デザイナーはよくアーティストと間違えられるが、
実際はアーティストとはまた違う。
アーティストは自分の個性を打ち出すものだ。
自分の内に秘めるものを押し出して、
それを絵や音楽や言葉などなどで表現する人達だ。
そしてそれに共感したり、共鳴してくれる人が、
お金を出して買ってくれる訳だ。
デザイナーはクライアントがいてはじめて仕事になる。
クライアントの目標や目的があって、
それのために有効な視覚的表現を考え制作するのだ。
それに対価が支払われる。
美術寄りの勉強をしてきた人は、
どちらもできるし、どちらもしていたりするから、
アーティストとしての側面も期待される。
逆にアーティストなのにデザイン的なことを求められて困る人もいる。
絵はすごくうまいのに、
うまく相手の要望が汲み取れない人はデザイナーになれきれていないのだ。
そこでアーティストよりの人は苦悩する。
自分はこの表現がいいと思うのに、
なぜ相手は受入れてくれないんだろう?
そこで、高名な美大を出ていたりすると、
相手は芸術がわからないからだ。とか、
感性が違うからしょうがないと諦めてしまう。
クライアントはただ違う世界観、
自分のブランドにあった質感などを求めているだけなのだ。
表現方法を否定されたからといって、
しょげることはないし、
技量があってその世界観の再現性も高いと思うのに、
大変もったいない話だ。
自分の個性ある表現方法にこだわると、
デザイナーは難しくなる。
ある程度売れだすと、
デザインとしてクライアントや商品のためにやったことでも、
よく感じ取ると、
デザイナーの個性が出ている。
逆にデザイナーであったとしても、
気づくか気づかないところくらいの個性はないと、
なにが特異なデザイン方法なの?となり、
気づくか気づかないかくらいのところでも個性があると、
ああいった感じのデザインにしてもらうなら、この人と
思い浮かべてもらえて、
あの人に頼めば間違いないだろうと仕事が勝手に来るようになる。
佐藤かしわや佐藤卓ー有名なアートディレクターと呼ばれるようにまでなったデザイナーだが、
ポートフォリオサイトを見てみると分かるとおり、
色使いなどで、
まるで名札でも付いているかの用に個性が出ている。
佐藤かしわにいたっては、
街であれ、これもしかしたらと思ったら、
間違いなくかしわの作品だとわかるほどだ。
ある一定のパターンがあり、
それを使い分けているようだ。
それでも売れ続け、
依頼が耐えないのは、
実績から、あの人に任せれば、ああいう感じになって、
実績もあるから間違いはないだろうという信頼からだ。
さて、アーティスト話に戻ろう。
イラストレーター
これもアーティストに入る。
イラストレーターとアーティストをわけるとすれば、
それはイラストレーターは若干デザイナーよりなところがあるということだ。
個性を持ちながら、クライアントの要望に応えるのだ。
イラストレーターはその個人の人に頼むべきと思わせるほどの
個性がないと仕事が回ってきにくい。
もしいろんなタッチのイラストが描けたらどうだろうか。
すごいだろうが、
あのタッチはこの人とは思い出してもらいづらいし、
どんなタッチでも、どんな構図やポーズにして描けるという人はなかなかいない。
それにもう既にあるタッチであらゆるように描けるようになるより、
自分独自のタッチを探す方に余年がなくて、
自分独自のイラストを研究する方に時間を費やすだろう。
なんといってもイラストレーターになるような人は、
自分の好きなものがはっきりしている人の方が多い。
だからあんな表現方法もできるようになりたいとあちこち試したりはせず、
自分の好きな表現方法を自由に選び、
のびのびと描く。
そんなところがアーティストと似ているところだ。
自分の好きな世界観、表現方法。
かれどもクライアントからこんな世界観のこんなポーズで、
ここに余白を入れてほしいとかいう注文が来る。
またはこの文にあったイラストをお願いと。
だからそれに合わせて、自分のタッチで描き、表現する。
そんなことを最近考えた。
デザイナーは個性がなくてもいいと思っていたが、
それは大きな誤りだった。
個性がなければ誰でもいいとなってしまう。
別にあなたでなくても別のデザイナーでいいとなってしまう。
私はそんな仕事がしたいわけではない。
もちろんやりとりのしやすさとか、
やりとりをする中で汲み取ってもらいやすくて、
このデザイナーさんがいいなと思ってもらえたらいい。
とはいっても、
そういうのは分かりづらいし、
表に看板にしておくには若干無理がある。
それにそんなところで仕事を取ったところで、
将来名のあるアートディレクターやクリエイティブディレクターのように、
あの人にすべてお任せしてみたいと
思わせることはできない。
「すべてお任せ」
これはデザイナーなら夢のある話ではないかと思う。
少なくとも私はそうだ。
隅から隅までブランディングをしてみたい。
クライアントのそれはどんな表現方法にするのが、
一番有効かと考えるのは大変だろうし、
有益でなかったらと考えると恐ろしいことだが、
うまくいったら大変喜んでもらえ、クライアントに利益もでる。
それだけやりがいがあることだ。
さてはて、
私は今までアーティスト面のことを
ほとんどやってこなかった。
自分の個性を打ち出すことなんて、
恥ずかしいし、受入れてもらえないだろうというのがなによりあった。
また出てくるが、
やはり母の反応の仕方がトラウマであった。
それでも試してみないとわからないし、
受入れてもらえる人が最初はあらわれなくても、
発表して試行錯誤を繰り返すことに意味があると思う。
その結果、いつしか受入れてもらえるところに辿り着くのだろう。
辿り着かずに亡くなり、
亡くなったあとに取り立てられるなんていうのは、
昔の画家ならよくあることだが。
そんなことは今は考えたくないし、
考えて尻込みしたところでしょうがない。
問題はそこではなく、
理路整然とクライアントの要求に応えてクライアント色でやってきた
デザインの仕事と、
その横にアーティストーまったくこれと個人を出せずに、
あっちこっちへとふらりふらりと表現方法が定まっていない作品を
並べてもいいものかということだ。
さらには、アーティスト面で描いた絵は、
このブログでわかるように私の荒れ果てた内面を表しているものもあって、
非常にグロテスクであり、
(表現方法がグロテスクというよりその世界観が)
見ている人にとって不安にさせるだろう。
この人にデザインを任せて大丈夫なのだろうか?と。
たとえば、気に入っていて、その表現にテーマがあればいい。
そうすれば話はついて、
ああこういうのが個人的には好きなんだなとなる話で済むのだが、
テーマもなく、
表現方法も一定しないようでは、
一体どうなっているんだろうか?と、
あまりにも駆け出し感がぬぐいきれないではないだろうか。
まだ暗中模索の段階なのだなと。
そうでなかったとしても、
まるで自分が定まっていない、
自分がまだ見つけ出せていない人のような、
こだわりのない軽い人のような、
アートが本当は好きではないのでないのでないか?というような、
まるで転職を繰り返してきた人に対する悪いイメージの面と同じような、
軽い印象を受けるのではないのかと。
いろいろ理由をあげたが、
一番の悩みどころは、
私の荒れた病んだ内面が表れている表現物を、
デザインの横に陳列させるかということだ。
さとられないで、
こんな絵も描きますよーとしておけるだろうか、
しておけないだろうな。
よくデザイナーでも、
自分のアート作品を横にならべておけている駆け出しの人がいるけど、
職場の人にもクライアントにも、
その自分の心の中を見せるような恥ずかしい状態をやってのけるなんて、
私にはできない気がする。
いや、できるんだけど、
したところでなにが起こるかわからなくて、
こわい。
あの人こんなこと考えているんだぁとか、
ええ、意外こんな病んでるんだ、こわ~いなんて思われて、
余計、遠巻きから見るみたいになったら嫌だなぁってこと。
前はできさえもしなかったんだけど、
ここまで失うものがなくなると、
それより年齢を重ねたからか、
若い恥じらいがなくなったのか、
もうバーンとやってみなきゃ若くないんだから、
やってみるしかないでしょ、
いつやるの?今でしょーみたいな。流行をはさんでみました。
いや、別にそこまで年取っている訳ではないんですけどね。
でも若いとかいってられるのも今の内しかないわけで。
これはよいドローイングだなと思っても、
なかなか、
発表するっていうのは、
恐いですよね。
これよいなと思うドローイングほど、自分の内面が出ているようで。
それを否定されたり、受入れてもらえなかったら、
自分自身を否定されたり、受入れてもらえなかったようで、
ダメージが大きいですよね。
それに知り合いに見せたら、
今までの私へのイメージにどんな打撃や衝撃を与えることになるかわからないです。
だって、私に対するイメージって・・・。
それなんです。
イメージって恐いです。
第一印象では、
優しそう、おとなしそう、まじめそう、素直そう
というのがあります。
それが話したり一緒の時間をすごすことで、
元気とか、楽しいとか、変とか、つかみどころがないとか、がんばりすぎるとか、
ちょっとめんどくさいとか、たぶんうっとうしいとか
になるわけですよね。
さらに、長時間すごすことで、
これは確かかわかりませんが、
心に闇があるとか、傷を抱えてるとか、重いとか、そういうたぐいでコワいとか
一番勝手だなと困るのが、
印象と違った
という理由で勝手に好印象を抱いておいて、
勝手に幻滅して離れていくパターンですね。
そんなやつは◯◯◯しまえと思うんですけどね。
ところで、いつから、ですます調になったんですか?
なんの話でしたっけ?
ああ、そう!
知り合いに見せたらイメージに与える衝撃のことでした。
今、良好な関係を築いている人たちって、
この第2印象あたりと、第1印象あたりをまぜた感じだと思うんです。
だからこそ良好な関係でいられてる。
つかずはなれず、
別に私を嫌ったり、特別に避けたりするわけでもなくという。
けれど別に向こうからなにか特連絡があるわけでもないです。
そういう関係ですから、
尚更、こんなものを見せて、
衝撃を与えたら、
どうなるかわからないなと。
そして定まらない表現方法に、
ファンなんてつかないだろうと、
弱気になるのであった。
私は応援してくれる人が必要だ。
だけど似たような業種業界の人間関係の中で、
嫉妬なく応援しつづけてくれるなんてことあるのだろうか。
応援してくれていても、
心の中で嘲笑したり、粗をさがしていたりしないだろうか。
そんなことより前に、
まず応援してくれる人自体が表れないかも。
やるまえから落ち込んでいます。
実際はアーティストとはまた違う。
アーティストは自分の個性を打ち出すものだ。
自分の内に秘めるものを押し出して、
それを絵や音楽や言葉などなどで表現する人達だ。
そしてそれに共感したり、共鳴してくれる人が、
お金を出して買ってくれる訳だ。
デザイナーはクライアントがいてはじめて仕事になる。
クライアントの目標や目的があって、
それのために有効な視覚的表現を考え制作するのだ。
それに対価が支払われる。
美術寄りの勉強をしてきた人は、
どちらもできるし、どちらもしていたりするから、
アーティストとしての側面も期待される。
逆にアーティストなのにデザイン的なことを求められて困る人もいる。
絵はすごくうまいのに、
うまく相手の要望が汲み取れない人はデザイナーになれきれていないのだ。
そこでアーティストよりの人は苦悩する。
自分はこの表現がいいと思うのに、
なぜ相手は受入れてくれないんだろう?
そこで、高名な美大を出ていたりすると、
相手は芸術がわからないからだ。とか、
感性が違うからしょうがないと諦めてしまう。
クライアントはただ違う世界観、
自分のブランドにあった質感などを求めているだけなのだ。
表現方法を否定されたからといって、
しょげることはないし、
技量があってその世界観の再現性も高いと思うのに、
大変もったいない話だ。
自分の個性ある表現方法にこだわると、
デザイナーは難しくなる。
ある程度売れだすと、
デザインとしてクライアントや商品のためにやったことでも、
よく感じ取ると、
デザイナーの個性が出ている。
逆にデザイナーであったとしても、
気づくか気づかないところくらいの個性はないと、
なにが特異なデザイン方法なの?となり、
気づくか気づかないかくらいのところでも個性があると、
ああいった感じのデザインにしてもらうなら、この人と
思い浮かべてもらえて、
あの人に頼めば間違いないだろうと仕事が勝手に来るようになる。
佐藤かしわや佐藤卓ー有名なアートディレクターと呼ばれるようにまでなったデザイナーだが、
ポートフォリオサイトを見てみると分かるとおり、
色使いなどで、
まるで名札でも付いているかの用に個性が出ている。
佐藤かしわにいたっては、
街であれ、これもしかしたらと思ったら、
間違いなくかしわの作品だとわかるほどだ。
ある一定のパターンがあり、
それを使い分けているようだ。
それでも売れ続け、
依頼が耐えないのは、
実績から、あの人に任せれば、ああいう感じになって、
実績もあるから間違いはないだろうという信頼からだ。
さて、アーティスト話に戻ろう。
イラストレーター
これもアーティストに入る。
イラストレーターとアーティストをわけるとすれば、
それはイラストレーターは若干デザイナーよりなところがあるということだ。
個性を持ちながら、クライアントの要望に応えるのだ。
イラストレーターはその個人の人に頼むべきと思わせるほどの
個性がないと仕事が回ってきにくい。
もしいろんなタッチのイラストが描けたらどうだろうか。
すごいだろうが、
あのタッチはこの人とは思い出してもらいづらいし、
どんなタッチでも、どんな構図やポーズにして描けるという人はなかなかいない。
それにもう既にあるタッチであらゆるように描けるようになるより、
自分独自のタッチを探す方に余年がなくて、
自分独自のイラストを研究する方に時間を費やすだろう。
なんといってもイラストレーターになるような人は、
自分の好きなものがはっきりしている人の方が多い。
だからあんな表現方法もできるようになりたいとあちこち試したりはせず、
自分の好きな表現方法を自由に選び、
のびのびと描く。
そんなところがアーティストと似ているところだ。
自分の好きな世界観、表現方法。
かれどもクライアントからこんな世界観のこんなポーズで、
ここに余白を入れてほしいとかいう注文が来る。
またはこの文にあったイラストをお願いと。
だからそれに合わせて、自分のタッチで描き、表現する。
そんなことを最近考えた。
デザイナーは個性がなくてもいいと思っていたが、
それは大きな誤りだった。
個性がなければ誰でもいいとなってしまう。
別にあなたでなくても別のデザイナーでいいとなってしまう。
私はそんな仕事がしたいわけではない。
もちろんやりとりのしやすさとか、
やりとりをする中で汲み取ってもらいやすくて、
このデザイナーさんがいいなと思ってもらえたらいい。
とはいっても、
そういうのは分かりづらいし、
表に看板にしておくには若干無理がある。
それにそんなところで仕事を取ったところで、
将来名のあるアートディレクターやクリエイティブディレクターのように、
あの人にすべてお任せしてみたいと
思わせることはできない。
「すべてお任せ」
これはデザイナーなら夢のある話ではないかと思う。
少なくとも私はそうだ。
隅から隅までブランディングをしてみたい。
クライアントのそれはどんな表現方法にするのが、
一番有効かと考えるのは大変だろうし、
有益でなかったらと考えると恐ろしいことだが、
うまくいったら大変喜んでもらえ、クライアントに利益もでる。
それだけやりがいがあることだ。
さてはて、
私は今までアーティスト面のことを
ほとんどやってこなかった。
自分の個性を打ち出すことなんて、
恥ずかしいし、受入れてもらえないだろうというのがなによりあった。
また出てくるが、
やはり母の反応の仕方がトラウマであった。
それでも試してみないとわからないし、
受入れてもらえる人が最初はあらわれなくても、
発表して試行錯誤を繰り返すことに意味があると思う。
その結果、いつしか受入れてもらえるところに辿り着くのだろう。
辿り着かずに亡くなり、
亡くなったあとに取り立てられるなんていうのは、
昔の画家ならよくあることだが。
そんなことは今は考えたくないし、
考えて尻込みしたところでしょうがない。
問題はそこではなく、
理路整然とクライアントの要求に応えてクライアント色でやってきた
デザインの仕事と、
その横にアーティストーまったくこれと個人を出せずに、
あっちこっちへとふらりふらりと表現方法が定まっていない作品を
並べてもいいものかということだ。
さらには、アーティスト面で描いた絵は、
このブログでわかるように私の荒れ果てた内面を表しているものもあって、
非常にグロテスクであり、
(表現方法がグロテスクというよりその世界観が)
見ている人にとって不安にさせるだろう。
この人にデザインを任せて大丈夫なのだろうか?と。
たとえば、気に入っていて、その表現にテーマがあればいい。
そうすれば話はついて、
ああこういうのが個人的には好きなんだなとなる話で済むのだが、
テーマもなく、
表現方法も一定しないようでは、
一体どうなっているんだろうか?と、
あまりにも駆け出し感がぬぐいきれないではないだろうか。
まだ暗中模索の段階なのだなと。
そうでなかったとしても、
まるで自分が定まっていない、
自分がまだ見つけ出せていない人のような、
こだわりのない軽い人のような、
アートが本当は好きではないのでないのでないか?というような、
まるで転職を繰り返してきた人に対する悪いイメージの面と同じような、
軽い印象を受けるのではないのかと。
いろいろ理由をあげたが、
一番の悩みどころは、
私の荒れた病んだ内面が表れている表現物を、
デザインの横に陳列させるかということだ。
さとられないで、
こんな絵も描きますよーとしておけるだろうか、
しておけないだろうな。
よくデザイナーでも、
自分のアート作品を横にならべておけている駆け出しの人がいるけど、
職場の人にもクライアントにも、
その自分の心の中を見せるような恥ずかしい状態をやってのけるなんて、
私にはできない気がする。
いや、できるんだけど、
したところでなにが起こるかわからなくて、
こわい。
あの人こんなこと考えているんだぁとか、
ええ、意外こんな病んでるんだ、こわ~いなんて思われて、
余計、遠巻きから見るみたいになったら嫌だなぁってこと。
前はできさえもしなかったんだけど、
ここまで失うものがなくなると、
それより年齢を重ねたからか、
若い恥じらいがなくなったのか、
もうバーンとやってみなきゃ若くないんだから、
やってみるしかないでしょ、
いつやるの?今でしょーみたいな。流行をはさんでみました。
いや、別にそこまで年取っている訳ではないんですけどね。
でも若いとかいってられるのも今の内しかないわけで。
これはよいドローイングだなと思っても、
なかなか、
発表するっていうのは、
恐いですよね。
これよいなと思うドローイングほど、自分の内面が出ているようで。
それを否定されたり、受入れてもらえなかったら、
自分自身を否定されたり、受入れてもらえなかったようで、
ダメージが大きいですよね。
それに知り合いに見せたら、
今までの私へのイメージにどんな打撃や衝撃を与えることになるかわからないです。
だって、私に対するイメージって・・・。
それなんです。
イメージって恐いです。
第一印象では、
優しそう、おとなしそう、まじめそう、素直そう
というのがあります。
それが話したり一緒の時間をすごすことで、
元気とか、楽しいとか、変とか、つかみどころがないとか、がんばりすぎるとか、
ちょっとめんどくさいとか、たぶんうっとうしいとか
になるわけですよね。
さらに、長時間すごすことで、
これは確かかわかりませんが、
心に闇があるとか、傷を抱えてるとか、重いとか、そういうたぐいでコワいとか
一番勝手だなと困るのが、
印象と違った
という理由で勝手に好印象を抱いておいて、
勝手に幻滅して離れていくパターンですね。
そんなやつは◯◯◯しまえと思うんですけどね。
ところで、いつから、ですます調になったんですか?
なんの話でしたっけ?
ああ、そう!
知り合いに見せたらイメージに与える衝撃のことでした。
今、良好な関係を築いている人たちって、
この第2印象あたりと、第1印象あたりをまぜた感じだと思うんです。
だからこそ良好な関係でいられてる。
つかずはなれず、
別に私を嫌ったり、特別に避けたりするわけでもなくという。
けれど別に向こうからなにか特連絡があるわけでもないです。
そういう関係ですから、
尚更、こんなものを見せて、
衝撃を与えたら、
どうなるかわからないなと。
そして定まらない表現方法に、
ファンなんてつかないだろうと、
弱気になるのであった。
私は応援してくれる人が必要だ。
だけど似たような業種業界の人間関係の中で、
嫉妬なく応援しつづけてくれるなんてことあるのだろうか。
応援してくれていても、
心の中で嘲笑したり、粗をさがしていたりしないだろうか。
そんなことより前に、
まず応援してくれる人自体が表れないかも。
やるまえから落ち込んでいます。