毎日のできごとの反省

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小型化で滅びたグラマン社の猫シリーズ

2017-03-14 15:38:22 | 軍事技術

小型化で滅びたグラマン社の猫シリーズ

 

 かつての米海軍艦上戦闘機の雄のグラマン社は、ノースロップ・グラマンとして残っているものの、久々に取り返したF-14トムキャットを最後に、米海軍艦上戦闘機のシェアを失った。もちろん、厳しい航空機産業の競争に敗れたのが根本原因である。現在のF/A-18は、もともとは、ノースロップ社のの開発である。グラマン製艦上戦闘機の終わりの始まりは傑作と言われたF8Fシリーズであるように思われる。グラマン社はF6Fのように、手堅い堅実な設計が売り物であった。それが零戦の登場により、小型軽量化の必要性に迫られたといわれている。

 だが一説によると、零戦の影響より、空冷エンジンながら液冷エンジンより空気抵抗の低減に成功した、と言われるFw-190の影響の方が大きいとも言われているが、小生にはこちらの方が真実味を感じる。米軍は零戦の設計を脆弱過ぎるとみなし、構造や空力等の技術的な参考としてよりも、空戦法の欠点探しに心血を注いだ形跡がある。

 ともかくF8Fは同系統のエンジンを搭載したF6Fより大幅に小型軽量化された。しかも、当初は主翼に過荷重がかかると翼端が飛ぶという極端な軽量化までしたのである。このような方針はジェット戦闘機の開発になっても続いた。グラマン最初のジェット艦上戦闘機F9Fは、この流れにそった軽量小型機になっている。

 軽量小型化こそが、優秀な性能発揮の根本だと考えたふしがある。ところが、同じ系列のエンジンを搭載した、F6F、F8F、F4Uの三機種のその後の運命は微妙である。F6Fは手堅い設計のため、戦時中は大いに活躍したが、終戦とともに実戦用としては外されていった。F8Fは第二次大戦には間に合わず、終戦とともに生産数は削減され、フランスなどの海外供与機となって終わった。

 ところが、新技術を多用して空力的にも洗練されたF4Uは、朝鮮戦争に参加してジェット戦闘機の撃墜まで演じている。結局F4Uはジェット艦上機時代のつなぎとしての役割を演じた。F9Fの後継として開発したグラマンF11Fも小型化の路線をいって、採用はされたが、ヴォートF8Uや台頭してきたマクダネル社のシリーズに主力の座を奪われ、性能向上もあまりされずに終わった。

 F11Fに改良を加えて日本に売り込んだスーパータイガーは皮肉なことに、徹底した小型化と空力的洗練で、迎撃戦に徹したF-104に負けた。スーパータイガーは小型機にも拘わらず、汎用機の道をいったのが中途半端だったのである。その時点でF8Fに始まったグラマン社の小型艦上戦闘機路線は長く途絶え、グラマンは艦上戦闘機から外されたと思われた。

 ところがマクナマラ国防長官の海空軍戦闘機機種統一路線が示されると、グラマン社は主契約のジェネラル・ダイナミックス社の提携先として、F-111の開発に協力して復活した。ところがところがである。複数用途の性能発揮のために採用した可変後退翼などで肥大化した機体は、艦上戦闘機としては適さず、空軍にしか採用されず、グラマンの最も望んだ、猫シリーズの艦上戦闘機の復活はならなかったのである。

 それどころか空軍ですら、F-111は戦闘機としては大型に過ぎ、ベトナム戦争の教訓として得られた、戦闘機はミサイル運搬車としての速度性能だけではソ連機には通用せず、戦闘機本来の機動性が必要、という要求から、空軍ですら、まもなく海軍機として開発したF-4を採用する仕儀となったのである。

話題はそれるが、F-35はCTOLの艦上機と陸上機、STOVLの、最低三機種を同時に開発している。F-111ですら大型化して失敗したのに、F-35はF-22よりも小型化されている、設計の手際の良さは不可思議である。

 閑話休題。これでグラマンの猫シリーズの命脈が絶えた訳ではない。空軍が大型で高価なF-4を補完するハイローミックスの、ロー側の競争試作でYF-16、YF-17から、F-16を採用した頃には、F-4も陳腐化し、F-15を開発することになった。ほぼ同時に海軍もF-4の後継機としてF-14を開発した。いずれもMiG-25に触発されたと言われる、双垂直尾翼を採用している。

 このF-14がグラマン・トムキャットである。猫シリーズはようやく復活したのである。しかも、F8Fの小型化路線をようやく脱したのである。ところが、F-14は当初から機体とエンジンのマッチングが悪く、飛行条件によりエンジンがストールを起こす傾向があり、空中戦などの機動に制限がかけられる、という問題児であった。だからほぼ同時に就役したF-15が未だに現役なのに、F-14は2006年に早くも米海軍からリタイヤした。

 小生は昭和53年頃、航空自衛隊のFX選定の時期にF-14とF-15が模擬空戦をしてF-14が勝ったと報道された時、航空自衛隊のFXは米空軍の制式機から選ばれるという、暗黙の了解があるのに、と思ったものである。それどころか、当時の小生は知らなかったが、F-14は最初から克服できない欠陥商品だったのであるから、その意味でもF-14の不採用は正しかったのである。

 安価なため採用されたYF-17の発展型のF-18がさらにスーパーホーネットとしてF-14をリプレイスして現在に至っている。これで猫シリーズの命脈は完全に尽きた。その原因は艦上戦闘機の小型軽量化に拘り過ぎて、陳腐化や多用途化に対応できなかったためのように思われる。それを脱したF-14は、時既に遅かったのである

ところで、F8Fの模範となったとされる、Fw-190Aの発展型のFw-190DシリーズやTa-152シリーズは、日本では当時の最高性能機のようにいわれるが、テストした欧米での評価は案外高くない。これは一面ではFw-190D9が実践配備されたのは、対独戦も終了の時期であったため、Fw-190Aシリーズほど真剣にテストを行わなかったためだとも言われる。日本で人気が高い、高高度戦闘機のTa-152Hなどは一見しただけで、あの長大な主翼では、高高度ではともかく、中高度以下では強度が持たず、まともな機動はできず、高速で逃げまくるしかない。

 


書評・日本陸軍とモンゴル・楊海英・中公新書

2017-03-12 15:43:41 | 支那大陸論

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 最近読んだ「逆転の大中国史」の著者の作なので大いに期待した。期待に反せず小生の「満洲国」の考え方に大きな一石を投じた。アメリカ人のブロンソン・レー氏は、戦前「満洲国出現の合理性」を書いた。満洲国建国を全面的に擁護しており、最近、新訳が出版されている(ただし邦訳のタイトルは異なる)。

 だが、レー氏が言うのは、満洲国を否定する当時の米国の対日対支政策が、レー氏の考える米国建国の理念に反している、という主旨で書いているのであって、日本の対支、対満洲政策の擁護になっているのは、その結果に過ぎないのである。結果として、それが米国にとって正しかったのは、米国の政策の結果支那は共産化し、米国の多大な投資と宣教師の犠牲は無駄になり、朝鮮戦争という厄災に襲われる結果を招来したことでも分かる。

米国が対日戦など企図せず、日本と協調の道を歩めば、戦後の米国の厄災はなかったのみならず、大英帝国も保全されたのである。皮肉なことに、そうなっていたなら、欧米の植民地政策は続き、日本は白人国際社会で、有色人種国家として孤立の道を歩み続けなければならなかったであろう。

 レー氏の支持した日本の満洲国建国、というのは日本の当面の政策とも合致している。日本の利益ともなるはずのものだった。ところが、というか、だから、というべきか、楊氏のようにモンゴルの独立を願うモンゴル出身者にとっては、満洲国は希望ではなかったというのだ。

「満洲国の版図の三分の二は昔から云うと蒙人の土地であり、満洲地域の原住民はこの蒙古人と漢人の両民族であった。(中略)ところが満洲国が出来て見ると五族協和の旗じるしのもとでも人口が多く三千万に近い漢民族の民政となってしまい蒙古人は少数民族の悲しさ、自然と軽視されがちとなり、日本人で蒙古関係に熱心な指導者はいわゆる蒙古狂扱いされる傾向となり・・・」という興安軍の経理だった斎藤実俊の著書を引用している(P207)。

 これを米国に適用すると恐ろしいことが分かる。蒙古人はネイティブアメリカン(アメリカインディアン)が蒙古人に相当する。元々の住人のインディアンは広漠とした居留地に住むしか、民族のアイデンティティーは維持できない。それどころか、飲んだくれ荒れた生活をして自滅しつつある。

 満洲人は皇帝が溥儀となったからまし、とモンゴル人に比べれば言えないこともないが、内実はそうでもなかろう。日本が支那本土に比べたら人々の安寧の地を作り、多数民族として将来実権を握る可能性まで含めれば、一番得をしたのは漢人である、といえないこともない。しかも日本の投資は、毛沢東のでたらめな経済政策にもかかわらず、満洲を食いつぶすことによって、鄧小平復権の時代まで中共を持たすことができた。

 移民と自由と民主主義の国という、レー氏の建国の理念は、結局アングロサクソンのものであって、黒人やインディアンのものではなかった。同様に満洲国建国は根本的には、軍事的経済的に日本のためであった。楊氏は肯定しにくいだろうが、欧米諸国の対外政策に比べれば、日本の五族協和政策などは、良心的なものであった。

 蒙古の土地はまた、日本人には想像できにくい特殊なものであり過ぎた。「草原を掘れば、たちまち砂漠と化してしまうことを経験的に知っているから(P207)」モンゴル人は土地を掘ることを嫌い、草原にそのまま大便をするのだという。日本流を押しつけるばかりではない。日本の対支政策の方便として蒙古独立を、蒙古自治に置き換えたりしたのだという。

日本の敗戦によって多くのモンゴル人がソ連を頼り、ソ連の傀儡政権とはいえ独立国家の体裁をとっていた結果、ソ連の崩壊とともに独立国となることができた。これはソ連の共産主義の毒牙にかかった多くのモンゴル人犠牲者を出し、現在にも残るであろう共産主義の残滓があるとはいえ、北半分だけでもモンゴルは独立の故地を持つことができたのは、楊氏には幸運な結果といえるのであろうか。

少なくとも、中共に支配され、草原は耕かし尽され民族のアイデンティティーも喪失しつつある南モンゴル(著者はそう呼ぶ)に比べればよほどよい、といえるのだろう。本書によれば多くのモンゴル人闘士が、独立のため、ソ連を利用し日本を利用した。結局独立は自らの手で勝ち取るものである。

そのことは、民族のアイデンティティーを喪失しつつある、我々日本人にこそ当てはまる。理屈はともかく、元来保守の心情を持たない小生が言っても詮方ないことではあるが。楊氏の文言は日本人に対しても辛らつではあるが、根底で日本に対する同情あるいは信頼があるように思われる。


書評・経済で読み解く明治維新・上念司

2017-03-04 15:18:07 | 維新

 この本は話題になった原田伊織氏の「明治維新という過ち」のシリーズに対する回答のように思われる。原田氏のシリーズに対する小生の疑問をかなり解いてくれているからである。副題は「江戸の発展と維新成功の謎を『経済の掟』で解明する」である。この副題は反面でかのシリーズの真逆になる。

 江戸時代は通説と従来の評価とは異なり、案外明るい良い時代であった、というのは定説になりつつあるように思われるが、それを経済学の立場からきちんと説明しているのが面白い。原田氏の著作では不明瞭だった、こうすれば江戸幕府が改革を達成して日本政府に脱皮して、列強に伍していく可能性があった、という点を説明している。

 江戸幕府が変革に失敗したのは、成長していった日本の身体(経済)に、幕府という衣服が合わなくなったので、脱ぎ捨てて新しい衣服(明治新政府)に着替えた(P101)というたとえは絶妙である。実質的に貨幣経済に移行しているのに、税は年貢米という金本位制ならぬ米本位制を維持し、徴税権もほとんどが各藩が持ち、幕府はわずかしか持たないために、政府としての事業を行おうとする時に、各藩に強制せざるを得ない、という歪が拡大していったのである。

 田沼意次のように、これらの改革を行おうとする幕閣は失脚させられる、という始末で、討幕と言う大変革なしには、江戸幕府の政治的欠陥を修正することはできなかったのである。この本は「経済で読み解く大東亜戦争」の続編であるが、繰り返すが原田氏の維新否定説に対する回答でもあるように思われる。

 それは「・・・公武合体では、結局揺り戻しのリスクは排除できない。長州は直観的にそれに気づき『気合(狂気)』で国を変えようとし、薩摩は持ち前の『リアリズム』によって途中でそれに気づき、一桑会から寝返ったと私は推測します。(P273)」と書いているからである。原田氏は維新政府を薩摩と長州の藩閥に過ぎないと批判し、特に長州のテロの狂気を問題にしているのである。