【文壇本因坊の著書を孫引きとして その18 の巻】
明治維新で幕府という後ろ盾を失った囲碁家元は没落し、
代わって繁栄したのが囲碁研究会「方円社」である。
村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)や中川亀三郎が1879(明治12)年に設立し、
1924(大正13)年の碁界大合同による日本棋院設立まで棋界をリードした。
坊家と対立しながらも、封建的な家元制度を脱却し、実力主義を導入。
級位制採用や機関雑誌の発刊などを打ち出し、碁の近代化と普及を推進した。
「方円」とは、四角の碁盤と丸い碁石を用いる碁の別名である。
井上馨、後藤象二郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一ら有力財界人がこぞって支援した。
その秀甫と亀三郎は、秋本という子爵に碁の出前授業をしていた。
ある時、子爵は温泉場に行き、関という若い三段に出会った。
方円社の社員だったのだろうが、では一局となった。
子爵は5目置いた。秀甫七段、亀三郎六段と勝ったり負けたりであり
相手は三段だからギャフンと言わせてやろう、と意気込んだ。
だがメチャメチャに叩きのめされたのは子爵の方だった。
お相手の碁に勝ちそうで考える
玄人や腕達者の素人にもこれがあり、お世辞碁、忖度碁の類である。
なんとか上手く負けねばならんと考えるのは苦労する。
しかし伸び盛りの若手でそうするような利口者では先が知れる。
関は手を抜かないのである。
次の稽古日に秀甫らが行くと、子爵はひどく不機嫌である。
「君たちはオレを殿様扱いして
いい加減な碁を打ってきたのだ。
陰では舌を出しているのだろう」
関三段にぐうの音も出ないほどやられたと知った。
大事なお得意様の激怒に、亀三郎は声もでない。
そこにいくと、かつての坊門の虎、秀甫である。
「関は三段だが、下手には我々より強いのです。
目の中に指を突っ込んでかき回すようなことは平気。
我々は上段棋士なので、あくどい真似は出来ません」
そう言ったうえで、問題の碁を並べ直してもらった。
秀甫は解説する。
「この手はハッタリです。
こうお受けになったので黒が死んだので
こうお受けになればアベコベに白が死です」など講釈した。
要するに、子爵がヘボだったワケだが、機嫌が直り、
上得意を失わずに済んだという話である。
秀甫は、中江兆民が著書「一年有半」で
「近代非凡人三十一人」に挙げた人物であったが、
歴史上の名人たちに比べると知名度は低い。
史上最強に挙げる現代のプロ棋士も多いが
生涯は決して恵まれたものではなかった。
だがそのまま小説になりそうな愉しい人物だった。
その頃、消えても不思議ではなかった碁の灯を
ともし続けることができて今日があるのは
碁打ちの枠に収まり切れないほどの秀甫の人間力だったのだろう。