終戦後、孤島に32人の男と1人の女が……「アナタハンの女王」事件に日本中が熱狂するまで
小池 新
2004~2007年に雑誌「新潮」に連載された桐野夏生さんの小説「東京島」は、暴風雨で乗っていたクルーザーが大破した女が夫とともに孤島に流れ着く。その後、日本人の若者グループや謎めいた中国人グループが漂着。島にいる人間は男31人に対し、女は彼女1人に。そのうち、夫をはじめ、男たちが次々不可解な死を遂げ、島からの脱出をめぐって人間関係が錯綜し、崩壊し、再生するストーリー。
【写真】出迎えの人たちに船上から手を振る「アナタハンの女王」比嘉和子さん
性と暴力、男女関係とジェンダー、閉塞感など、現代の人間のさまざまなありようと人間関係を寓話的に描いて、独自の小説世界を作り上げた作品だ。現代の物語だが、設定は歴史的に知られる実話に強い影響を受けている。日本の敗戦から間もない時期、大きな話題となった「アナタハンの女王」事件だ。
島から生き帰った男女の証言は微妙に異なっている
現在はアメリカ領である太平洋西部・マリアナ諸島の小島アナタハンは、サイパンから北へ約150キロ。東西約12キロ、南北約4キロの火山島で、平地はほとんどないが、「概して有用植物の栽培に適せるもののごとく」「もし適当なるヤシ樹の栽植を試むるにおいては、年額百トン内外のコプラを産出せしめ得べき見込みありという」(「独領南洋諸島事情」)島だった。そこで太平洋戦争末期から戦争直後に起きた出来事は、正式には事件とはいえない。さまざまな事情から事実はうやむやにされて処理されたのだろう。公式な記録もほとんどない。島から生き帰った男女の証言は部分的なうえ、微妙に異なっていて、本当は島で何が起こったのか、はっきりしない。それでも極めて荒っぽくあらすじをまとめるとこうなる。
和子を奪い合う男たちの感情がむき出しに
1944年6月、日本の「絶対的国防圏」の要衝サイパン陥落を目指す米軍は、アナタハンにも激しい爆撃を加えた。
島には事実上の国策会社「南洋興発」の社員・比嘉菊一郎と、その部下の妻・比嘉和子という沖縄出身の2人がいたが、そこに爆撃で受けて沈没した徴用船3隻の船員(軍属)と乗り組みの海軍兵士、島に居合わせた陸軍兵士ら男31人が加わった。多くが10~20代の若者。菊一郎と和子はそれぞれ妻子と夫が島を離れていた。状況判断から2人は「夫婦」となって男たちから離れて同居。男たちも船ごとにそれぞれ集団をつくって暮らしていた。
敗戦を挟んで島は“置き忘れられた”状態に。食料を食べ尽くし、イモを自作するようになるまでは、大きなコウモリやトカゲなどを捕って食べた。着る物もなく、木と木をこすり合わせて火をおこす、原始人のような生活。その中で、和子をめぐって男たちが奪い合う感情がむき出しになり、不可解な死が起き始めた。
孤島に取り残された32人の男と1人の女の共同生活
「海に転落した」「高波にさらわれた」……。山中で墜落したアメリカ軍機の残骸とパラシュートが発見され、その際、拳銃2丁が手に入ったことから、男たちの力関係に変化が生まれた。菊一郎も変死。
和子は、男たちのリーダーが選んだ若い男と暮らし始めたが、その「夫」も変死した。その次の「夫」も……。ほかにも、男たちが次々、病死か事故死か殺人か分から死を遂げていった。「元凶は和子」とする雰囲気が強まり、和子は一人で米軍に“投降”。その訴えなどから男たちも救出されたが、最後は32人から20人になっていた――。孤島に取り残された32人の男と1人の女の共同生活という敗戦秘話。メディアはセンセーショナルに取り上げ、戦争の話題に飽きかけた人々の好奇心をかき立てた。しかし、「事実」がどのように認識されていったのかと報道の流れを追ってみると、「この女性は本当に『女王』だったのか」という根本的な疑問が湧いてくる。
「事件」が最初にニュースになったのはいつ、どんな形だったのか。菅野聡美の研究論文「アナタハンの女王と伊波南哲」は、その点も調べているが、「最初の報道は新聞の小さなコラムだった」。1949(昭和24)年2月22日の朝日朝刊社会面最下段のコラム「青鉛筆」。「サイパン島から船で一昼夜、二百マイルほど北に『アナタバシ島』と呼ぶナゾの島がある」と島の名前も不正確だが、サイパンから帰国した日本人の「みやげ話」として紹介している。
「この島にはサイパンから逃げ出した日本軍の生き残り二十八名と女性一名がロビンソン・クルーソーみたいな生活をしている」。米軍が投降勧告に行くと姿を隠す。「何回かの派遣もムダとなって米軍でもいまはほったらかし」とある。当時、同じような話がほかにもあったのかもしれないが、コラムということもあって、緊迫感の薄い戦後余話といった記事だ。
米軍にはかなり正確な情報が入っていた
“まともに”ニュースとして取り上げられたのは約1年3カ月後の1950年5月10日。紙面に掲載した沖縄タイムスは、戦災を受けたためか、2ページ建てで写真もなく、いまの町内会報のようなタブロイド紙だ。
2ページ中央やや下に「島に今なお降伏せぬ三十名 比嘉氏は死亡 沖縄人漁夫二五名」の見出し。【東京九日共同】のクレジットで「終戦五年の今日いまなおマリアナ諸島サイパン東北方約百五〇キロのアナタハン島に元日本陸海軍じんや沖縄出身漁夫、日本じん三〇名が終戦の事実を信ぜず、現地米軍のラジオ勧告による再三の投降勧告にも応じないで逃避を続けているので……」と報じた。「△比嘉菊一郎(沖縄名護出身)一般じん労務監督者△比嘉カズ子」と2人の名前を明記。略歴も添えているほか、「カズ子」の夫が戦後、沖縄に引き揚げて暮らしていることにも触れている。記事は「このほど連合軍当局からの要請により近親者からの投降勧告文が引揚援護庁を経て連合軍へ届けられた」と記述。ニュースが、共同通信が米軍から得た情報を基に配信したと分かる。米軍にはかなり正確な情報が入っていたことがうかがえる。
「まるで“原始生活”だ 女も木の葉で腰ミノ」
沖縄タイムスはこのネタをその後もフォローしていたのだろう。約3カ月後の1950年8月14日、2面トップで「終戦を知らずに“ア島”に七年 三十名の男の中に たった一人の女 カズ子さん、空路帰える」の見出し。「若い一女性が、このほどやっと米軍の保護に身をまかせ、グアム島経由、空路帰還を命ぜられて十一日朝、小禄飛行場に降り立った」と書いた。
和子本人にインタビューして、現地での生活などについても詳しく聞いており、「まるで“原始生活”だ 女も木の葉で腰ミノ」「投降を決意する 女の立場から離脱」などと報道。記事の中には「グループの中には妙な感情の対立が始まり、闘争は遂に血をみるまでに至って六人の男がその犠牲にたおれた」とあり、事件の一端が初めて表に出た。
この記事を書いたのは同紙の記者だった太田良博氏。のち随筆でそのときのことを回想している。ある日、「南洋のジャングルから出てきたばかりの女が名護に来ているらしい。すぐ取材してくれ」と上司に言われて会いに行ったという。太田が同紙系列の別のメディアに「アナタハンの女王蜂」の題で紹介したのが、「週刊朝日」同年10月8日号に要約、転載された。
「食と性、その二つを支配する女王として」
それを見ると「男三十人にたった一人 孤島の女王蜂物語 アナタハン島に七年」の見出し。リーダーの指名で決められた「夫」が死んだことについて、「あるいは、カズ(和子)を得ようとする他の男に殺されたのかもしれない」とした。「ちょうど蜜蜂の世界における『女王蜂』のように、男が彼女を支配するのではなく、彼女が男たちを支配するようになった」、「食と性、その二つを支配する女王として、カズさんは君臨したわけであった」とも。この時点で「アナタハンの女王」事件の図式は、そのネーミングとともにほぼ固まった。あくまで和子1人の言い分が中心だったが。以降、「孤島の愛欲」のイメージがメディアによって流布され、人々の間に定着していく。
島を脱出して沖縄に帰った和子が、島に残った男たちの救出を訴えたことなどから、家族らが声を上げ始める。1951年5月22日の衆院外務委員会では、3隻の徴用船の1隻「兵助丸」の母港である神奈川・三崎町(現三浦市)の町長らが出した「引き揚げ促進」陳情と請願が提出されている(2014年、その時の書類の写しが船員の遺族宅で発見されたと神奈川新聞が報じた)。
既に妻が別の男性と再婚しているケースも
そして、6月30日、男たち19人が白旗を掲げて“降伏”。7月6日、先に脱出していた1人と合わせた20人が米軍機で羽田に帰国した。
週刊朝日7月22日号は「二十人に記者四百人」の見出し。本文を読むと「二百人をこす新聞、雑誌、ラジオ、ニュース映画の報道陣」「待っていた家族たちは約二百人」とあるが……。日露戦争の日本海海戦勝利の際のことを言ったのか、「東郷(平八郎)提督以来の歓迎陣」とは大げさだが、いまと変わらぬ過熱報道。
「夜にかけて、各社が火花を散らしたのは『引抜き合戦』だ。話のうまい数人を自社で独占して、ユックリとアナタハンの秘話を聞き、手記を大急ぎでつくらせるか、座談会をひらくか……」という大騒ぎに。
7月7日、20人はそれぞれの徴用船の母港に帰郷したが、既に妻が別の男性と再婚しているケースが複数あり、中には妻が夫の弟と再婚していたケースもあったという。
この年、前年に始まった朝鮮戦争は膠着状態に陥り、7月10日、休戦会議が始まった。日本は戦争の特需景気に沸いていた。9月にはサンフランシスコで対日平和条約が調印された。同じ月、黒澤明監督の映画「羅生門」がイタリア・ベネチア国際映画祭でグランプリを受賞。パチンコが大流行し、手塚治虫の「鉄腕アトム」の連載が始まった。戦争の終わりと時代が移り変わる予兆が感じられる年だった。
「長い間ご無沙汰」を意味する言葉として
新聞、雑誌などのメディアが書き立てた結果、世間はほぼ島での男女関係に絞って関心を示した。当時の「カストリ雑誌」は、挿絵を含めて露骨な性描写の読み物小説を掲載。「アナタハン」は「長い間ご無沙汰」を意味する言葉として、「『長いことアナタハンしとりました』などと用いられて流行語となった」(「昭和世相流行語辞典」)。
その年のうちには、兵助丸の一等水兵・丸山通郎の手記「アナタハン」が出版された。自分以外の登場人物は仮名だが、「あとがき」で島での死者を悼んで「ただ、ひとりの女をめぐって、自分の若い情熱を傾けつくして、花火のように自分の生命を散らしてしまった人」と、和子をめぐる男たちの争いがあったことを示唆した。ほかの帰還者も和子をめぐる人間関係については言葉を濁し、それがかえってうわさを広めた。
翌年、丸山は別の徴用船「海鳳丸」乗り組みの陸軍二等兵だった田中秀吉と共著で「アナタハンの告白」を同じ出版社から出したが、仮名は同じでも、はるかにスキャンダラスな描写になっていた。世間の好奇心を満たすためか。和子をめぐって殺人が7~9件起こったと書いた。「はじめに」では「真実はやはり書かれなければならない」と強調。「あの不条理な孤島生活にこそ生まれえた人間の悲しい宿命的、原初性をかい間見たのである」と述べた。