新型コロナ元年の2020年も、306日が過ぎ、残り60日ですね
百年前のスペイン風邪も収束(終息ではなく)に半年どころか
3年ほどかかったのですから、長期戦を覚悟せねばなりますまい
ーーなあんて書いてしまったら、何故か、
しゅうこう先生のことが頭に浮かんでしまった
久ぶりに、一本投稿しておきます
【「名人の本手」シリーズ続報
~ しゅうこうセンセイの鞄の中身
~ 最後の無頼派、藤沢秀行の華麗なるエピソード集 の巻】
彼は、ほぼ毎日 飲酒していた
強いわけではなく、すぐベロンベロンになる
飲むというより、「飲まれる酒」であった
酔うと、女性の秘所の俗称を連呼する悪癖があった
あの鄧小平と面会した際、既に出来上がっており
「中国語で○○○○のことを何というのだ」
と執拗に絡み続け、面会は途中で中止となった
開高健のエッセイ「開口閉口」に出てくる
「門口で『やい、クロ饅子、でてこい!』
と叫ぶ『疾風怒濤のロマン派』」とは、
藤沢のことである
◇
女性関係も派手だった
愛人宅に入り浸って自宅に3年間帰らなかった
用事ができて帰らなければならなくなった際、
自宅への行き方が分からなくなって
妻モトを電話で呼び出して案内させた
将棋の米長邦雄の妻が、モトにこう相談した
「うちの主人は週に5日帰ってこないのですが」
モト曰く「うちは3年、帰りませんでした」
本妻以外の女性との間にも子供がおり、認知している
◇
ギャンブルに溺れた
京王閣競輪場で250万円の車券を1点買いしたものの、外れる
その際、決勝線付近の金網を強く握り、菱形にひしゃげてしまう
「秀行引き寄せの金網」として名所になったという
棋聖戦6連覇の間に、借金で首が回らなくなり自宅を競売にかけられた
「最善手を求めて命を削っている。借金も女も怖くない」と豪語した
深刻な借金は誰もが知っていて、碁界スズメは鳴いた(泣いた)
「棋聖位だけは何が何でも死守しなければならぬという迫力に
誰も本気で勝ちに行けるものではない」と
◇
年2回の若手育成合宿は湯河原で行われるのが恒例だったが
日程は小田原競輪の開催日程に合わせて組まれるのが常だった
碁を嗜む政財界、著名人からの人気は飛び抜けて高かった
銀座で開いた書の個展には、大量の花や祝電がどっと届き
会場に駆けつけ、挨拶を交わす人の列が出来たという
贔屓にしていた「碁の打てる銀座の会員制クラブ」では
私設後援会「藤沢会」の会員を対象に月に1回
藤沢本人や弟子が講習会を開いていた
他にも街の碁会所にもちょくちょく顔を出していた
自身も本拠地の阿佐ヶ谷を中心に中央線沿線で何軒か経営していた
ヒトとの間にカベを作らないこと、をあらゆる局面で実践していた
◇
「初物食いの秀行」といわれた
首相杯、日本棋院第一位決定戦、旧名人戦、早碁選手権、天元戦、棋聖戦
これらの棋戦で、ことごとく第1期の優勝を果たしている
どちらかというと防衛は苦手だったが、棋聖位だけは特別だった
多額の借金を抱えていた時期の第2期棋聖戦では
加藤正夫に1勝3敗と追い込まれ、後がなくなっていた
第5局開始前には「負けたときに首を吊るため」にと
枝振りのよい木を探しながら、対局場に向かった
この碁で、一手に2時間57分という大長考を払った末
殺し屋加藤の白石を全滅させる、という離れ業をみせた
◇
将棋棋士にも知己が多く、「弟分」の芹沢博文九段は飲み仲間
酒席で「碁将棋の神様を100としたら、自分はどれ位分かっているか」
といい、紙に書いて見せ合ったことがある
藤沢は「6」と書いたが、芹沢は「4か5」
無頼派の二人だが、大言壮語ではなかった
「芹沢は、分からない事を分からない、と言えるデキるやつだった」
と、藤沢は著書で回想している
▲明治維新後の碁界危機をしのいで
その灯を絶やさなかった明治の巨星
史上最強の呼び声が高い本因坊秀甫
藤沢は譜を並べ尽くし一時代を築き
ついには「秀甫の再来」といわれた
直線的な攻めのキレ味はその系譜だ
波乱万丈の人生は最後の無頼だった
いまも人気が続く伝説の棋士である
◇
死後の2010年6月、
北京市に「藤沢秀行記念室」が設立された
十周年記念行事は、どうなったのだろう?
追悼の意を込めて、紹介した次第である
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