3年前の2014年のドラフトの注目はなんと言っても、最速157km/hの当時・済美高の安楽智大選手(東北楽天ゴールデンイーグルス)でした。失礼ながら、この年のドラフトは1999年と並ぶ不作の年と言われていました。それでも、盛岡大付高・松本裕樹選手(福岡ソフトバンクホークス)、前橋育英高・高橋光成選手(埼玉西武ライオンズ)、横浜高・浅間大基選手(北海道日本ハムファイターズ)、春江工業高・栗原陵矢選手(福岡ソフトバンクホークス)、智弁学園高・岡本和真選手(読売ジャイアンツ)、西日本短大付高・小野郁選手(東北楽天ゴールデンイーグルス)らの有望な高校球児が指名されており、結論を出すにはまだ早いと言えるでしょう。
その2014年のドラフトで甲子園に出場していないチームの中で、磐田東高では一年夏からベンチ入りし、二年夏は同期の左腕・齋藤誠哉選手(現; 福岡ソフトバンクホークス育成)との二本柱を形成します。二年秋は県大会ベスト8進出も、10月の埼玉遠征で、右ヒジに痛みを感じます。一冬を越えた翌年3月、対外試合解禁直後には「バキッ」と、再び激しい痛みに襲われてしまいます。しかし、レントゲン、MRI検査でも異常は見られず、投げ続けていました。三年の夏は痛み止めの注射を打ち、薬も服用。県大会の二回戦敗退後、再度、検査を受けると「骨に線が入っていた」と、疲労骨折が判明してしまいます。
最速145km/hを計測し、プロ入りを目指していた時期もありましたが、一時断念。10月に内視鏡手術を受け、社会人野球のヤマハへと進みます。ヤマハでの入社1年間はリハビリに充て、フォーム改造にも着手します。
「トップのときに右腕が下のほうにあり、その後、無理やり引き上げるから、肩とヒジの負担となっていた」
1年で体重10kg増。無理のないフォームを習得し、9月には実戦復帰します。2年目の2月、JR東日本とのオープン戦で152km/hをマーク。都市対抗では2試合に救援し、日本選手権では初優勝に貢献します。
そして、3年目のさらなる飛躍につなげます。今夏の都市対抗では新日鐵住金東海REXの補強選手として、ホンダとの二回戦では7回から救援して、155km/hを計測。スピードだけではなく、3回無失点と結果も残しました。
「プロへ行くのであれば、1位。ただ、そこも通過点。メジャー・リーグも目指しているので。中途半端な目標は立てたくない」
大きな目標を立て、それに向かって邁進する。プロ向きの考えの選手です。
NPBにセーブが制定されたのが1974年。セ・リーグに最優秀救援投手賞(セーブポイント)が制定されたのが1976年。リリーフピッチャーが脚光を浴び始めてからドラゴンズはリーグを代表、日本を代表するクローザーを多く輩出してきました。
1974年初代のセーブ王は星野仙一さん。登板した49試合中32試合がリリーフ。15勝中8勝が救援勝利、10セーブで優勝に貢献しました。
2年後の1976年に制定された初代の最優秀救援投手は鈴木孝政さん。26セーブ、救援勝利6勝の32SPでタイトルを獲得。さらに、主にリリーフながら規定投球回を投げ、最優秀防御率のタイトルも獲得しました。
1979年に、スピードガンがはじめて導入され、150km/hを連発し、最速154km/hを投げ、スピードガンの申し子と呼ばれたのが小松辰雄さん。
その小松さんの後を受けたのが牛島和彦さん。1984年にはリーグ最多セーブ。
牛島さん移籍後のクローザーは郭源治さん。1988年には当時記録の44SPでリーグ優勝に大きく貢献しMVPを獲得しました。
1990年にルーキーながら150km/hの剛速球で守護神に抜擢されたのが、与田剛さん。オールスターにはファン投票1位で選出。35SPを挙げ新人王も獲得しました。1991年に与田さんに代わって抜擢されたのが、ルーキー森田幸一さん。開幕戦に勝利し、最終的に10勝17Sで堂々の新人王でした。
1996年には韓国の至宝・宣銅烈さんが入団。1年目は8SPと期待外れでしたが、ナゴヤドーム元年の翌年はリーグトップタイの38SP。以降、32SP、29SPと本領を発揮し、1999年の優勝に大きく貢献しました。
2000年開幕前日に入団決定し、初登板を4月14日に果たしたギャラードさん。抜群の安定感でこの年と2002年にセーブ王のタイトルを獲得しました。
2003年は元近鉄バファローズの守護神・大塚晶文さんがクローザーとして活躍します。
そして2004年から中継ぎエースの岩瀬仁紀選手が満を持してクローザーとして登場。400Sは偉大な記録です。
2014年の途中から岩瀬選手に代わって9回のマウンドに立ったのが最速157km/hの福谷浩司選手です。
2016、2017年とクローザーを務めているのが田島慎二選手です。
来年は1990年以来の新人王とセーブ王を期待したいと思わせるピッチャーです。