著者を信頼して読めば面白い視点の好著である。しかし、学術論文に匹敵すべき内容を包含している、という観点からすれば、学術論文としては論証に精緻を欠くし、かといって一般図書として読めば、難解である、というのが小生の読後感である。
カバーの裏の短評にあるように、日露戦争は兵力に劣った日本陸軍が、作戦能力の良さでカバーしたという司馬遼太郎の持論は間違いで、参謀本部の出来の悪い作戦計画を現場でうまく修正した優秀な指揮官と献身的な兵士がいたから勝てたと言うのである。そもそも兵力量では、ほぼ対等であったと言うのである。
確かに司馬の見方は一般的に偏見と先入観に満ちている。その意味では、今後実証すべき指摘である。以前横須賀の三笠記念艦に行ったとき、艦内の講話で、元海上自衛隊員だったと思うが、日本海海戦での日露の兵力は、日本の方が多かったから勝てるのは当然だ、と話していたのを思い出す。ただし、秋山眞之が述懐しているように、あれほどの完全勝利は奇跡には違いないのである。
児玉源太郎が奉天会戦の勝利後、帰国して、戦争を終結させるために来た、と語ったことを司馬が、日本軍は辛勝したのに過ぎずこれ以上の経戦能力はなく、今後も常勝する保証はないと判断した結果で、適切なアドバイスであるとしていて、多くの識者も同意している。しかし、本書では児玉の判断は根本的に変だと言う(P197)。別宮氏の言うのは、そもそも勝者が停戦をすることは、圧倒的に勝利して屈伏させる例外的なことなのだから、相手から講和を申し込ませるなら徹底的に経戦するしかないはずで、講和は敗者が先に申し込むものである、と言うのが大きな理由である。
小生は別な意味で児玉の講和工作に違和感を感じる。それは山本五十六が、米国には勝てないから戦争に反対した、と称揚する意見に対する違和感と同じである。児玉も山本も軍人である。軍人が政治に口を出せる最大限度は、戦争の見通しであって、開戦や終戦の判断をするのは政治家である。山本を称揚する理由や児玉の講和工作は、その限界を超えている。別宮氏が、政治家は優れた軍事知識を持つ必要がある、と書いているのはその意味で正しい。
サッチャー首相が、アルゼンチンのフォークランド島占領に対して、軍の最高指揮官に、この戦争に勝てるか、と質問し勝てると断言したので開戦を決断した、というエピソードを聞いたことがあるが、これこそ理想的に近い政治と軍事の関係であろう。ただし、日本が対米開戦を決断したことは、この理想からは例外ではあるが、正しいと言わざるを得ない。あの時点で開戦しなければ日本民族は本当に滅びていたのである。
別宮らしきユニークな指摘はまだある。それは、伊藤博文らが開戦に反対していたという通説は、誤解による間違いで、開戦に積極的だった人々と、消極的だった人々は通説は全くひっくり返しの評価であると言う。このことを無隣庵会議に言及して証明している。恐らく指摘は正しいのであろう。