阿蘇北外輪山・ようち坂
(西湯浦集落から辿る「草の道」)
令和3年2月9日 快晴
(行程) 登山口(旧テレワ-クセンタ-発11:00)→三叉路(着11:45)→森林限界(着12:20)
→展望岩(着12:30~昼食~発12:50)→外輪山縁(着13:18)→ミルクロ-ド(着13:30~発13:40)
→外輪山縁(着13:50)→ロータリ-アクトの森・看板(着14:30)→麓の民家(着15:00)
→村人との立ち話(着15:18~発15:30)→登山口(着15:40)
*大まかな実歩行時間 (往路2時間・復路1時間40分)
前回歩いた九州自然歩道は、西小園集落から登る「草の道」
で あつたであろうと、想定(確信に近い)した。
其処で「坂の名前」を知ろうとネットで調べている中、
今度は湯浦集落から登る「夜討ち坂」という名前の草の道があることを
「九州地方環境事務所」のサイトでヒットした。
早速、相棒の石ちゃんを誘って風も無い好天気を狙って本日決行。
(参考資料) 「九州地方環境事務所」のサイトから抜粋 ↓
(略)・・・阿蘇の谷内と北外輪山の草原をつなぐ
「草道(くさみち)」を歩きます。
昔、道路や車などが整備されていない頃、
草原から里へ草を運ぶために人力で道が造られ、
通称「草道」と呼ばれています。
今はほとんど使われることはありませんが、・・・(略)
↑【登山口に繋がる車道から仰ぐ】
「阿蘇ゆたっと村」手前の集落から、今日
どの頂に登り上げるのか 分からないままに山稜を撮影
↑【登山口】
旧テレワ-クセンタ-・下側の駐車場に駐車。
取付き口はセンタ-の東か西か迷ったが西側から出発。
↑【下山後、今日のル-トを確認(イメージ)】
↑【登り始めの登路】
踏み跡も安定しており道幅も「草の道」に相応しい雰囲気があり、
「夜討ち坂」ル-トに乗って歩いていたかと思っていたが
目印の赤テープは多方向に点々とし、踏み跡も分散して行く。
赤テ-プはどうやら作業用テープのようである・・・
段々と道は細り「草の道」で無い事に気づく、その後は
尾根筋を選んで北上して行く。
↑【出発から40分の登路】
ここまで幾つかの登路選定に、迷う場面にぶち当たったが、
常に尾根上を歩くこととした。
ここで小尾根は止まり、緩やかに鞍部に下る。
↑【突然と「夜討ち坂」に出合う】
(前画面の)尾根から鞍部に下り檜林の斜面を登り返すと、
突然と幅のある道が現れる。
明らかに「草の道」と分かる道である。
初めて出合った「夜討ち坂」・・・
疑心暗鬼に辿った今までの登路から解放され
喜びひとしおの安堵感を覚えた。
そこから数歩歩くとY字型の分岐となる。
(裾野に下る2本とこれから北上して行く登路との三叉路)
↑【交差点からつづら折り気味に登って行く】
↑【草の道に付き物の「石垣造り」を確認】
↑【登路を振り返る】
まさに牛馬が通った、いにしえの情景が偲ばれる・・・
↑【落石が杉の大木をなぎ倒して登路を塞ぐ】
熊本地震(2016年・平成28))によるものと考えられる。
↑【巨岩の岩屋】
登路の崖側に座る巨岩で落石? した二つの岩が
持ち合うような岩組
↑【登路は藪に覆われ通行不可】
↑【藪道を回避して杉林の急崖を直登】
↑【再び草の道に戻る】
回避した場所を上から眺めると
ヘアピンカ-プの草の道が窺えた。
↑【ここから森林限界を超える】
急勾配のカルデラ壁を辿る草の道となるが
見えるのはススキの藪・・・
草の道はどのように付けられているのだろうか ?
踏み跡は薄い・・・
↑【彼方此方(あちこち)と道を探すが】
草の道は、東方向に延び西に折り返す道であるという
イメージは持っていたが
東への道は酷い藪、仕方なく直登を試みるが
此れも崩壊地に突き当り見通しが立たない始末。
元の場所に引き返し、更に東方向にヤブゴキの連続・・・
↑【巨岩の岩頭で中食】
かっての村人もここで食をした事であろう・・・
↑【東方向に延びる水道管を発見】
森林限界付近から草の道らしき登路は踏まず、
藪の合い間に散見する岩を越えたりして行く中に
錆化した水道管が崖際に敷設あり・・・
↑【水道管はここで西方向に曲がる】
水道管の曲がり角の奥は谷になり行止り、
管は道際の道しるべらしくも思え、草の道の存在を確認。
(画面下側に、微かに見える石畳の上に管が視える)
↑【石垣づくりをまたまた発見】
菅の曲がり角から西方向に足を進め
(もちろん藪・落石・崩壊地と闘いながら)
崩壊した草の道を辿る。
↑【外輪山縁(カルデラ壁淵)に到着】
↑【登路を振り返る】
凄い冒険の草の道を歩いたなぁ~・・・
↑【外輪山縁からミルクロ-ド側に進む】
地割れしている地面(熊本地震であろう ?)
↑【牧野の登路】
↑【ミルクロ-ド沿いに至る】
↑【夜討ち坂・ミルクロ-ド側入り口】
↑【ミルクロ-ド】
パトカ-の模型が見える
↑【広大な牧野が広がる】
かっての村人達はこの原野で草を刈り
牛馬の背に乗せ「夜討ち坂」を下ったであろう・・
ここから復路
↑【夜討ち坂へ下る】
阿蘇北外輪山・草の道「夜討ち坂」を辿る。
以下、下山路始末記
復路は出来る限り草の道を忠実に辿って帰る気持ちでいたが、
先行をリードする相棒の石ちゃんは
草の道上端の東に延びる中間ぐらいの位置から
ススキの根っ子に掴まりながら滑るようにして
直滑降し始めた。(石ちゃんのいつものお得意パタ-ン)
結果的に、往路とは全く別の道を探りながらの最短距離
で麓に着く。
着地は出発した所の隣の集落であった。(笑)
↑【麓近くの登路で出合った標識】
【出発地と離れた隣の集落へ下山】
ここから西に歩くこと約30分で駐車場着
↑【道を尋ねた集落の人: 顔掲載了解済】
(草の道に関するお話を笑顔で説明された)
・熊本地震前までは夜討ち坂を区役で手入れしていた・・
・自分も夜討ち坂を登って「一駄六輪」の草刈をしていた
・西湯浦に「岳ん戸坂」・東湯浦に「○○坂」が在る。
登山を終えて
初めての「夜討ち坂」散策であったが、登山道は熊本地震で相当崩壊した
らしくその後の登山者も稀のようで藪化が深く進行していた。
森林限界を越えた地点からの藪漕ぎは、悪戦苦闘の連続であった。
「夜討ち坂」最上端の登路では、
いつ落石してもおかしくないような溶岩の塊が登路沿いの崖上に露出し、
命の危険を感じる場面にも遭遇した。
従って危険承知者以外の登山者には、お勧めするコ-スではありません。
ところで「風さん」から頂いた宿題(坂の名前の由来)は
ネットサーフィンでヒットしたサイト
(乙女の靴音>自然歩道を歩こう ~ようち坂~)によれば
「・・・阿蘇家と菊池家が端辺にて領土を分割することになり
阿蘇大明神は牛で外輪山を越える為に、この坂を夜明け前に出発した
(夜のうちに登ったのか、夜打ちを掛けたという意味なのか定かではない)
資料より抜粋・・・」
との記述がありました。
注) 端辺とはツームシ山付近の「端辺原野」と思われる(元の私見です)
(2021.02.17 加筆)
夜討ち坂、同じやうな名前の坂は他にもあるやうですが、由来はなんなんでせうね、興味をそそります、「記事後日」のなかで、分かつたら書いてください。
阿蘇は昔から外輪に登る今では朽ち果てた坂がたくさんあります、遠くの山にでかけなくても、近場でいろいろ楽しめていいですね。
夜討ち坂・・・特異な名前ですネ。
漢字表記としては他に「夜打ち」・「夜内と」いう説もあるとの事でした。
他のネット情報(ブログ: 自然人の独り言)では「名前の謂れは、阿蘇家と菊池家まで遡るらしいです」という文言も散見しました。
ところで風さんの「燻製」見事な出来映えですネ・・・
阿蘇の原野の踏査と詳しい説明、お疲れ様です。大変参考になりました。定年退職し、今年で4年目で休日を利用して山歩きを再開しているところです。ありがとうございます。
「遊山徒然日記」拝見しております。
三池山にもよく登っておられますようですネ・・・
母校(小学校)、卒業遠足の定番の山が「三池さん」でした。
私が山好きになった原点の山のように思えます・・・
今後ともよろしくお願い申し上げます。(私こと・元)
乙女の靴音:自然歩道を歩こう ~ようち坂~
返答が大変遅くなって申し訳ありません
当時の資料があるか探しておりますが
今のところ見当たりません、、、
他に、心当たりがありますので検索中です
判明に至るかどうか定かではありませんが、
今少しお待ちくださいませ。