論文IX1.8章 結論として:「技術圏」における人間自律
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1.8 結論として:「技術圏」における人間自律
筆者は「技術圏」[i]の新しい科学についてその例を提示することを試みてきたが、これは科学から人文学に至る領域を越えた学問の寄与を要求するものである。
この努力の論理的根拠は以下においている。すなわち生命体の進化の過程でみるときに、まず産業革命以降を、人類がその頂点に到達したとみて「人類の新世」(anthropocene)と定義した。つぎに、それ特徴づけるのが、「技術圏」とし、さらに、経済をこの「技術圏」において如何にとらえるかという根拠に、ハイエク(F.A. von Hayek)の有名な表現がある;「(経済は)人間行動の生産物であり、人間設計のそれではない」‘human action, but not of humandesign’におくものである。
このことは「技術圏」を分析する場合に人間中心的な根拠からのいかなる形式を断固排除することを要求するものである。
とはいえ、人間行動への理解は「技術圏」科学の中心的な仕事としてなお残るものである。
これは、人間機関(human agency)という基礎概念について、劇的にとらえ直す要求である。
この人間機関の概念は啓蒙思想時代以降、人間学と社会科学を支配し続けてきたものである。
このための根拠は近来において人間学においての「新物質主義」 ‘new materialism’の登場によって準備されてきたのであった(e.g. Bennett, 2010)。
これらは、もはや機関agency概念を人間個体と不可分性とはしない非‐人間中心的な視点を示唆するものである。しかし、人間個体は物理的には他の実体entitiesと繋がっているものであり、特に人間行動による創作体である人工体[ii](artefacts)と繋がるものである。
しかしながら、この視点はまた、技術決定主義の陥穽から避けることができる:
それは人間中心主義の鏡像イメージは、存在論的には技術が人間から分離したシステムであるという理念となるが、これによって「自然」を扱うときにこんどは「文化」が対極化し、独立した極とすることになってしまい、ふたたび存在論的な誤った概念へと落ち込むことになる(これは有名な「啓蒙の弁証法」問題である( Horkheimer and Adorno,1947を参照)。
著者の見解は、最近の相互作用主義存在論(参照; Barad's, 2007)を支持して、ここでは機関agencyは、常に、また必然的に生物圏をも含むような、「技術圏」のさまざまな構成体との相互作用性の出現という立場をとるものである。
このことは経済を「技術圏」の中心要素として置くと、非常に迂遠なものになってしまうことになる:つまり経済は「技術圏」の機能において人間行動を経由し実現化される領域である。
経済は人間による設計と人間ニーズおよび欲求であるとした説に従属すると見るのではなく、ここでいう経済は、生物圏と技術と結合進化した媒体(the evolved medium)とみるのである。著者は、経済は個人主義の存在論的仮定に基づくべきでないとする。しかしその経済は「技術圏」での分散化された機関(agency)に媒介されている領域でのものであると論ずるものである。これは、経済学の自画像的なイメージとは際立って対照的なものである。
その方法は、我々が「技術圏」において責任的で、また啓蒙的である人間行動への道筋の開発の可能性を示している。
これらのルールは「技術圏」について現在我々が知っているものに基づいている、これはシステム理論の一般原理から来るものであり、本論文で著者が解説してきた内容に対応するものである。
簡単にいうと、これらのルールは、つぎのことを告げているのである、すなわち「技術圏」を考えるときに我々は地球系システム(the Earth system)の多階層の複雑性を認める必要がある。人間は他の水準に十分にアクセスしたり、それを操作することができない;「不能則」(‘rule of impotence’)こと、つぎに行動についての必要な知識と十分におおきな展望にシステム的に欠けている;「制御則」‘rule of control’)こと、さらに高次水準は低次水準に自由度を残し(託し)ている;「非アクセス可能性則」(‘rule of inaccessability’)
同時に、異なる階層は相互に共生的関係(symbiotic relationship)で存在している。
人間は「技術圏」の進化における機能(関数)を満たす;「遂行則」(‘rule of performance’),が、これは「技術圏」が人間のニーズをも満たすことを要求する;「先見則」(‘rule of provision’)
これらを人間自律性ポテンシャルを生かすための航路標識としてのルールとして受け入れると我々はつぎの設問に直面することになる、すなわち人類は、自身についての概念という意味で何処に立っているのかというものである。
「技術圏」について現在の議論ならびに殊にHaffのアプローチ(Donges et al., 2017)では、この論議に加わる人たちから質問は往々にして、人間行動は無力であり、そして「技術圏」決定主義が支配するのであるかというものである。
著者はつぎのように答える、すなわちHaffのルールは深刻な誤った認識であり、これは「新人世」(Anthropocene)の概念を展開するときに、「地球システム」(the ‘Earth system’)と「人類」(‘humankind’)との関係を括り方の場合と同じで、集積と抽象の高階層での議論の陥穽を反映している。
「技術圏」への然るべき経験的なアプローチは、概念上のブラックボックスを開けることであり、そして人間行動としてその「技術圏」での開発を共同決定することが決め手であることへの明確な理解することである。これは、Donges et al. (2017)が実際に要求していることである。
この事実の十分な描像はBonneuil and Fressoz(2017)が示すように近来の経済成長についての重厚な歴史分析と「偉大な加速」(the ‘Great acceleration’)によって与えられた。「技術圏」科学は地球システムについての強力な文脈化、多階層化、多‐スカラー視点が適用されるべきである(Biermann et al., 2016)。
しかし、この分析が「技術圏」からの人間自律と独立を意味すると結論することは、深刻な過誤ともなろう:
我々は「技術圏」進化の原理を理解しなければならないのは、そのなかでの我々自身の役割わりを理解することと、行動の道筋、個人と集合体を同定するためである。これらは実質的に我々人間の自律と価値を確立するために許されることである。
このことは、非常に広くそして奥行のある学際間のアプローチ(Malhi, 2017の概説がよい)を要求するものである。
「技術圏」の人類中心的な視点を拒否することは、人類としての我々の尊厳と自律を喪失することを意味していないと考えている。
事実、我々は、自由と道徳性の理念は、「技術圏」進化の不可欠要素であること、従って、それが「技術圏」での中心的機能(関数)を満たしていることさえも議論できるのである。
この視点において、人間のもつ意図なるものが進化的な革新として概念共有化されることになろう、この革新によって進化は、生物的な機構が内向的発生形成(endogenous goal-formation)特有の近視性を克服することになろう(Dennett, 1995によってこの論筋が形成された)
生物的実体のなかでは、相互作用についての複雑なシステムがあり、そのなかで行動の長期効果を予見するような現象のおおきなグループがあって、ここでは反省性と共感性(reflexivity and consciousness)とが、適応性能と進化可能性を維持するために明確な優位性を生み出すのである。
このことは、今日において人間の思考形式の発現、より具体的には、人間言語と表徴プロセスの発現をもってそれこそが進化であるという説明となり、これはひろく受け入られている。
したがって、この著者としての力点としては、我々は明確な人間性を、「技術圏」についての非‐人間中心的概念とをあえて強調結合しようとするものである。
簡潔にいえば、これは自由意志と合理性(理性)についてカントの論議へ帰ることになる:
我々人間の自律性は、合理性(理性)と責任の執り方について自身を支配するという法を設定することによってのみ構成されうるというものである(Kant, 1788)。
これはカントの定言命題をここで拡張することに直結するものである:我々は応用実践へのみが必要であり、かくして人間と人間社会との境界を超えて、普遍法則の視野にまで拡張する必要があるのである(this partly follows Latour, 2015)。
換言すれば、カントが人間機関agentsについて考えているときのみ、我々は機関agentsについて思考を開始するであろう。その機関agentsとは存在論的(現象論的)に散在した集合体としてである。
最も単純な意味では、我々は、人類中心的な定言命題の概念を却下することである。
定言の形成はカントKantが生み出したものであるが、このことは、かれのその段階においてすでに予測されていたのであった。
「行動に際しては、自らの意志として、自らの格律が普遍的自然法になっているべきである」
このことは以下を意味する、我々が定言を参照するときには人間性を超越して、エコロジー共同体として、さらに、現実の実態の地球システム共同体として一般理念拡張することになる。それによって、人類がこの衛星の管理人としての古くからの仮説感覚としても一致するものである。
このことは経済を設計するために最高の意義のあるものである。経済の制度的設計institutional designによって、我々は「自然の法」を事実上、形作ることができる、つまり、「技術圏」での複雑な機関制angencyを管理する規則なるものを設定するという意味である。
より実践的な意味では、このことは、我々が地球システムでの倫理的な経済を主題にすることを意味し、この倫理によって、我々は定言命題による制度の設計を個別レベルでもチェックすることになる。
例えば、現在の経済的思考は欲望の無際限の増大をベースとしていて、これは人類の自由と想像性(human freedom and imagination)についての共通概念を反映するものである。
定言命題の意味では、無際限の欲望の増大は、「技術圏」の普遍法則とはなり得ない。「技術圏」はすべての生きもの(beings)を含み、または集合体(qua assemblages)としての機関agentのためのものである。
これには、陰謀的な考えを起しめる:筆者が論じてきたように、「技術圏」進化technosphere evolutionは最大力原理the Maximum Power Principleのもとに支配されていて、ここでは人類の無際限の欲望がこの自然法を実現させる機能a functionを持つのである。
しかし、この定言命題はこの自然法との確執をもたらすかもしれない。
これは、ドイツの観念論者によって確立された別の有名なる原理が持ち出されるとことで起こる、銘してヘーゲルHegelによる「第二自然」‘Second Nature’の概念である(これについての拡張的な扱いはHerrmann-Pillath and Boldyrev, 2014)。
われわれは「技術圏」(technosphere)をわれわれの「第二自然」として受け入れることができる、ここでの人類の自律性(human autonomy)は新自然法を確立することを基本とする。我々の例では、我々自身として興味の対象ではないものの、人類の欲望の増大を善しとする倫理的な前提を許すのである。 そのことが最大力(Maximum Power)仕事を内包するものとなる。これは地球システムthe Earth Systemと「生物圏」(biosphere)の継続的維持性sustainabilityの必要条件である。
この移行を可能にするための探求は、非常に難しく不可能な使命mission impossibleのように見える。 しかし「技術圏」(technosphere )についての更なる知識がないなら、その解を見いだすことはできない。「技術圏」科学technosphere scienceの仕事はまさにここにあるのである。
[i] technosphere
[ii] Artefacts 人工体(荒井訳) 参考として、(weblio英和辞典:和英辞典)人工産物、アーチファクト(weblio英和辞典:和英辞典)。
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