アメリカ、西部開拓時代の無法者、ビリー・ザ・キッドの写真がフリーマーケットで発見される? 我々日本人でも「ビリー・ザ・キッド」の名を知っている人は多いだろう。
12歳の時に、母親を侮辱した男を殺してからは無法者となり、次々と強盗、殺人を重ねてきた犯罪者だが、映画や小説などでは弱きを助け、強きをくじく「義賊」として描かれたことで人気も高い。日本でいうところのネズミ小僧次郎吉的扱いなのだろう。
そんな彼が、最終的に彼を殺すこになった、かつての友人であり保安官だったパット・ギャレットと一緒に写っている写真が発見されたそうだ。
なんとその写真、フリーマーケットで10ドル(約1120円)で売られていたという。
【お宝写真はフリーマーケットで10ドルで販売されていた】
発見された鉄板写真は1880年8月に撮影されたもので、ビリー・ザ・キッド(本名ヘンリー・マッカーティ)と保安官のパット・ギャレット(パトリック・フロイド・ギャレット)他、数人の男性たちが一緒に写っている。
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写真は、保安官殺害容疑でビリーが逮捕された後で撮られたものと考えられている。ビリー・ザ・キッドが写っていると言われる写真は過去にたった3枚しか発見されておらず、もし写真に写っているのが本当にビリーのものならば4枚目となり、数百万ドル(数億円)もの価値のあるお宝写真と考えられている。
この写真は、2011年に、ノースカロライナ州アッシュヴィルのフリーマーケットで、同州の弁護士フランク・エイブラムズが当時10ドル(約1120円)で購入したものだ。
【果たして本当にビリーなのか?本格的な調査が開始される】
2015年、エイブラムズは、ビリー・ザ・キッドがクロケットをやっている写真が発見されたというテレビ番組を見た。番組によるとその写真は2ドルで購入されたものだが5百万ドル(5.6億円)の価値があるという。
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'Billy the Kid' photo could fetch millions
そこで自身が10ドルで購入した鉄板写真をよく見たところ、保安官のギャレットらしき人物に気が付いた。さらにビリー・ザ・キッドらしき人物の姿も見える。
そこでエイブラムズは本格的な調査を開始した。
ビリー・ザ・キッド博物館のオーナー、ティム・スウィートによると、問題の写真にギャレットとビリーが一緒に写っているのはほぼ間違いないと言っている。
なぜ、ビリーと彼を亡き者にした人物が一緒に写真におさまったのか?その理由について、葉巻を手にしていることから、ビリー逮捕を祝して撮影したのではないかと指摘する。
更に写真の信憑性を証明しようと、エイブラムスはビリー・ザ・キッドに精通しているアリゾナ州立大学の元名誉教授ロバート・シュタールに接触した。
2015年、シュタールは州検死官ウィリアム・ボニーが書いたビリーの死亡証明書を求める嘆願書をニューメキシコ州最高裁判所に提出していた。
シュタールは、写真の男がギャレットである可能性はかなり高いが、ビリーのほうは確証はもてないと言っている。
その他エイブラムスは、法医学の専門家のさまざまな意見を聞くのに数ヶ月を費やした。ロサンゼルスの法医学専門家は、顔認識ソフトではギャレットとビリーであることはほぼ間違いないという。
テキサス州の筆跡専門家は、ギャレットの手書きとされているほかの10の書類の筆跡と、写真のギャレットのサインを比較してみて、一致すると断言した。
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ビリー・ザ・キッド
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パット・ギャレット
「いつか、最終的にはどこかのオークションに出品されることになったら、写真の価値はそのときにわかるだろう」とエイブラムスは語っている。
【アメリカ西部で繰り広げられていた土地所有者グループの闘争】
当時、アメリカ西部では、生地や家畜の利権を争っていた、ふたつの土地所有者グループ間の暴力沙汰が絶えなかった。
土地所有者は、それぞれギャングを召し抱えていて、ビリーは「レギュレーターズ・ギャング」に所属していた。
闘いの火ぶたが切られたのは、1878年2月。ビリーが用心棒をしていた、ジョン・タンストールが、当時、リンカン郡保安官だったウィリアム・ブラディ率いるジェシー・エヴァンズ・ギャングに殺されたことがきっかけだった。
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レギュレーターズ・ギャングが一堂に会しクリケットを行っている唯一の写真。場所はジョン・タンストールの牧場。タンストールは、ライバルから自分の所領を守るためにギャングを雇っていたイギリス人入植者である。
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上記写真に写ったビリーを拡大
この直後から、ジェシー・エヴァンズと、タンストールを支援していたレギュレーターズの戦いが始まった。ビリーはレギュレーターズ側だったので、タンストールの弔い合戦に参戦した。
1878年4月、レギュレーターズはブラディと4人の副官をリンカンのメイン通りで待ち伏せして銃撃し、ブラディは多数の銃弾を浴びて死んだ。
一ヶ月におよぶ抗争は、1878年7月19日にピークを迎えた。このリンカンの戦いは"5日間の戦い"とも呼ばれ、軍隊が介入するまでになり、レギュレーターズは多くの仲間を失った。
【休戦後、賞金首となったビリー・ザ・キッドとそれを追うギャレット】
一般的に言われている伝説によると、ビリーが無法者になる前、パット・ギャレットとは友人だったという。だが、その説を裏づける歴史的な証拠はない。
休戦後、ビリーや多くのレギュレーターズは敗走したが、ビリーの首にかけられた賞金を狙ったギャレットに追いかけられることになった。
2年たっても、ギャレットはビリーを見つけることができなかったが、1880年11月に彼は保安官に任命された。
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【一旦捕まるも保安官代理を殺害して逃走するビリー】
1880年12月、ギャレットと仲間たちは、ついにビリーたちをニューメキシコ州の現在のタイバンで一網打尽にした。
ビリーはラスベガスに連れてこられ、ブラディ殺害容疑で裁判にかけられて、1881年4月13日に死刑判決が出た。
彼はリンカン郡に戻されて、そこで5月13日に死刑が執行される予定だった。ところが、ビリーは見張りだったふたりの保安官代理を殺して馬で逃走した。
しかし、ビリーの自由も束の間だった。1881年7月14日、またしてもギャレットに見つかった。
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image credit:ビリー・ザ・キッド - Billy the Kid - Wikipedia
【ビリーがギャレットに殺された経緯に関する2つの説】
ビリーがギャレットに殺された経緯については、2通りの説がある。ひとつは、ギャレットがビリーが隠れていた家の家主と話をしていたときに、銃をを持ったビリーがふいに入ってきて撃ち殺されたという説。ビリーの最期の言葉は、スペイン語で"誰だ?"だったという。ビリーはわずか21歳で死んだ。
もうひとつの説は、ナイフを持ったビリーが家に入ったとき、暗がりの人影に気づいて誰だ?と訊ね、撃たれて死んだというものだ。
だが、ビリーの死の状況には謎が多く残されており、この時点ではまだ死んでいなかったという生存説も根強く残っている。
ビリーの死後、ギャレットはリンカン郡保安官の再選に出馬しなかった。まもなくテキサスへ引っ越して公安局で働き、ニューメキシコの牧場に戻ってきた