阿含宗不良会員の呟き

阿含宗不良会員の呟きです。 神仏と開祖を信じ修行してるつもり。
宗務局は知らんけど。不良会員なんで(笑)。

阿含宗 ウソ話「新政府が会津藩を斗南へ転封し旧会津藩士に困窮生活を強いた」

2024年08月25日 22時54分53秒 | 日記
「新政府が会津藩を斗南に転封し旧会津藩士に困窮生活を強いた」という話を未だに強弁する人たちが居るようですが、ウソというしかありません。

 会津藩・斗南藩の幕末維新動乱犠牲者の解脱供養をするとのことで、いま御供養料の勧進が行われているそうです。それ自体は大変結構なことなので、次回道場にお参りした時には是非参加させて頂きます。

 それにしても、ここ数カ月、「〇〇空襲犠牲者の解脱供養」とか「〇〇地震犠牲者の解脱供養」とか「〇〇幕末維新動乱犠牲者の解脱供養」とか、休む間も無く引っ切り無しです。それらと並行して万燈先祖供養の勧進もですからね。
 ちゃんと全体を観て良い塩梅に調整する人間が居ないのです。お先真っ暗ですね(笑)。

 それはさておきです。
 幕末動乱犠牲者の御供養を主要な目的としていた会津若松での大柴燈護摩供が無事行満した後に書こうかと思い、結局、書かなかったことがあります。今回の解脱供養勧進を切っ掛けにそれを思い出したので話したいと思います。
 
 「新政府が会津藩を斗南に転封し旧会津藩士に困窮生活を強いた」という話を未だに強弁する人たちが居るようですが、ウソというしかありません。
 会津藩は会津戦争終結後に改易されています。判りやすく言うと「お取り潰し」です。会津藩は消滅してしまいます。
 その翌年、つまり明治2年になって、旧会津藩地域を管轄する若松県の大参事だった岡谷繁実(おかのや しげざね)という人が旧会津関係者救済の為に会津藩再興を建議します。明治新政府にも会津に同情する人達が居たのでしょう、新政府はこれに応えます。松平容保の息子の当時まだ零歳児だった松平慶三郎に大手柄があったことにし其の功績に報いるという形で慶三郎に新規に領地を与え藩主として取立てるという、笑ってしまうような強引な離れ技を使って、下北半島の大半とその南に在る飛び地に新藩を立てることを決します。そして旧会津藩士を移住させることにします。移住せず士分を離れ会津に残留することを選んだ旧藩士も居ます。強制移住させられた」とか言う人も居るようですが、ウソです。
 旧会津藩の再興ではなく新規取立てとしたのは、明治6年位まであとを引く贋金造り等の会津藩時代の問題を移住先の藩に及ぼさないようにという新政府の配慮もあったと考えられます。旧会津関係者の為にもなる新規立藩の形をとったのに「転封」だの「移封」だのと言われたのでは、関係した新政府の人々は報われませんね。
 本州北端部に位置する斗南藩はお米の石高は7000石ほどしかありませんでした。しかし、複数ある北前船寄港地の税収・陸奥湾の漁業からの利益・針葉樹林帯からの林業収入等を加味し計3万石とみなされていました。ちゃんと運営していれば藩士があれほどまでに困窮することは無いくらいの生産力はあったのです。立藩時には新政府から現金・米で計二万石の支援も受けています。
 では何故、多くの藩士が、餓死者まで出るほどの悲惨な困窮生活を強いられたのか?
 何を思ったのか知りませんが山川浩ら斗南藩首脳陣が投機に手を出して、結果多額の損失を出してしまった事が大きな理由の一つとして挙げられます。
 後に旧会津藩士が下北半島より条件の厳しい北海道余市の開発や、下北半島での広沢牧場の経営を成功させています。これらとの違いは、有り体に言って、指導層の違いというしかありません。(広沢牧場の広沢安任は斗南藩首脳の一人ではありましたけど。)
 困窮の末に餓死者まで出るという悲惨な結果から「明治新政府はそういう悲惨なことになることを見越して、ワザと厳寒不毛の地に旧会津藩士を送り込んだのだ」という見当違いの逆算をする人もいるようです。もし新政府の意図がそういうものであったなら、函館戦争もとっくに終結していることですし、下北半島あたりではなく北海道北部の旧会津領[松平容保がプロシアに事実上売却(形式上は99年間の租借)しようとしたアノ土地]とかその付近に新藩を作り移住させれば良かったのです。開発に失敗し旧会津藩士がバタバタ死んでも想定内。もし上手いこと成功すればロシア南下を危惧する新政府にとっては防波堤が出来る事となり好都合この上ありません。(岩倉具視は最初北海道開拓案を示したそうですが、結局は「陸奥国」に落ち着くこととなります。)
 明治新政府は、北海道の未開の地と言ってもいい場所ではなく、既に多くの人々の生活・経済活動が確立している土地をわざわざ旧会津藩士の為に新天地として用意してやったのです。これが温情以外の何だと言うのでしょうか。悲惨な結果になることが判っていて云々など“下衆の勘繰り”にも程があります。
 明治新政府の温情で、旧会津関係者救済の為に、ちゃんと運営すればどうにかやっていけるだけの場所に新藩を設立し希望者を参加させたのに、斗南藩首脳陣の失政により多くの藩士が困窮する事態に陥った。一言で言うなら、そういうことです。
 それを知ってか知らずか「会津は被害者で“善”、薩長は加害者で“悪”」という自らの会津観光史観、というか、私に言わせれば「会津被害者史観」を正当化するために「新政府が会津を斗南へ転封し…」と言い張って居る人たちが未だに居るわけです。
 いい加減お止めいただきたいものです。