【あなたはイライラしますか?の巻】
■囲碁は「待つ」ゲームである。
相手が考えている時、黙って待っている。
自分が考えている時、相手を待たせている。
打つ行為自体が、非言語的コミュニケーションであり、
阿吽(あうん)の呼吸、以心伝心、といった交信を味わうものである。
従って、対局時に会話は不要であり、むしろ疎まれる。
人間は、生まれた瞬間から死へのカウントダウンが始まっているのだが、
生きている限りは「有効に時間を使いたい」と思うのが常であろう。
だが現実は、多くの時間を何かを「待つ」ことに使っている。
では「待つ」は一体……無駄な時間なのだろうか。
■愛好者は、自分が打つ時は懸命に考えて碁石を置く。
ところが相手が考えている時は、おしゃべりしたり、よそ見をしていて、
相手が石を置いても気が付かないヒトがいる。
おしゃべりや、よそ見から戻って「ん、どこに置いた?」。
こんな人物は「待てない」ヒトである。
■こういうヒトもいる。
相手がポンポンと早いペースで打ってきて、
つられて打っては、悪手となり、負ける。
わたしも時々、ペースが狂うこともあり、注意している。
ところが、相手の打つペースに対し、
「早すぎる」と文句を言う場面に遭遇した。
これには驚いた。
「下手の考え 休むに似たり」なんて酷い言葉があるが、
相手の長考を嫌うヒトの方が圧倒的に多い。(自身の長考はさておき!)
しかし「考えないからヘタ」なのであって、
それを非難されては「いつまで経ってもヘタのまま」なのだが。
◇
■ハイデガーは大著「存在と時間」で
「不安とは、人間が死ぬ存在だ、というところに根本原因がある」
みたいなことを長々と展開している。(と、思う)
そう、わたしたちは「待つ」ことに不安を感じる存在かもしれない。
では、ゆったりと相手の思考に付き合えるヒトは、達観したヒトか。
小人には、理解の及ばない遠い存在に思えてくるのである。
省線のその小さい駅に、
私は毎日、人をお迎えにまいります。
誰とも、わからぬ人を迎えに。
――で始まる太宰治の小品「待つ」を何度読み返したことでしょう。市原悦子が朗読するCDを何度聴いたことでしょう。「恐ろしいほどの傑作」と思うのは、空想的非戦論者だけでしょうか。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2317_13904.html
2019年12月16日投稿「1手に5時間考えた」の関連記事です。
武宮正樹が「5時間7分」の大長考を続けるなか、
大竹英雄は正座したまま、身じろぎもせずに待っていたそうです。
名人引退碁に挑んだ木谷実の門下にあって兄弟弟子ですが、
所作はあくまで正しく、しかし駆け引きは鬼の如し、でありました。
今は昔。お伽噺の様なホントの話であります。
「木谷道場」が、おびただしい数のトップ棋士を輩出したのも、
当然のなりゆきだった、と言えましょう。
介護や子育てにおいても大切なこと
介護者や母親、保育士は
相手(老人或いは幼児)の動作を 待てるか
やってあげることは簡単
相手がやり終えるまで待つ
やってあげてしまっては
できることもできなくなる
待つこと囲碁や将棋だけでなく
日常生活のなかにもあるのですね
的確なるコメント多謝です。