(2020年2月に訪問した際のことです)
沖縄県本島中部の宜野湾市にある嘉数高台公園(かかずたかだいこうえん)。
宜野湾市の西の小高い自然林を利用して造成され、今は公園としてきれいに整備されていて、公園内には遊具などがあり、子どもたちの笑い声が聞こえてきました。世界平和を願う地球儀をイメージした展望台があり、そこからは那覇市や浦添市、遠くは読谷村まで見えます。
1945年4月1日。米軍は沖縄本島の中部西海岸から上陸し、南下を開始しました。そして、待ち構えた日本軍と嘉数高地を中心とした戦線で、最初の大規模な戦闘を始めます。嘉数に駐屯していた日本軍は、嘉数高地を中心とした周辺地域にいくつもの陣地を築きました。陣地壕の構築は1944年の夏ころから開始され、毎日、朝から夕方までの作業が続けられました。兵士だけでなく、嘉数や周辺地域からも、お年寄りや女性を含む多くに人々がかりだされていました。
嘉数高地は、「作戦名称第七〇高地」と命名され、藤岡中将の率いる第六十二師団独立混成旅団、第十三大隊原大佐の陣頭指揮で約1,000人の将兵と約1,000人の防衛隊で編成された精鋭部と、作戦場自然の要塞の上に堅固な陣地構築がなされ、16日間も一進一退の死闘が展開された場所です。
戦闘の末に日本軍は徐々に後退し、戦線は浦添、西原、首里へと南部へと移っていきましたが、米軍にとっては「死の罠」「いまわしい丘」だと恐れられるほど、両軍共に多くの尊い人命を失った激戦地でもあります。
また、日米両軍の戦闘が始まる前に南部方面へ避難した人とテラガマ(浦添バイパス沿いにある壕。地域の神聖な場所のひとつ)、チヂフチャーガマ(浦添市牧港の住宅地の一角にある壕。地域の神聖な場所のひとつ)などの洞窟に避難した人がいましたが、いずれも戦闘に巻き込まれ、住民の半数以上が亡くなっています。
嘉数高台公園には、沖縄戦で亡くなった嘉数住民の「嘉数の塔」、戦死した京都出身の「京都の塔」などの慰霊碑や日本軍の主陣地の「陣地壕」、戦闘で使用された「トーチカ」、戦闘を物語る「弾痕の塀」などが今でも見られます。
弾痕の塀
戦前の嘉数は、家屋敷や道路が碁盤状に整備され、田畑に囲まれたのどかな集落でしたが、日本軍が駐屯し陣地構築を始めると、軍靴の音が響くようになりました。米軍上陸後の嘉数は、日米両軍の主力が激しい攻防戦を繰り広げた場所となり、住民はもとより、住みなれた家屋敷なども大きな被害を受けました。
戦場となった嘉数では、日米両軍の銃弾・砲弾が雨あられのごとく降り注ぎました。
この弾痕の塀は、それを物語るものです。
宜野湾市
過去と現在。何だか複雑な気持ちになりました。
あらためて、2度とこない今日という1日を大事に大切に過ごしたいと思います。
良いことはずっと続き、良くないことには、必ず終わりが来ると信じていきましょう。
今日も、私のブログを最後まで読んでいただき、ありがとうございます。明日もまた、元気にここでお会いしましょう。