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Facebook疲れ

2013-02-23 04:58:45 | 無題
Facebookの友達が増えた。

申請を出してすぐに承認が来た。

さらに意外な人から友達申請が来た。

嬉しかった。


でも、もう既にちょっとFacebook疲れを経験した。

くだらないネタを思いついたのだ。

そしてそれのバージョンや、よりよい言い回しを考えていたら、夜が明けた。

眠れなかったのだ。

眠れなかった理由は他のこともあるが、気にならなかったわけではないことは確かだ。


先の記事にあったより親しい人たちと行っていた方が、

楽しかったというのはこのことだろうか。

ニュースフィードにあまり親しくない人のいいねが流れるのがいやだということが、

その記事には例の1つとしてあった。

ニュースフィードは今のところいやではない。

むしろいいなぁと思う人に申請を出したから、

その人たちのセレブリティな体験が早く流れないかなぁと思う。

確かに申請された側はなにか期待しているわけじゃないから、

あまり趣味じゃないニュースフィードが流れると、

Yahooのトップページのニュースを目撃したような感じになる。

それまでは自分好みの傾向のものが流れていて、

パーソナライズされた空間にいる感覚だった。




縁遠い人と友達になったわけだが、

そうすると、しやすいはずのいいね!もつかない。

友達がいるのにいいね!がつかない状況って、よく考えるとなんだかかなり悲しい。



ホントにくだらないことを投稿しようと思っていたがやめることにした。

まるで公衆の面前で大すべりするみたいで、

反応なくてもいいと思っていても、

そういうことが平気できてしまう自分がいやだし、

もしかしたら、そのあとすごい落ち込むかもしれない。




しかも今のところ、自分がつくったものに対していいね!されていなくて、

私が見聞きしに行ったことについては、いいね!がついている状況だから、

相対的に見てしまうと、

自分の作ったものがよくはないみたいに感じてしまう。

間違いなく確かに、クライアントさんからも、普段ほめない営業からも、

よいと喜ばれたものなのに。


やっぱり仕事のことは、広告ということもあって、

ステマみたいでいいね!とはしずらいのだろうか。

いいね!したら、じゃぁ参加してみてとか、買ってみてみたいになりそうみたいな。


いや、それだけじゃない。

私が最近気に入っている石鹸の写真をアップしたんだけど、

それにもいいね!はつかなかった。

私は友達のつくったものに対して、いいね!を押しているけど、

その友達は私が生み出したものに対して、いいね!としない。

そのイベントにはその人の憧れの人が出ている。

だから“そのイベントに参加した私がいいね”で、

私自身はいいねではないのだなと再認識させられる。

普段、私が連絡すると嬉しそうにするから、

尚更辛い。

むこうからは連絡あったもう随分ないしね。


“応援しています”といわれたとき、嬉しかった。

けれどもその言葉は嘘だったのかなと思ったりする。

先の講演であった、

その人にとっては「大きすぎる幸せ」だからいいねが押されないのだろうか。


Facebookに仲のいい友達がそこそこいて、うらやましいなと思う。

写真共有のためにどうしてもと誘われてやったけど、

今は、孤独をより強く感じる方面に進んだ。



一番悲しいのは、お世話になった方へメッセージや申請をしたけど、

保留にされていることだ。

とってもハートウォーミングな人達と感じていたから尚さらツライ。

昔の人と連絡取れるなんてうたい文句なの、

最近会えなくなったばかりの人たちの方が、メッセージを送らなくても、

すぐに承認してくれる。

―覚えているからね。



友達申請は来るのに、いいねが押されないのって、悲しいな。



SNSをやることで、クリエイティブな頭が活性化されるなと感じていたけれど、

簡単に反応を起こせる場で反応がないと、

さすがにツライ。


なんだかクリエイティビティな活性化が起こらなくなってきた。

このまま終わるのかな。


Twitterとかなら、リツイートしたりコメントするのは、

いいねよりハードルあるから、

なにもリアクションが起こらなくても平気だ。



私はファンができにくいなぁ。

簡単にファンができる人はなにかコツでもあるのかな。


明日はSNSが気にならなくなってますよ~に。



どんどんネガティブになっていってる。

2013-02-18 02:54:12 | 無題
事業縮小で解雇されてから、1ヶ月半以上経った。

雇用保険の認定日なのに、

1社も応募できていない。


初回認定日だから就職活動実績はもう足りていることになっているけど、

初回認定日相談票というのに、

応募はしましたか?とアンケートがある。

していないと正直に書いて、嫌味を言われたらいやだ。

できていないと自分で自覚しているから、

余計、ツライ。


焦ってどこかへ応募しようとしてみたが、

希望の職務内容と違う。

広告系か企画系がいい。

新規事業の企画があったが、

自分がそんなにネットサービスを利用しているかというとそうでもない。

スマホも持っていない。

新しく提案したいサービスもない。

それでは新規企画者にはなれないだろうと思ってしまう。

BtoCのサービス経験者とあるが、BtoCのSNS広告はサービスの経験じゃダメだよなとか。


広告企画にたずさわりたいけど、

そちらになると今度はweb広告に関する用語が分かる方とある。

広告に興味があるというわりには、広告用語をそこまで知らない。


じゃぁ、デザイナーだと思うんだけど、

今、デザイナーはゲームならたくさん求人があるけど、

広告系はそこまで多くない。

私はゲームが楽しく感じたことがあまりないので、ユーザーの楽しめるゲームは作れない。


なによりもポートフォリオができていない。

仕事では2日でデザインを仕上げたこともあるのに、

自分のポートフォリオとなると、

どうすればいいのかなぁとか、これだとだめかなぁとか、

こんなこと言われるかなぁとか不安で、

進みが悪い。


現実逃避に自分の好きな芸能人のブログやTwitterや、

ネットで活躍してる人の今なんかを見て過ごしてしまう。

それに就職中から必要に迫られて来て買おうか迷っていたものを検討吟味に時間は経っていく。



どんな瞬間も私を落ち込ませるのは、

過去経験した”言われた言葉や反応”だ。




面接ではやる気をみせなければいけないのに、

どんどんネガティブになっていってる。









払うお金の感じ方

2013-02-15 08:45:28 | 無題
よく、すごいなと思う人の人生談をテレビなんかで聞くと、

それでふら~っとしてたんですよ、とか

ちょくちょく顔出してとか、

呼ばれてとか、呼ばれるようになってとかっていう話がある。


そのふら~っとしていた時期がよしとされて

(世間一般からする、ええ~みたいなのはなく)

うまい具合にだれかに呼ばれる。


タモリさんも、ついさっき見た松尾貴史さんもそうだ。

グラフィックデザイナーの自伝本なんか読むと、

1つ目の仕事(結婚式のカードとか無料仕事だったかな)

から次々仕事が来るようになったり(水野)

学生のときと、デザイン学校出たての頃は落ちこぼれで、

先輩にも先生にもおまえ向いてないみたいに言われた、

勝手にデザイン事務所にいりびたっていたとか抜かしながら、

今はこうやって本出してるじゃないかというような人がいる。


私の方は、

また1に戻ってしまった。

幸いなことに0ではない。

技術と、1くらいにはなった技量があるから、

以前と同じ貯金額をもっていても、

以前より心に余裕がある。


女優を目指していた頃、

と、ここでその頃の話をし出すところだったけど、

長くなって、本来いいたかったことになかなか戻れないので、

結論を書く。


女優を目指していた頃、

私はその「女優を目指すためにかかる費用」にかなり頭を悩ませていた。

そればっかり気になって、

レッスン代もこんなにかかるとか、

ここをやめて、他で学ぶとしても、よりもっと掛かるし、

どんなところなんだろう?と不安で信頼もできず、

そちらに入って修業しても、技術が身に付くかわからないと思うと、

足踏みしてせずにはいられなかった。

―それで結局、いたところで満足なレッスンが受けられなくて演技が上達しない、

将来自分のためになるものがない、役もここではもらえない可能性大と結論して、

所属していたところをやめたとき―

それでも次へいきたいと思いながら、

お金と将来の見えなさ加減と年齢から、女優を目指すことをやめることにした。

もう2、3年もの間、その世界で研修生ながらすごしたのに、

とくに進展していないという経験感覚からも、

次トライはキツいなと感じた。

時間もお金も、費やした分にたいして、得たものが少なすぎた。


デザイナーを目指した時に払ったお金と同じでも、

事務所や劇団、名のある俳優が主催する研修といったところに定時されている金額は、

大金加減の感じ具合が、大きく違った。


それを今感じていたというのが今回の記事の話。



職の違いも、感じ方に影響しているのかもしれない。

「デザイナーは職能」

そういう言葉があるように、デザインは学んで、自分で研究していけば、

仕事に就けるくらいにはなる。

その道も一歩一歩着実に階段があるのを踏みしめ、感じながら、

次はこれが自分の課題だなと分かる。

経験していくとそういう段階がある。



だけど女優はそうはいかない。

まずどうやって演技を身につければいいのかすらわからない。

こうかな?という手探りだ。

欧米や韓国あたりはちゃんとしたメソッドがあって、

欧米なら名の知れてるスクール、韓国なら演劇科のある大学にほとんどの俳優女優いっている。

だからかと、納得する。

“魅せ方”をなんかだか、みんな心得てるなと感じていて不思議だった。

映像ならではの。

演技っぽい演技なんだけど、そこに魅せる力がやどっているのはすごいことだ。
(演技っぽい演技で、魅了されないというのじゃく)

そういうのはやはり、できあがったメソッドを、

大学なり、伝統あるスクールで学んだところから来ているのだなと思う。


そういうのは日本にはない。

あるんだけど、そういうとこで学んだ人より、

どっかっからすっごく若いときに見つけ出したキラ星を、

どんな場面でも

(厚みある時代劇でも、CMでも
(CMで芸能人を使うのが標準になっているのは、世界からしたら珍しいことだ))

使って置けばいい、客寄せになるからっていう感じだ。

―所属していたところの監督が「宝塚の人が宝塚を出てからも

コンスタントに仕事があるのは、宝塚の人にはかならずファンがついているからだ、

役に配置しておけば、そのファン数だけ必ず売れる。宝塚のファンの人は熱狂的だから。

だから宝塚くささが抜けなくて、ちょっと舞台に不釣り合いな演技の人でも配置するんだよ。」

と言っていた。

驚きと、驚嘆と、それまでのモヤモヤが腑に落ちる私にとって衝撃的な話だった。

そういうカラクリがある。―



適材適所なんて端折って、カッコいい、カワイイ+αで人気を得ている人に

とりあえず割り振っておけばいいという感じ。

そうすればとりあえずは赤字は逃れられること間違いなしだから、

自分は責められないと思っているのだろうか。


味のあるいい役者さんがここぞのところで使われるということが、

どんどん少なくなってきているように感じる。

ここぞの脇役までも、役に不釣り合いな人を配置するケースをよく見る。

客寄せのためなのか、事務所と制作側の力関係なのかわからないけど。

システムが欧米や韓国などと、日本は違いすぎる。



だからそんな業界でやっていこうと思うには、

あまりにも道が不鮮明すぎて、

見えなさと、不安さで、

使うお金に対して、情熱ひとつで払うという気にはなれない。


そこがデザイナーと女優を目指すときの違いだなと思う。


年齢や経験も関係しているかもしれない。

経験を重ねて、なんやかんやで、

デザイナーに転職するとき、四分の三は採用だったから、

本当に困ったら、雇用形態や業種を選ばなければ選ばないほど、

とりあえずは私は職につける=生きていくお金くらいにはなるだろうなぁという感覚がある。


さらに年を重ねたからか、様々な業界へ転職したからか、

だいたい社会のことがわかってきた。

私が女優を目指していたときは、会社がどうやってなりたっているのかすら、

憶測の域を出ないというモヤモヤ感があった。

それがそのときの不安に拍車をかけていた。

社会という実体のない、よくわからないものに。

社会と関わるすべてが、今の十数倍もっともっと怖かった。今もまだ少し怖いけど。


そしてそれを形成する、もう既に社会に属し形成している大人というものが怖かった。

どうやって、うまいこと、利益を渡さないで人を雇うかということばかりを、

考えているんじゃないか、

それは例えば、面接の場面で、あまり採用の核心の部分にならないくだらない質問、

それもあまり答えたくないような質問だと、

興味本位のあなたの娯楽のために聞かれているんじゃないかというところまでに及ぶ。

私は金銭面より、そういったところの方が気になる。

でもやはり福利厚生ー保険や残業代をごまかそうとしているたぐいは、

人間性を感じなくて、

一緒に仕事をする仲間をちょろまかして、なんのいい仕事ができるのかと思う。


発信と受信

2013-02-10 19:51:34 | 無題
「Twitpic」のCTOが30日間ソーシャルメディアをやめてみたら人生変わった話
http://www.lifehacker.jp/2012/09/12092730withoutsns.html

上記の記事を読んだんだけど、

なるほど。

では、私がFacebookやTwitterをどっぷり使ってみたらどうかな?


“友人たちの動向を逐一チェックしなくていいのは、実に解放感がありました”

適度に気にして、適度に気にしないということができなくなるのか?


たしかに取るに足らないことも大部分含めて投稿している人もいるけど。



”私はもっとクリエイティブな活動を増やしたいのです。プログラミング、アート、執筆などです。私は創造的でありたいし、制作者でありたいのです。”


クリエティブでいるためには、発信したり、発表する場所がなければならない。

ただ作って、しまいこんでいては、クリエイティブとは呼べないのではないだろうか?

アートならしまいこんでもいいのじゃないかと思う。

アートと呼ばれるものは、なぜか没後に評価される例が大変多い。

亡くなりそうになって、突然別れを大変惜しむ現象も同じだ。

だけど復活したら、どうだろう?

別れを惜しむ人の中で、実際にその人物の発表するものを、

とるものもとらず、対価を払い、時間を飛ばしてまで、

すぐに得ようとし、得るという行動を起こす人がどれほどだけいるだろうか。



話をもどすと、

とりあえず、発信してみる。



悲しい

2013-02-06 16:42:48 | 無題
Facebookをはじめてみて、

昔お世話になった人にメッセージと友達登録を送ってみたけど、

承認もメッセージもなし。

悲しい。

お世話になった人ほど連絡を取りたいのに、

お礼の言葉が重たかったかなぁとか考えてしまう。

私はそんなお世話になった人から連絡を取りたくないと思わせるような人なのか。

と考えてしまうほど、ネガティブになってしまう。