障害者であるか否かの定義は、「ハンデの有無」でした。
*要介護のこととは、ここでは切り離しておきます。
だから本当は、今や私は、れっきとした(?) 社会的障害者なのですね。
「ハンデ」はちゃんと、本人にはまったく由来ないも、含まれていますので。
1979年以降くらいから、第三者に判定難しくすることになる新しいケースが続出していたと思われますが、
数年ほど前までは、当初の概念を運用できていたところも少なくなかったのではないかと推測します。
でも、この段にきて、状況ひるがえしてくるのではないかと懸念しています。
(隠れ犯の目的が見えてきてのいやな内的懸念は100%以上をつけて当たってしまいます。)
母の場合も微妙、判定のしかたに横槍をいれられた格好です。
(その数値的な改竄寄せもあったでしょうけど。)
憲法判断ができない人がはびこる世にされたのは
隠れ犯側からの差し向けで、まちがいありませんでした。
そっちはそっちで、社会影響の大きい一種の知的障害者たちですが、
大半を占め、
優遇されても困るし、罰則は曖昧です。
これが・・
どちらを眺めてきても、隠れ犯側からは事実上、逆勢にしてあるわけです。
ようは、
本質的に社会のためにしていると
バッシングや財産・人権信頼奪いなどはじめ様々な形で、条件悪化にもちこまれ、
ぎゃくに隠れ犯側の悪い目的の計画の過程にはまっていれば、
勢力的お得感がつく
というもの
おそらくはそんなことが繰り返されてきて、
年代に関わらず、その「こうしてればいい」を、一義的・正義的にしてしまって何とも思っていない人がすっかり多くなっています。
本当は根拠がないのに、そのときうまくいったから「とにかく正しいこと」にしてしまっても無感覚でおれる人々は増える一方。
現在 まちがっていてもいつのまにか一般常識にされてきてしまった人々ばかりで、その無意識事には、犯罪勢力が今や実行されてきています。
かたや
短期的な必要では、
どうしても誰にでも、(何事も極力正しく慎重にの)私でも、
そのような選択肢が出てくるのは、
隠れ犯の存在があるからこそ。
私が実地である程度の縁をもって、既に何年か障害者とされる方に出会ったのは、
過去の始まりからは、けして多くはありません。
そのおよそ初めてにあたる方のお1人は、大学の同学年、筋ジスでした。
しっかり教育者への道を学ばれていました。
人間的にとてもできたかたでもありました。
くやしいのは・・ 卒業を前にして逝ってしまわれました。
次には、以前の記事で少しふれたかたで、幼少期に2本の指を無くされながら、ピアノが好きで音大に行った経歴。
この方の活動(to カーネギー)を支援する含みで、全国から障害があるとされる方々が
熱心に取り組んできたピアノ演奏を拝見、拝聴する機会がありました。
(その日の帰りの新幹線でも特別な出会いがありましたが、ここでは一応スルー。)
お察しのとおり(?)演奏等々には聴きごたえや、すべて一期一会ながら一層、もうそこでしか聴けない演奏のこと等々、言えることはたくさんありますが、これもちょっと置いときまして、
ここでは、
障害者となっている方々が、何から何まで千差万別だということ
を申し上げます。
同じような病でも、大学でお会いしたかたに似ている人格の人は誰一人いません。
近年のテレビでのとりあげられかた(プラス的な解釈を排除し見方を矯悪する繰り返し意図がある類のもの)とはもちろんのこと、かなりの開きがあります。
音楽系だけのことだからではないかと思うかたももしかしたらおられるかしれませんが、それも違います。
まあ何事も、見聞し学ぶ機会ごとだけはどうも許されてきておる私、
社会への逆遺書ごとばかり
以前にもそんな流れの1つを書き出してまだアップできずにおります。
ここでは、理由がわかるすべてを上げるのをとばしますが;
人間には区別すべきような境界線、枠どころか、
どこでも、どなたも、
基本をたどればたどるほど、個々人 は 同じ。
全体的には、その確たる存在により、人間の退化を余儀なくされてきて、末期かけこみにされている今に至るまでに、
そんな目的により、違いを作られた(攻撃を受けた)、
しかも、見かけとの両面から ということが、
あらゆる直の経験種類の照らし合わせでわかります。
本質の見えぬ化、排除目的となる、いかん境界(インボイス制等)をあれやこれや作らず、
(予告されているような、放流に始まる)原子核分解で細胞壁を壊すことは
やめさせてください。
生命を、最悪に潰さないで という、単純なこと なのにね。
顔や声や身長やホニャララ
私ももっと背が高くて美人だったら とか
お金持ちの家に生まれたら とか
でも自分は自分にしかない良いトコが沢山あるんだよね
隣の芝生は青い
どうしてもそう見えちゃうんだよね
人間ってなー
あっ、人間だからかも(+_+)
だから、理想に届かないとかコンプレックスとは、違う話なので、話題を別にするべきところがあるんだけど、そういう広義のハンデでいうと、やはりあちら側の作用が強く出ていると、これも確信しています。
まずは、私の家族関係の例や人や自分の身体(逆整形)に起こった多くのことから。たとえばピアノで指の長さ、手足の長さが急に全然違ってカッテが違うんです、むかしと。ピアノや音も変わるしさー、再生音妨害だけは申してきていますが。
あと、申し訳ないけどお世辞にも有利な見映えでない他人家族が実に満足げな顔をしているのを見て。
親や周囲のスタンダードだったり、人生想定に合わないから、コンプレックスを感じやすくなってしまう。[レッテル]に見映え重視の社会というのも手伝うし。
急激・極端ごとには、あちら側作用がたしかに存在。
いろんな見方もできると思う・・・
この私、やけに美人さんとかハンサム(古い?w)にチョチョっと会わされることに・・・きほん喜んでいるんですが、あ・・ヒキタテというより、自分の見られ方が・・ってわけねと、ウスウスは気付いていたり。
いっときまで人の見かけとコンフォートが比例しているかに思っていたら、こんな時代になっての物凄い裏切りをみてみそ、ただのギャップ嫌悪感じゃ済まないよぉ。
(またもやコメントの長さじゃなくて・・でもぜひご覧いただきたいな)