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朝日記210405 (続き 3)マイノング 2.Meinongと哲学 3.認識論でのいくつかの事態

2021-04-06 16:37:50 | 絵画と哲学

朝日記210405 (続き 3)マイノング 2.Meinongと哲学 3.認識論でのいくつかの事態

 

2.Meinongと哲学 3.認識論でのいくつかの事態

 

~~~本文~~~

 

  1. Meinongと哲学 

Meinong on Philosophy

  

Meinongは、広く概観する哲学者speculative philosopheでもまたいわゆる哲学システムの思想家philosophical system thinkerでもなかった。

にもかかわらず、かれは徐々に哲学体系を展開し、それは主流の領域を含め、その中心にかれの対象理論を据え付けることになった。

Meinongaの術語は確実に増していき、かれの理念と扱う対象の数も確実に増えていった。-そのうちのいくつかは今日再吟味するに十分な意味のあるものである。

Meinongの形而上的反映では、哲学とはなにかを定義して、なにかを与えるものではない。彼の自叙伝においても、かれはそのための概念的な厳密な形式を見出していないことを認めている。

哲学は単一の明確区分化された科学として考えるべきではなく、こころの現象に関係する事実についてなら、その必要な科学の集合体であると考えるべきであるとした。(1921a: 101; 1885: 5)

 

 

対象としては、特定の哲学的なものではなく、“それがもし人間の思考主題に関わる視点で扱ってよいなら、経験できるものはすべて、哲学的に扱うことができうる”とした。(Hicks 1922: 5)

それ故に、心理学はその哲学的思考の基礎的学問になった。しかしさらにさらに基礎的な学問となったのは対象の理論the theory of objectsであり、これはもっとも一般性があり、共有理解でき、なおかつ基本の科学なのであった。

 

 

Meinongによれば、その範囲は形而上学より広いものであった、なぜなら形而上学は存在するものexisting thingsのみを扱う、形而上学的なものは現実的the realに限られるからである。

形而上学は “実際的なものとのよしみ合うという先入判断”[1]によって決定されるので、それは後天的な普遍科学としてのみ関わるものである。しかしながら、対象の理論はその領域を超えていくのである。

 

それが先見的に対象について知られていることができるものはすべて関係するとするので、先見についての科学a priori scienceであり、そのような対象を基本的に扱うのであり、彼の言葉をつかえば、それは「全体性のなかで与えられたものと関係していく」(1904b, §§2, 11)

Meinongは彼自身を経験主義派でもなく、合理主義派でもない:そのかわり、彼は心理学的思想家でないにもかかわらず、経験的である者としての理解を求めた(1907, §§25–6)

 

 

この“研究調査での経験的手法は 先見的科学であるにも関わらず、その方法が 下からの哲学として特性化することができ、使える方法としてはボトムアップ思考の切り口を持っている。

経験(後天的)科学と対象科学(ある思考枠組みでの先天的科学[2])の間には重要な相似がある、つまり双方とも与えられたデータからはじまる。

経験的科学での実際は、ここからのデータが経験である。

経験的科学の場合ではこれらのデータは経験である、一方対象の理論からのデータは通常、存在しないものnot existentか そこにたまたまそこにみえているものsubsistent [bestehend]、もしくは単に実在の外側outside of being [außerseiend]にあるものでさえある。(1917, §11: 103 [92]; 1921a, Sect. 2.F: 130).

この“研究調査の経験的手法”にRussell (1904: 205)が歓迎している。さらに、言語的事実についての一般的および特定的な知識が、さらなる理論化の基礎として付加的データを我々に供与することができる。

 

 

Meinong (1904b, §10: 33 [103])はかくして言う“対象の一般理論は文法から学習しなければならない、それは対象の特殊理論が数学から学ぶことが可能もしくは必須であるのとまさしく対応している” (cf. also 1904b: 15 [88]; 1907: 109)

彼はまた学生につぎのことを語った、ある調査研究には言語論的データから始めるのが最良である、そして それ故に 一般人がなにかを考えることからの質問に対する解答はこれか-それかの状況または言葉について考えることが他のすべての問題への不可欠な前提条件である(Nachlass, Karton XI/e; cf. Manotta 2005: 65–68)。

Meinongは倫理、美学そして論理についても実用的な基本的な学問を思考した。

彼は実際的な学問として“論理”の慣用的使用を対比した。それはBrentanoからの適用であり、そして Port-Royal Logicに共存するものであり、Kantおよび殊に Husserlの”形式“または”純粋“論理概念、さらに記号論理、物流論理”Logistik”、および論理代数学と整合しうるとした。これらすべては、彼の対象の理論の部分としてみることができるとした。

 

 

かれは理論と実用的学問との間の区別を理論と実用的興味の違いに置いたのであり、科学において行われる課題案件同志相互との違いに置いたのではなかった。

理論哲学の教えとは対照的であるが、形而上学、対象理論、そして知識の理論などが認知論的助けのもとで決定されるのである。これら実用的学問によって実用的目標を設定するのである。

それらは、建築、および自然乃至軍事科学などと全く対比されるような応用科学もしくは工学技術の分派のようなもの[3]とみることができる。

 

 

 

 

  1.  認識論でのいくつかの事態

 Some Epistemology Matters

 

 

認識論はその対象としての二重事実を持っている:known fact(;既知の事実)とfact of knowing(;知識の過程にある事実)である。

知識の過程にあるものはひとつのobjective(state of affairs(;オブジェクティブ(事態の状態))、4.3.1以下をみよ)を判断しつつある。これにはentitlement(;獲得した名称)のもとでおこなわれるが―externa(;外的) およびinternal(;内的)の双方についてである(1915, Chapt. IV)。

 

 

external entitlement(;外的獲得名称)は、つぎのものによって与えられる、判断されたobjectiveが真もしくは真へ誘導性のもの、そしてevidence [Evidenz](;証拠)による内的性のものである。

証拠は、確実性のある主体・主観的感覚ではない;それは(確実性の有無にかかわらず)判断過程にあるこころの行為のobjective;事態の様相であるが、こころの内容の様相ではない。

Brentanoを承け、Meinongは知識の理論への基礎として証拠の概念の方向に向かった。

Meinongはたとえば、Brentanoの見解である“direct–indirect” (;直接―間接)および“a prioria posteriori”(;先天的―後天.的)の区分についての証拠の見解を容認した。

 

 

直接的証拠は、inner perception(;内面的感知)であり、これは後天的[4](1906, §1; 1915, §55) と先天的証拠である公理的真からの知識[5](1906, §1; 1915, §55)との間の境界線[6]にあるケースとして与えられる。

MeinongはBrentanoとおなじく、感知することと記憶することはつねに判断することのケースであり、それはその場の状況を表現描写することではないとした(1915: 606–7, 613)、そして判断は、直接判断からの結論なら間接的な証拠でると考えたのである。

 

一方、MeingongはBrentanoの証拠の理論から、しかるべき視点において相違している。

1886年にすでにMeinongは “evidence for presumption”(;”想定のための証拠“)[Vermutungsevidenz]という概念を“evidence for certainty”(;”確実性のための証拠“)に加えたのであった。

彼はつぎのようにとらえていた;我々は記憶と外側での感知を、そして盲目的ではないが、偶然[7]時に発揮する推測力[8]を信ずるのである。これらの能力への我々のtrust(;信認)は他からのものでないにも関わらずである。

 

 

この確信はさらなる知識の源泉として数えることができるとMeinongは結論したのであった。

それは直接的証拠としてそれ自身が明示するが、一方である証拠が誤謬のものであるかもしれない、不確定であって、そして、彼はそれを“direct conjectural evidence” ([unmittelbare Vermutungsevidenz], 1886: 30–34) (;“直接的想定証拠”)[9]とよんだのである。

Brentanoは、“確定性のための証拠”[10]のみを受け入れたので、Meinnongの概念には強く反対した。彼は考えた、Meinongの導入した認知の新しい特別のモードは、ゴート族の結索の絡みを解くのではなく、ナイフで切断する乱暴なものである(Kindinger 1965, 22–3)と受け止めたのであるー実際にこの不一致がその後の相互の疎遠の始まりとなった。

 

Meinongはobjectivesをideal objects(;理想的対象)[11]としてとらえ、Brentanoの定義;証拠手段による真[12]の定義を放棄したのであった。

Brentanoは、真についての対応理論を拒否した。彼は、(他のもののなかにあって)” there are no unicorns;ユニコーンは実在しない“という真なる否定裁定に対応する如何なる現実(in reality)を見ることはないとしたのであった。そして、それらの証拠による判定を真と定義するとしたのであった(Brentano 1930: 139 [82]); see entries on Brentano and Brentano’s Theory of Judgement)。

 

 

Meinongは真についての一種のidentity theory(;同定理論)を採用した、この理論はcorrespondence theory(;対応性理論)のborderline case(;適用境界線のケース)として見ることができる(Meinong 1915, §7; 1910, §13; 本論 5.6をみよ)。

Meinongによれば、true negative judgement(;真なる否定裁定“)である“there are no unicorns”(;”ユニコーンというものは存在しない”)ということには対応する対象としてのsubsistent;従属的存在のobjectiveを所有するというものである。ここで対応する対象とは(ユニコーンの非存在の事実のことである)。

もし、件のobjectiveがnot subsist(;従属的存在をしない)つまり(has non-being(;(非-実在を所有))ならばjudgement(;その判断)は誤りである。

 

 

しかしながら、Meinongが真の定義にnotion of evidence(;証拠概念)を使わないにも関わらず、それをtruth criterion(;真の判断基準)のために残していたのである、なぜなら真も“proprium” of evidence (1915: 463),(;“証拠の性質)としたからである(1915: 463) そして evidence for certainty(;確定性の証拠)および(for presumption(;事前の仮想性)については前者は真を成し、後者はprobability,;確率を成すとし、我々に受け入れさせたのである。(Meinongの理論の古典的批判はNelson1908: 479–485である。)

 

 

Meinongの認識論は知識の分析理論との適合性がよいことが知られている。

証拠についてのChisholm(1966: 38–55) rules(;規則のいくつか)はconjecture(;推論)のための直接証拠のMeinong概念の一種の応用である。

 

さらに、Meinongの取り扱いはで、価値概念として truth or entitlement (;真もしくは資格)のような認識論的概念の取り扱いは、内的主義の位置への認識論的規範性を予見するものである。

 

 

 

それは次の意味で傾聴に価する;Meinong (1915, §54)は、知ることすべてについてそれ自身の有効性の原理[13]、これは一種の第一発言者裁定原理[14]であるが、openness(;公開性)でありそこから知ることのすべて正しいことにはならないという原理[15]、つまりcritical openness(;限界公開性)の原理からの制約をうけることを関係づけたのである、このことは試験自体がもつ限界ということはつねにありうるからである。おもいだすがよい、判断過程の終了点で残っている未達の証明からの判断はかならずあるからである。 

 

 

 

 

[1] the prejudice in favor of the actual

[2] paradigmatic a priori science

[3] applied sciences or branches of engineering [Kunstlehren]

[4] posteriori 

[5] a priori (

[6] borderline

[7] in memory, outer perception, and induction not blindly and by chance

[8] induction;

[9] direct conjectural evidence;[unmittelbare Vermutungsevidenz], 1886: 30–34)

[10] “evidence for certainty”

[11] ideal objects

[12] trueth

[13]  “principle of the self-validity of all knowing” (Selbstgültigkeitprinzip)

[14] fallibilistic methodological-epistemological “principle of the critical openness of all knowing” (Unabgeschlossenheitsprinzip) ;公開性においての方法論および認識論は基本的に誤謬を内蔵しているという前提にある。(理性は完全ではなく、誤りを冒すという前提)からの警鐘である(荒井)

 


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