阿含宗不良会員の呟き

阿含宗不良会員の呟きです。 神仏と開祖を信じ修行してるつもり。
宗務局は知らんけど。不良会員なんで(笑)。

阿含宗 相楽総三が率いた赤報隊一番隊(先鋒嚮導隊)は間違いなく「偽官軍」です。

2019年09月28日 20時03分00秒 | 日記
 阿含宗報403号に、この7月7日に阿含宗諏訪地区が長野県下諏訪町「魁塚(さきがけづか)」で行った赤報隊犠牲者供養御聖火法要の記事が載ってます。ご供養自体はもちろん結構なことで、私も相楽総三をはじめとする関係の御霊の成仏と冥福を心からお祈り申し上げます。
 だけど、記事の史実(のつもり)関係部分は、もう、笑ってしまうような間違いでホントにウンザリです(笑)。

「赤報隊」は相楽総三を隊長に、新政府軍の先鋒として結成。「年貢半減」を布告して、新政府側に味方するように民衆を説得しながら中山道を進んだが、財政難を危惧する新政府に布告を密かに撤回され、「偽官軍」として幹部は捕縛、斬首となった。

 "新政府が相楽総三に命じた「年貢半減」布告を後から無かったことにするため、赤報隊を「偽官軍」に仕立て上げ相楽総三ら幹部を口封じに処刑した"という話を未だに信じている人が結構いるけど、これは主に戦前に書かれた或る小説の物語が俗説として広まったもので、史実ではありませんよ。
 そもそも相楽総三は赤報隊の隊長ではないです。
 赤報隊は一番隊・二番隊・三番隊に分かれていて、赤報隊全体のリーダーは綾小路俊実(あやのこうじ としざね)と滋野井公寿(しげのい きんひさ)という二人のお公家さん。相楽総三は赤報隊一番隊(後に先鋒嚮導隊[せんぽうきょうどうたい]と改称)のみの隊長です。
 相楽総三が率いる赤報隊(一番隊)だけが「年貢半減」布告をやっていたと思ってる人がいるようですが、実は新政府は「年貢半減」布告を他のルートでもやっているのです。実際の布告文書が残ってる所もあります。
 例えば、早くも、鳥羽伏見の戦いが完全には終結していない一月五日付けで丹波に年貢半減令が出されています。言うまでもないことですが相楽総三も赤報隊も関係無いですし、後に処刑された関係者もいません。
 この事実一つだけでも、相楽達が処刑されたのは「年貢半減」布告が理由ではないということが判りますよね。
 相楽率いる赤報隊一番隊(先鋒嚮導隊)は進軍途中から新政府の命令を何度も無視して勝手に行動するようになります。これは近現代の軍事組織としては致命的失態で、責任者はコレ一つだけでも死刑になっておかしくない重大な違反行為です(殺されず生きて逮捕され裁判にかけられたらの話ですが)。赤報隊一番隊は新政府の指揮系統から逸脱し勝手に行動し始めた時点で(年貢半減布告など関係無しに)「偽官軍」と言うしか無いのですね。おまけに「官軍」の名を使い民衆から勝手に金を徴収したり時には略奪行為までしています。
 仕上げは赤報隊一番隊捕縛命令を受けた小諸藩等(官軍)を相手に赤報隊一番隊が戦闘を行ったことです。つまり「友軍攻撃」をやってしまったわけです。これも責任者は死刑相当の重大な違反行為です。このとき相楽総三は隊を留守にしていたので同情すべき点もありますが、度重なる命令無視と友軍攻撃というそれぞれ単独で十分に死刑になりうる軍律違反を二重三重に犯し、おまけに民衆に対し勝手な徴収や暴行略奪までしているのですから、相楽総三ら幹部が死刑を免れ得るはずがありません。
 相楽総三の最期はジダバタする様子も無く全く潔いものだったと伝わっています。当然でしょうね。相楽自身は自分のしでかした事の意味と重大性を十分に理解し諦めていたのです。俗説で言われるように濡れ衣を着せられ「口封じ」で殺されるのだったら、そのようにはいかなかったはずです。

阿含宗 松平容保蝦夷地売却未遂事件と、「埋葬禁止令」のウソ

2019年09月25日 20時04分00秒 | 日記
 幕末維新史にある程度関心や知識の有る人にとっては常識なのだけど世間的にはあまり知られていない「松平容保蝦夷地売却未遂事件」について書こうと思って、ちょっとネットを検索したら、良いまとめを見つけたので、それをご紹介したいと思います。楽ちん楽ちん(笑)。

 紹介させて頂いといて何なんですが、「義と言われている会津藩 」ってありますけど、本当に「言われて」ますか? 一部の会津贔屓の人達が自分らで言ってるだけでは?(笑)。松平容保の主君である徳川宗家慶喜公は既に降参恭順しているのに、それを無視し勝手に徹底抗戦の姿勢を貫いて、いったい何の「義」なんでしょうか?私にはサッパリ判らないべさ。

 このまとめを読んでもらえばそれで良いのだけど、この中で紹介されている松平容保蝦夷地売却未遂事件に関する平成28年9月8日北海道新聞の報道は、同紙サイトの記事によると下記の通り。

「蝦夷地99年間貸与」 会津・庄内両藩、戊辰戦争で独に打診
09/18 07:00、09/21 17:15 更新
 戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は「戊辰戦争が長引いていれば実現していた可能性がある」とみる。
 これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったとみられていた。
 その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側ではゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。
 今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。
 とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。
 書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。
 それによると「シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれているという。
 幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点確保に向けた意図が読み取れる。
 当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の形成に向かう軍備拡張期だった。

 「99年間貸与」と言ったって相手との力関係次第では返してもらえる保障は無く、事実上の売却。もう、松平容保、「義」なんてとんでもない、「売国奴」と言われてもしょうがないですよね。 

 何か月か前の例祭ご法話で✩本を引用する形で取り上げられた会津戦争後の「埋葬禁止令」は虚偽ですからね。会津観光史学の人らによって事実として繰り返し語られたせいで俗説として広まったのだけど、元々の出発点は昭和30年代初頭に初めて世の中に登場した又聞きの又聞きの根拠不明な話に過ぎません。会津若松市も既に昭和41年に『会津若松市史』の中で"遺体埋葬禁止令の存在は疑問だが、仮に事実であったとしても、其れは官軍・会津軍双方の戦死者を対象としたもので、合理的理由が有る一時的なものだ”という見解を示しています。会津観光史学の人達が繰り返し強硬に言い張っていただけ。数年前に埋葬記録資料も確認され完全に虚構であることが確定してます。

阿含宗 願い事がかなって不幸になる場合もあります。神仏のお助けが必要。

2019年09月19日 00時24分00秒 | 日記
 願い事がかなってかえって不幸になるということがあります。第一希望の会社に就職したがそこがあっと言う間に倒産するとか。人生の難しい所ですね。どんなに頭の良い人がどれだけ智慧をめぐらしても、こういうことにはどうにもならないですね。 
 そういうことが無いよう、有っても立ち直りのきっかけを頂けるよう、神仏のご加護をお願いしたいものです。
 神仏のご加護を頂くには日頃からの“お付き合い”と積徳が必要ですね。

 

阿含宗 結局は「心解脱行」ですね。コレが出来ない人は因縁解脱は不可能。

2019年09月15日 04時42分00秒 | 日記
 30年前後、多くの法友や職員さんを見てきて思うのは、因縁解脱の修行で一番難しいは「心解脱行」だということです。
 もちろん先祖供養による「タテの因縁」切りや、積徳行による「ヨコの因縁」切りは必要不可欠です。これらを抜きにして“心解脱行がどうこう”という域に達することは出来ません。でもこれらをしっかりやってきはずの会員さんでも「心解脱行」がまるでダメで全然進歩が無い人を、それこそイヤになるくらい見てきました。
 「心解脱行」こそ最後の最強の難関なのです。

阿含宗 東北戦争や会津戦争の原因は会津藩主松平容保の徹底抗戦姿勢

2019年09月14日 22時26分07秒 | 日記
 幕末維新動乱犠牲者解脱成仏護摩法要も無事行満。おめでとうございます。
 御霊もお喜びでしょう。

 さて、法要の邪魔になるかもしれないし面倒くさいので周りの法友にも一切黙っていた事実関係のトンデモについて幾つか語りたいです。
 戊辰戦争において東北戦争や会津戦争に至った原因は薩長新政府側の旧幕府方への「怨念」などではないです。結局、会津藩主松平容保が新政府に対し徹底抗戦の姿勢を崩さなかったことが根本原因と言うしかないです。
 新政府の方針は「恭順の実効が示されなければ討つ」、逆に言うと「恭順の実効を示せば赦す」で一貫しています。実際、松平容保と共に徳川慶喜公側近だった容保実弟の松平定敬(さだあき。元京都所司代)が藩主だった桑名藩は、藩主定敬本人は函館戦争まで抵抗を続けたにも関わらず、藩は早々に恭順の姿勢を明確にしたので全然戦争にはならなかったのです。無血開城ですよ。
 東北戦争や会津戦争の原因が薩長新政府側の旧幕府方への「怨念」が理由だったら、そうはいかないでしょう。幕末政局において薩長新政府側と対立関係にあったいわゆる「一会桑勢力」の一角を占める桑名藩は会津同様にボコボコにされたはずです。
 匿名不良会員の私が言っても説得力が無いので、桑名藩があった三重県出身の幕末維新政治史を専門とする水谷憲二氏著『「朝敵」から見た戊辰戦争 桑名藩・会津藩の選択』(洋泉社)より一文を引用するので読んでください。会津や東北で戦争になった理由・経緯が簡明に端的に説明されています。文中の「奥羽府」とは「奥羽鎮撫総督府」の略で、判りやすく例えると「東北方面担当新政府軍本部」みたいなものです。それから、「閏四月(うるう しがつ)」いうのは旧暦で使われる閏月(うるうづき)で「四月」の翌月です。太文字強調は私によるものです。

 なお振り返ってみれば、奥羽府から仙台藩に対する四月二十五日の通達では、しだいに会津藩が「暴動」を引き起こしそうな状態ではあるが、謝罪をすれば寛大に処置する考えであることを明らかにしている。
 しかし、それに対する容保名義の返答書(閏四月十五日付)は、徳川家の存続が確定するまでは「謝罪」しない覚悟を表明する内容になっている。
 閏四月十二日に奥羽府に差し出された会津藩側の嘆願書でもわかるように、会津藩が本気で恭順を望んでいるようには思えない
 その一方で仙台藩ら東北諸藩は会津藩を説得して何とか平和的な解決に持ち込むことを画策して、また奥羽府においても会津藩の恭順の意志が本物であれば穏便に解決しようと考えていた。
 しかし、会津藩はまったく武装を解除する気配がなく、東北諸藩は討伐対象である会津藩と結びついて和平交渉を計画して奥羽府に激しく迫り、そして奥羽府は着々と会津藩を攻撃する態勢を整えて東北諸藩を討伐に駆り立てた。
 このような奥羽府と東北諸藩との間に不信が募り、やがてそれは互いの誤解となり、最後には引き返すことができない戦争に発展していった。

 "会津や東北諸藩は恭順したにも関わらず薩長新政府側は最初から彼らを赦す気はサラサラ無く徹底的に叩き潰すつもりだった"などという「会津観光史学」的思い込みにとりつかれている職員さんがいらっしゃるみたいですね。星亮一さん(失笑)とかではなく、深く幅広い客観的事実を元に合理的論理的見解を導き出すごく普通の歴史研究者の成果から歴史を勉強し直して頂きたいものです。
 そういえば、松平容保が蝦夷地(現北海道)に持っていた領地をプロシア(現ドイツ)に事実上売却して軍資金等を得ようとした「松平容保蝦夷地売却未遂事件」は阿含ニュース特報とかでは一切触れられてませんでしたね。まあ、会津観光史学の立場からは「売国奴松平容保」はマズイので当然でしょうが(笑)。これについてはまた後日、気が向いたらということで。お休みなさい。