書評・官賊と幕臣たち~列強の侵略を防いだ徳川テクノクラート・原田伊織
意外な着眼点で反響が大きかった「明治維新という過ち」の続編であろう。氏の人物評価の癖などについて気になる点があるのと、マクロに見た結論に疑問があるので書いてみるが、本書の本質には触れていないのはご容赦願いたい。。
筆者は人物の出自と人物評価を関係づける傾向が強いように思われる。出自と人物評価の因果関係を説明しないから、納得しがたいのである。例えば「土佐の坂本龍馬という、郷士ともいえない浪士がどういう人物であったかについては、幕末史を語る上でさほど意味のあることとは考えられない・・・(P250)」という。郷士とも言えない浪士、と身分が低いことを明らかに侮蔑的に述べるのはいただけない。
井伊直弼暗殺を批判するのは、筆者が井伊が彦根育ちだからだけだ、といわれたそうである(P201)。これに対して、彦根の歴史的経緯を詳しく述べ、その結果として筆者の少年時代は、もともと浅井領内の者であるという意識があり、井伊は「憎っくき敵であった」のであって、彦根育ちだから、というのは屁理屈だという。確かにその通りだが、井伊が彦根を治めたことを口実に批判するのと、氏が浅井領内の者意識があったことだけを以て反論するのは、屁理屈を言った者と同列の屁理屈で反論しているのに過ぎない。
出自によって思想が影響されている、ということはあるのに違いない。しかし、それを指摘するには、因果関係を説明しなければならない。説明できなければ、仮説に留めておくべきであろう。
「日米戦争を起こしたのは誰か」と言う本には、「アメリカ人を論ずる場合、そのエスパニック・バックグラウンドを正確に見ておく事が必要である。」と述べ米軍のウェデマイヤー将軍が父はドイツ系、母はアイルランド系であるとして、将軍の主張が単純に血脈か生じたのではなく、「・・・このような背景から生まれ育っていなかったならば、イギリスやドイツを冷静かつ客観的に評価することはできなかったであろう。」と述べ更に出自と将軍の主張との因果関係を検証している。本書にはこのような観点が欠けている、と小生は言うのである。
氏は薩長のテロの凄まじさをことあるごとに強調し、単なるテロリスト集団だと断言する。しかし、それは日本史の上から見た比較であって、欧米の変革期に行われたテロや粛清、といったものに比べればものの数ではない。米英仏はもちろん、スターリンや毛沢東が権力奪取や権力維持のために行った、テロや粛清は質、量ともにもの凄いものである。氏は、現代日本人の倫理観で当時を見、諸外国との相対的比較というものも忘れている。現にロシアや中国では、政権によるテロが、今も行われている。
目明しの猿の文吉を殺した残忍な手口を描写しているが、日本では例外である。現に西欧の書物には、処刑の手段として同じ手口が図版で描かれている。つまり例外ではなく、標準的処刑の手段のひとつだったのである。同じことをしたにしても、この差異は大きい。
大東亜戦争の評価について、「・・・薩長政権は、たかだか数十年を経て国家を滅ぼすという大罪を犯してしまった。(P184)」とか「・・・大東亜戦争という無謀な戦争であった。(P8)」というから大東亜戦争の全否定である。父祖の苦闘を無視して、断罪する姿勢には大いに違和感がある。それに、明治以降藩閥打倒が呼号され、薩長政権色は消えていった。昭和初期の大物政治家にどの程度薩長閥があったというのか。
維新政府は薩長閥であるにしても、その後大きく変質していき、裏で薩長が糸を引いていた、という痕跡もないのである。大東亜戦争の頃の人材を見よ。東條英機、米内光政、山本五十六といった著名人は、全て薩長出身ではない。
垂加神道を持ち出して「・・・後のテロリズムや対外膨張主義が示した通り・・・(P195)」と言って、日本は明治以降、対外膨張路線を走って、結局は大東亜戦争で破綻した、というのである。日本が清国、ロシア等による侵略の危機に対して戦ったとは考えない。これは姿を変えた東京裁判史観である。
また、オランダが昭和になってヨーロッパの中でも有力な反日国家になったのは、大東亜戦争時の捕虜の扱いばかりが原因ではなく、文久三年にオランダ軍艦を砲撃して、4名を殺したこともきっかけになっている、というのだ(P229)。だがこの時同じく砲撃されたアメリカやフランスは報復攻撃を行い、オランダが参加しなかったのは永年の友好国だったからではないか、と言うのである。
これは、全くの間違いではないにしても、長州のテロ行為を際立たせる手法であるように思われる。なぜなら、オランダが戦後日本の捕虜を最も過酷に扱ったのは有名で、その原因は蘭印(インドネシア)に侵攻する日本軍に簡単に敗れ、インドネシア人の前で恥じをかかされたことが大きい、という面が忘れられている。
またオランダは旧植民地の再植民地化に欧米諸国では最も熱心で、長い独立戦争で80万人のインドネシア人を殺した上に、独立の代償に賠償金まで取った。独立に大きく寄与したのが、日本の支援で成立したPETA(郷土防衛義勇軍)や残留日本兵、日本軍の兵器であった。反日の最大の原因はこれらの敗戦やインドネシア独立への二本の貢献であろうと思う。また、オランダ軍の捕虜の扱いは日本軍の誇張されたそれより、遥かにひどいものであったことには言及しない。これらのことは、やはり氏が東京裁判史観に囚われている面があるとしか思われない。
以上閲したように、本人は全くそんな意識はないのだろうが、マクロに見るといわゆる東京史観、すなわちGHQが日本を断罪して、あらゆる手段で日本人の歴史観を洗脳した目標に合致した思想を、結果的にであるが筆者が持っていると言う結論になる。それどころか、GHQは満洲事変の以降の日本の対外政策を断罪しているのに対して、氏は維新以来日本は一貫して対外膨張を企図し、そのあげく大東亜戦争の敗戦になったと言う、より徹底している考え方である。
司馬遼太郎が、日露戦争までの日本を称揚しているのは、せめて日本の歴史の全否定から免れ、日本人に勇気を与えているのは間違いない。なるほど昭和史を罵ってはいるものの、それを具体的に書いた小説は残してはいない。司馬氏が称揚した維新以後の部分は、読む者に、司馬氏が罵った時期の日本を肯定する結論に至らせる余地は大いにある。
なるほど坂本龍馬は実像より大きく評価され過ぎているのであろう。そしてグラバーなど英国に使われたのも事実であろう。しかし、幕府がフランスの傀儡にならなかったごとく、維新政府は英国の傀儡ともならなかった。薄氷を踏むが如くにして、政治の変革は成功した。
維新政府が英国の力で作られ、英国は利用しようとしていた、というならば、一旦は日英同盟を結びながら、日本が反英に急旋回したことはどう説明するのだろうか。氏によれば幕末から敗戦まで、薩長政権は一貫した対外政策を持っていたごとく言うから、こう批判するのである。
維新政府は徳川幕府のテクノクラートを多く採用しているのは、薩長政府に人材がいなかったため、使わざるを得なかった、と言う。しかし、戦争が終わって敵方の人材を活用するのは、一種の日本の伝統であり知恵である。それは、将棋の駒が相手に寝返るという世界的に例外的なルールを持っていることに、よく喩えられるではないか。
大きく見れば日本は総力を挙げて闘ったのであり、人材の有効活用は良いことではないか。現に徳川幕府のテクノクラートを活用したのは薩長政権であり、維新後30数年にして、日露戦争に勝利する力をつけている。
また、氏は英国の対日侵略意図に言及するが、倉山満氏によれば、英本国にとって清朝は征服の対象だが、日本などは視界にも入らない存在だった(嘘だらけの日英近現代史P167)のである。パークスやグラバーなどの出先が勝手にやったのであって、本国の意図ではない。薩長に武器を輸出したのも商売に過ぎない。もちろん隙あらば英仏の餌食になった危険もあるが、それは英仏の企図したことではなく、チャンスがあれば、ということである。
欧米の侵略は相手が対応を間違えたき、機会があれば実行した、という計画的ではない機会便乗の面も多い。その意味で日本はうまく立ちまわったのである。不完全であるにしても、ともかくタイも、そのバランスの上で一応の独立を継続した。日本はそれ以上に経済力軍事力を充実させ、単に欧米に伍してうまくやる以上に、欧米植民地の解放と言う世界史上の奇跡を起こした。それが大日本帝国の滅亡と言う途方もない犠牲を払ったにしても、である。
戦争は勝たねばならない。しかし、大東亜戦争に突入した日本には、戦争回避という選択肢はなかった。大東亜戦争の戦略の失敗を反省する必要はあるにしても、戦争したこと自体を現代日本人に批判する資格はないと思うのである。
小生は原田氏の著書の欠点を指摘しただけで、全否定する意図は毛頭ない。それどころか、氏により指摘された多くの新しい視点は、維新史の見直しに大いに役に立つとさえ思っている。