【文壇本因坊の著書を孫引きとして その19 の巻】
昔の碁は時間無制限だった。
何日もかかる入念局は珍しくなかった。
日本一決定戦の御城碁(おしろご)で
徳川中期ごろ、小さな変化が起きた。
事前に碁を打つ「下打ち」が採用された。
毎年11月11日から16日までの6日間、
家元四家が輪番に席を設け、定めた対局を打ち上げる。
それを17日に盤に並べ、将軍のご覧に供するのである。
将軍の目前で、1手を何時間も考えるワケにはいかなかったのである。
「下打ち」の6日間は、棋士は面会を許されず、外出も禁じられた。
碁は、親の死に目にも遇えないというのは、
ここから出た言葉と言われている。
だが碁に溺れる街のザル碁にも、似たようなことが起きた。
親爺が危ないと迎えがあっても、碁の生き死にの境とあれば
すぐ帰ると口では言いながら、ちょっと席を立てない。
そう早く息を引き取ることもあるまい、と
高をくくって盤面に熱中しているうち、
親があの世にいってしまったということはよくあった。
封建時代、親の死に目に遇えないのは、最大の不孝である。
昔は親不孝碁とでもいったのだろうか。
石は生きたが死に目にはあわぬなり 古川柳
おしろご 江戸時代に囲碁家元四家の七段以上の棋士により、徳川将軍の御前にて行われた対局。寛永3(1626)年ごろに始まり、毎年一度、御城将棋とともに2~3局が行われた。幕末の元治元(1864)年に中止になるまでの230年余りに渡って続いた。出仕棋士は計67人。本因坊秀策が記録した1849~61年の19戦19勝無敗が有名。
緊急事態を声高に叫ぶ
その口が何を言っても
説得力を持たない悲しさ
伝家の宝刀も抜きっぱなしでは……