講道館柔道の開祖・嘉納治五郎さんのIOC委員就任(1909年)によって始まった日本のオリンピック運動は、第5回(1912年)ストックホルム大会(スウェーデン)に短距離とマラソンに2名の選手を派遣し、オリンピックに初参加しました。
その後、第7回(1920年)アントワープ大会(ベルギー)で初のメダル(銀を2つ)、第8回(1924年)パリ大会(フランス)でも銀(1つ)、第9回(1928年)アムステルダム大会(オランダ)で初の金(1つ)、女子選手初のメダル(銀1つ)と国際的に活躍してきました。
そして、第10回(1932年)ロサンゼルス大会(米国)で金7、銀7、銅4、続く、第11回(1936年)のベルリン大会(ドイツ)で金6、銀4、銅10で世界の仲間入りをしました。
しかし、第12回(1940年)東京大会の開催を返上し、太平洋戦争で欧米主要国を敵に回したことから、すべての国際競技連盟から除名または資格停止されました。このため戦後初のオリンピックである第14回(1948年)ロンドン大会には参加できずじまいでした。そして、日本が復帰できたのが戦後2度目のオリンピック、第15回(1952年)ヘルシンキ大会でした。
第12回(1940年)東京大会の開催を返上したことと、約10年間の国際的スポーツ大会に出場していなかったこと、戦後の復興目的などから、日本体育協会(現;日本オリンピック委員会=JOC)は、東京都の同意を得て、今度こそ東京大会の開催を実現しようと考えました。
そして、1952年の国際オリンピック委員会(IOC)総会にて、第17回(1960年)大会開催地に立候補しましたが、失敗に終りました。続いて1958年のIOC総会で第18回(1964年)大会に立候補、1959年のIOC総会で開催権を獲ました。
戦後の大会では、第15回(1952年)ヘルシンキ大会で金1、銀6、銅2、第16回(1956年)メルボルン/ストックホルム大会で金4、銀10、銅5、第17回(1960年)ローマ大会(イタリア)で金4、銀7、銅7でした。
それまで、日本での選手強化は各競技団体独自で行っていました。東京大会では開催国として恥ずかしくない成績を収めるにはどうしたらいいかと、各スポーツ団体の全国組織を統括する体協が戦略として、JOCの中に東京大会実施20競技の団体代表、文部省、中体連、高体連など、スポーツ関係者の総力を挙げて、「選手強化対策本部」を1960年1月に設置しました。
現在では常識的になっているような、育成強化策として、海外遠征、強化合宿、海外からの指導者招待、研究、研修会などを活発に行い、特に技術の改善、体力トレーニングなどの分野にはスポーツ医科学のノウハウを積極的に導入します。
その結果、強化対策本部の公約「金15」を上回る、金16、銀5、銅8の計29のメダル獲得(当時での日本歴代最高)という成果を出しました。
東京大会をきっかけに始まった選手強化対策本部設置のアイディアは、JOCの重要機関として常設させることになります。
東京大会の翌年には、社会人チームによるサッカー日本リーグが始まり、バレーボール、バスケットボールなどやバドミントンのような個人競技など多くの競技に広がり、バブル経済の破綻で企業のスポーツからの撤退が始まるまで、日本リーグは国内トップレベルの戦力強化に貢献し、今ではプロリーグにまで発展しています。
また、東京大会のコーチや選手だった方々が、翌年から始めた水泳、体操などを中心とするスポーツのクラブ(スクール、教室など)は全国的に普及し、小さな子どもから中高年層までの幅広い人が参加できる環境となっています。
こうして、スポーツが身近な状況になってきた効果として、やがて水泳や体操などからクラブ出身者がオリンピック代表に名を連ねるようになっていきます。
1964年10月10日。日本はもちろんのこと、アジアで初めてのオリンピック開催の東京大会が開幕しました。
この東京大会は、日本のスポーツ分野のみならず、東京を中心に新幹線や高速道路などの交通インフラが開発され、TVなどの情報通信技術を進化させ、戦後日本の復興と発展に貢献したと思います。
私は1964年の東京大会は知りません。
しかし、2021年の東京大会はこれからの日本と世界に何をもたらすのかを見届けたいと思っています。
その東京大会が今日、2021年7月23日に開幕します。
今日も、私のブログにお越しいただいてありがとうございます。
今日がみなさんにとって、穏やかで優しい一日になりますように。そして、今日みなさんが、ふと笑顔になる瞬間、笑顔で過ごせるときがありますように。
どうぞ、お元気お過ごしください。また、明日、ここで、お会いしましょう。