阿含宗不良会員の呟き

阿含宗不良会員の呟きです。 神仏と開祖を信じ修行してるつもり。
宗務局は知らんけど。不良会員なんで(笑)。

阿含宗 「良医良縁」?神仏に指図などせず、お任せされては?

2019年09月30日 20時03分00秒 | 日記
 何時の頃からか忘れてしまいましたが、初護摩札や護摩木で「良医良縁」という変な祈願文を見かけるようになりました。何なんですかね、これ?
 この祈願文を書く方はやはりご病気で苦しんでおられるのでしょう。だったら「当病平癒」「病気平癒」「身体健全」等で良いはずです。(もちろん、実際に今かかっているお医者さんが明らかに問題有りで新しいお医者さんを見つけるのが喫緊の課題というような方は別です。)
 「良医」とやらに「良縁」があったとしても、その「良医」が一生に一度するかしないかの医療ミスをしたらどうしますか?それよりはヤブ医者の一世一代の名治療に当たった方が良いわけでしょう。
 こう言うと「いや、“良医”には“ヤブ医者の名治療”も含む。そこは神仏にお任せしている」という人が居るかもしれません。だったら最初から全部お任せして“この病気から救ってください”とお願いしたら良いじゃありませんか?何故、神仏に対して要らぬ事細かな指図をするのですかね?

 開祖がお書きになった『修行者座右宝鑑』の中の、自分の願望を成就するためのリストの作り方のくだりを読んで、神仏にお願いごとをするときもなるべく詳細に具体的に書くべきという勘違いをしているのでしょうね。それ、勘違いですよ。
 リストは自分の表面意識・潜在意識に言い聞かせ自分自身を動かす為のもの。御札や護摩木は神仏に対して訴えお手配をお願いする為のものです。対象も目的も全く違います。 

 本堂でお手配願いの申込書に1時間も2時間もかけて細かい文字でビッシリと書き込んでいる人を見かけることがありますが、同じ勘違いをしておられるのでしょうね。

 神仏にお願いするときは、信頼して全てお任せするべきなのです。アレコレ細かく指図などするものでは有りません。一体、神仏と自分とどっちが智慧と力が有るのですか?
 良医の医療ミスに逢うかヤブ医者の名治療に当たるかのような、どんなに頭の良い人間がどれだけ頭をひねってもどうしようもないこと、人間の努力や智慧や能力が及ばないことを御札や護摩木を通じて神仏にお手配をお願いするのです。もっと謙虚に素直になるべきです。

 以前、開祖が御法話でこいういう意味のことを仰っていました。「私は仏様に自分の事をお願いするときは、具体的にアレをコウしてくださいとかコレをソウしてくださいとかいうような、そういうお願いの仕方は絶対にしない。全て円満に順調に進むようお手配くださいませ。そういうお願いの仕方しかしない。
 
 神仏と開祖にお願いごとをするときは、開祖を見習って、神仏・開祖に全てをお任せしましょうよ。

 



阿含宗 相楽総三が率いた赤報隊一番隊(先鋒嚮導隊)は間違いなく「偽官軍」です。

2019年09月28日 20時03分00秒 | 日記
 阿含宗報403号に、この7月7日に阿含宗諏訪地区が長野県下諏訪町「魁塚(さきがけづか)」で行った赤報隊犠牲者供養御聖火法要の記事が載ってます。ご供養自体はもちろん結構なことで、私も相楽総三をはじめとする関係の御霊の成仏と冥福を心からお祈り申し上げます。
 だけど、記事の史実(のつもり)関係部分は、もう、笑ってしまうような間違いでホントにウンザリです(笑)。

「赤報隊」は相楽総三を隊長に、新政府軍の先鋒として結成。「年貢半減」を布告して、新政府側に味方するように民衆を説得しながら中山道を進んだが、財政難を危惧する新政府に布告を密かに撤回され、「偽官軍」として幹部は捕縛、斬首となった。

 "新政府が相楽総三に命じた「年貢半減」布告を後から無かったことにするため、赤報隊を「偽官軍」に仕立て上げ相楽総三ら幹部を口封じに処刑した"という話を未だに信じている人が結構いるけど、これは主に戦前に書かれた或る小説の物語が俗説として広まったもので、史実ではありませんよ。
 そもそも相楽総三は赤報隊の隊長ではないです。
 赤報隊は一番隊・二番隊・三番隊に分かれていて、赤報隊全体のリーダーは綾小路俊実(あやのこうじ としざね)と滋野井公寿(しげのい きんひさ)という二人のお公家さん。相楽総三は赤報隊一番隊(後に先鋒嚮導隊[せんぽうきょうどうたい]と改称)のみの隊長です。
 相楽総三が率いる赤報隊(一番隊)だけが「年貢半減」布告をやっていたと思ってる人がいるようですが、実は新政府は「年貢半減」布告を他のルートでもやっているのです。実際の布告文書が残ってる所もあります。
 例えば、早くも、鳥羽伏見の戦いが完全には終結していない一月五日付けで丹波に年貢半減令が出されています。言うまでもないことですが相楽総三も赤報隊も関係無いですし、後に処刑された関係者もいません。
 この事実一つだけでも、相楽達が処刑されたのは「年貢半減」布告が理由ではないということが判りますよね。
 相楽率いる赤報隊一番隊(先鋒嚮導隊)は進軍途中から新政府の命令を何度も無視して勝手に行動するようになります。これは近現代の軍事組織としては致命的失態で、責任者はコレ一つだけでも死刑になっておかしくない重大な違反行為です(殺されず生きて逮捕され裁判にかけられたらの話ですが)。赤報隊一番隊は新政府の指揮系統から逸脱し勝手に行動し始めた時点で(年貢半減布告など関係無しに)「偽官軍」と言うしか無いのですね。おまけに「官軍」の名を使い民衆から勝手に金を徴収したり時には略奪行為までしています。
 仕上げは赤報隊一番隊捕縛命令を受けた小諸藩等(官軍)を相手に赤報隊一番隊が戦闘を行ったことです。つまり「友軍攻撃」をやってしまったわけです。これも責任者は死刑相当の重大な違反行為です。このとき相楽総三は隊を留守にしていたので同情すべき点もありますが、度重なる命令無視と友軍攻撃というそれぞれ単独で十分に死刑になりうる軍律違反を二重三重に犯し、おまけに民衆に対し勝手な徴収や暴行略奪までしているのですから、相楽総三ら幹部が死刑を免れ得るはずがありません。
 相楽総三の最期はジダバタする様子も無く全く潔いものだったと伝わっています。当然でしょうね。相楽自身は自分のしでかした事の意味と重大性を十分に理解し諦めていたのです。俗説で言われるように濡れ衣を着せられ「口封じ」で殺されるのだったら、そのようにはいかなかったはずです。

阿含宗 松平容保蝦夷地売却未遂事件と、「埋葬禁止令」のウソ

2019年09月25日 20時04分00秒 | 日記
 幕末維新史にある程度関心や知識の有る人にとっては常識なのだけど世間的にはあまり知られていない「松平容保蝦夷地売却未遂事件」について書こうと思って、ちょっとネットを検索したら、良いまとめを見つけたので、それをご紹介したいと思います。楽ちん楽ちん(笑)。

 紹介させて頂いといて何なんですが、「義と言われている会津藩 」ってありますけど、本当に「言われて」ますか? 一部の会津贔屓の人達が自分らで言ってるだけでは?(笑)。松平容保の主君である徳川宗家慶喜公は既に降参恭順しているのに、それを無視し勝手に徹底抗戦の姿勢を貫いて、いったい何の「義」なんでしょうか?私にはサッパリ判らないべさ。

 このまとめを読んでもらえばそれで良いのだけど、この中で紹介されている松平容保蝦夷地売却未遂事件に関する平成28年9月8日北海道新聞の報道は、同紙サイトの記事によると下記の通り。

「蝦夷地99年間貸与」 会津・庄内両藩、戊辰戦争で独に打診
09/18 07:00、09/21 17:15 更新
 戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は「戊辰戦争が長引いていれば実現していた可能性がある」とみる。
 これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったとみられていた。
 その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側ではゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。
 今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。
 とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。
 書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。
 それによると「シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれているという。
 幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点確保に向けた意図が読み取れる。
 当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の形成に向かう軍備拡張期だった。

 「99年間貸与」と言ったって相手との力関係次第では返してもらえる保障は無く、事実上の売却。もう、松平容保、「義」なんてとんでもない、「売国奴」と言われてもしょうがないですよね。 

 何か月か前の例祭ご法話で✩本を引用する形で取り上げられた会津戦争後の「埋葬禁止令」は虚偽ですからね。会津観光史学の人らによって事実として繰り返し語られたせいで俗説として広まったのだけど、元々の出発点は昭和30年代初頭に初めて世の中に登場した又聞きの又聞きの根拠不明な話に過ぎません。会津若松市も既に昭和41年に『会津若松市史』の中で"遺体埋葬禁止令の存在は疑問だが、仮に事実であったとしても、其れは官軍・会津軍双方の戦死者を対象としたもので、合理的理由が有る一時的なものだ”という見解を示しています。会津観光史学の人達が繰り返し強硬に言い張っていただけ。数年前に埋葬記録資料も確認され完全に虚構であることが確定してます。

阿含宗 明治初期に普通に病死しても「非業の死」。何でそんなに無理やり?(笑)

2019年09月23日 04時05分00秒 | 日記
 阿含ニュース特報によると"維新の十傑は全員「非業の死」を遂げた"のだそうです。医学が未発達でちょっとした病気でもバタバタ人が死んで男性の平均寿命がやっと43歳くらいの明治初期に普通に病死した小松帯刀や木戸孝允や岩倉具視たちも「非業の死」なんですって(笑)。
 ハッキリと明言はしないのだけど、無念の思いを残し亡くなった旧幕府方の武士達の強い霊障の影響で十傑全員が非業の死を迎えたという印象を見る人に与えたいらしいのですが(少なくとも私はそう受け取りました)、なんでそこまで無理やりこじつけないといけないのか、不良会員のワタクシには全然判りません(笑)。

阿含宗 願い事がかなって不幸になる場合もあります。神仏のお助けが必要。

2019年09月19日 00時24分00秒 | 日記
 願い事がかなってかえって不幸になるということがあります。第一希望の会社に就職したがそこがあっと言う間に倒産するとか。人生の難しい所ですね。どんなに頭の良い人がどれだけ智慧をめぐらしても、こういうことにはどうにもならないですね。 
 そういうことが無いよう、有っても立ち直りのきっかけを頂けるよう、神仏のご加護をお願いしたいものです。
 神仏のご加護を頂くには日頃からの“お付き合い”と積徳が必要ですね。