出雲 加茂岩倉遺跡へ 行ってきました
平成8年10月14日、農道を建設するために重機で丘を切り開いていたらバケツのようなものが現れ 作業員が不信に思い
確かめたところ 青銅器のようだったので通報したそうです。 すでに重機で壊れたものを含め 一カ所の出土において
全国最多の39個の銅鐸を 確認しました。
2000年の眠りから目覚めたこれら銅鐸は その後の調査で弥生時代中期から後期のものと判明。
発見(出土)場所は 昭和58年、大量の弥生青銅器、銅剣358本が発見された神庭荒神谷遺跡や
「景初三年(卑弥呼の銅鏡と同年)三角縁神獣鏡」が出土した神原神社古墳、また 歴代の出雲王が葬られただろう
弥生時代終期(約1800年前)の四隅突出(よすみとっしゅつ)型墳丘墓の西谷墳墓群とも 近い位置にあります。
設置された航空写真を見ると 3つの遺跡 西谷・・神庭荒神谷・・加茂岩倉の位置が把握できます
発掘場所では 出土当時を再現しています
出土場所へは から 緩やかな坂を、数分で到着です。 途中の車止めも 銅鐸です
あと少し この階段を登りきると 出土場所です。
出土場所を見た後は そのまま木道を・・・・・・加茂岩倉遺跡ガイダンス(総合案内)に到着。
銅鐸の実物は 出雲の県立古代出雲歴史博物館に 展示されてあり(後にUPします)
加茂岩倉遺跡ガイダンスには 出土した39個の銅鐸の パネル、レプリカが展示されています。
常駐されているボランティアの方が 疑問、質問に丁寧に説明をしてくださいました
【雲南市HP】出土した銅鐸の詳細説明は こちらをご覧ください
レプリカ と パネル
加茂岩倉遺跡の銅鐸の不思議
出土された39個の内、大(約45cm)の銅鐸の中に小(約30cm)の銅鐸を入れた【入れ子】状態の
ものが12組(24個)あった
13個の銅鐸の鈕(吊り手)の中央に X印が付けてあった。
(後で行った神庭荒神谷遺跡の銅剣358本中344本にも X印が付けてあった)
また近畿地方、中国、四国地方で出土した同范銅鐸(同じ鋳型で作られた銅鐸)が26個あり 他地域と交流があったと想像されます
この、、は偶然ではなく 意志を持って残したと考えられます。何故?そしてどういう意味があるのか・・・、
多くの学者、研究者が仮説を記されています。そのどれもがそれらしくて、知識が乏しいsapphireは どれを読んでもわくわくしました
拡大すると 鈕(吊り手)の中央に
X印が はっきり見えます
銅鐸について
弥生時代の代表的文化の青銅器道具として登場するにも関わらす 『古事記』『日本書紀』には登場しない
銅鐸が多数発掘された近畿圏で 弥生式文化の後期(2~3世紀)に盛大となるが、その後は全く無くなった。
住居跡からは ほとんど発見されず、何も無いところで発見されることがほどんど、祭祀道具とおもわれる。
わざと割って埋納してあるものもある
と道を挟んで向かい側には 大岩 伝説が ありました
続いて神庭荒神谷遺跡へ
自身のささやかな知識や想像に
歴史家、古代史研究者たちの仮説を足しても
まだまだ パズルは組み立てはじめです
こちら関西では(現世から旅立つ時)出棺のとき
霊柩車が出発する時に 故人が使っていたお茶碗をパリンと割ります
「現世に戻らず(こちらに居場所はないですよ)
安心して旅立ちください。成仏してくださいね」という意味だと伝え聞いています
奈良 巻向で昨年発掘された銅鐸も意図して
割った後がありました
X印から発展して粉砕するように
なたかもしれない、と想像します。
入れ子は包み込まれている、守られているイメージがありますね
遊び歌や昔話を通して 今に繋がるものもあるので
古臭いといわず 口ずさむ事が大切だと思います
あれこれ想像が膨らみます
それぞれの遺跡の位置関係の近さ、歴史の共通性を想像させて、楽しみです。
銅鐸の形から、元は楽器のようなものが、お守りのように変わったと推測すると、×の部分に締め紐をつけて、丁度バランスをとったのかしら?と想像したくなります。
誰かの身代わりとして、祭祀につかったと想像するならば、入れ子になっているのは、生まれることのなかった小さい魂の宿り場所だったのかもしれないなぁとも、思ったり。
壊れた埋葬物は、身代わり=カタシロとして、奉納されたものかもしれないと、思ったり。
わからないながらに、想像するのは楽しいです。
はるか昔から、人は何かを伝え残したくているのかもしれませんね。
体調はいかがでしょうか、お変わりございませんか
私の方こそ感謝です とてもうれしく思います
まったく同感です。
「天(あま)」=「渡来人」と解釈しています
対馬、壱岐と中継して九州へ辿り着くのは
あの頃の最新の技術や知識を持つ渡来人にとっては
思うほどの困難ではなかっただろうと想像しています
木刀の倭が 半島からの鉄器群に対向できるはずもありません
また地名や氏名(秦氏)などからたどっても 渡来人に行き着きますね
古代を知りたいと思っても 記紀を読み説く知識もない
「おばちゃん」では いきなり頭打ちでした
そこで 文字がなかった古代の謎を紐解くには 大陸だ!と思い
「朱蒙」「キムスロ」などあの時代を見て 照らし合わせたり 粗方をまんがで読みました
ので おっしゃっていることが理解できます
ただ大ざっぱに「渡来人」としか知らなかったので
・・系という詳細を知って 高鳴っています
「タムロ」という言葉始めて知りました
教えてくださり ありがとうございます
とっても理解し易く噛み砕いていただいているので
もっともっと教えていただきたいです
この後 荒神谷遺跡、四隅突出型墳墓の西谷遺跡を回りました
現地ではレプリカですが 最後におとずれた博物館で
実物をので よろしければご覧になってくださいね
こちらは【鐸】ですので もともと大陸(朝鮮)で
使われていたころは牛などの首に下げていたらしいです
日本に伝わってから 巨大化し中にぶら下げて音を出す部分も
無くなったようです
X印の意味は 未だ謎です
しかし 状況から見て失敗作とは考え難いようですね
多分【〆(締め)】の要素が含まれていると
勝手に解釈しています
一度行ってみたいところでしたので、嬉しくなりました。)
出雲に限らず日本列島にあった国々は「タムロ」という部族集団の領域を指していわれています。古代史は、伽那・新羅・百済の王の血縁者=弟や子が日本列島に渡って創った「タムロ」でした。
出雲(百済系)・耶馬台国(伽那系)・狗奴国(百済系)・岩井の乱で知られる岩井は新羅系だといわれます。
ニニギノ命・大国主命も天照大神も神話の主人公ではなく、満州地域に生活していた朝鮮族や扶余族が万里長城築造の際に労役に耐えられず逃亡して扶余の領域に辿りついた漢族を受け入れてつくった晋国から高句麗ができ、(朱蒙が創始者)その子供オンジュとリュウビが高句麗を去って百済をつくった。(TVで放映された朱蒙はこのことを描いたもの。)
古代史は朝鮮半島の興亡と連動してみると記紀が満更のウソでないことが理解できます。
雄大な歴史ロマンを掻き立てられる古代遺跡や遺物は生証人だと実感させられるので、興味があるため、
貴女の今回のブログ写真に感謝です。