報告ときどきピアノ

客観的事実継承した極小証言者となりました/永い目のリアルタイムでご覧を

そういえば矢のこと(1 (追記:3/4 10:38)

2025-03-03 23:46:52 | 日記

覚書 の記事にしようと思います

  何ていうのかわかりませんが、激しく傷つく以外せいぜい役立たずにしかならなくなった 私への頼みごと関係についての 経歴 を 記事に羅列してみます。

部分的にはまあまあこのブログで触れていますので、それを思い起こしていただけたらと思いますが、もう変わっているかもしれませんしブログ内をお探しにはならなくてよいかと思います。私自身変わってしまったものを見つけるような事が心理負担から大きくイヤなので、自分の過去の記事はほとんどチェックすることがありません。

また、自分がスマホ生活をしていないのでウッカリご注意に上げていなかったのですが、私の記事は、基本、オンリー・ワン、現物にも記録にも何とも一致しなくなっている 重要な改ざん被害事なので、ほかを調べてみるといったことは、けしてなさらないようにしてください。異なる情報が混じれば、何にもならない、デリケートなことなのです。

さて、文字に起こすだけではなかなか意味も伝わらないと思いますし、だいたい 私自身ですら受け止めように困ったことでもありますので、何のことかわからなくてもOK。それはこういうことではないか?と、鋭くお知恵拝借できればより幸いですが。

基本、(過去の)国からのことらしいものの、明瞭にそう聞けたのは高松塚古墳の壁画のときくらいかも。なので、あきらかに犯罪者側がらみではなさそうの範囲の列挙 ということで。

ご覧の皆様で、類似情報ございましたら是非おきかせを ムリかな


・幼稚園の卒園間近な頃、中の広場で園児が間隔をおいて2、3指示を受けながら並ばされ、体操みたいな一連の何かを覚えたことをやるときに、「○○からの人が見てチェックをしています」というようなことを言っていた。なんか最終選考チックな事があった。

・小1だったか、粘土で動物を作るとき、やたらめったら人が張り付きで見てたチェックしてた。(何かって? ぞう。 私にか指定された動物だったことを思うと、まだ現物見ぬものを特徴きいて 三次元再生させてたんですね、そういう見方だったからか、できたものに興奮気味にほめられた覚えが。

・小学校低学年のとき、クラスの1人が墨汁のボトルを持ってきているのを見た先生が血相を変えて「これはどこから持ってきたの⁉!」とつめより、「売ってたのを買ってもらった」と答える児童。先生が教室を飛び出し、すぐにほかの先生と戻ってきて、皆に向けて、「今までにこんなもの(墨汁液)は存在しませんでした!いいですか、これは大変なこと(恐らく教科書の黒塗りの唐突出回りのこと)とかかわるんで覚えておいて」「今、ここ(教壇ではない)で言ってるときのみんなのことを、見て確認しています。・・・⋯」先生のうしろに立っていた人がたしかに教室を見わたしていて、離れた場所では珍しく注視していた私に視線がつく。

ちなみに後に、墨は原料の木炭から作る複雑な工程が たしか8はあって、硬い墨ができるまでに非常に期間や手間を要する貴重な品であると習う。また、硯(すずり)ですって、真っ黒になるまでは、誰がやってもわずかな量でかなりの時間がかかることもそれまでに(台湾で)体得させられている。私が親から買ってもらった墨のてっぺんには、金色の丸印が4つくらいある一生もんのかなり良い物っぽかった。

・父が、台湾の南側カコウ区(加興?)でドッグ(造船所)造りに行くことになり、母から「外国だけど一緒に行きたい?」と聞かれ「お友達と別れたくないから行きたくないかな」ぬわーんて言ったのに、「お父さんが一緒に来てくれって言ったから」とかなんとかで、母妹2人と後で追うことに。(これは今にすればもしかしたらで書きましたが、今まで一応マに受けてた。)結果、3年間ほぼテレビを見ない生活に。最初はテレビがあったのですが、言葉がわからないと家族はすぐ見るのを止めました。私が見た回数も3回以内、あれ?がありましたがここでは省略。

・そういえばで、台湾滞在時の私は見聞的な旅が少なくないような気がせんでもなく。それも、特に何か頼まれたわけでもありませんがじゃなかった…親から書いといてと一言あったのですけど、すでに日記は(4年生前後)学校の宿題であったから特別感もなくそれこそ日記記事にしています。(何年かあとに自分で読み返してなんやたいしたもんだねって自画自賛したら母がそうよだって・・その後の成長のなさ?🤣しかし母のイメージには私とは違うものも含まれていた陰鬱さが💧)そのような記録物も、2014年に2家屋内全財産やられる格好の事件までで総ざらいに失っています。仮に出てきても改ざんつきまくっているのはなくなる直前でわかっています。

そんな旅の中で、これは というのが、台湾にある北回帰線を示す低い塔(モニュメント)のときです。やはり公式に来ている名乗りの誰かが親と口裏を合わせ済みの形で私指名的にそこに来たことを告げられます。

北回帰線とは、赤道が北半球の一番北になる線を言い、石のモニュメントはその線上に立っているのです。だから、夏至なときだと太陽に向かって頭突きに(垂直になって)立つので、「影がまったく無いんだよ」と。

二度目に学校行事で行ったとき⋯なにかと違っていて「あれ⋯💧」と言ってました。先生か誰かに「前と比べてどう?」と尋ねられてもわかってくれそうになくそんなにちゃんとは答えれなかったかもしれない私で

でも、今からすれば、私の困惑な様子を不甲斐ないと思われたのではなく、私から聞いた先生方がすでに2回の訪れの間に 異変が出ていたことがわかったので深刻な形相になられたほうだったのかと、合点がいくようなことです。さらに思い出していくと「役に立った、ありがとう」とさえないお顔で礼を言われて半分ホッとしたやら何が役に立ったのかわからずスッキリしないやらでした。
もはや、太陽系からしてすべてが変わっている現在、どれをとっても指標になりませんので、こんなことがあったって、エピソードです。

あのときは、特に一度目は 世界は広いんだって、思えましたよ。なつかしー

・そして、日本地図を記憶でかく確認ですね。

・そして、途中母実家帰国で福岡空港から飛び立ったときかな、上空で九州まるごと、それはきれいに確認。「この機内に(特別~な)方がいらっしゃいます。その方のために当機は通常とは高度を変えて飛行します」てなことがしっかり耳に入れば、誰だろ?なんて思ってた私が、次第に、この場所、この飛び方はまさか・・自分? と思えてきたけど、まったく口にはせず、それよりも当時は!!みごとにキレイに地図通りの九州の姿に、えもいわれぬ感動を覚え、1人目が輝く思いでした。その感動を頂点に…。

・1977年、帰国でまた同じ小学校。幼なじみの同級生の女の子の家が大変な目にあっていたらしいことがわかり、最後に私に「〇〇ちゃんに大事なことを言っとく・・」から、音声がまったく途絶えていたのに、お別れの言葉とともにいそいそと帰ってしまわれそれきりに。最後に会った翌日からその家屋は瞬時に土台だけに。

教室で学ぶとき、私に聞かせているくらいな向きや視線があるなと思ったものだし、悪側からの成代り人物(かつての国側の立場に混じったのか教員なりすましかとにかく激しく押しの強い若い女性1~3人態勢)にひどい目にあったりします。親や妹もそうだったようですが、自分も人とは違う苦労の連続なのに、家族全員の不満まで私に向かってくるような構図、昔からではありました。白羽の矢なんて聞こえよくても、同時に、黒羽の矢でかためられるような出来事に、最初からずっと苦しむわけです。

懲りずにいつまでも希望を持っていたノンビリ私が、今世紀に入って次第に希望の希すらだめにされたってことへ。どんなに自分のせいじゃなくても、極力自分で背負う覚悟ではいましたが、もうそれこそ限界の奈落の底更新は止まりませんでした。(愚痴になっちゃった)

 

まだ、、 続きますので、記事を次に分けようと思います。

お読みくださり、たいへんありがとうございます。 2025.3.3 11:27

 

これもやはり気持悪い改ざんで、誤字や悪表現の文章になっていました。悪路を進むかの文をお読みの際は申しわけありません。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 法の省エネ | トップ |   

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事