「新政府は会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた」という話はウソです。
私が勝手に名付けた「幕末維新会津に関わる四大ウソ」(他にもあるかな?今のところ四つ)のうちの「新政府が会津藩を斗南に転封し旧会津藩士に困窮生活を強いた」という話はウソや「松平容保は謂れ無き朝敵の汚名を着せられた」という話はウソや「会津は再三恭順の意を示したが、新政府はハナから会津を赦す気は無く攻めた」という話はウソは最近文章を書きました。
阿含宗とはあまり関係無い話が続き恐縮ですが、ついでなので、会津若松での大柴燈護摩供の行満後に少しだけ触れた4つ目のウソについて改めて書こうと思います。
「新政府は会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた」という話はウソです。
1966年昭和41年に会津若松市が刊行した『会津若松市史』の中では、遺体埋葬禁止令の存在を疑問視しています。その上で、同市史第七巻『会津の幕末維新―京都守護職から会津戦争―』の69頁にある前田宣裕氏のコラム「埋葬」には次のように記されています。
一説によると「彼我ノ戦死者ニ対シテ何等ノ処置ヲモ為ス可カラズ」との官命が下っていた、という。事実とすればこれは敗者への差別ではなく、死者の身元を確認するまでの一時的な措置と思われる。
遺体埋葬禁止令が存在したとする根拠として「明治戊辰戰役殉難之霊奉祀ノ由來」という文章が挙げられることがあります。これは会津兵遺体埋葬に尽力した町野主水という人物が後日談として石川寅次という人に語り、町野の没後に高野磐美という人が石川から聞き書きして出来たものです。『会津史談会誌第三三号』(昭和32年刊行)という書籍に掲載されており、前野氏の言う「一説」とは其の中の一文を指します。次のような文章です。
「時ニ官命ハ彼我ノ戰死者一切ニ對シテ決シテ何等ノ處置ヲモ為ス可カラズ 若シ之レヲ敢テ為ス者アレバ嚴罰スト云フニテアリキ」
つまり、「彼我」即ち新政府軍・会津軍双方の戦死者全てに対して決して何もしてはならないという官命があった、と言ってるわけです。前野氏は「事実とすれば(中略)死者の身元を確認するまでの一時的な措置と思われる」と語っていますが、他にも、埋葬が可能になるまで遺体からの略奪行為を防止するという理由も考えられます。実際にそういう遺体が多くあったように、装備や衣服を剥ぎ取られたら、身元確認も困難になります。
“遺体埋葬禁止令の存在は疑問だが、仮に事実だとしても、其れは新政府軍・会津軍双方の戦死者を対象としたもので、合理的理由が有る一時的なものだ”というのが会津若松市の公式見解と言っても良いのです。
もう、これで充分でしょう。
実際には様々な事情で埋葬されないまま長期間放置される事になった気の毒な会津軍戦死者も多いのですが、新政府が会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた、という訳ではないのです。
元々は昭和30年代初頭に世に出た又聞きの根拠薄弱な話に過ぎないのですが、会津観光史観というか、私に言わせれば「会津被害者史観」の人達が、“会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じられた”というふうに歪めて繰り返し強硬に言い張り世間に広まったというわけです。
会津士魂会という所が1966年昭和41年に『戦死之墓所麁絵図(せんしのぼしょそえず。または、…あらえず)・改葬方』復刻版という書籍を出しています。これは改葬方という所が明治二年七月付で作成した原本を活字化した資料なのですが、原本には無い「まえがき」が添えられており其の中に次のように書かれています。「会津は朝敵なりしとて遺体の埋葬を禁止した。しかるに月日の経過と共に遺体は腐食して悪臭を放ち、野犬狐狸の餌となり、その惨状見るに忍びざるにいたった。」
この資料は埋葬ではなく「改葬」の記録です。若松城降伏から間もない明治元年十年に埋葬した遺骸を、翌明治二年三月に阿弥陀寺というお寺に「改葬」した時の記録なのです。そもそもハッキリ「改葬方」と書いてあるのですからね。「改葬」されたということは、当たり前ですが、一旦、埋葬されたということです。
其の事実を示す資料を活字化・復刻していながら「会津は朝敵なりしとて遺体の埋葬を禁止した」云々と平気で書く神経が、私には判りません。辻褄が合わないと判りながら「会津は被害者なのだ」と言い立てる為にワザとそう書いた、と言われても反論しようが無いでしょう。
こういうのが「会津士魂」なのですか?
2016年平成28年に会津軍戦死者の埋葬を記録した資料『戦死屍取始末金銭入用帳(せんしかばね とりしまつ きんせんにゅうようちょう)』が発見されています。この資料により、会津兵士の遺骸も若松城降伏から7日後の十月一日には埋葬令が出され(“埋葬令”が出されたのですよ)七日から十五日までの間に埋葬作業が行われたことが明かになりました。
新政府は会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた、という話は完全に虚構であることが確定しています。
ですが、未だにこのウソを言い張ってる人も居るのです。困ったモノです。
『会津若松市史』はその後改訂が行われ、現在刊行されている『会津若松市史 7 会津の幕末維新 京都守護職から会津戦争 歴史篇7 近世-4』[令和三年四月三十日 五刷(一部改定)]には、野口信一氏による次のようなコラム「戦死者埋葬の新事実」が掲載されています。全文引用させて頂きます。
歴史は史料の発見により書き換えられることが間々ある。本市史も会津藩蝦夷樺太警備や明治の鶴ヶ城破却など、前回の市史の記述が大きく改められた。そしてまた平成二十八年新たに歴史を書き換える史料が発見された。戊辰戦後の会津藩士遺骸の埋葬にかかる史料である。従来、藩士の遺骸は賊軍ゆえ手を触れることが禁じられ、半年も放置されたまま鳥獣の餌とされたと言われてきた。これが会津人が長州を許せない大きな要因であった。しかし遺骸は会津藩降伏のわずか十日後から埋葬されていたのである。その史料を「戦死屍取始末金銭入用帳」(若松城天守閣博物館蔵)と言う。史料の前半は埋葬に要した日々の金銭支払いの明細で、十月三日から十七日まで総額七十四両余、会津藩士が三組に分かれ、城下及び近郊に放置されたままの遺骸埋葬を指揮した。経費の多くは埋葬に要した人足代である。後半は遺骸の埋葬場所と人数、遺骸の発見場所と個々の服装、状態などが詳しく記される。その人数は五六七人で、近くの寺や墓地六四ヵ所に埋葬された。服装を詳しく記したのは、遺骸を捜索する遺族のための情報であろう。うち郭内で発見された一〇三名は、興徳寺境内七ヵ所に埋葬された。この史料の発見は全国に報道されたが、会津藩の戦死者三千名に対し、わずか五六七名であり、大多数は野晒しのままという声もあった。しかしこれは大きな間違いである。三千名というのは京都の戦いから、一年半後の函館戦争までの人数である。また十月の時点では、鶴ヶ城内での戦死者は空井戸や二ノ丸梨園に既に埋葬されており、この時は手をつけていない。この人数はあくまで城下、近郊に放置されたままの人数である。もちろん完璧ではないことも史料の末尾に記される。この遺骸の多くは翌明治二年三月、阿弥陀寺に改葬されるが、これをもって半年も放置されたと誤伝されてきたのである。