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農業の神様 宮崎安貞
↓ 虚無僧さんの献笛の姿
宮崎安貞という人物をご存知ですか?
農業の神様と謳われた人物で、その書斎は今もなお、福岡市西区女原に、周船寺最古の建物として保管してあります。
宮崎安貞翁は、今から360年以上前、元和9年安芸の国広島に生まれました。
父は、宮崎儀右ェ門という浅野藩主で、200石食み山林奉公を勤め、安貞はその次男でした。翁は25才のとき、福岡藩主黒田忠之に200石で召し抱えられたが、やがて官を辞し、九州を始め山陽道、近畿、伊勢、紀州の諸国を巡歴し、各地の老農を訪ね、その経験を聞いて種芸を学び農の集成と研究を積みました。志摩郡女原に帰ってからは、一農民となって自ら鋤鍬をとり、周りの人々と辛酸を共にしながら農事改良と、農民生活の向上に心魂を傾けました。
翁はこの体験を基礎とし、さらに中国の農書を参考に筆をとり、艱難を乗り越えてわが国の農学樹立に情熱を傾け、元録9年ついに不朽の名著「農業全書」をあらわす偉業を達成しました。
翁は62才のときに再び黒田藩に迎えられ、儒学者貝原益軒やその兄楽軒とも親交を結びました。農業全書の序文は益軒が筆をとり、楽軒は第11巻を捕冊し、出版あっせんの労をとりました。この全書は戸藩主徳川光圀も読破し、農事に欠くことのできない農書だと激賞したそうです。
安貞翁は殖産事業にも力を尽くし、私財をなげうって荒地を開墾し、風防の植林や貯水池づくりに努めました。宮崎開(びらき)と呼ばれている6.5ヘクタール余の田畑はその遺業ですが、元禄10年7月23日、全書の発行を待たず75才で求道者のような生涯を閉じました。遺骨は女原村小松に葬られました。
JR九大学研都市駅の南側が、「宮崎開き」の地にあたり、現在農地ではなくなっています。
地元の方は碑を建立し、その偉業を後世に残そうとされています。
とここまではサイドバーにある「げなげな ふるさと情報」からお借りしたものです
ちょうど一年前に私もブログに乗せています 見てください↓
http://blog.goo.ne.jp/goo21-38/e/43206d298cd7714a73edfd8f0a66a2b0
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会長を福岡市長
とする顕彰祭が
ありました
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農業の神様と謳われた人物で、その書斎は今もなお、福岡市西区女原に、周船寺最古の建物として保管してあります。
宮崎安貞翁は、今から360年以上前、元和9年安芸の国広島に生まれました。
父は、宮崎儀右ェ門という浅野藩主で、200石食み山林奉公を勤め、安貞はその次男でした。翁は25才のとき、福岡藩主黒田忠之に200石で召し抱えられたが、やがて官を辞し、九州を始め山陽道、近畿、伊勢、紀州の諸国を巡歴し、各地の老農を訪ね、その経験を聞いて種芸を学び農の集成と研究を積みました。志摩郡女原に帰ってからは、一農民となって自ら鋤鍬をとり、周りの人々と辛酸を共にしながら農事改良と、農民生活の向上に心魂を傾けました。
翁はこの体験を基礎とし、さらに中国の農書を参考に筆をとり、艱難を乗り越えてわが国の農学樹立に情熱を傾け、元録9年ついに不朽の名著「農業全書」をあらわす偉業を達成しました。
翁は62才のときに再び黒田藩に迎えられ、儒学者貝原益軒やその兄楽軒とも親交を結びました。農業全書の序文は益軒が筆をとり、楽軒は第11巻を捕冊し、出版あっせんの労をとりました。この全書は戸藩主徳川光圀も読破し、農事に欠くことのできない農書だと激賞したそうです。
安貞翁は殖産事業にも力を尽くし、私財をなげうって荒地を開墾し、風防の植林や貯水池づくりに努めました。宮崎開(びらき)と呼ばれている6.5ヘクタール余の田畑はその遺業ですが、元禄10年7月23日、全書の発行を待たず75才で求道者のような生涯を閉じました。遺骨は女原村小松に葬られました。
JR九大学研都市駅の南側が、「宮崎開き」の地にあたり、現在農地ではなくなっています。
地元の方は碑を建立し、その偉業を後世に残そうとされています。
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