【文壇本因坊の著書を孫引きとして その3 の巻】
伊達政宗が二代将軍・徳川秀忠と碁を打っていた。
相手の石を追いかけながら
「北から攻める、北から攻める」
と、ぶつぶつ つぶやいていた。
秀忠の時代になると、
江戸城の周りの堀は完成していたが、
本丸の北にあたる駿河台にだけ堀がなかった。
そこを拠点に攻められると、城は危ない。
政宗はそのつぶやきで、
碁の弱点と城の弱点を重ね合わせ
暗示していたのである。
将軍とて、それは気づいていたが、
難工事のために手がつけられなかった。
そこで政宗が引き受けることになり
今のお茶の水の堀を拓いた。
幕府に対する忠誠も保身のためであったが
そこが政宗一流の政治手腕だった。
盤面を戦(いくさ)に見立て、
築城の難しさを云々する戦国武将の茶目っ気。
舌戦も相当の手練れであったことを彷彿とさせるが
碁石を打ち下ろす姿を想像するにつけ
その洒落っ気のセンスにこそ魅せられよう。
だて・まさむね 出羽国と陸奥国の戦国大名。伊達氏第17代当主、仙台藩初代藩主。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明して隻眼となり、「独眼竜」の異名をもった。三代家光の頃まで仕えたが、既に戦場を駆け巡っていた武将大名はほぼ死去していた。政宗は高齢でも江戸参府を欠かさず忠勤に励み、家光は政宗を慕って「伊達の親父殿」と呼んでいた。太平の世でも多くの趣味に没頭し、一日たりとも無駄に過ごすことがなく、文化人としての評価も高い。