阿含宗不良会員の呟き

阿含宗不良会員の呟きです。 神仏と開祖を信じ修行してるつもり。
宗務局は知らんけど。不良会員なんで(笑)。

阿含宗 ウソ話「新政府は会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた」

2024年09月13日 20時22分26秒 | 日記
 「新政府は会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた」という話はウソです。

 阿含宗とはあまり関係無い話が続き恐縮ですが、ついでなので、会津若松での大柴燈護摩供の行満後に少しだけ触れた4つ目のウソについて改めて書こうと思います。

 「新政府は会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた」という話はウソです。
 
 1966年昭和41年に会津若松市が刊行した『会津若松市史』の中では、遺体埋葬禁止令の存在を疑問視しています。その上で、同市史第七巻『会津の幕末維新―京都守護職から会津戦争―』の69頁にある前田宣裕氏のコラム「埋葬」には次のように記されています。
一説によると「彼我ノ戦死者ニ対シテ何等ノ処置ヲモ為ス可カラズ」との官命が下っていた、という。事実とすればこれは敗者への差別ではなく、死者の身元を確認するまでの一時的な措置と思われる。
 遺体埋葬禁止令が存在したとする根拠として「明治戊辰戰役殉難之霊奉祀ノ由來」という文章が挙げられることがあります。これは会津兵遺体埋葬に尽力した町野主水という人物が後日談として石川寅次という人に語り、町野の没後に高野磐美という人が石川から聞き書きして出来たものです。『会津史談会誌第三三号』(昭和32年刊行)という書籍に掲載されており、前野氏の言う「一説」とは其の中の一文を指します。次のような文章です。
「時ニ官命ハ彼我ノ戰死者一切ニ對シテ決シテ何等ノ處置ヲモ為ス可カラズ 若シ之レヲ敢テ為ス者アレバ嚴罰スト云フニテアリキ」
 つまり、「彼我」即ち新政府軍・会津軍双方の戦死者全てに対して決して何もしてはならないという官命があった、と言ってるわけです。前野氏は「事実とすれば(中略)死者の身元を確認するまでの一時的な措置と思われる」と語っていますが、他にも、埋葬が可能になるまで遺体からの略奪行為を防止するという理由も考えられます。実際にそういう遺体が多くあったように、装備や衣服を剥ぎ取られたら、身元確認も困難になります。
 “遺体埋葬禁止令の存在は疑問だが、仮に事実だとしても、其れは新政府軍・会津軍双方の戦死者を対象としたもので、合理的理由が有る一時的なものだ”というのが会津若松市の公式見解と言っても良いのです。 
 もう、これで充分でしょう。
 実際には様々な事情で埋葬されないまま長期間放置される事になった気の毒な会津軍戦死者も多いのですが、新政府が会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた、という訳ではないのです。
 元々は昭和30年代初頭に世に出た又聞きの根拠薄弱な話に過ぎないのですが、会津観光史観というか、私に言わせれば「会津被害者史観」の人達が、“会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じられた”というふうに歪めて繰り返し強硬に言い張り世間に広まったというわけです。
 会津士魂会という所が1966年昭和41年に『戦死之墓所麁絵図(せんしのぼしょそえず。または、…あらえず)・改葬方』復刻版という書籍を出しています。これは改葬方という所が明治二年七月付で作成した原本を活字化した資料なのですが、原本には無い「まえがき」が添えられており其の中に次のように書かれています。「会津は朝敵なりしとて遺体の埋葬を禁止した。しかるに月日の経過と共に遺体は腐食して悪臭を放ち、野犬狐狸の餌となり、その惨状見るに忍びざるにいたった。」
 この資料は埋葬ではなく「改葬」の記録です。若松城降伏から間もない明治元年十年に埋葬した遺骸を、翌明治二年三月に阿弥陀寺というお寺に「改葬」した時の記録なのです。そもそもハッキリ「改葬方」と書いてあるのですからね。「改葬」されたということは、当たり前ですが、一旦、埋葬されたということです。
 其の事実を示す資料を活字化・復刻していながら「会津は朝敵なりしとて遺体の埋葬を禁止した」云々と平気で書く神経が、私には判りません。辻褄が合わないと判りながら「会津は被害者なのだ」と言い立てる為にワザとそう書いた、と言われても反論しようが無いでしょう。
 こういうのが「会津士魂」なのですか?
 2016年平成28年に会津軍戦死者の埋葬を記録した資料『戦死屍取始末金銭入用帳(せんしかばね とりしまつ きんせんにゅうようちょう)』が発見されています。この資料により、会津兵士の遺骸も若松城降伏から7日後の十月一日には埋葬令が出され(“埋葬令”が出されたのですよ)七日から十五日までの間に埋葬作業が行われたことが明かになりました。

 新政府は会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた、という話は完全に虚構であることが確定しています。
 ですが、未だにこのウソを言い張ってる人も居るのです。困ったモノです。

 『会津若松市史』はその後改訂が行われ、現在刊行されている『会津若松市史 7 会津の幕末維新 京都守護職から会津戦争 歴史篇7 近世-4』[令和三年四月三十日 五刷(一部改定)]には、野口信一氏による次のようなコラム「戦死者埋葬の新事実」が掲載されています。全文引用させて頂きます。

 歴史は史料の発見により書き換えられることが間々ある。本市史も会津藩蝦夷樺太警備や明治の鶴ヶ城破却など、前回の市史の記述が大きく改められた。そしてまた平成二十八年新たに歴史を書き換える史料が発見された。戊辰戦後の会津藩士遺骸の埋葬にかかる史料である。
 従来、藩士の遺骸は賊軍ゆえ手を触れることが禁じられ、半年も放置されたまま鳥獣の餌とされたと言われてきた。これが会津人が長州を許せない大きな要因であった。しかし遺骸は会津藩降伏のわずか十日後から埋葬されていたのである。その史料を「戦死屍取始末金銭入用帳」(若松城天守閣博物館蔵)と言う。
 史料の前半は埋葬に要した日々の金銭支払いの明細で、十月三日から十七日まで総額七十四両余、会津藩士が三組に分かれ、城下及び近郊に放置されたままの遺骸埋葬を指揮した。経費の多くは埋葬に要した人足代である。
 後半は遺骸の埋葬場所と人数、遺骸の発見場所と個々の服装、状態などが詳しく記される。その人数は五六七人で、近くの寺や墓地六四ヵ所に埋葬された。服装を詳しく記したのは、遺骸を捜索する遺族のための情報であろう。うち郭内で発見された一〇三名は、興徳寺境内七ヵ所に埋葬された。
 この史料の発見は全国に報道されたが、会津藩の戦死者三千名に対し、わずか五六七名であり、大多数は野晒しのままという声もあった。しかしこれは大きな間違いである。三千名というのは京都の戦いから、一年半後の函館戦争までの人数である。また十月の時点では、鶴ヶ城内での戦死者は空井戸や二ノ丸梨園に既に埋葬されており、この時は手をつけていない。この人数はあくまで城下、近郊に放置されたままの人数である。もちろん完璧ではないことも史料の末尾に記される。この遺骸の多くは翌明治二年三月、阿弥陀寺に改葬されるが、これをもって半年も放置されたと誤伝されてきたのである。


阿含宗 ウソ話「会津は再三恭順の意を示したが、新政府はハナから会津を赦す気は無く攻めた」

2024年09月12日 00時11分58秒 | 日記
 「会津は再三恭順の意を示したが、新政府はハナから会津を赦す気は無く攻めた」という話はウソです。

 幕末維新動乱犠牲者福島大柴燈護のご供養を重要なテーマとしていた先年の会津若松での護摩供が無事行満した後に書こうかと思いながら、護摩供とも阿含宗とも関係が薄いのと、正直言って面倒臭いのとで書かなかったことが幾つかあります。先日の「新政府が会津藩を斗南に転封し旧会津藩士に困窮生活を強いた」という話はウソという主旨の記事や「松平容保は謂れ無き朝敵の汚名を着せられた」という話はウソという旨の投稿もそうなのですが、其れらを書いたついでと言っては何ですが、別な話を書こうと思います。

 「会津は再三恭順の意を示したが、新政府はハナから会津を赦す気は無く攻めた」という話はウソです。

 そもそも会津藩松平容保は新政府に対し「恭順の意」など示していません。
 松平容保は新政府側に対し何度か嘆願書だとか上表文とか言われるものを提出しており、これらをもって“恭順の意の表明だ”とウソをついている人達が居るのですが、まあ、ウソです。
 恭順の意を表すと言うのであれば、当然“新政府軍に抵抗せず会津若松城は開城する”といった内容の意思表示と其の実行が必須です。ですが、容保は結局其の一番肝心なポイントからは意図的に逃げ回りダラダラと言い訳をしているだけなのです。恭順の意など示していません。
 容保の主君である徳川慶喜公は江戸城を部下達に任せ自らは寺に籠って恭順の姿勢を明確に示しました。もし松平容保に恭順の意思があったなら、必ずこの良いお手本を真似たはずです。しかし彼はそうしていません
 容保は徹底抗戦の姿勢を堅持したまま新政府軍との戦争の準備を着々と進めます。「武備恭順」という言葉を使って容保を擁護する人もいますが、武装解除せずに「恭順」など有り得ません。仮にですが、大東亜戦争終結時に日本政府は降伏を表明したにも関わらず、日本軍が「天皇陛下の安全と國體護持が保証されない限り武装は解除しない。武備恭順だ」と言って武装解除に応じなかったら、米国らは其れをどう受け取ったでしょうか?「結局、日本は最後まで徹底的にヤル気なんだな」と判断され戦闘継続でしょう。それと同じことです。「武備恭順」などただの言葉遊びでしかありません。「一匹狼の大群」みたいなモノです。
 東北戦争・会津戦争に至ったのは、会津藩松平容保が、徹頭徹尾、新政府軍に対し徹底抗戦の姿勢で臨んだ事が原因と言うしかありません。有り体に言えば、松平容保が東北に戦争を誘致したのです。

 一方で、新政府の方針は「恭順の実効が示されなければ討つ」、逆に言うと“恭順の実効を示せば赦す”と言う事で一貫していました。
 実際、徳川慶喜公側近として容保と共に「一会桑勢力」の一翼を担っていた、容保実弟の松平定敬(まつだいら さだあき。元京都所司代)が藩主だった桑名藩は、藩主定敬本人は函館戦争まで抵抗を続けたにも関わらず、藩は早々に恭順の姿勢を明確に示したので全然戦争にはならなかったのです。無血開城です。新政府には始めから会津を赦す気は全く無く攻めたという話が本当なら、何故、元京都所司代松平定敬の桑名藩は特別扱いされたのでしょうか?
 特別扱いでも何でもありません。恭順の実効を示し赦された。ただ其れだけです。 
 そして、会津はそうしなかったというだけなのです。

 東北方面担当の新政府軍、即ち奥羽鎮撫総督の下参謀だった世良修蔵が大山格之助へ出した手紙に「奥羽皆敵と見て云々」と書かれていた、という有名な話を思い出した人もいるかも知れません。仙台藩降伏間近という時に仙台藩関係者が、降伏交渉を依頼した肥後藩関係者に語った証言から、この世良の手紙は、仙台藩関係者が主張するように会津なのか或いは仙台藩自身なのかは不明ですが、何者かによる捏造であるという説があります。
 仮に世良の其の手紙が本物だったとしても、其の時点での世良修蔵個人の意見と新政府の基本姿勢は別のモノです。
 新政府の方針は前述した通り「恭順の実効が示されなければ討つ」、即ち“恭順の実効を示せば赦す”、です。そもそも、新政府には恭順の姿勢を明確にした相手に戦争を仕掛ける金銭的余裕など無いのです。

 匿名不良会員の私が言っても説得力が薄いので、桑名藩があった三重県出身の幕末維新政治史を専門とする水谷憲二氏著『「朝敵」から見た戊辰戦争 桑名藩・会津藩の選択』(洋泉社)より一文を引用するので読んでください。会津や東北で戦争になった理由・経緯が簡明に端的に説明されています。文中の「奥羽府」とは「奥羽鎮撫総督府」の略で「東北方面担当新政府軍本部」みたいなものです。それから、「閏四月(うるう しがつ)」いうのは旧暦で使われる閏月(うるうづき)で四月の翌月です。太文字強調は私によるものです。

 なお振り返ってみれば、奥羽府から仙台藩に対する四月二十五日の通達では、しだいに会津藩が「暴動」を引き起こしそうな状態ではあるが、謝罪をすれば寛大に処置する考えであることを明らかにしている。
 しかし、それに対する容保名義の返答書(閏四月十五日付)は、徳川家の存続が確定するまでは「謝罪」しない覚悟を表明する内容になっている。
 閏四月十二日に奥羽府に差し出された会津藩側の嘆願書でもわかるように、会津藩が本気で恭順を望んでいるようには思えない
 その一方で仙台藩ら東北諸藩は会津藩を説得して何とか平和的な解決に持ち込むことを画策して、また奥羽府においても会津藩の恭順の意志が本物であれば穏便に解決しようと考えていた。
 しかし、会津藩はまったく武装を解除する気配がなく、東北諸藩は討伐対象である会津藩と結びついて和平交渉を計画して奥羽府に激しく迫り、そして奥羽府は着々と会津藩を攻撃する態勢を整えて東北諸藩を討伐に駆り立てた。
 このような奥羽府と東北諸藩との間に不信が募り、やがてそれは互いの誤解となり、最後には引き返すことができない戦争に発展していった。

 「会津は被害者で“善”、薩長は加害者で“悪”」という自分らの会津観光史観、と言うか、私に言わせれば「会津被害者史観」を正当化する為に"会津や東北諸藩は恭順したにも関わらず、薩長新政府側は最初から彼らを赦す気はサラサラ無く徹底的に叩き潰すつもりだった"などというウソを言い募っている人達が相変わらず居るようですが、ウソは100回言ってもウソです。
 そういう人達のウソにコロッと騙されていたという人は、✩本とかではなく、幅広く深い客観的事実を元に合理的論理的見解を導き出すごく普通の歴史研究者の論文やそれに準ずるような書籍から歴史を勉強し直して頂きたいものです。



阿含宗 ウソ話 松平容保「謂れ無き朝敵の汚名」ちゃんと「謂れ」は有ります。

2024年09月06日 08時44分12秒 | 日記
 一部の人達が会津藩松平容保について語る時、必ずと言って良いほど出てくる「謂れ無き朝敵の汚名」という言葉。ウソと言うしかありません。「謂れ」はちゃんと有ります。
 
 幕末維新動乱犠牲者のご供養を重要なテーマの一つとしていた先年の会津若松での大柴燈護摩供が無事行満した後に書こうかと思いながら、護摩供とも阿含宗とも関係が薄いのと、正直言って面倒臭いのとで書かなかったことが幾つかあります。先日の「新政府が会津藩を斗南に転封し旧会津藩士に困窮生活を強いた」という話はウソという主旨の記事もそうなのですが、其れを書いたついでと言っては何ですが、別な話を書こうと思います。
 
 一部の人達が会津藩松平容保について語る時、必ずと言って良いほど出てくる「謂れ無き朝敵の汚名」という言葉。ウソと言うしかありません。「謂れ」はちゃんと有ります。

 慶應三年十二月九日の王政復古の大号令(最近は「王政復古のクーデター」という言い方もします)で京都守護職・京都所司代が廃止され、京都守護職だった松平容保らにはその後2回にわたり帰国命令が出されます。しかし容保はこれに従いませんでした。彼の主君である徳川慶喜公は、王政復古の大号令の3日前に其の情報を得ていましたが何も行動を起こしませんでした。黙認したわけです。そして側近であるはずの容保や桑名藩松平定敬(さだあき)にはこの事を伝えていません。其の後、慶喜公自身から容保らに朝命に従い帰国するよう促す行動をとっていますが、容保は動きませんでした。
 慶喜公は容保ら対薩摩強硬派が帝のお膝元の京都で新政府側と大きな衝突を起こす事を危惧し、彼らを連れて大坂城に移動します。
 慶喜公に同情的な福井藩松平春嶽たちの運動が奏功して、慶喜公を新政府の議定職に就けることが慶應三年十二月下旬に事実上決定し「軽装で(つまり、兵を引き連れず本人とお供だけで)上洛せよ」との勅命(天皇の命令)が下ります。慶喜公本人はそれに従うつもりでいました。
 しかし、対薩摩強硬派の容保らが“大兵を率いて上洛し薩摩を一掃すべし”と執拗に主張したせいで、慶喜公はついウッカリ「勝手にせよ」と言ってしまいます。
 結果、旧幕府軍は京都に向けて進軍し新政府軍との間で鳥羽伏見の戦いが勃発します。
 慶喜公が新政府に参加するせっかくのチャンスに松平容保らが口を挟み、結果、天皇の命令に逆らうという最悪の形でブチ壊しにしてしまったわけです。気の毒にも慶喜公は、大坂に引っ込んだのは詐謀に基づくものであると見做された事や帰国命令が出されていた会津らを先頭に立てて旧幕府軍を京都へ進軍させた事などを理由に朝敵認定されてしまいます。そして彼の第一の側近である松平容保も一緒に朝敵とされたのです。
 「鳥羽伏見の戦いで薩長新政府が勝利したので、負けた徳川慶喜や松平容保らが朝敵とされたのだ。勝てば官軍、負ければ賊軍ということだ」という人も多いでしょう。確かに其の通りです。もし鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が勝っていたら、朝廷は手の平を返して旧幕府軍を官軍認定し薩長討伐命令を出していたでしょう。朝廷とかお公家さんというのはそういうものです。
 ですが、容保の言動には鳥羽伏見の戦いの結果が出る前から既に問題があります。
 先ずは、2度に及ぶ朝廷からの帰国命令の無視です。「そんなモノは薩長らのクーデターの結果出た命令だから本物の勅命とは言えない。勅命を無視したことにはならない」と強弁することは可能かも知れません。しかし其の「クーデター」には福井藩松平春嶽ら旧幕府側と言ってよい人物達も関係しており、また容保の主君である慶喜公も其れを黙認し(そして容保らには其の事を伝えず)、帰国命令についても、積極的支持かは知りませんが、少なくとも追認し従う事を促しているのです。これで“勅命を無視したことにはならない”と言ったら、其れは無理があります。
 さらに、松平春嶽たちによって慶喜公に伝えられた“新政府の議定として迎えるから軽装で上洛せよ”という帝の意向に容保は明白に逆らっています。慶喜公が「辞官納地」を実行するまでは公の新政府参加は認められない(実行したなら認める)という薩摩の姿勢に抗いながら春嶽達が強い周旋活動によって引き出した慶喜公にとって有利なこの勅命まで「本当の勅命ではない」とは言えないでしょう。容保は慶喜公が其れに素直に従う事を認めず、大軍を京都へ送り込んでの討薩を主張し、元々は新政府と戦う気も帝に逆らう気も1ミリも無かった公に勅命に反する行為を強要し、結果、新政府軍との戦争という重大な事態を招いたのです。
 そして、容保は自ら引き起こした其の戦争に負け主君と己が朝敵とされる結果に陥ったわけです。
 会津に帰った後の容保は、新政府軍に対して降伏する姿勢を見せず、徹底抗戦の姿勢を貫いています。(「会津は再三恭順の意を示したが、新政府はハナから会津を赦す気は無く攻めた」という話はウソです。
 これで「謂れ無き朝敵の汚名」などとトボけられたのでは、困ります。

 もし慶喜公がそんな話を聞いたら「ざけんなよ!オレたちが朝敵認定されたのは、俺も悪いけど、相当に容保のせいじゃねえか!負けたら朝敵認定される事を覚悟でやってたんだろ?!いざそうなったら、謂れ無き云々って何だよっ?!」と激オコでしょうね。
 容保には阿含宗で言う所の「逆恩の因縁」があったのかもしれませんね。)

 「謂れ無き朝敵の汚名」などと言っている人達の殆ども前述した事実関係を知っているはずです。鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争に関してのごく基本的な事実ですから、知らないはずがありません。知っていながら、「会津は被害者で“善”、薩長は加害者で“悪”」という自分らの会津観光史観、というか、私に言わせれば「会津被害者史観」を正当化する為に「謂れ無き朝敵の汚名」とか言い張っているわけです。
 困ったモノです。
 
 松平容保が孝明天皇から宸翰(しんかん。天皇直筆のお手紙)を頂いていたことをもって「だから朝敵ではない」などと言う人も居るようです。  
 では、何らかの犯罪容疑を掛けられた人物が、むかし人命救助をして警察から貰った表彰状を取り出して「コレを見ろ!俺は警察から表彰されたんだ。だから俺は犯罪者じゃない!」と言ったら、世間様は其のリクツを認めてくれますか?「いや、ソレとコレとは関係無いでしょ」で終わりです。
 “宸翰を頂いていたのだから朝敵ではない”という不思議なリクツを振り回す人達のことが、私には全く理解できません。

 余談ですが、前述した通り王政復古の大号令の3日前に慶喜公はその情報を得てえながら何の行動も起こさず黙認しました。そして、側近であったはずの会津藩松平容保・桑名藩松平定敬には其の件を伝えていません。慶喜公の真意は何処にあったのでしょうか。薩長への強硬姿勢で凝り固まり主君である慶喜公の言う事さえ素直に聞かない会津・桑名は既に彼にとって“目の上のタンコブ”となっていて、王政復古の大号令を会津・桑名と距離を置く好機として利用しようと考えたのかもしれません。コレは私の想像です。