まだキャンプ中盤の2月13、14日のこと。沖縄県石垣市で千葉ロッテマリーンズと台湾のラミゴ・モンキーズがアジアゲートウェイ交流戦と名付けられた練習(親善)試合が開催されました。この試合にはマリーンズファンはもちろん、台湾からもモンキーズのファンが石垣球場を訪れ、二日間のべ6000人(一応、500円の入場料)の観客動員だったそうです。
元々、この2チームは一昨年オフにマリーンズが台湾に行って試合をするなど、交流を持っているプロ野球チームであり、モンキーズの選手がマリーンズのキャンプに参加したこともあります。また、現在のモンキーズの応援は、マリーンズ応援団のスタイルを加え、台湾式とのハイブリッド式となっているそうで、それがまた台湾の若いファンに受けているそうです。
さて、台湾はアジアにおいては「親日」と言われています。その理由としては歴史的背景だけでなく、地政学的要素も加わっています。それは台湾も日本と同じく地震大国であるからです。
意外と知られていませんが、2011年東日本大震災では世界最多となる200億円を超える義援金と、400トンを超える援助物資を送ってくれたのが台湾でした。そればかりか、震災の翌日には世界のどこよりも早く救助隊を派遣してくれたのも、台湾でした。今年の2月5日、台湾南部で死者100名を超す地震が起こったときは、今度は日本が動きました。
さて、台湾南部の嘉義から台南まで香川県ほどの大きさの嘉南平野があります。亜熱帯性気候で年間2000ミリを超える降水量があり、作物が1年に2、3回もの収穫が期待できる地域でしたが、水利の便が問題でした。河川は中央山脈から海岸線まで一気に流れ落ち、雨期に度重なる洪水となり、乾期には川底も干上がるほどで、農業生産は不安定、低水準でした。
1917年に台湾総督府の土木技師であった八田與一さんは、嘉南平野に安定した水を供給することによって、この地を台湾の穀倉地帯に出来ると考え、「嘉南平野開発計画書」を作り上げ、3年間、現地調査と測量を行いました。その計画とは台南市北部を流れる官田渓の上流に当時東洋一の規模のダムを造り、そこから平野全体に給排水路を張り巡らせるという計画でした。予算は総額4200万円(当時)。これは台湾総督府の年間予算の1/3でし、内地政府が1200万円を補助し、残り3000万円を地元農民などが負担することになりました。計画されたダムは満水時の貯水量約1億5000万トン。これは世界有数のアーチ式ダムの黒部ダムの75%に相当し、同時期に造られた狭山湖(埼玉県)の7.5倍です。
1920年9月1日から工事を始まり、八田さんは当時のダム建設先進国米国に出張して、最新鋭の土木機械を買い集めました。帰国した後は工事事務所の所長として、現場に住み込んで指揮を執りました。当時、働いていた李新福さんは「とにかく気宇壮大な、当時ではとてつもない大きな工事でした。それと、みんながいちばん驚いたのは、見たことも聞いたこともないバカでかい機械が工事の主役でした。ダムの周辺には鉄道が何本も引かれており、私なんかも現場では蒸気の機関車にひかれたエアーダンプカーに乗ったものです」と語っています。しかし、日本人も台湾人も、初めて見る機械で使い方が分かりません。機械と一緒に米国人のオペレーターも来たそうですが、現場の人間には一切、使い方を教えなかったそうです。すると八田さんは「覚えるのは簡単だ。外人の鼻を明かせてみろ」と口癖のように言って、叱咤激励を続け、やがてこれらの機械がうなりをあげて、土砂を運ぶようになりました。
また、現場には作業員やその家族約2000人が住み、学校や病院までも作られました。八田さんの子どもたちも台湾の子どもたちと一緒にここの学校に通いました。現場は夜遅くまでこうこうと灯りがともり、徹夜作業も当たり前でした。現場では人間関係が大事なことを知っていた八田さんは、作業員の宿舎に上がり込んでは彼らと花札に興じていたそうです。
そんな時、12月に先行して進められていたトンネル工事で、ガス爆発事故が起こりました。90m掘り進んだ所で石油が噴出し、その石油ガスにランタンの火が引火して爆発してしまいました。日本人、台湾人あわせて50余名が事故で亡くなってしまいました。八田さんは陣頭指揮を執り、原因の徹底究明と、犠牲者の遺族のお見舞いに奔走しました。八田さんはいつもの作業着姿で犠牲者の長屋を訪れ、台湾式の弔意を示すと、遺族は言葉をおしいただくように聞き入り、八田さんの「仲間を失った」という悲しみが自然と伝わり、その心情が遺族の胸を打ったそうです。工事が続けられるかどうか危ぶまれましたが、台湾の人たちは「八田與一は俺たちの親父のようなものだ。俺たちのために、台湾のために、命がけで働いている親父がいるんだ。俺たちだってへこたれるものか」と、逆に八田さんを励まし、工事は続けられました。
1923年9月。日本で起こった関東大震災によって、工事への補助金も大きく削られ、職員、作業員の半数を解雇せざるをえない事態に追い込まれました。仲間を解雇することは、八田さんにとって身を切られる思いであり、解雇者の再就職先を探すために、総督府のつてをたどったり、業者の縁故を頼って奔走しました。また、工事が再開されれば優先して再雇用するという条件をつけたそうです。
1930年3月。工事が終わりに近づいた頃に八田さんは工事のために亡くなった人々とその遺族ら134人の名前を刻んだ「殉工碑」を建てました。名前は亡くなった順と思われ、日本人と台湾人が混じって刻まれています。これは八田さんの分け隔てのない仲間意識だと言われています。そして、4月にダムが完成し、5月10日に竣工式が開かれました。5月15日にはダムからの給水が始まりました。全長1万6000kmの水路に給水する水利運用が軌道に乗るまでには3年もかかったそうです。1931年には工事関係者が八田さんの銅像を贈りました。さらに、東京農業大学出身の中島力男技師が農村を巡回して、苗代作り、田植え、稲の消毒から農機具の使い方を指導し、計画した農作物の増収が実現するには、ダム完成後6年かかりましたが、水稲作は収穫高は6倍、甘藷作は2倍に伸び、地元農民の増収金額は年間2000万円以上に達し、負担した事業費2739万円の返済も容易でだったそうです。
ダムの完成後、八田さんは台北市に戻り、1939年に技師として最高の官位である勅任官待遇を与えられました。そして、台湾が発展していくためには、現地人技術者が必要だと考え、台湾で最初の民間学校「土木測量技術員養成所」を作りました。現在も「瑞芳高級工業職業学校」として、毎年多くの技術者を社会に送り出しています。
1942年5月に八田さんは南方開発派遣要員として、貨客船「大洋丸」でフィリピンに向かいました。灌漑の専門家として、フィリピンで綿作灌漑のためのダム建設の適地を調査する任務でした。5月8日午後7時45分頃、大洋丸は五島列島沖を航海中、米潜水艦の攻撃を受け、沈没。遺体は1ヶ月以上も経った6月13日に山口県萩市沖合の見島で発見されました。享年56。
1945年になると台北市でも空襲が激しくなり、八田さんの奥さんの外代樹さんは子どもたちとダムの建設工事で使われていた職員宿舎に疎開し、そこで終戦を迎えました。終戦後の9月1日未明のこと。外代樹さんは黒の喪服に白足袋という出で立ちで、ダムの放水口に身を投げました。「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟、姉妹なかよく暮らして下さい」という遺書が机の上に残されていたそうです。享年45。
台湾南部の古都・台南市からバスで1時間20分のところに、台湾第2の烏山頭ダムがあります。現在では湖畔にはホテルが建ち、満々と水をたたえた湖水にはボートも浮かぶ観光地になっているそうです。
このダムを見下ろす北岸に、日本式のお墓があり、お墓の前には作業着姿で腰を下ろし、片膝を立てた銅像が建っているそうです。墓石には「八田與一、外代樹之墓」と刻まれています。お墓も銅像も、このダムを造った八田與一さんを敬愛する地元農民が作ったものです。
お墓は、わざわざ日本の黒御影石を探し出し、銅像は戦争末期の金属類供出が呼びかけられた頃、地元民が隠して保管していたそうです。蒋介石政権の下で、日本人の銅像を隠し持っていることは大変な危険なことでしたが、銅像はそのまま保存され、墓前に設置されました。
ここでは毎年八田與一さんの命日5月8日に嘉南農田水利会の主催により、墓前での慰霊追悼式が催されています。
また、中学校の歴史教科書にも掲載され、子どもからお年寄りまで、最も尊敬される日本人として知られています。台湾の人たちにとって、八田さんは特別だそうです。
さて、台湾での野球史の始まりは1895年になります。1895年は日本統治が始まった年であり、野球も日本人によって台湾に持ち込まれました。そして、1906年3月、台湾で初めての正式な野球チーム「台湾総督府中学校棒球隊」が誕生しました。これは当時の台湾総督府国語学校中学部(現在の台北建国中学)の田中敬一校長先生によって結成したものです。そして、戦前には甲子園にも出場するほど野球が盛んになります。そして、1990年に台湾のプロ野球がスタートしました。
今日から野球の日本代表と台湾代表との強化試合が行われます。両チームのヘルメットに、「加油(がんばれ)台湾 がんばろう日本」のステッカーが貼られるそうです。
台湾と日本の友好関係はこれからも永遠と続いて欲しいものです。