阿含宗不良会員の呟き

阿含宗不良会員の呟きです。 神仏と開祖を信じ修行してるつもり。
宗務局は知らんけど。不良会員なんで(笑)。

阿含宗 昭和60年頃の霊写真。お判り頂けただろうか?(笑)

2100年10月17日 13時28分00秒 | 日記
 昭和60年(1985年)くらいに某地区の地区会で撮られた霊写真。 
 左端にご注目ください。
 お判り頂けただろうか?(笑)


 平成一桁の頃だったと思いますが、或る会員さんから頂きました。
 その方が観光で某地方を訪ねた際に当地の道場にお参りしたら、そこの壁に掲示されていたそうです。
 その地区の方に尋ねたら次のような話だったそうです。
 昭和60年(1985年)頃に地区会の記録写真を撮った時の一枚。宗務局を通じて開祖に「霊写真では?」とお伺いをたてたら「その通り」とのお墨付きを頂いた。だが提出したプリントはそのまま返却されネガの提供を求められることも無く、阿含宗報やダルマ・チャクラは勿論のこと、本部会報やその地区のお知らせですら扱われず。その地区道場に参拝する会員さんだけが存在を知る秘蔵写真との事。

 私にこの写真をくれた方は、どうしても欲しくなり周りの目を盗んで観光用に持って来ていたカメラでコッソリそのプリントを撮影したのだそうです。
 私が何処の地区か尋ねたら「その地区に迷惑がかかるかもしれないから言えない」とのことで、私もそれ以上は追求しませんでした。

 関係者には大変失礼な話ですが、フイルムカメラの時代で、ネガやプリントに手を加えればこういう写真を捏造することは出来るでしょう。またまた失礼ですが、そういう写真に開祖が安易に乗っかったという見方も可能ではあります。ですが、写真を提示する側から見たら、開祖から「何だ、コレは?こんなモノをでっち上げたのは誰だ!?」と言われる可能性があります。開祖側から見たら、捏造かもしれない写真に「霊写真だ」とお墨付きを与えたら後で「桐山靖雄、インチキ写真に引っかかったぞ!」と言われるリスクがあります。
 双方に自信が有るわけですね。
 
 この写真を他の法友に見せたことは有りません。ウッカリ見せたら写真をくれた方に迷惑をかける可能性があるからです。
 でも、その方も既に亡くなりましたし、一地区で秘蔵しておくには惜しい写真だと思いますので、ここで公開させ頂きます。
「我が地区の門外不出の秘宝をネット上で公開しやがって!」というお怒りが目に浮かびますが、どうかお許しを。

 また、開祖もこういうものを会員さんに弘めることを特には望んでおられなかった御様子ですので、深くお詫び申し上げます。どうかお許しください。





阿含宗 求聞持聡明法や超能力や求聞持堂について“説明出来ないこと”がいけないのです。

2099年11月01日 15時47分00秒 | 日記
 開祖は生前様々な事柄を打ち出し実行されましたが、重要な幾つかの事は十分には或いは全く実現されないまま遷化されました。「求聞持聡明法や超能力の指導をする」「求聞持堂を造る」「成仏法を教える」等です。〔サンフランシスコ大学への留学だの、個人での布教所開設だの、アニメ映画だの、ヒマラヤ総本山だのは些細なことです(笑)。〕
 阿含宗の布教の障害になっているのは、今は「開祖霊諭」と過剰なブータン色が最大最悪なのですが、開祖御健在の時分から前述の事柄が十分に実現されていない、或いは実現される可能性が乏しいという事実が大きな問題となっていました。
 開祖の御著書を読んで道場に来られた一般の方から「求聞持堂は出来たんですか?」「求聞持聡明法や超能力の指導は受けられるのですか?」「成仏法を教えて貰えるのですか?」と尋ねられたら、会員さんも職員さんも黙って下を向くか、話を逸らすしかありません。
 それでも開祖御健在の頃は「以前は基礎的な御指導が有りましたが今の所は…、でも何れは」と誤魔化すことも出来ましたが、今となってはもうそれも出来ません。
 一番問題なのは、開祖が残されたそれらの点にについて阿含宗としての公式見解が無いということです。真面目な阿含宗会員さんや職員さんはそれらの質問に対し無責任に私的見解を答えるはずもありません。本当に黙ってしまうしかないのです。開祖が生前に教団内外に対して御著書その他で訴えて来た事柄に対して誰も何の説明も出来ない。沈黙するか話を逸らすしか出来ない。そんな有様で、誰が阿含宗という団体を信用してくれますか?これで布教など出来るはずが無いのです。
 「公式見解が無い」と書きましたが、実は無いわけではないです。確か開祖阿含宗葬の時だったと思いますが、深田法務管長がご挨拶で用意された原稿を読み上げるなかで“開祖は私達弟子に其の持てる全てのものを伝えて仏界に旅立たれました”という意味のことを仰ったのです。“開祖がやり残したことなど有りませんよ”ということでしょうね(笑)。 この挨拶原稿を誰が書いたか知りませんが、残念ながら、この一言で阿含宗を完全に見限り去っていった会員さんも結構いたように思われます。
 極一部の僧侶・職員については判りませんが、少なくとも私達普通の会員さんに対しては求聞持聡明法や超能力や成仏法の指導は十分には行われず、求聞持堂も造られなかったのです。そのことに対する教団内外への何らかの説明が必要なのです。本当は御健在のうちに開祖御自身からご説明頂くべきでした。
 阿含宗の法と教えの根幹は、開祖が「観音慈恵会」を創められた時と変わらず結局は“因縁解脱”です。つまり、人それぞれの運命上の悪条件を神仏のお力と自身の心解脱・供養・積徳の修行で解消するということに尽きます。求聞持聡明法だの超能力だのは開祖自身には必要だったのでしょうが、其れ等を身に着けられるほどの徳と能力の無い普通の会員にとっては、敢えて言うなら、付録に過ぎません。付録という言葉が言い過ぎなら、“高嶺の花”と言い替えても良いでしょう。ヤマハ音楽教室に通って鍵盤が血で染まる程練習しても、皆がピアニストになれるはずはありません。(昔の御著書ではまるで皆が“ピアニスト”になれるかのような言い方を開祖はされていましたが、常識で考えて無理でしょう。一人の名ピアニストを生むためには多数の無名の母集団が必要ですから先ずはそれを作ろうとし必死になり過ぎてつい“筆が滑った”ということだと思います。)
 ですが、それらの指導が出来ないことが問題なのではなく、出来ない事をちゃんと説明しないことが問題なのです。求聞持聡明法や超能力や求聞持堂の問題に口をつぐんで沈黙していることが、肝心の因縁解脱の法と教えを弘めることの障害になっているのです。
 一刻も早くこの状況を解消しなければ、阿含宗に未来はありません。

 ただ、その説明を「開祖霊諭」でやられたら最悪なんですが、でも開祖霊諭でなければ「何で開祖自身が説明しないのですか?」と言われるでしょうね。もう、袋小路です(笑)。
 「開祖霊諭」と、開祖がやり残された事への説明問題を解決するには、特定のタイミングでほぼ同時にやるしかありません。特定のタイミングとは何時かということは、流石の不良会員の私でも口にするのは憚られますので、今は言えません。









 

阿含宗 開祖には本当に霊能力・超能力が有るのだと信じざるを得ない体験がありまして。秘密だけど。

2099年10月20日 13時33分00秒 | 日記
 不良会員に落ちぶれながらも30年近く私が阿含宗にしがみついていられるのは理由が有ります。
 開祖には本当に霊能力・超能力が有るのだと信じざるを得ない体験を3回したのです。
 どんな体験であったかを明かにするのは控えたいと思います。「何か不思議な体験が有ったとして、それに囚われてはいけない。そこで進歩が止まってしまう。ただ淡々と眺めているように」というのが開祖の教えですし、余計な「体験談」は他の修行者さんにとっては修行の妨げになることも有り得るからです。

(追記)
 もう一つ思い出しました。計4回です(笑)。

(再び追記)
 重大案件をもう一つ思い出しました。計5回。
 自分自身の備忘として、時系列順に名前をつけて書いておくことにします。
①クジラ事件[関連したモノをシッカリ持っているのに忘れてて、今回思い出したのがコレ(笑)]
②蓮の花事件
③籐椅子事件
④銀座事件
⑤瞼の母事件



阿含宗 お天気が破滅のカルマに勝利した証だそうです。

2024年11月26日 01時51分28秒 | 日記
 阿含宗報466号に11月3日に開催された柏原聖地での上品上生大柴燈護摩供の記事が載っていました。
 その中に在る下記のような文章を読み、またしても嘆息してしまいました。

(前略)台風の影響を退けて開催できたのは「熊野大柴燈護摩供」でご縁を結んだ熊野大神(くまののおおかみ)と同地の御精霊、同法要へ出陣された各道場の不動明王のおかげとした上で、「本日の晴天、勢いのあるお護摩こそ、カルマに勝利した証です。熱い想いを源に、本日は修行者全員が須陀洹(しゅだおん)となって出仕し、乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝負に勝利しました。
 しかし、カルマの力は強く、今後も私たちは頑張らなければいけません。」

 その熊野大柴燈護摩供は雨でしたよね。台風あとの熱帯低気圧の影響が有ったわけでもないのに普通に雨でしたよね。中継画面でも微かにですが雨線が見える時が有るくらいの雨でしたよね。南海トラフ巨大地震除災というテーマを掲げた熊野大柴燈護摩供の後、南海トラフ巨大地震の危機や破滅のカルマがどうなったかについては例によって何の言及もありませんでしたが、実は破滅のカルマに負けていたのですね。知りませんでした。
 それとも「いや、ちゃんと勝ってる!天気なんか関係無い!」とでも言うのでしょうか。
 まあ、まだ半年しか経っていないのに、熊野大柴燈護摩供当日の様子など念頭に無くなっていたということでしょう。

 宗務局の「破滅のカルマがー」というのは、仏界の開祖からの御指導とかに依るものではなく、その日のお天気などをもとに(笑)自分たちの判断で言ってるということを現地修行・現地参拝・ネットワーク参拝の多くの会員さんの面前で白状してしまったことになります。結構な重大発言なんですが、良いんですか、コレ?

「本日は修行者全員が須陀洹(しゅだおん)となって出仕し」。当日現地修行した人は、それで、全員須陀洹になったのですか?まさかね。そんなわけないでしょう。

 「しかし、カルマの力は強く、今後も私たちは頑張らなければいけません。」破滅のカルマに勝利したと言った直後にコレです。結局、破滅のカルマはどうなったのですか?
 もしかして、破滅のカルマとの戦いって、得失点を争って勝敗を決める野球やサッカーのようなゲームみたいなモノなのですか?「破滅のカルマとの最終決戦」「破滅のカルマとの前哨戦の年」「破滅のカルマとの本戦の年」「乾坤一擲の大勝負」等々は、テレビ朝日の「絶対に負けられない戦いがそこにはある」みたいなモノなのですか?だとしたら一応辻褄は合ってきますけどね(笑)。
 まあ、さすがにそういうことではないでしょう。
 破滅のカルマなんて、結局、人類というかこの世が続く限り、時期や状況によって大小は有るものの常に存在するもので、局所的に一時的に多少軽くすることぐらいのは出来るかもしれませんが、我々阿含宗信徒が束になって神仏に御供養を捧げ祈ったところで其れ自体を完全に抑え込むことなど端から出来ないわけです。ですが、破滅のカルマと戦い或る程度制圧した、つまり「勝利した」。でも、また破滅のカルマはムクムクと復活するから、もっと頑張れ。そういうことでしょう。
「破滅のカルマとの最終決戦(沖縄大柴燈護摩供)」の後に例祭か何かで「破滅のカルマとの最終決戦に勝利した」との発言が有り、其の後2年程は宗務局から「破滅のカルマがー」という言葉を一切聞きませんでした。この時期は、破滅のカルマを完全に押さえ込んだという建前だったわけです。何しろ「最終決戦」とやらに勝利したことになっているので、そうするしかありません(笑)。
 破滅のカルマを完全に制圧するなんて無理という当たり前の事に今頃になってやっと気付いたのでしょうか?
 いや、というよりも、年中「破滅のカルマとの戦いだ!破滅のカルマに勝利した!でも破滅のカルマは手強いからもっと頑張れ!」と何も考えずに繰り返し言い続けられる御都合の良い方に路線変更したということなのでしょう。

 一向一揆犠牲者御供養や南海トラフ巨大地震除災祈念のお護摩を焚くこと自体は結構なことで、私も基金等への参加をさせて頂きましたが、もう少し「スマート」に出来ないものなのでしょうか?



阿含宗 ウソ話「新政府は会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた」

2024年09月13日 20時22分26秒 | 日記
 「新政府は会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた」という話はウソです。

 阿含宗とはあまり関係無い話が続き恐縮ですが、ついでなので、会津若松での大柴燈護摩供の行満後に少しだけ触れた4つ目のウソについて改めて書こうと思います。

 「新政府は会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた」という話はウソです。
 
 1966年昭和41年に会津若松市が刊行した『会津若松市史』の中では、遺体埋葬禁止令の存在を疑問視しています。その上で、同市史第七巻『会津の幕末維新―京都守護職から会津戦争―』の69頁にある前田宣裕氏のコラム「埋葬」には次のように記されています。
一説によると「彼我ノ戦死者ニ対シテ何等ノ処置ヲモ為ス可カラズ」との官命が下っていた、という。事実とすればこれは敗者への差別ではなく、死者の身元を確認するまでの一時的な措置と思われる。
 遺体埋葬禁止令が存在したとする根拠として「明治戊辰戰役殉難之霊奉祀ノ由來」という文章が挙げられることがあります。これは会津兵遺体埋葬に尽力した町野主水という人物が後日談として石川寅次という人に語り、町野の没後に高野磐美という人が石川から聞き書きして出来たものです。『会津史談会誌第三三号』(昭和32年刊行)という書籍に掲載されており、前野氏の言う「一説」とは其の中の一文を指します。次のような文章です。
「時ニ官命ハ彼我ノ戰死者一切ニ對シテ決シテ何等ノ處置ヲモ為ス可カラズ 若シ之レヲ敢テ為ス者アレバ嚴罰スト云フニテアリキ」
 つまり、「彼我」即ち新政府軍・会津軍双方の戦死者全てに対して決して何もしてはならないという官命があった、と言ってるわけです。前野氏は「事実とすれば(中略)死者の身元を確認するまでの一時的な措置と思われる」と語っていますが、他にも、埋葬が可能になるまで遺体からの略奪行為を防止するという理由も考えられます。実際にそういう遺体が多くあったように、装備や衣服を剥ぎ取られたら、身元確認も困難になります。
 “遺体埋葬禁止令の存在は疑問だが、仮に事実だとしても、其れは新政府軍・会津軍双方の戦死者を対象としたもので、合理的理由が有る一時的なものだ”というのが会津若松市の公式見解と言っても良いのです。 
 もう、これで充分でしょう。
 実際には様々な事情で埋葬されないまま長期間放置される事になった気の毒な会津軍戦死者も多いのですが、新政府が会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた、という訳ではないのです。
 元々は昭和30年代初頭に世に出た又聞きの根拠薄弱な話に過ぎないのですが、会津観光史観というか、私に言わせれば「会津被害者史観」の人達が、“会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じられた”というふうに歪めて繰り返し強硬に言い張り世間に広まったというわけです。
 会津士魂会という所が1966年昭和41年に『戦死之墓所麁絵図(せんしのぼしょそえず。または、…あらえず)・改葬方』復刻版という書籍を出しています。これは改葬方という所が明治二年七月付で作成した原本を活字化した資料なのですが、原本には無い「まえがき」が添えられており其の中に次のように書かれています。「会津は朝敵なりしとて遺体の埋葬を禁止した。しかるに月日の経過と共に遺体は腐食して悪臭を放ち、野犬狐狸の餌となり、その惨状見るに忍びざるにいたった。」
 この資料は埋葬ではなく「改葬」の記録です。若松城降伏から間もない明治元年十年に埋葬した遺骸を、翌明治二年三月に阿弥陀寺というお寺に「改葬」した時の記録なのです。そもそもハッキリ「改葬方」と書いてあるのですからね。「改葬」されたということは、当たり前ですが、一旦、埋葬されたということです。
 其の事実を示す資料を活字化・復刻していながら「会津は朝敵なりしとて遺体の埋葬を禁止した」云々と平気で書く神経が、私には判りません。辻褄が合わないと判りながら「会津は被害者なのだ」と言い立てる為にワザとそう書いた、と言われても反論しようが無いでしょう。
 こういうのが「会津士魂」なのですか?
 2016年平成28年に会津軍戦死者の埋葬を記録した資料『戦死屍取始末金銭入用帳(せんしかばね とりしまつ きんせんにゅうようちょう)』が発見されています。この資料により、会津兵士の遺骸も若松城降伏から7日後の十月一日には埋葬令が出され(“埋葬令”が出されたのですよ)七日から十五日までの間に埋葬作業が行われたことが明かになりました。

 新政府は会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた、という話は完全に虚構であることが確定しています。
 ですが、未だにこのウソを言い張ってる人も居るのです。困ったモノです。

 『会津若松市史』はその後改訂が行われ、現在刊行されている『会津若松市史 7 会津の幕末維新 京都守護職から会津戦争 歴史篇7 近世-4』[令和三年四月三十日 五刷(一部改定)]には、野口信一氏による次のようなコラム「戦死者埋葬の新事実」が掲載されています。全文引用させて頂きます。

 歴史は史料の発見により書き換えられることが間々ある。本市史も会津藩蝦夷樺太警備や明治の鶴ヶ城破却など、前回の市史の記述が大きく改められた。そしてまた平成二十八年新たに歴史を書き換える史料が発見された。戊辰戦後の会津藩士遺骸の埋葬にかかる史料である。
 従来、藩士の遺骸は賊軍ゆえ手を触れることが禁じられ、半年も放置されたまま鳥獣の餌とされたと言われてきた。これが会津人が長州を許せない大きな要因であった。しかし遺骸は会津藩降伏のわずか十日後から埋葬されていたのである。その史料を「戦死屍取始末金銭入用帳」(若松城天守閣博物館蔵)と言う。
 史料の前半は埋葬に要した日々の金銭支払いの明細で、十月三日から十七日まで総額七十四両余、会津藩士が三組に分かれ、城下及び近郊に放置されたままの遺骸埋葬を指揮した。経費の多くは埋葬に要した人足代である。
 後半は遺骸の埋葬場所と人数、遺骸の発見場所と個々の服装、状態などが詳しく記される。その人数は五六七人で、近くの寺や墓地六四ヵ所に埋葬された。服装を詳しく記したのは、遺骸を捜索する遺族のための情報であろう。うち郭内で発見された一〇三名は、興徳寺境内七ヵ所に埋葬された。
 この史料の発見は全国に報道されたが、会津藩の戦死者三千名に対し、わずか五六七名であり、大多数は野晒しのままという声もあった。しかしこれは大きな間違いである。三千名というのは京都の戦いから、一年半後の函館戦争までの人数である。また十月の時点では、鶴ヶ城内での戦死者は空井戸や二ノ丸梨園に既に埋葬されており、この時は手をつけていない。この人数はあくまで城下、近郊に放置されたままの人数である。もちろん完璧ではないことも史料の末尾に記される。この遺骸の多くは翌明治二年三月、阿弥陀寺に改葬されるが、これをもって半年も放置されたと誤伝されてきたのである。