毎朝、目が覚めると
「「私はなぜ生きているのかな?」」
という疑問が頭に浮かぶ。
私は生きる気力がない。
“必要とされていない”という感覚に覆われていて、
“なにをやってももう無駄だ”というおもいがある。
ほぼ固定観念に近い。
実際は、
たった1つのクライアントから、
少なからず毎月お金を頂いている。
そして新しいお仕事のご依頼もいただいている最中だ。
先月は、
以前知り合った方から1日だけの仕事だけど、
お誘いを頂いた。
カードをつくってみた。
初めての活版印刷で、
それに伴い人知れず勉強もした。
図書館で活版印刷に関わる本を片っ端から借りて読んだ。
ネット上でも調べて、
それからデザインに取り組んだ。
自分でデザインして、文字組し、
活版印刷を行っている知り合いの方に印刷を頼んだカードだ。
うれしいことに1人の年下の女の子から、
ほしいですと言われた。
いいよと気前よく答えた。
けれど、そのどれもに、
ほんとうにほしいのかという疑念がつきまとっているのかもしれない。
1つのクライアントさんが仕事を振ってくれるー毎月お金を払ってくれるのは、
私とお話がしたいから、私とつながりをもっていたいからだ。
私のデザイン能力とか、マーケティング能力とかの価値には興味がさほどない。
ひどい程度だったら、さすがに考えていたかもしれないが、
ひどくない程度だから気にならないのだろう。
「他にこうやって話しをしてくれる人がいないから。自分は友達が少なくて」
とはっきり言われたことがある。
自分は人見知りで、彼女にもあんまり自分を出せないと。
だから数少ない友達である私に価値をみいだしていいるのだ。
ところが私は、もうその人にほとほと嫌気がさしている。
本当はもう相手するのが疲れている程なのだ。
それを大人になりたいからとか、
クライアントさんだからといった理由で、
黙ってきいてきたのだ。
けれどもういい加減限界に達してきていて、
その人が求める”話を聞いてあげる自分“、“いい顔をする自分”に嫌気がさしている。
無理がきていて、それを伝えたこともある。
今日はもうちょっと疲れているからと。
それでもダダをこねるように、もうちょっとお話がしたいと言われたとき、
機嫌が悪くなった私に
怒ってるんですか?とか、僕のせいですか?といって、
話を長引かせることにさらに、イライラさせられたとき、
私はもう本当に限界だと思った。
でもその場、温厚に終わらすために、なんとか繕って、
Skypeを切ったのだ。
その後打ち合わせのメールもいつものようにおそい。
以前からメールのレスポンスが悪いのは特にとくにそうだった。
だから不信感はいっぱいなのだ。
不信感をもって、人を疑っている自分がいやだ。
心地よくない。
だからこんな状況から逃げ出したい。
やっぱりなかった話でと返信があれば、
それはそれでも、ああそうですか、もういいですとなれるのに、
今なぜムカムカしているのかといえば、
そうも言ってこないからだ。
なんとか薄くつなぎとめたり、
なんとかお金のかからない方法で、
自分の利益が得られないか=私が機嫌よく相手してくれないか
というところをさぐられているからである。
私の本意とは、どの点ともちぐはぐにづれている。
デザインの質やマーケティングの質でもなく、
私の機嫌というキャバ嬢のごとくがニーズとしてあり、
そこに値踏みされているのだ。
まだデザインやマーケティングの質に対して、
他の誰かと比較検討されるならよかったのかもしれない。
値踏みされること自体だって、
あまりいい気味ではないのに。
こういうとき、第三者からみれば、
そういうのはうまいことやって、
割り切ってお金もらうのがいいんだよと思うだろう。
確かにそうだし、せっかくの女の武器を使う手はないし、
女として価値をみいだしてくれていることに
そもそも喜びを感じてもいいといもいうものだが。
けれども、その人が価値を感じてくれている私がとってきた対応を
これからも提供するのは私には限界がきているわけで、
するとその先にあるのは、
どうして以前はしてくれたのにとか、
なにがいけないんですかとか、
冷たくなりましたねとかいった
非難や罵倒する言葉なのだ。
少なからずもう既にときどき言われている。
たまに冷たいですよねとか。
冷たいんじゃない。
そもそもそれがあなたに対する普段のベースの私で、
なんだか楽しいときは気前よく笑ったり冗談をいっているのが、
あなたが嬉しいと感じている“相手をしてくれる私”なんですよと。
ずっと相手をしたくないのに相手をしたきたわけじゃない。
楽しいと思うこともあるし、
興味を持つこともあって、
応援する気持ちもあったから
こうしてやってきたのだけれど。
その人が考える程、期待するさらなるなにか
=もっと相手するとか、顔文字を使う、もっと仲よくする
といったことは、
その人に対しては今のところできないということだ。
理由はさまざま。
メールのレスポンスが悪いとか、
たまに見え隠れする駆け引きみたいな感じとか、計算とか。
甘える感じや、依存する感じ=世にいう重いという感じか。
そのくせ心配して対応すると、
ケロッとしていて取り越し苦労をさせられ、
えへへと甘えてみせ、礼も言わないというか感謝も沸いてこないのかという、
人の心配心も知らずにと腹が立たされたりとか。
つまり、甘え。
礼も言わずに感謝も示さずに、
相手が心配して、飛んでくるように自分に対応してくれるのが日常化することに、
日常の幸せをみいだすという感じ。
相手が熱心に話を聞いてくれるその先に、
なにかの展開を期待していて、
さらに仲良くなれる日を展望を抱いているという。
―私は以前、そちらの立場だった。
私の話を熱心に聞いてくれる人がいて、
私はとてもうれしかったし、
その人を尊敬していた。
そして上記のように、もっと仲良くなれたらなという願望を抱いていた。
でも、その人はなぜか他の人より熱心に長時間も話を聞いてくれるのに、
友達のようにどこかへ誘ったりはしてくれなかったのだ。
それが不思議だった。
それはその人のはその人の事情があったからだ。
その人は他人から必要とされるということに価値を重く感じる人で、
だから私のように、熱心に悩みうちあけ、頼りにし、相談する人が、
自分のアイデンティティに関わる重要なことだったのだ。
だから相手をしていた。
ただそれだけであり、
それでもさらに私を自分からは積極的に求めなかったのは、
私が今、先にあげたクライアントに感じているように、
甘えを出しすぎてしまったからだ。
つまり―自分では手に負えないほどだというのが、
やりとりしていて垣間見えたから、
そのさき自分から積極手に関わろう、手助けしようとするのは、
非常に疲れることになるからやめようとなったのだ。
誠にお恥ずかしい話であり、
その人には気苦労をかけたであろうなと思うと申し訳ないことだ。
本当はイライラして、もう話とか聞きたくない、
自分に好意をよせている風をみせるけど、
それはいつも“自分”、自分中心で回ってきたことに
価値を見いだしていて、
そういう対応をしてくれることに価値をみいだしていて、
価値を見出してほしい点
=(その人ならおそらく・・・いや、わからない。)
きっと誰かを幸せにすること、必要とされることに幸せを感じるんだろうけど、
自分のどんなスキルにも尊敬を抱いてほしいだろうし、
私も尊敬は抱いているけど、
それ以上になにかを期待してしまった点で、
それ以上期待に応えられないというのがあるというだけだろう。
もっと芯のある女性なら。
その人が初期のころ、私がまだ対外的にその人の前でも強い女性でいたとき、
相談をしているときに、ふと見せた顔がある。
それが、甘えたいという顔だった。
頼りにして話をしにいっているのは私の方だったけれど、
甘えたいのはこっちの方だよというのがその人の本音だろう。
でも私はまじめな仕事の話をしていたから、
それを受け入れるそぶりもみせられなかった。
とっさのことで驚いたということもあった。
そして根底にある、私が甘えたい方、深くつき合うなら甘えさせてくれる人
というのがあったから、受け入れられなかった。
でも今思えば、その瞬間でも受け入れられたら、
その人が真の意味でフランクに接っせられる唯一の人になれたのかもしれない、
その人のオアシスになれたのかもしれないと思ったりする。
それが結果、私が求めている間柄じゃないことになったとしても、
そういう人になれるというのは、
いいことではないかと。
2人で話していたとき、まったく心をさらけ出さないわけではなかった。
その人が、僕だってこうですよと、本音をぶちまけるように言ったことは、
パフォーマンスと取られるには、
いささか無理があるわけで。
本音トークをされしてくれたのは、
うれしかったできごとだと思う。
1日だけだけど、以前の知り合いの方からお仕事を頂いた話。
お声がかかるというのは、
やはり嬉しいことなのだけれど、
それなのにやはり1日だけだからか、
私は今朝も起きると
「「私はなぜ生きているだろう?」」
などということを思ってしまう。
どうやら次の機会もお声をかけてくれるようなのだけれど、
それは不確かな確定要素。
私はその不確かなことに、
いつも不安や心配を抱いているのかもしれない。
宙ぶらりんな状態が、
いつも私を勝手に徐々に首を絞めるように苦しめる。
へびのなまごろしとはこのことかというような。
幼少期には幸せな家族(に見えた。)に生まれながら、
時は経って、
一家はバラバラ。
血のつながりのなんとかとか、世間がよくいうあたりまえのようなことは、
まったくもってあたりまえのことではなく、
ただの理想論であったことを、
身をもって体験してからからか、
不確定要素な幸せは、
いつも宙ぶらりんで、
私をさえなやませ、
不安の種を育てていることになっている
―という理由なのかもしれない。
無償の愛なんていうものはなくて、
なにかいいことをしてくれる根底には、
なにか利益
(お金だけれはなく、アイデンティティや自分の存在価値、重要性を与えてくれるといった
人間の欲求を満たしてくれるかということ)を
与えてくれるからという等価交換が働いていているのだろうという
勘ぐりが働いてしまっているのだろう。
ごく無意識に。
身体が目当てだから、
相手をしてくれるから、
求めてくれるから、
重要感を与えてくれるから
―これらがあって私は求められていて、
これを提供できない私=疲れていてそれが出せない私には、
不満どころか、非難や文句を浴びせる程で、
それが得られないなら、さっさと私から離れていくのだ。
無償の愛なんていうのを、
私も信じたいと思う。
けれど今のところ、そんなものには出会えたためしがない。
夢の中でー
女の子たちが私に声をかけてくれる。
そしてこれどう?とかどうする?とかいって、
話しあいにいれてくれる、意見を聞いてくれる。
男性が、つかずはなれず側にいてくれる。
またどこかへ行ってしまうのかな?と不安になるとき、
それでもそばにいて、たしかにそばにいる確信的な安心感を感じる。
逃げずに力強くその場にいる確かさに
私は安らぎを覚える。
そんな夢のような夢の中で、
私は一瞬だけ幸せを感じる。
そして目覚める。
そういえば現実でもそんな瞬間がなくはなかったことを思い出す。
けれどそれはついにはついえて、
今は手元にもうない幸せを、かみしめ、
“永遠のたしかな幸せ”などないことを、
無償の愛などないことを、
あらためてうわがきでうらづけることになっている。
そしてこの先、
人生の折り返しになってきたであろう地点から、
幾度失い、幾度探し、
幾度、自分の提供し続けられなかったことに対する悲しみ、自分へ対する失望を味わうのかと、
気が遠くなる。
もういい加減分かっている。
そのうわべだけ与えられる、提供価値には、無理があり、
そんな薄っぺらいもので、
なにかが展望することもないことを。
では私は健やかに生きて、
ありのままの自分で誰かに必要とされるのか?と。
答えは、
必要とされない。
カードがほしいといってくれた子に、
私は、いいよと答えた。
それは果たして彼女の求めた応えだったろうか。
いいよーとは偉そうではないか?
許可ではなく、
送るよ―といった応えや、
求めてくれて嬉しいという応えがよかったのではないか。
喜んでもらえることをしたことに、
嬉しがってもらえたら嬉しいというのがある。
いいよーとはなにか的外れで高慢に競り上がった鳩胸ではないか?
そもそも、
カードがほしいといったのは、
私とまだ交流してくれるのは、
自分がなにかを発表したときに、
同じく応援したり、ほしがったりしてほしいという期待があるからではないか。
私はそれに気づかなかった。
私はそれにこの先そういうことがあったとして応えられるかわからない。
その人に少なからずライバル心や、
仲良く楽しくやっている友達が私よりたくさんいることで嫉妬心みたいなのがあるからだ。
その子が何かを作りましたと発表したとき、
いいねといって、ほしいとか、
会場に見に行くねとか
言えない自分がいるようで。
私はその子のイラスト能力を認めている。
私よりすごい絵を描くときがある。
だからデザインフェスタなんかに出したら、
あっという間に私なんかより有名になって売れっ子になるだろうというのがある。
ただその子が実行能力=行動力がないだけで、
それが実現に至っていないだけだ。
その子は間違いなく売れる。
私なんか比じゃないくらいに。
それくらい実力があるのに、
ただ行動に移せてないだけで、
なんとなく私の方がそっちの方面でお仕事あるみたいな感じになっている。
私はその子に、私にもイラスト描いてよと言ったことがある。
だれか友達に絵を描いてあげたとかで、
その絵がすばらしかったからだ。
そのことは伝えたし、
なんども伝えた。
喜んでいた。
すいません、まだ描けてなくてと、ある日、しばらくぶりにメールがあった。
私は忙しいかもしれないし、気が向かないかもしれないのに、
何度もいうのは気が引けるからと、催促の1つもしていなかった。
ただほしいくらいにすごいよというのは伝わっていればいいかなという気分だった。
できたら本当にほしいというのはあって、
しばらくぶりに来たメールに、それでも驚いた。
そして、できましたというんでもなく、
まだ描けてなくてという他でもない、そういう用のメールに。
私は思っていたとおりに、
忙しいだろうから、無理しなくていいよと答えた。
私がここで重要なのは、
絵がほしいということよりも、
絵がほしいくらいに、うまいよということだったのだ。
そして彼女もそうなのだろう、
だからあえてできてないけれど、
期日もなにも儲けていない、ほしいといった一言に、
まだできてなくて、すみませんとメールをくれたのだろう。
私はまた再び伝えたかった。
忘れてないし、今も欲しいと思っているということ、
けれどお金を払うんじゃなし、
無理してこんつめて考えて描いても苦しいだけだろうから、
無理しなくていいよということ。
なんだったか、その後も、
「友達に描いていたイラストすごかったじゃん」と伝えるときがあった。
言うチャンスというか、それが最高のレスポンスだろという儲けられたような場だ。
つまり彼女は、認めてくれる人、言葉がほしかったのだ。
そんな彼女だから、
ほしくないものに、ほしいとはいわない人だけど、
その先に見返り的ななにかを期待しているようなところはある。
いいね!も最初のころは、
私もいいね!を押さないと、
私にいいね!を押さないというようなこともあったくらいに、
なんだか計算じみたところがあった。
今では、私がか、それとも彼女もか、
そういうのは気にしなくなったし、
そもそもFacebookにいる機会が少なくなったように思うから、
あんまり気にならなくなったけれど、
その子がデザインフェスタに出たいという願望を吐露して、
私のつくったカードがほしいという流れから、
私は嬉しいけど、ぬか喜びできないでいるのだ。
なんて気が狭い(心というより)のだろうか。
他にいいね!を押してくれる男性
ーというより、よくよくみると、
男の子がいる。
私からみたらそういう年だろうし、
その人が私の年齢を知ったらそうだろう。
よく、投稿にいいね!を押してくれる。
なんでもかんでも押してくれるわけじゃないところが、
またなんともありがたみをもたせてくれている。
けれど、そこからなにか発展があるかといえばない。
この先ーない―というのが、
もう長いと呼んでもいい人生、その経験上あるから、
無意識にぬか喜びしたり、期待してしまう自分を、
みじめに思う気持ちがある。
なんどとなく、この先を期待して、
なんどとなく、そんなことはなかった私は、
これから先いったいなにがあるのかということで、
「「なぜ私は生きてるんですか?」」
というのがある。
世の中ではちょうど今の時季、
赤や緑の暖色(緑は厳密には暖色じゃないが)や、イルミネーション、人肌といった
ぬくもりに囲まれて生きている人がいる。
私の知っている中で、
あの人も、この人も、きっとあの人も、なんだかんだいってあの人も、
なんやかんやいうけど、私とはぬくくならないあの人、
むしろ願い下げ程かもしれないあの人は
それなら1人ですごしたほういいという感じだろうなというあの人
そんなのを思い浮かべながら、
1人人気(ひとけ)のない屋根の下ですごす。
隣の大家族からクリスマスパーティ的なファミリーの盛り上がり声が聞こえる。
師走のいそがしくも、かわいた風が吹き抜ける。
商品がセールで飛ぶように売れていく―あの人に(家族や自分)プレゼントするなにかとか。
私は特にべらぼうに忙しいわけでもない仕事と向き合う、
そういえば確定している仕事でもないということを思い出し、
向き合うわけでもない時間をすごす、
向き合うための準備体操をすごす、
こうやって文章を書く、
お金にならないことをしてすごす、
お金はないので物は買えないし、
そもそもそういう欲求すらほとんど沸いてこない。
そういえば私ってなんで生きているんだっけ?と思う。
窓の外を見る。
人の明かりや気配がする。
けれど誰からも求められていないことを知る。
「自分から求めなきゃ」という、世に言うあたりまえとされる文言が浮かぶ。
これまでなんども必要ないとされてきた瞬間を思い出す。
学校でのいじめ―
家庭の排除ーという名の無償の愛のなさ―
恋人になりかけた人ー
友達だった―のだろうかという人たちー
社会、会社―
大好きだった会社から一斉解雇ー
新しい会社でのいじめ―
なじめない。
人が、コワい。
助けられて、
少なからず仕事を振ってもらえて、
ほしいと言ってもらえて、
それなのに、私は、
いつも「「なぜ私は生きているんだろうか?」」という
「必要とされていないのに、なぜ今日も目覚めたのか」
という疑問が浮かんでしまう。
0じゃないのに、
1なくないのに、
マイナスに感じる。
なにかやってみたいひらめきや、
新しいワクワクが浮かんでも、
“なにをやってもムダ”というのにかき消されて、
生きる気力がない。
ネットでは、
ネットだけではなく現実だって、
みんな気軽に人を叩く。
非難したり、
押しのけたり、
突き飛ばしたりする。
なぜそんなことができるのか?
そして私は誰かをそうさせていないか?
私はだれかの欲しているシグナルに気づくことができているか、
そしてそれが私の無理しない範囲で答えられているか。
みんな幸せだったらいい。
クリスマスの夜に震えて眠る人がいないといい。
だれかと寄り添って、
素敵な夜をすごせていたらいいなと思う。
だれかにイライラしたり、
みじめにかんじたりすることなく、
幸せな満ち足りた気分で、
人生がすごせますようにと思う。
幸せそうな人たちをみると、
よかったぁと思う。
「「私はなぜ生きているのかな?」」
という疑問が頭に浮かぶ。
私は生きる気力がない。
“必要とされていない”という感覚に覆われていて、
“なにをやってももう無駄だ”というおもいがある。
ほぼ固定観念に近い。
実際は、
たった1つのクライアントから、
少なからず毎月お金を頂いている。
そして新しいお仕事のご依頼もいただいている最中だ。
先月は、
以前知り合った方から1日だけの仕事だけど、
お誘いを頂いた。
カードをつくってみた。
初めての活版印刷で、
それに伴い人知れず勉強もした。
図書館で活版印刷に関わる本を片っ端から借りて読んだ。
ネット上でも調べて、
それからデザインに取り組んだ。
自分でデザインして、文字組し、
活版印刷を行っている知り合いの方に印刷を頼んだカードだ。
うれしいことに1人の年下の女の子から、
ほしいですと言われた。
いいよと気前よく答えた。
けれど、そのどれもに、
ほんとうにほしいのかという疑念がつきまとっているのかもしれない。
1つのクライアントさんが仕事を振ってくれるー毎月お金を払ってくれるのは、
私とお話がしたいから、私とつながりをもっていたいからだ。
私のデザイン能力とか、マーケティング能力とかの価値には興味がさほどない。
ひどい程度だったら、さすがに考えていたかもしれないが、
ひどくない程度だから気にならないのだろう。
「他にこうやって話しをしてくれる人がいないから。自分は友達が少なくて」
とはっきり言われたことがある。
自分は人見知りで、彼女にもあんまり自分を出せないと。
だから数少ない友達である私に価値をみいだしていいるのだ。
ところが私は、もうその人にほとほと嫌気がさしている。
本当はもう相手するのが疲れている程なのだ。
それを大人になりたいからとか、
クライアントさんだからといった理由で、
黙ってきいてきたのだ。
けれどもういい加減限界に達してきていて、
その人が求める”話を聞いてあげる自分“、“いい顔をする自分”に嫌気がさしている。
無理がきていて、それを伝えたこともある。
今日はもうちょっと疲れているからと。
それでもダダをこねるように、もうちょっとお話がしたいと言われたとき、
機嫌が悪くなった私に
怒ってるんですか?とか、僕のせいですか?といって、
話を長引かせることにさらに、イライラさせられたとき、
私はもう本当に限界だと思った。
でもその場、温厚に終わらすために、なんとか繕って、
Skypeを切ったのだ。
その後打ち合わせのメールもいつものようにおそい。
以前からメールのレスポンスが悪いのは特にとくにそうだった。
だから不信感はいっぱいなのだ。
不信感をもって、人を疑っている自分がいやだ。
心地よくない。
だからこんな状況から逃げ出したい。
やっぱりなかった話でと返信があれば、
それはそれでも、ああそうですか、もういいですとなれるのに、
今なぜムカムカしているのかといえば、
そうも言ってこないからだ。
なんとか薄くつなぎとめたり、
なんとかお金のかからない方法で、
自分の利益が得られないか=私が機嫌よく相手してくれないか
というところをさぐられているからである。
私の本意とは、どの点ともちぐはぐにづれている。
デザインの質やマーケティングの質でもなく、
私の機嫌というキャバ嬢のごとくがニーズとしてあり、
そこに値踏みされているのだ。
まだデザインやマーケティングの質に対して、
他の誰かと比較検討されるならよかったのかもしれない。
値踏みされること自体だって、
あまりいい気味ではないのに。
こういうとき、第三者からみれば、
そういうのはうまいことやって、
割り切ってお金もらうのがいいんだよと思うだろう。
確かにそうだし、せっかくの女の武器を使う手はないし、
女として価値をみいだしてくれていることに
そもそも喜びを感じてもいいといもいうものだが。
けれども、その人が価値を感じてくれている私がとってきた対応を
これからも提供するのは私には限界がきているわけで、
するとその先にあるのは、
どうして以前はしてくれたのにとか、
なにがいけないんですかとか、
冷たくなりましたねとかいった
非難や罵倒する言葉なのだ。
少なからずもう既にときどき言われている。
たまに冷たいですよねとか。
冷たいんじゃない。
そもそもそれがあなたに対する普段のベースの私で、
なんだか楽しいときは気前よく笑ったり冗談をいっているのが、
あなたが嬉しいと感じている“相手をしてくれる私”なんですよと。
ずっと相手をしたくないのに相手をしたきたわけじゃない。
楽しいと思うこともあるし、
興味を持つこともあって、
応援する気持ちもあったから
こうしてやってきたのだけれど。
その人が考える程、期待するさらなるなにか
=もっと相手するとか、顔文字を使う、もっと仲よくする
といったことは、
その人に対しては今のところできないということだ。
理由はさまざま。
メールのレスポンスが悪いとか、
たまに見え隠れする駆け引きみたいな感じとか、計算とか。
甘える感じや、依存する感じ=世にいう重いという感じか。
そのくせ心配して対応すると、
ケロッとしていて取り越し苦労をさせられ、
えへへと甘えてみせ、礼も言わないというか感謝も沸いてこないのかという、
人の心配心も知らずにと腹が立たされたりとか。
つまり、甘え。
礼も言わずに感謝も示さずに、
相手が心配して、飛んでくるように自分に対応してくれるのが日常化することに、
日常の幸せをみいだすという感じ。
相手が熱心に話を聞いてくれるその先に、
なにかの展開を期待していて、
さらに仲良くなれる日を展望を抱いているという。
―私は以前、そちらの立場だった。
私の話を熱心に聞いてくれる人がいて、
私はとてもうれしかったし、
その人を尊敬していた。
そして上記のように、もっと仲良くなれたらなという願望を抱いていた。
でも、その人はなぜか他の人より熱心に長時間も話を聞いてくれるのに、
友達のようにどこかへ誘ったりはしてくれなかったのだ。
それが不思議だった。
それはその人のはその人の事情があったからだ。
その人は他人から必要とされるということに価値を重く感じる人で、
だから私のように、熱心に悩みうちあけ、頼りにし、相談する人が、
自分のアイデンティティに関わる重要なことだったのだ。
だから相手をしていた。
ただそれだけであり、
それでもさらに私を自分からは積極的に求めなかったのは、
私が今、先にあげたクライアントに感じているように、
甘えを出しすぎてしまったからだ。
つまり―自分では手に負えないほどだというのが、
やりとりしていて垣間見えたから、
そのさき自分から積極手に関わろう、手助けしようとするのは、
非常に疲れることになるからやめようとなったのだ。
誠にお恥ずかしい話であり、
その人には気苦労をかけたであろうなと思うと申し訳ないことだ。
本当はイライラして、もう話とか聞きたくない、
自分に好意をよせている風をみせるけど、
それはいつも“自分”、自分中心で回ってきたことに
価値を見いだしていて、
そういう対応をしてくれることに価値をみいだしていて、
価値を見出してほしい点
=(その人ならおそらく・・・いや、わからない。)
きっと誰かを幸せにすること、必要とされることに幸せを感じるんだろうけど、
自分のどんなスキルにも尊敬を抱いてほしいだろうし、
私も尊敬は抱いているけど、
それ以上になにかを期待してしまった点で、
それ以上期待に応えられないというのがあるというだけだろう。
もっと芯のある女性なら。
その人が初期のころ、私がまだ対外的にその人の前でも強い女性でいたとき、
相談をしているときに、ふと見せた顔がある。
それが、甘えたいという顔だった。
頼りにして話をしにいっているのは私の方だったけれど、
甘えたいのはこっちの方だよというのがその人の本音だろう。
でも私はまじめな仕事の話をしていたから、
それを受け入れるそぶりもみせられなかった。
とっさのことで驚いたということもあった。
そして根底にある、私が甘えたい方、深くつき合うなら甘えさせてくれる人
というのがあったから、受け入れられなかった。
でも今思えば、その瞬間でも受け入れられたら、
その人が真の意味でフランクに接っせられる唯一の人になれたのかもしれない、
その人のオアシスになれたのかもしれないと思ったりする。
それが結果、私が求めている間柄じゃないことになったとしても、
そういう人になれるというのは、
いいことではないかと。
2人で話していたとき、まったく心をさらけ出さないわけではなかった。
その人が、僕だってこうですよと、本音をぶちまけるように言ったことは、
パフォーマンスと取られるには、
いささか無理があるわけで。
本音トークをされしてくれたのは、
うれしかったできごとだと思う。
1日だけだけど、以前の知り合いの方からお仕事を頂いた話。
お声がかかるというのは、
やはり嬉しいことなのだけれど、
それなのにやはり1日だけだからか、
私は今朝も起きると
「「私はなぜ生きているだろう?」」
などということを思ってしまう。
どうやら次の機会もお声をかけてくれるようなのだけれど、
それは不確かな確定要素。
私はその不確かなことに、
いつも不安や心配を抱いているのかもしれない。
宙ぶらりんな状態が、
いつも私を勝手に徐々に首を絞めるように苦しめる。
へびのなまごろしとはこのことかというような。
幼少期には幸せな家族(に見えた。)に生まれながら、
時は経って、
一家はバラバラ。
血のつながりのなんとかとか、世間がよくいうあたりまえのようなことは、
まったくもってあたりまえのことではなく、
ただの理想論であったことを、
身をもって体験してからからか、
不確定要素な幸せは、
いつも宙ぶらりんで、
私をさえなやませ、
不安の種を育てていることになっている
―という理由なのかもしれない。
無償の愛なんていうものはなくて、
なにかいいことをしてくれる根底には、
なにか利益
(お金だけれはなく、アイデンティティや自分の存在価値、重要性を与えてくれるといった
人間の欲求を満たしてくれるかということ)を
与えてくれるからという等価交換が働いていているのだろうという
勘ぐりが働いてしまっているのだろう。
ごく無意識に。
身体が目当てだから、
相手をしてくれるから、
求めてくれるから、
重要感を与えてくれるから
―これらがあって私は求められていて、
これを提供できない私=疲れていてそれが出せない私には、
不満どころか、非難や文句を浴びせる程で、
それが得られないなら、さっさと私から離れていくのだ。
無償の愛なんていうのを、
私も信じたいと思う。
けれど今のところ、そんなものには出会えたためしがない。
夢の中でー
女の子たちが私に声をかけてくれる。
そしてこれどう?とかどうする?とかいって、
話しあいにいれてくれる、意見を聞いてくれる。
男性が、つかずはなれず側にいてくれる。
またどこかへ行ってしまうのかな?と不安になるとき、
それでもそばにいて、たしかにそばにいる確信的な安心感を感じる。
逃げずに力強くその場にいる確かさに
私は安らぎを覚える。
そんな夢のような夢の中で、
私は一瞬だけ幸せを感じる。
そして目覚める。
そういえば現実でもそんな瞬間がなくはなかったことを思い出す。
けれどそれはついにはついえて、
今は手元にもうない幸せを、かみしめ、
“永遠のたしかな幸せ”などないことを、
無償の愛などないことを、
あらためてうわがきでうらづけることになっている。
そしてこの先、
人生の折り返しになってきたであろう地点から、
幾度失い、幾度探し、
幾度、自分の提供し続けられなかったことに対する悲しみ、自分へ対する失望を味わうのかと、
気が遠くなる。
もういい加減分かっている。
そのうわべだけ与えられる、提供価値には、無理があり、
そんな薄っぺらいもので、
なにかが展望することもないことを。
では私は健やかに生きて、
ありのままの自分で誰かに必要とされるのか?と。
答えは、
必要とされない。
カードがほしいといってくれた子に、
私は、いいよと答えた。
それは果たして彼女の求めた応えだったろうか。
いいよーとは偉そうではないか?
許可ではなく、
送るよ―といった応えや、
求めてくれて嬉しいという応えがよかったのではないか。
喜んでもらえることをしたことに、
嬉しがってもらえたら嬉しいというのがある。
いいよーとはなにか的外れで高慢に競り上がった鳩胸ではないか?
そもそも、
カードがほしいといったのは、
私とまだ交流してくれるのは、
自分がなにかを発表したときに、
同じく応援したり、ほしがったりしてほしいという期待があるからではないか。
私はそれに気づかなかった。
私はそれにこの先そういうことがあったとして応えられるかわからない。
その人に少なからずライバル心や、
仲良く楽しくやっている友達が私よりたくさんいることで嫉妬心みたいなのがあるからだ。
その子が何かを作りましたと発表したとき、
いいねといって、ほしいとか、
会場に見に行くねとか
言えない自分がいるようで。
私はその子のイラスト能力を認めている。
私よりすごい絵を描くときがある。
だからデザインフェスタなんかに出したら、
あっという間に私なんかより有名になって売れっ子になるだろうというのがある。
ただその子が実行能力=行動力がないだけで、
それが実現に至っていないだけだ。
その子は間違いなく売れる。
私なんか比じゃないくらいに。
それくらい実力があるのに、
ただ行動に移せてないだけで、
なんとなく私の方がそっちの方面でお仕事あるみたいな感じになっている。
私はその子に、私にもイラスト描いてよと言ったことがある。
だれか友達に絵を描いてあげたとかで、
その絵がすばらしかったからだ。
そのことは伝えたし、
なんども伝えた。
喜んでいた。
すいません、まだ描けてなくてと、ある日、しばらくぶりにメールがあった。
私は忙しいかもしれないし、気が向かないかもしれないのに、
何度もいうのは気が引けるからと、催促の1つもしていなかった。
ただほしいくらいにすごいよというのは伝わっていればいいかなという気分だった。
できたら本当にほしいというのはあって、
しばらくぶりに来たメールに、それでも驚いた。
そして、できましたというんでもなく、
まだ描けてなくてという他でもない、そういう用のメールに。
私は思っていたとおりに、
忙しいだろうから、無理しなくていいよと答えた。
私がここで重要なのは、
絵がほしいということよりも、
絵がほしいくらいに、うまいよということだったのだ。
そして彼女もそうなのだろう、
だからあえてできてないけれど、
期日もなにも儲けていない、ほしいといった一言に、
まだできてなくて、すみませんとメールをくれたのだろう。
私はまた再び伝えたかった。
忘れてないし、今も欲しいと思っているということ、
けれどお金を払うんじゃなし、
無理してこんつめて考えて描いても苦しいだけだろうから、
無理しなくていいよということ。
なんだったか、その後も、
「友達に描いていたイラストすごかったじゃん」と伝えるときがあった。
言うチャンスというか、それが最高のレスポンスだろという儲けられたような場だ。
つまり彼女は、認めてくれる人、言葉がほしかったのだ。
そんな彼女だから、
ほしくないものに、ほしいとはいわない人だけど、
その先に見返り的ななにかを期待しているようなところはある。
いいね!も最初のころは、
私もいいね!を押さないと、
私にいいね!を押さないというようなこともあったくらいに、
なんだか計算じみたところがあった。
今では、私がか、それとも彼女もか、
そういうのは気にしなくなったし、
そもそもFacebookにいる機会が少なくなったように思うから、
あんまり気にならなくなったけれど、
その子がデザインフェスタに出たいという願望を吐露して、
私のつくったカードがほしいという流れから、
私は嬉しいけど、ぬか喜びできないでいるのだ。
なんて気が狭い(心というより)のだろうか。
他にいいね!を押してくれる男性
ーというより、よくよくみると、
男の子がいる。
私からみたらそういう年だろうし、
その人が私の年齢を知ったらそうだろう。
よく、投稿にいいね!を押してくれる。
なんでもかんでも押してくれるわけじゃないところが、
またなんともありがたみをもたせてくれている。
けれど、そこからなにか発展があるかといえばない。
この先ーない―というのが、
もう長いと呼んでもいい人生、その経験上あるから、
無意識にぬか喜びしたり、期待してしまう自分を、
みじめに思う気持ちがある。
なんどとなく、この先を期待して、
なんどとなく、そんなことはなかった私は、
これから先いったいなにがあるのかということで、
「「なぜ私は生きてるんですか?」」
というのがある。
世の中ではちょうど今の時季、
赤や緑の暖色(緑は厳密には暖色じゃないが)や、イルミネーション、人肌といった
ぬくもりに囲まれて生きている人がいる。
私の知っている中で、
あの人も、この人も、きっとあの人も、なんだかんだいってあの人も、
なんやかんやいうけど、私とはぬくくならないあの人、
むしろ願い下げ程かもしれないあの人は
それなら1人ですごしたほういいという感じだろうなというあの人
そんなのを思い浮かべながら、
1人人気(ひとけ)のない屋根の下ですごす。
隣の大家族からクリスマスパーティ的なファミリーの盛り上がり声が聞こえる。
師走のいそがしくも、かわいた風が吹き抜ける。
商品がセールで飛ぶように売れていく―あの人に(家族や自分)プレゼントするなにかとか。
私は特にべらぼうに忙しいわけでもない仕事と向き合う、
そういえば確定している仕事でもないということを思い出し、
向き合うわけでもない時間をすごす、
向き合うための準備体操をすごす、
こうやって文章を書く、
お金にならないことをしてすごす、
お金はないので物は買えないし、
そもそもそういう欲求すらほとんど沸いてこない。
そういえば私ってなんで生きているんだっけ?と思う。
窓の外を見る。
人の明かりや気配がする。
けれど誰からも求められていないことを知る。
「自分から求めなきゃ」という、世に言うあたりまえとされる文言が浮かぶ。
これまでなんども必要ないとされてきた瞬間を思い出す。
学校でのいじめ―
家庭の排除ーという名の無償の愛のなさ―
恋人になりかけた人ー
友達だった―のだろうかという人たちー
社会、会社―
大好きだった会社から一斉解雇ー
新しい会社でのいじめ―
なじめない。
人が、コワい。
助けられて、
少なからず仕事を振ってもらえて、
ほしいと言ってもらえて、
それなのに、私は、
いつも「「なぜ私は生きているんだろうか?」」という
「必要とされていないのに、なぜ今日も目覚めたのか」
という疑問が浮かんでしまう。
0じゃないのに、
1なくないのに、
マイナスに感じる。
なにかやってみたいひらめきや、
新しいワクワクが浮かんでも、
“なにをやってもムダ”というのにかき消されて、
生きる気力がない。
ネットでは、
ネットだけではなく現実だって、
みんな気軽に人を叩く。
非難したり、
押しのけたり、
突き飛ばしたりする。
なぜそんなことができるのか?
そして私は誰かをそうさせていないか?
私はだれかの欲しているシグナルに気づくことができているか、
そしてそれが私の無理しない範囲で答えられているか。
みんな幸せだったらいい。
クリスマスの夜に震えて眠る人がいないといい。
だれかと寄り添って、
素敵な夜をすごせていたらいいなと思う。
だれかにイライラしたり、
みじめにかんじたりすることなく、
幸せな満ち足りた気分で、
人生がすごせますようにと思う。
幸せそうな人たちをみると、
よかったぁと思う。