ごめり語。

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ごめんね、ヴァンジ

2007年06月03日 | 日記
まるで新聞が空白をつくれないように、まるで狼少年がホラを吹きまくるように、私は連日まぬけなことを書き連ねています。新聞は卑怯なので、例えば見出しを大きくすることで事の重大さを示そうとしますが、狼少年はきっと、声を大きくするとか、荒げることでしか表現できなかったことでしょう。そういう意味で、私は狼少年にシンパシーを感じます。私はヴァンジ(ジュリアーノ・ヴァンジ:Giuliano Vangi)から受けた衝撃を語りたいのですが、願わくば、それが狼少年の叫びとして受け取られますように。私ごときが、彼の作品を汚すこともあるまいと言い聞かせて、なんとか前進してみよう。

クレマチスの丘」でクレマチスを見るということは、行ったことのある方ならわかると思いますが、すなわちヴァンジの作品を見るということです。ヴァンジの作品を見たくて「クレマチスの丘」に行ったわけではなくて、クレマチスを見たくて「クレマチスの丘」に行ったということです。最初はそれこそ余裕しゃくしゃくで、作品を冒とくするようなマネさえしていたのですが・・・。

↑冒とく

私は「composizione(コンポジション)」という絵画に驚愕しました。1987年の作品で、テンペラ、鉛筆、木炭を用いて描かれたと記されています。私はこの作品を、ず~っと長い間、飽きることなく眺めていました。何かこう、圧倒されちゃったわけです。「達観」「闇」「観念」「諦念」「生」というような言葉たちが喚起させられたのですが、言葉にしてしまうと嘘くさくなってしまう。そもそも「composizione」とはどういう意味でしょう。イタリア語かな?英語の「composition」と同義なのかな?

この絵が置かれている場所は絶妙で、二階から階段を降りてゆくと、その正面の壁にかかっています。その右側はガラス張りになっていて、そこから光がさしこんでくる。そういうわけで、その光と作品の影のコントラストが面白い。そもそもこの作品のテーマ(もしそういうものがあれば、という仮定の話ですが)のひとつは<光>だと思うのですが、たまたま私は偏光サングラスをしていたので、それがよかった。見る位置を変え、眼鏡を変え、何度も何度も、繰り返し眺めてみました。

ヴァンジの志は、きっと彫刻の中にあるのでしょう。では、絵画はどうなのか。彫刻のためのデッサンなのでしょうか。面白いことに、彫刻のためのデッサンと、自らの彫刻をさらに描いたものと、2種類あるのではないでしょうか。ともあれ、少なくとも「composizione」は、彫刻のためのデッサンではないように感じました。そうして、この作品を見た後、彫刻作品もじっくり見ましたが、もちろんこれらも素晴らしい。特にお日さまの光の当たらない方にある作品群が私のお気に入りでした。

「私と宗教彫刻 VANGI」という冊子が100円で売っていたので、それを買って帰ってきました。そして、やっぱりと思いました。極論すれば、彼のほうから十字架に近づいたわけではないということ。むしろ、ヴァチカン側が、彼の作品の中に<聖なるもの>を見出したということ。

東京国立博物館に行くと、レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」を見ることが出来るそうですが、立ち止まって見ることは、ほぼ不可能のようです。そんなの、泣きそうですよね。しかし、ヴァンジの作品ならば、ゆっくり見ることが出来るでしょう。そうして、少なくとも「composizione」は、写真で見て欲しくありません。本物を見ないと、何も見たことにはならないというような、そんな作品だと思っています。なので、この作品は撮影していません。それで、他の作品ですが、ホームページがちょっとわかりにくいんで、あえてこのページのリンクを貼っておきます。「ヴァンジのメッセージ」。それと「チューブの中の女」。


睡蓮(という作品名ではありませんが・・・)


石段(石段のど真中に木が生えていました。根元の部分に穴を開けてあります。)

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