、入団せず、翌1967年に都市対抗野球で日本石油を優勝に導くと、次のドラフトでジャイアンツから指名されるのを待つという噂もあったようですが、きっぱりと思いを断ち切り(指名を回避したことへの対決姿勢を示す)、岡山東商高の先輩でもある秋山登さん、土井淳さんのバッテリーがいたこともあり入団します。
このころのホエールズはといいますと、1960年に三原脩さんの監督の下で前年最下位からのリーグ優勝を果たし、日本シリーズで4連勝し、日本一に輝き、1962年、1964年も優勝を争いをしたあと、1963年は5位、1965年以降は勝率5割を超えずにいました。
ちなみに入団時の背番号はあこがれだった長嶋さんと同じ「3」でした。
1年目から白星を挙げたものの、芽が出たのは3年目の1969年にシュートを覚え、初めて2ケタ勝利に到達します。このシュートは、「カミソリシュート」とも呼ばれ、平松さんの代名詞となり、20cm曲がったといわれるシュートは右バッターの内角へと食い込んで、バットを折りまくります。
速球派ならではのヒップファーストから、グラブを着けた左腕も大きく使い、独特の間を挟んでから一気に投げ込む豪快なフォーム。。最初はスリークオーターでしたが、シュートを投げるようになってからはサイド気味に腕を下げ、その後再びスリークオーターに戻しました。
当初は、ボールの縫い目に指をかけず、肩をストレートより少し早く開いて、手を遅らせたシュートでした。ヒジへの負担は少なかったそうですが、肩には負担があり、1972年ころから何度か肩を痛めているうちに腕の振りが鈍くなり、1975年ころからストレートのスピードが落ち、シュートのキレもなくなり、以降、いかに曲げるかを考えて、ボールをひねるようにしました。
それでも、1979年には防御率2.39で最優秀防御率を獲得。
1980年代に入ると肩痛は悪化。ストレートスピードは落ち、シュートも思うように曲がらなくなりましたが、チェンジアップを織り交ぜて緩急をつけ投げていましたが、12年も続いた2ケタ勝利は1980年でストップ。
1982年にはあまりにも肩が痛くなり、5月くらいに「引退します」と当時の関根潤三監督に伝えると、「じゃあ5月5日の中日戦(ナゴヤ球場)を最後の登板にしよう。俺が見届け人だから思い切って投げろ」といわれます。この試合でストレートは100kg/hくらいしか出なかったものの、これが全部チェンジアップになって、5回まで1失点に抑えて勝利。トレーナーからは、「まだ肩の筋肉が生きている。200勝を目指せ(ここまで通算185勝)」といわれたことなどもあり、現役を続行を決意します。
1981年~1983年まで6勝、9勝、8勝。1983年10月21日のジャイアンツ戦(後楽園球場)、一挙4点を奪われた6回裏の降雨コールドで完投勝利がシーズン最終勝利となり、通算200勝を達成。そして、1984年は1勝10敗。ホエールズも最下位でした。
ただ、傷だらけのガラスではあったものの、たたけばすぐに割れるガラスではなく、防弾ガラスのように簡単には割れないガラスだったと思います。
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